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イギリス(イングランド)はテューダー朝(1485~1603)断絶後、ジェームズ1世(位1603~25)が即位して、元々スコットランド王朝だった第1次ステュアート朝(第1次1603~49第2次1660~1714)がイングランド王朝も兼ねることになり、同君連合の王朝となった。ジェームズ1世は絶対主義を正当化する思想である王権神授説をとりいれると共に、議会を無視して、絶対王政のシンボルであるイギリス国教会を重視する一貫した専制政治を強いたため、同国内にいるカルヴァン派(清教徒。ピューリタン)は国教会から分離する傾向を見せ始めた。またジェームズ1世はロンドン会社(のちのヴァージニア会社)へ特許状を与え、1607年、北米大陸の植民地業に力を入れてヴァージニア植民地を建設し、タバコ栽培の発展に努力した。
1620年、ジェームズ1世の抑圧を離れようとしたピューリタンの一団・ピルグリム=ファーザーズ(102名。非清教徒もいた。)は、信仰の自由を求めて、小帆船メイフラワー号で渡航し、プリマス(ボストン東南)に上陸、植民地建設を始めた。1629年にはマサチューセッツ植民地を建設しはじめ、北東海岸部一帯はニューイングランドと呼ばれて、自治をおこして植民地議会(最初の議会はヴァージニア。1619年)を作った。最終的には1732年にジョージアが建設されて、計13の植民地が完成した。13植民地の中には、1632年に建設されたメリーランド、1664年にオランダのニューネーデルラント植民地をイギリスが奪った植民地ニューヨーク、クェーカー教徒のウィリアム=ペンにより建設されたペンシルヴァニアなどがあった。植民地住民は自治・議会を通して、宗教的・政治的・経済的自由に関する発言権を増大させていき、本国イギリスからの移住者も増加傾向になっていった。
イギリス本国は利益を重んじる重商主義政策をしき、植民地は原材料供給の場とし、本国においては貿易振興・産業保護の形態をとった。ピューリタン革命(1642)の指導者オリヴァー=クロムウェル(1599~1658)が航海法(1651)で本国と植民地間の貿易をイギリス船に限定させてから、重商主義政策はその後も羊毛品法(1699 植民地の羊毛製品輸出禁止)・帽子法(1732ビーバー皮製帽子輸出禁止)・糖蜜法(1733 本国以外から植民地に輸入される糖蜜に高関税)・鉄法(1750 製鉄品法。植民地の工場・溶鉱炉増設禁止)と展開し、結局は本国の産業保護に対する植民地の産業制限というように、明らかに植民地側は自由を奪われていくのである。イギリスの重商主義政策はさらに勢いを増し、糖蜜法を修正した砂糖法(1764他国領から植民地に輸入される砂糖に重税)を発表、植民地側は徐々に本国の政策に不満を高めていった。しかし、本国は植民地への圧迫を怠らず、極めつけとされる印紙法(Stamp Act。1765)で、植民地人の抵抗は一挙に爆発した。印紙法は商業取引の証書、法律上の書類、また植民地で発行される新聞・パンフ・トランプなどに印紙を貼らせて税収入を増やすために作られたので、植民地人の生活・社会・文化に大きく影響し、猛烈な反対運動を引き起こした。翌1766年には印紙法は撤廃されたが、植民地議会ではその後も本国政府に対することで議論した。植民地は本国議会に代表を送っていないわけであり、同意のない課税は認められないとし、本国政府は植民地側に課税することは間違いであると唱え、「代表なくして課税なし」の言葉が植民地中に飛び交った。
印紙法の替わりとして、本国は1767年、蔵相タウンゼンド氏の提案でガラス・ペンキ・紙・鉛・茶の課税を定めた。しかしこれに関しても本国製品の不買運動などで茶税以外は撤廃となった。反対派の運動はエスカレートし、マサチューセッツで1770年、反対派を抑えようとした本国の軍隊と、ボストン市民が衝突し、5人の市民が虐殺される事件も起こった。1773年、本国議会は、茶税に関して修正し、イギリス東インド会社に限ってアメリカ植民地へ輸出する茶の税を免除、つまり直送とし、同社には茶の独占販売権を与えた。これを茶法(Tea Act)という。植民地側の商人、その中でもボストンの急進派市民は猛反対した。やがて、同年12月16日、ボストンの急進派市民はインディアンに変装し、ボストン港に入港していた東インド会社船を襲撃し、茶の積み荷342箱を海中に投げ込んだ。このボストン=ティーパーティー(ボストン茶会事件)によって、本国政府は、報復として植民地側の高圧的に弾圧することに転じ、ボストン港封鎖・マサチューセッツ自治権剥奪・軍隊駐屯・移住制限などの4つの強制条例を発した。
1774年9月、植民地の代表は、本国政府に抗議するべく、かつてウィリアム=ペンが建設したフィラデルフィアに結集し、第1回大陸会議を開き、通商の断絶を宣言したが、本国政府は無視を続けた。1775年には、もとヴァージニア植民地議会議員パトリック=ヘンリ(1736~99)がリッチモンドでの非合法の協議会で、「自由か、しからずんば死を与えよ」という”自由か死か”の演説で開戦の不可避を説いた。現地住民、特に農民は民兵団を組織して、1分間の予告ですぐに戦闘態勢にうつれるよう(ミニットマンと呼ばれた)、準備を始めた。
1775年4月18日、イギリスのゲージ将軍が、ボストン郊外のコンコードで、同地の農民が武器弾薬庫を作っており、そこには大量の武器が貯えてあるとの情報をかぎつけ、700人の部隊を派遣し、武器接収に乗り出した。捜索を済ませた本国軍は、帰る途中のレキシントンで、ミニットマンと衝突、ミニットマンはゲリラ銃撃を浴びせた(レキシントンの戦い)。実は最初の発砲はどちら側か明らかではなかったが、植民地側は本国側がしかけたものとして発表し、それぞれの植民地中にこのことを広め、植民地人を奮い立たせていった。5月にはフィラデルフィアで第2回大陸会議が開かれて、大陸軍が組織されて最高司令官にジョージ=ワシントン(1732~99)が任命された。戦争が勃発した当初、植民地側では、本国からの独立を支持する愛国派(パトリオット)と本国に忠誠を誓おうとする国王派(忠誠派。ロイヤリスト)とあったが、戦争が進み本国との和解は薄れていく中で、次第に独立の意識が高揚し、戦争は文字通りの独立戦争となっていった。1776年1月、強い啓蒙思想を持った文筆家トマス=ペイン(1737~1809)はパンフ「コモン=センス(「常識」)」を発表し、アメリカの世論を独立の方向に向け、王政ではなく、共和国を作ろうと民衆に呼びかけた。3ヶ月で12万部売れたこの「コモン=センス」は、世論を和解からいっきに独立へと傾かせた。
1776年7月4日、大陸会議で代表トマス=ジェファソン(1743~1826)は哲学者ロック(1632~1704)の影響と植民地時代の経験をもとに、本国からの独立に関する内容を起草し、「独立宣言」として発表した。個人の自由と平等といった基本的権利、自然権・社会契約説・本国の暴政に対する革命権の正当性などを主張、近代民主政治の基本原理となった。
ワシントン率いる大陸軍は敗戦を繰り返しながらも決してあきらめず、1777年10月、ハドソン川上流の地サラトガでは、フランスから若き貴族ラファイエット(1757~1834)やのちの社会思想家サン=シモン(1760~1825)、のちにポーランドの愛国者として崇められるコシューシコ(1746~1817)ら勇敢な義勇兵が参加し、イギリス軍に対して大きな勝利を収めた(サラトガの戦い)。すでに1776年に、アメリカは政治家であり科学者でもあるフランクリン(1706~90)をフランスに駐仏大使として派遣しており、フランス政府(当時のルイ16世)から金銭・物資の援助を受けていたが、サラトガで勝利した翌1778年、アメリカはフランスと米仏同盟を結び、フランスがアメリカの独立を正式に承認し、対英宣戦に踏み切った。翌1779年スペインもフランスと同盟してイギリスに宣戦し、さらに翌1780年はオランダも対英宣戦するなど、戦況は他国にも伝染させた。さらにイギリスは中立国の船舶に対し、航行の自由と物資の援助に規制をかけており、1780年にイギリス海軍が中立国の大陸への援助を妨害したことで、ロシアの女帝エカチェリーナ2世(位1762~96)がポルトガル・プロイセン・スウェーデン・デンマークらを結集させて武装中立同盟を提唱したため、イギリスは完全に孤立した。
1781年、ヴァージニア州東岸の町ヨークタウンで、大陸軍とフランス軍は、7000のイギリス軍を包囲し、降伏させた。このヨークタウンの戦いで、独立戦争は実質的には完結し、1783年のパリ条約が植民地と本国との間で締結された。アメリカの独立が承認され、ミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに割譲した。独立戦争は完全に終わり、アメリカ合衆国が誕生した。
11作目にして、初めてアメリカをとりあげました。本当は独立後の合衆国憲法制定(1787制定。1788発効)とか、連邦派と反連邦派による対立から政党が生まれる話、ジョージ=ワシントン大統領(任1789~97)の誕生など、もっと書きたい内容がありましたが、市民革命を取り上げる場合、大事なのは、なぜ革命が起こったか、革命前の背景はどんなものだったか、革命による戦争はどの国が関わったか、などの内容が、特に受験では重要視されますので、今回は独立後の部分は割愛し、またの機会にさせていただきました。とはいっても、独立後の内容は勿論大事で、その後の西部開拓、あるいは南北戦争につながる重要な要素が多く含まれるので、お勉強は必要です。
さて、今回はポイントが多すぎて困ります。本編はイギリスのステュアート朝から抜き出しましたが、王朝が開かれた1603年というのは、日本では江戸幕府が誕生した年でもありますね。予備校時代、「異論を見捨てて(=1603)ステュアート」と覚えました。また絶対主義に欠かせない王権神授説を主張した人物はジェームズ1世(英)の他にルイ14世(仏。国王)、ボシュエ(仏。神学者)、フィルマー(英。政治思想家)などが有名。
独立戦争に踏み切る前は、イギリスは重商主義政策によるさまざまな条例が出ましたが、その中では航海法、印紙法、茶法の3つは知っておきましょう(発布された順番も知っておくこと)。戦争が勃発してからは、レキシントン、コンコード、ヨークタウンなど、ありとあらゆる地名が出てきますので、世界史地図で位置を確認することも重要です。
そして最後のパリ条約ですが、世界史Bを学ぶと、あちらこちらの年代でパリ条約を見かけます。当然年代が違うので、内容や締結国などは全く違いますから気をつけましょう。①1763年のパリ条約は、七年戦争(1756~63)後の条約で、これでフランスは新大陸の植民地を失いました。②1783年のパリ条約は本編を参照して下さい。③1856年のパリ条約はクリミア戦争(1853~56)後の講和条約で、敗戦国ロシアの不凍港を求めた南下政策を阻止した条約。④パリ講和条約(1947.2)は第2次世界大戦後に、イタリアなど5つの敗戦欧国の植民地没収や賠償などを規定した条約です。同名異年の条約名や戦争・紛争・騒動名などは混乱しないように注意しておきましょう。
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