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ポプラレスの諸改革
共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)の後期。ポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)の勝利で西地中海を制覇したローマは、広大な属州(プロウィンキア。イタリア半島以外でローマが征服した地)を領有することになり、属州の総督と手を結んだ徴税請負人(プブリカーニ)が属州民から高額徴税を行い私腹を肥やした(新興上層富裕市民による新たな階級、エクイテス(騎士階級)の始まり)。
そのポエニ戦争で活躍した兵士のほとんどは独立自営を行う中小農民を中心に編成された重装歩兵隊だった。戦費は自腹を切る形で、長期にわたって耕地を放置して従軍したことで、その耕地は荒廃していった。また属州から作物が安価に流入され、また農業も貴族や富裕市民が荒れ果てた耕地や征服地などを買い占めて大土地所有者となり、その地に大量の奴隷を労働力として酷使して農業経営を行ったため(ラティフンディア)、兵役を終えて帰着したものの帰る場所が売却されて土地を失い、無産化した中小農民の役割はなくなり、やがて没落した(中小農民の没落)。無産市民と化した中小農民はローマの都市部に移って、権力者に取り入り食糧や娯楽競技などのいわゆる"パンとサーカス(パンと見せ物)"を要求する遊民となっていった。当然重装歩兵の没落にもつながり、ローマの軍制もその後は重装歩兵制から傭兵制へと移り変わっていくのである(後述)。
共和政ローマにおけるこうした社会変化によって市民の格差が広がり、貴族(パトリキ)中心で構成された国会組織の元老院を重視する保守的なオプティマテス(閥族派)と、平民(プレブス)、とりわけ富裕なエクイテスや新貴族(ノビレス)らが中心だった平民会および議長の護民官を重視するポプラレス(平民派)に分裂・対立した。
ポエニ戦争の勝利は共和政ローマを都市国家から巨大国家にまでのし上げた。しかしこれと反比例して元老院議員は劣悪化していった。元老院は都市国家機能内での統治では効果があったが、大国化してからは、議員は無力と化し、結果的には保守的伝統のみを重んじるような構成となり、改革精神といった新風を院内に吹き込むことは許されない状況になっていった。このため、元老院という権威の下で動く一部の無能無力の議員たちは、軍隊を使う抑圧的な方法で強力なものにしようとしたが、前述の通り、傭兵制度が主流となっていく有様であり、属州民や、権力者に取り入り私兵と化した無産市民が、金銭目的に雇われたにすぎず、戦意の充実していた中小農民から徴兵された頃の軍編成とはかけ離れたものとなっていた。徴兵制度も継続はしていたものの、中小農民の没落化から資産条件を下げなければ徴兵することはできず、結果、レベルの低い兵士しか集められない危機的状況であった。
保守的な伝統のみ重んじる元老院、軍隊の能力低下、徴税請負人の暴利、奴隷化された属州民...こうした腐敗状況の下、ポエニ戦争期に最初の属州となったシチリア島で、奴隷と化した島の属州民が、総督らによる労働酷使を理由に起こした大規模な反乱が2度も起こされ(シチリアの奴隷反乱。第1次B.C.139/B.C.135-B.C.132、第2次B.C.104-B.C.100/B.C.99)、ローマ共和政の不安定さにますます拍車がかかった。
共和政の安定をもたらすためには、大きな"改革"が必要であった。そこにまず立ち上がったのが、平民派のティベリウス=グラックス(B.C.163-B.C.132/B.C.133?)とガイウス=グラックス(B.C.154-B.C.121)のセンプロニウス氏族の兄弟(グラックス兄弟)であった。
センプロニウス氏族は、第一次ポエニ戦争(B.C.264-B.C.241)後に彼らの曾祖父、ティベリウス=センプロニウス=グラックス(生没年不詳)が執政官(コンスル)に就任した以降(任B.C.238頃)、コンスルを輩出する氏族としてその名が知れた。ちなみにグラックス兄弟の母はプブリウス=コルネリウス=スキピオ=アフリカヌス=マヨル、いわゆる大スキピオ(大アフリカヌス。B.C.236-B.C.183)の娘コルネリア(B.C.190-B.C.100)である。コルネリアは18歳の時、夫、つまりグラックス兄弟の父にあたるティベリウス=センプロニウス=グラックス=マイヨル(大グラックス。B.C.217?-B.C.154。コンスル任B.C.177,B.C.163)と結婚(B.C.172頃)、27歳差離れた結婚だった。
グラックス兄弟の父である大グラックスも護民官時代からその名が知られ、その後も政治面・軍事面で数々の功績を挙げて、何度かコンスルにも就任していたが、それはひとえに彼の人柄によるローマ市民の多大な支持があったからである。しかしガイウス=グラックスが生まれたB.C.154年に大グラックスは急死し、グラックス家はその後コルネリアが大黒柱となって子どもたちの発育に力を注いだ。コルネリアはスキピオ家出身だけあって、求婚者が殺到したらしく、中でもエジプトのプトレマイオス朝(B.C.304-B.C.30)から王妃として求められたが、彼女はいっさい再婚話には耳を貸さず、子どもたちの教育に専念したという。
第三次ポエニ戦争(B.C.149-B.C.146)の時、16歳だった兄ティベリウス=グラックスは軍団長(トリブヌス・ミリトゥム)としてアフリカやスペインで軍務に服し、その功績で政界入りした。B.C.133年に護民官に就任した兄ティベリウスは、国のために戦い、兵役を終えてもラティフンディアのため帰る場所を失い、無産市民と化してさまよう農民達の惨状と、原因でもあるラティフンディアの行き過ぎについて懸念し、これらの抑制と没落しつつある中小農民への救済に着手した。平民会においてティベリウスが発した「イタリアの山野に草を食む(はむ)野獣でさえ帰るねぐらがあるというのに、イタリアのために戦い傷つき倒れる人々は、空気と日光のほかは何も持たず、住む家もなく妻や子をつれてさまよっている」で失地農民の窮状をうったえた演説は実に有名な話である。
この動きはラティフンディアを推進する大土地所有者の不満を噴出させるが、自営農民のメリットを最大限に主張する兄のティベリウス=グラックスは、B.C.133年に「センプロニウス農地法」という法案を元老院に提出するのである。世に言うグラックス兄弟の改革がまず兄の手によって行われたのである。
センプロニウス農地法案というのは、B.C.367年に公布されて以来、一度として施行されることなく腐らせたままになっていた有名なリキニウス=セクスティウス法(リキニウス法)における3条のうちの1つである。つまり、500ユゲラ(約125ha)以上の公有地を占有してはならないという、土地を次々と兼併していく大土地所有者への抑制策として、かつて公布されたリキニウス法の復活を計画したのであった。
前述の通り、当時の元老院議員は、政治的に無力であっても、財産と権力があれば選出された。共和政ローマの公共事業は彼らの私有財力でもって為される始末であった。公有地を私有地にしている大土地所有者たちもまた元老院と癒着していたり、彼ら自身も元老院議員として多く属しているとあって、当然のことながら元老院はセンプロニウス農地法案に抵抗を示したのである。
護民官だったティベリウス=グラックスは、平民会の決議に対し、元老院の承認を得なくても国法として定められるホルテンシウス法(B.C.287)に基づき、この法案を元老院には提出せず、平民会において決議されるよう促した。
当時護民官はティベリウス以外にもう1人オクタヴィウス(生没年不詳)がいたが、彼はティベリウスのやり方になぜか苦言を呈し、センプロニウス農地法案提出に反対した。平民会ではティベリウス派が多数を占めていく中で、オクタヴィウスとその一派が必死に抵抗するのを見たティベリウスは、オクタヴィウスの背後に、法案提出阻止に燃える元老院の手回しがあったことをつきとめ、オクタヴィウスに護民官解任を申しつけ、彼とその一派を平民会から追放した。よって平民会はティベリウス派によって権力が掌握され、ついに同B.C.133年、センプロニウス農地法が可決された。
同じ頃、小アジア北西部にあったヘレニズム国家、ペルガモン王国アッタロス朝(B.C.241-B.C.133)の国王アッタロス3世(B.C.138-B.C.133)が没した。アッタロス3世は生前に遺書を残したが、その内容は、自身が没した後は王国版図をローマに寄贈するというものであった。結果、王国は属州化されてローマの領土となった。
この知らせを受けたティベリウスは、センプロニウス農地法案によって土地を再分配し、無産化した失地農民を救済するのには絶好の機会と判断、ペルガモンが残した土地財産を法案の活用源にしようとした。属州は元老院の管轄であり、元老院の既得権益と化すはずであった新たな大土地を、ひとりの一平民によって阻まれてしまい、これでティベリウスを支持する改革派と、元老院を支持する保守派との対立は決定的となった。
ティベリウスは護民官の任期も満了に近づいていたが、政策貫徹のため、伝統を無視して再選活動を起こした。元老院管轄の属州に護民官が手を出したこと、護民官再選を図ったこと、これらは当時の法ではなんら問題はなかったが、慣例的な"暗黙のルール"があったためにこれまでは行われなかった。しかもティベリウスは再選公約において、兵役短縮や元老院の権限抑制を主張したことで、遂に元老院側・保守派に我慢の限界が来てしまった。
投票の日、ティベリウスも自身の投票に赴くため、ローマの七丘の1つであるカンピドリオ(カピトリーノ)に向かった。到着して自身の投票を行おうとしたところ、その場にいた保守派で元老院側につく、グラックス兄弟の従兄弟のスキピオ=ナシカ(プブリウス=コルネリウス=スキピオ=ナシカ=セラピオ。B.C.183-B.C.132)の扇動で、保守派の暴動がおこり、ティベリウスと、その護衛にあたっていた従者は殺され、投票に来ていた、およそ300人の改革派の同志も同様に虐殺された。殺されたティベリウスの遺体は、彼の名「ティベリウス」を由来にもっているティベル川に投じられた(兄ティベリウス=グラックス暗殺)。結果的にはティベリウスが心血を注いで創り上げたセンプロニウス農地法案は無効・流産となってしまった。
兄の暗殺を知った弟のガイウス=グラックスは、兄の後を追って官界に入り、B.C.126年財務官に選ばれ、3年後のB.C.123年、ついに護民官にまでのぼり詰めた。ガイウス=グラックスは護民官ガイウスとして、兄の果たせなかった遺志を継ぐことを決め、センプロニウス農地法案の推進を筆頭に、穀物価格統制法案(貧民対象に安価な穀物を提供できる法案)、兵役短縮法案、司法改正法案(エクイテスを裁判に参加させて元老院の独占判決を抑える法案)といった革新的法案を次々と作成し、元老院側・保守派を抑制しようと考えた。
翌B.C.122年、ガイウスは兄が成し得なかった護民官再選を果たし、ガイウス一派が作成した法案可決に向けて活動を活発化していった。ガイウスは再選後、エトルリア人やサムニウム人らラテン系民族で構成される同盟市民へローマ市民権を与える法案を打ち出したが、これにより元老院側は完全に彼らを見限る方向に出て、当時コンスルを務めた保守派のルキウス=オピミウス(任B.C.122/1211頃)によって、ガイウス派が打ち出した法案はことごとく打ち消されてしまう。
結果元老院は、彼らの大いなる切り札である特権法令、"元老院最終勧告(セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム)"をガイウス派に向けて初めて緊急発令し(B.C.121)、これは瞬時に可決された。
この法令は軍隊を発動して、世を乱すガイウス=グラックスを筆頭に、彼の支持者を捕らえて刑に処すという非常事態宣言であった。これにより次々とガイウスの支持者は弾圧され、虐殺された。そして当のガイウス=グラックス自身は支持者であった奴隷によって匿われ、逃亡を図ったが、結局は逃げ果せることができず、ティベル川近くの森林の中で、奴隷とともに自害した(弟ガイウス=グラックス自殺)。
グラックス兄弟の改革が挫折したため、その後も彼らの多くの支持者たちが殺され、その数は3,000にまで膨らんだ。元老院に正面から立ち向かった勇姿達は、無惨にも打ち砕かれてしまった。改革の挫折は、ローマ共和政の向かうところを迷わせ、中小農民の没落、軍隊の弱体化をなお一層加速することになり、1世紀もの間、ローマは血なまぐさい内乱期へと突入することとなる(内乱の1世紀。兄ティベリウスの死から始まる。B.C.133-B.C.27)。
しかしB.C.119年、ポプラレス(平民派)で農民出身のガイウス=マリウス(B.C.157-B.C.86)が護民官に選ばれ、ユグルタ戦争(B.C.112-B.C.105。ユグルタは北アフリカのヌミディア王。B.C.160?-B.C.104)の指揮をとり、そしてB.C.107年、遂にコンスルにのぼりつめた。マリウスはグラックス兄弟が行おうとした軍事の改良を絶好のタイミングで行おうとし、大規模に行う(マリウスの軍制改革)。当時の軍団(重装歩兵)は有産市民に兵役を課して構成されていたが、マリウスはこれを改めて、無産化した失地農民を救済する形で、志願者による軍団を構成した(職業軍人制。いわゆる傭兵制度)。失業者で溢れかえったローマでは、"パンとサーカス"を求めるだけに過ぎなかった無産市民が、国のために志願兵となって戦うことができ、さらに志願者のみの構成であるために、自営農業が多忙ならばそれに費やして兵役に就かねば良いわけで、まさに一挙両得の手段であった。また兵士はこれまでなら1年経てば生業に戻されたために長期戦には不向きであり、軍隊の再編が行われていたが、その必要もなくなる。
グラックス兄弟は"農地改革"という側面で、マリウスは"軍制改革"という側面で社会を見つめ直そうとした。グラックス兄弟の改革は"挫折と死"という無念の結末に終わったが、マリウスはコンスルの立場で行ったこと、兵制改革を練る際、実験として最適なユグルタ戦争があったこと(無産市民の志願兵でユグルタを破っている)、志願兵をマリウス将軍の私兵にさせて自身の支持者として権力闘争に使うことを可能とさせたことなどから、ポプラレス(平民派)にとっては有利に導くものとなった。しかしこれにより、内乱は一層激化し、オプティマテス(閥族派)との抗争に拍車をかけることになった。ユグルタ戦争は、マリウスの部下であったルキウス=コルネリウス=スラ(スッラ。オプティマテス。B.C.138-B.C.78)の活躍もあって終結したが、ガリア討伐も残っており、このためにマリウスはコンスルを5年間続けることになる(任B.C.104-B.C.100)。
マリウス率いるポプラレスはその後も改革を重ね、今度はガイウス=グラックスが行おうとしていた、同盟市民へローマ市民権を与える法案を投げかけた。
同盟市では軍隊提供の義務は負うが、ローマ市民権は与えられなかったため、戦争に参加しても戦利品はもらえず、また領土分配もなかった。ローマの内乱が激化するに乗じて、同盟市のローマ市民権付与を主張していた。マリウスはここでも絶好の機会ととらえ、法案を元老院に提出しようとしたが、ここではオプティマテスが猛反対の意を唱えた。このため、同盟市はいっせいに反乱を起こすことになり、内乱はさらに激しくなっていった(同盟市戦争。Social War。B.C.91-B.C.89)。この戦争では、体力の衰えたマリウスに対しスラが主力となった。結局B.C.90年に、同盟市民にローマ市民権付与を許され、同盟市としてローマに統治されていた都市国家群は、ローマを構成する都市と化した。この結果、ローマを盟主とする連合体は消滅、都市国家としてのローマではなくなり、全イタリアを領域下におさめた領域国家に変わった。戦火が飛び交う事態を招いたものの、ローマ市民権付与問題も決着したマリウスだったが、今回の戦争でも軍功をあげたスラはオプティマテスの巨頭として昇格していき、ついにマリウスと決別することになる。
B.C.88年にコンスルに就任したスラは、老いたマリウス率いるポプラレスを攻撃した。折しもミトリダテス戦争(B.C.88-B.C.63。全3回。小アジアのポントス王国(B.C.281-B.C.64)の国王ミトリダテス6世(B.C.120-B.C.63)の反乱)の指揮をめぐり争われたものであった。しかしコンスルという肩書きと元老院を見方にしたスラが一枚上手であった。マリウスは一度後退するが盛り返し、オプティマテスを大弾圧した。そしてB.C.86年に7度目のコンスルに再選したが、直後に病没した(マリウス死去)。その後もポプラレスとオプティマテスの抗争は激しく行われ、内乱の1世紀というローマ混迷期の象徴となっていく。
その後スラはディクタトール(独裁官)に就任してポプラレスを次々と弾圧し(B.C.81年。終身)、元老院の権限を重視する反動改革が行われ、恐怖政治が行われていく。グラックス兄弟・マリウスらポプラレスの諸改革は、内乱という混迷を発生させたが、ポプラレスによる再改革は、ポプラレスの最後の切り札、ガイウス=ユリウス=カエサル(B.C.100-B.C.44)の登場を待たねばならなかった。そして、その後に到達する帝政ローマをみることになるのである。
古代ローマはこれまでも多く紹介してきましたが、今回は共和政ローマの中でも帝政への過渡期にさしかかっており、血なまぐさい内乱時代を背景に、ポプラレス(平民派)の中心だったグラックス兄弟、マリウスをメインに話を進めました。本当はマリウスが没した後に始まるスラの独裁政治もご紹介したかったのですが、スペースの都合と、今回はポプラレスがメインということで、割愛させていただきました。すみません。
都市国家から正式な国(領域・人民・主権の三要素をもつ国家のこと)へと移り変わる時期でもあるこの時代のローマは、受験世界史においても非常に重要な分野であり、前述の3名だけでなく、スラや、本編に登場しなかったスラ派のグナエウス=ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)や、富豪マルクス=リキニウス=クラッスス(B.C.115-B.C.53)も内乱の時代に台頭します。そしてカエサル時代へと向かうわけです。
さて、今回の学習ポイントを見ていきましょう。内乱の勃発はグラックス兄弟の改革の挫折で始まります。中小農民の没落を防ぐ目的で農地改革を行って自作農を増やし、これにより国防の充実をはかろうとしましたが、兄弟ともに元老院一派に敗れて命を落とします。民主共和政は事実上終末を迎えた形となり、激しい派閥抗争となり、およそ100年間、内乱期となります。これが"内乱の一世紀"です。このあたりの流れは知っておいた方がよいでしょう。
続いてグラックス兄弟につづく平民派の登場、マリウスですが、兵役を志願してきた無産市民を職業軍人として編制する傭兵制度が重要ですね。最近の用語集では傭兵制ではなく職業軍人制という呼称で載せています。平民派マリウスの宿敵は閥族派スラです。スラは終身独裁官(ディクタトール)に就任したことも知っておきましょう。
あと内乱期に登場した具体的な戦争・反乱ですが、ユグルタ戦争は以前は受験には頻出事項だったのですが、世界史B用語集ではマリウスの項目内にその名が出ているぐらいでメインとしては出ていません。受験でも滅多に見かけなくなりました。うってかわって同盟市戦争は非常に重要です。いちおうはスラの力で戦争は収まっています。あとミトリダテス戦争もユグルタ戦争同様出題されませんが、以前はよく出題された項目でした。用語集ではポンペイウスの項目で登場するぐらいです。
他には、本編では登場しませんでしたが、大規模な奴隷反乱がありました。これはまたいつかメインでご紹介したいと思っている内容です。円形競技場などで見せ物として剣闘士として真剣勝負をやらされる奴隷を剣奴(けんど。グラディエイター)と呼びますが、トラキア出身のスパルタクス(B.C.109-B.C.71)が10万の奴隷を指導しておこした大反乱(スパルタクスの反乱。B.C.73-B.C.71)も内乱期の戦争です。結局ポンペイウスやクラッススによって鎮圧されますが、この事件も重要ですね。