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世界史の目

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ギャラリー

第137話


No.2の死と米中接近

戦後の中国・その3~

  1. 大躍進と中ソ対立 ~戦後中国編・その1~はこちら
  2. 下からの惨劇 ~戦後中国編・その2~はこちら   

 実権派に対する粛清が終わり、党副主席に就任した林彪(りんぴょう。1907-1971.9)は、毛沢東(もうたくとう。1893-1976)の正当な後継者として公式認定され(第9回党大会。1969.4.1-24)、党内序列は毛沢東の1位についで2位となった(ちなみに3位は周恩来首相。しゅうおんらい。任1949-76)。文革派からなる委員会には毛沢東夫人の江青(こうせい。1913?-91。女優出身)、張春橋(ちょうしゅんきょう。1917-2005。上海における党代表)、姚文元(ようぶんげん。1932-2005)らといった"上海勢力"が固める他、文化革命小組組長の陳伯達(ちんはくたつ。1904-89)、康生(こうせい。1898-1975)らが着任した。

 文化大革命の混乱は次第に沈静されたが、"造反有理"のスローガンで国内に戦慄をもたらした各地の紅衛兵(こうえいへい)の行動は、文革派の意向とは少し隔たりが発生した。もともとは毛沢東思想に共鳴して立ち上がったのが全国の紅衛兵であるが、革命が進むにつれて無政府主義化し、派閥に分裂してお互いに大規模な闘争を頻発させた。この暴走は、学校機能の低下によるもので、紅衛兵結成を促した文革派が大学や中学(日本の高校に相当)を休業させたことが大きかった。さらに文革発動前まで学生を主導してきた大学教員・教授・講師陣はほとんど職場追放されており、大学としての機能は失われていた。特に1968年には、大学入試を受験できず、就職もせずに町中にあふれ出した中卒生は、たえず武力闘争を互いに繰り返したのであった。これに目を覆った毛沢東は、事態を鎮める目的で、同年末、人民日報を通じて、「農村に行って、貧農から再教育を受けるべきだ」と中卒生に伝え、彼らに地方の農村で肉体労働を義務的に行わせる徴農(ちょうのう。下放。かほう)を実施させた。この徴農運動を上山下郷運動(じょうさんかきょう)と呼ぶ。これにより、紅衛兵による武力闘争は急速に鎮静化し、紅衛兵の数はしだいに減少していった。
 毛沢東はこの政策を単に混乱を収束させる目的のためだけとは考えてはいなかった。無職無学の若者たちが都市部に長く居座っているうちに、文革派の行政に異論や抵抗をうったえ、修正主義に走ることのないように、農村に入って根強く学習させ、社会主義を原点から理解させることがこの政策の主目的であった。毛沢東の思想面・意識の目からみた社会主義政策であった。

 一方で、革命政権を継続させる党内では、新たな動きが起こった。政局の整理がついて以降、党内では江青、張春橋、姚文元、そして王洪文(おうこうぶん。1935-92)ら政治局の上海組(彼らはその後"四人組"と名乗る)らによるグループが台頭していった。毛沢東は、文革小組の組長であり、党内序列でも上位であり、中心勢力として活動してきた陳伯達以上に、主に上海で活躍してきた四人組グループに次第に信頼を置くようになった。このため、陳伯達は生き残りをかけて、ある行動に出ることになる。

 陳伯達は、実権派とされた劉少奇(りゅうしょうき。1898-1969.11。国家主席任1959.4.27-1968.10.31)を解任して以後、空席となっている国家主席に注目した。この頃は国家副主席の董必武(とうひつぶ。1886-1975)が職務を代行していたが、毛沢東は憲法改正案の中で、国家主席撤廃を主張していたため、存続は不可能に近かった。しかし陳伯達は次期国家主席を、毛沢東の後継者とされた林彪に挙げようとしていたとされている(しかし真相は不明である)。陳は次第に林彪に近づいていった。
 そして1970年8月に開かれた廬山会議(ろざん。8.23-9.6)が開催されたときである。
 この会議は党9期第2回中央委員会全体会議(9期2中全会)で、陳伯達は、かねてより懸案事項とされていた国家主席の存廃問題について触れたのである。陳伯達や林彪らは、毛沢東の撤廃論を強く否定し、国家主席存続を主張した。その手法とは、「毛沢東は天才」なる理論(「天才論」)を主張して毛沢東を持ち上げ、毛の国家主席再任を強調するというものであった。毛沢東は過去の過ちを繰り返さないためにも、党主席(のちの総書記)と国家主席のバランスを考え、トップを党主席1人のみにする構想があったため、この持ち上げは陳伯達の企みとして、彼を疎んじるようになっていった。
 毛沢東は"わずかばかりの意見"を書いて陳伯達を批判、そして"批陳"と呼ばれる整風運動(せいふう。党内で起こす批判活動)が展開され、陳伯達はその後すべての役職を解任され、1973年、除名された。

 毛沢東は、この陳伯達の反抗に関与しているとされる林彪にも懐疑の念を持つようになっていった。また四人組は、林彪が掌握する人民解放軍においても文革達成後より勢力が増大化していることに警戒していた。さらに毛沢東が、アメリカへの接近を考え始めたため、アメリカは敵国であると主張し続けた林彪は毛との対立を深めたとされ、林彪は、プロレタリア文化大革命によって、毛沢東思想の正当性から修正主義や欧米資本主義(帝国主義)の思想を持った人たちを大量に排斥して毛沢東への敬意を表してきただけに、毛沢東の発言は衝撃であったと思われる(実際、毛沢東と林彪との対立の真相には諸説があり、定かではない)。
 1969年3月に起こった、珍宝島での軍事衝突(中ソ国境紛争)において、ソ連の脅威を知った毛沢東は、国内の内紛や隣国と争うような小国家的規模からの脱却をはかり、超大国アメリカに接近して国際連合の代表権を台湾(中華民国)から奪い取り、アメリカやソ連を超えて国際的に先頭に立って主導できる大国家を建設することを志したわけだが、自身のイデオロギーを転向するわけではなかった(特にベトナム戦争では北爆での残虐な行為を徹底非難していた)。自身の体力的な衰退もあり、自身没後の本国は周恩来、林彪、四人組らの争いになると、少なからず憂慮したとされる。

 毛沢東は、彭徳懐(ほうとくかい。1898-1974)、劉少奇、陳伯達と、2番手の逸材を次々と粛清してきたが、次の標的は林彪になった。ただし、林彪の下には文革で活躍した、国軍である人民解放軍がいることで、林彪のクーデタもあり得るとしていた。
 その予言は的中した。1971年3月末、林彪の息子で空軍を指揮する林立果(りんりつか。1945-71)は、毛沢東を暗殺して広州で新政権を樹立することを計画し、「571工程紀要」を作成("571"は"武起義(=武装蜂起)"と同音)、その後機会を狙った。その後毛沢東は、南方をまわり、巡視先で林彪を極右的に批判していった。林彪グループは、これを好機と判断、同年9月、毛沢東を乗用する列車もろとも爆殺する計画を実行することにした。
 しかし、彼らにとって、結果は最悪の事態を迎えた。この暗殺計画が、毛沢東側に知られてしまい、爆殺計画は未遂に終わってしまったのである(その理由は林立果の姉が周恩来に密告したという説がある)。

 結果、林彪は妻の葉群(ようぐん。1917-71)と子の林立果とともにソ連へ亡命することを決め、1971年9月13日、人民解放軍所有の旅客機に乗り込み、強行離陸した。ソ連に向かって順調に飛行を続けていくと思われたが、モンゴル上空で異変、ウランバートル東方のヘンティー県の一村に墜落し、林彪、葉群、林立果をはじめ、パイロットや整備士など乗員9名全員が死亡した(林彪墜死)。
 墜落の原因は未だ分かっておらず、燃料不足による墜落説やソ連による撃墜説、あるいは機内での内紛による発砲で墜落した説など諸説あり、真相は不明のままである。林彪グループのクーデタから墜死事件までを総称して、「林彪事件」と呼ばれる。林彪は1973年に党籍を剥奪された。

 その後、アメリカと中国の国交正常化に向けて、リチャード=ニクソン大統領(共和党。任1969~74)の訪中実現へ向けて準備が進められた。すでに1971年4月7日、名古屋市で開催していた世界卓球選手権に参加のアメリカの卓球選手団を中国に招待すると発表、10日選手団の北京入りが実現した("ピンポン外交")。実はアメリカも必死であり、1950年代末期から国際収支は赤字を続けていた。またベトナム戦争(1965-73)への多額の軍事費支出などを原因に、準備された金を上回るほどの大量のドル流出がもたらされており、結果アメリカ国内では激しいインフレーションが引き起こされていた。ニクソンは同1971年8月15日に金とドルの兌換停止や輸入課徴金10%設定などに踏み切るなどしてドル防衛を行うものの(ドル=ショック、ニクソン=ショック)、ドルを基軸とする国際通貨体制は深刻化、経済大国に危機感が迫っていたのである。ニクソンは7月にあらかじめベトナム戦争緩和(米軍撤兵と戦争のベトナム化)にむけたニクソン=ドクトリンを発表していたが、米軍の北爆を非難してきた中国に接近することによって、米軍撤兵を容易にすることができ、また中ソ対立で中国との関係が悪化の傾向にあるソ連を牽制する考えもあった。
 1971年7月にはヘンリー=キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官(任1969-74)は秘密裏に訪中して周恩来と会談した。そして同年10月の国連総会で、中華人民共和国としての国連復帰が採択された。中国国連代表権は中華民国(台湾国民政府)ではなく、中華人民共和国であるということで、アメリカを中心とする西側の反対を超えて実現したのである(中国国連代表権交替1971.10)。そして翌1972年、ついに大統領訪中が実現(ニクソン訪中1972.2)、2月18日、毛沢東はニクソンと会談、握手を交わして共同宣言を行い(米中上海コミュニケ)、アメリカの中国承認が決まった。同時に中華民国国民政府、つまり台湾は国連追放処分となり、台湾はアメリカと断交した。台湾問題が残されたため、米中間の正式の国交正常化は1979年、ジミー=カーター大統領(任1977-81)の時に果たされた(1979米中国交正常化)。また中国は日本(田中角栄内閣。たなかかくえい。1972-74)との間でも国交正常化が進められ、1972年9月に国交回復の三原則(中華人民共和国が唯一の中国の合法政府である、台湾が中華人民共和国の領土の一部である、台湾との平和条約(日華平和条約。1952.4調印)は無効であって廃棄されるべきである、の3点)の確認に基づいて、共同声明が発表された(日中共同声明。1978年8月には日中平和友好条約も締結)。

 毛沢東の後継者とされた林彪亡き後の国内では、四人組が文革を指導していく。一方周恩来は一国の総理として革命後の混乱した経済および社会の修復に追われていたため、極左路線を進める四人組と距離を置くようになった。しかしこの時点で周は病魔に冒されており(1972年に 膀胱癌が発見される)、同様に健康状態が懸念される毛沢東も米中会談と同時並行にして、国家の軌道修正策の一環とするかつての幹部の復権も考えていた。その結果、実権派として失脚していた趙紫陽(ちょうしよう。1919-2005)、胡耀邦(こようほう。1915-1989)が復帰を許され、1973年には鄧小平(とうしょうへい。1904-97)が、1973年8月30日党10期第1回中央委員会全体会議(10期1中全会)で復帰を果たした。ちなみにこの中全会では江青、張春橋、姚文元、王洪文ら上海組の4人全員が中央政治局員となり、正式に四人組と名乗って活動していく。

 革命を主導していく四人組と、過去の革命路線を修正して鄧小平と協力して経済・社会安定に努めようとした周恩来。こうして周恩来と四人組との対立はますます激しさを増していった。 


 現代中国史も第3話目となりました。非常で複雑で難解な歴史です。皆さん、ついていただけてますか?今回は毛沢東の後継者とされた林彪がこの世を去る話と、アメリカとの接近の話を中心に紹介しました。文化大革命では実権派とされた劉少奇や鄧小平らが失脚したかと思えば、3年経って鄧小平が復権するという、非常に激しい流れです。今回のシリーズでは、周恩来はあまり登場してませんが、目立っていない中で実は一番忙しい人だったかもしれません。毛沢東に忠実に従い、紅衛兵へ指示を与えて実権派を粛清していきながら、その紅衛兵の暴走も抑えようとして間を取り持ったり、米中接近ではニクソン大統領と、日中接近では田中角栄首相と国交正常化に向けて力を尽くす姿は、凄いの一言に尽きます。文革で多くの高官職クラスの要人が粛清される中で、失脚がなかったのは彼ぐらいでしょう。最後まで常に毛沢東に信任され続け、"不倒翁(ふとうおう)"の異名があるのも頷けます。その周恩来による革命の後始末も、鄧小平ら失脚組の力を借りなければなりませんでした。また四人組の台頭とも向き合うことになり、体がいくつあっても足りない状況です。

 それでは、今回の学習ポイントです。米中接近については、1971年の中国の国連代表権の交替、1972年2月のニクソン訪中、そしてカーター政権の時に正式に正常化されることを知っておきましょう。現代社会においても大切な部分です。また、日本史も絡む田中角栄首相時の日中共同声明(1972)、福田赳夫首相(ふくだたけお。任1976-78)時の日中平和友好条約も忘れてはなりません。
 林彪事件の詳細は出題頻度は低いです。林彪の存在は知っておくべきだと思いますが、用語集の頻度数も4と、重要度は中くらいです。夫人の葉群、子の林立果まで覚える必要はありません。四人組に関しても、覚えるのは中心人物である毛沢東夫人の江青だけでよろしいかと思います。

 これは入試にはまず出題されませんが、江青は周恩来の養女である孫維世(そんいせい。1922-1968)を弾圧しています。その女性も江青と同じ女優出身でしたが、文革時代に、実権派の対象として弾圧され、獄中で拷問死しています。周恩来と四人組の亀裂ってこうしたことからも生まれていると思いますね。

 さて、次回第4話に進みます。容体が思わしくない毛沢東に代わる中国のトップリーダーは誰の手に渡るのか?四人組、周恩来、鄧小平らの勢力争いはいったいどうなるのか?そんな中、華国鋒(かこくほう。1921-2008)という人物も登場します。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。鄧小平(トウしょうへい。トウのへんは「登」、つくりはおおざと)。