本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第19話


暗黒の土曜日(1962.10.27)

  コロンブス(1446/51~1506)の第1回航海によって発見(1492)されたカリブ海最大の島で、それ以来スペインの統治下に置かれていたキューバは、革命党を立ち上げたホセ=マルティ(1853~95)によってスペインの悪政に対する独立運動を展開した(1868~78,95)。時の米大統領マッキンリー(任1897~1901。共和党)はこの独立運動を大いに利用して、1898年2月、アメリカ巡洋艦メイン号がキューバのバハナ港内で深夜、爆沈したのを口実にスペインと戦い(米西戦争)、アメリカの勝利でキューバの独立が認められた。ただし、その時定められたプラット条項(1901)ではアメリカの政治的干渉をうけるなど事実上の保護国となっており、完全な独立とはならなかった。1902年に共和国として再独立をするも、アメリカの支配はさらに続いた。

 やがて民主党フランクリン=ローズベルト(ルーズベルト。任1933~1945)大統領の善隣外交政策の方針により、プラット条項が破棄され(1934)、完全独立を承認したものの、その後キューバを引っ張っていったのは、アメリカの資本と強く結ばれた親米的なバティスタ大統領(任1940~44,52~58)の独裁政権だった。キューバは当時から砂糖モノカルチャー経済をアメリカに強制され、バティスタ政権はアメリカの砂糖買付保障政策によって政治が腐敗した。政権は1944年の選挙で敗れたが、クーデタを起こして再び親米政権を立ち上げ、恐怖政治を展開した。

 バティスタ政権に抗議をおこしたのがフィデル=カストロ(1926~ )であった。1953年7月カストロはモンカダ兵営を襲撃するが失敗、逮捕され、有罪判決に対して、彼は「将来、歴史は私に無罪を宣告するであろう」と述べた。特赦を受けたカストロは1955年、メキシコに亡命し、アルゼンチンの革命家チェ=ゲバラ(1928~67)と出会った。2人は共鳴して人と資金を集め、バティスタ打倒を掲げてキューバに再上陸し(1956.11)、ゲリラ戦を展開した。カストロは農民・学生・一部の軍隊の支持を得、1959年1月1日、バティスタをドミニカに亡命させ、翌2日首都バハナに入城、2月にカストロは首相となり、民主主義的な革命政府が誕生した(キューバ革命)。

 カストロ革命政府は、農地改革(1959。小作人に土地分配)などの民主主義的改革を行うが、アメリカとの対立が急速に深まった翌1960年には米系企業を含む大企業を国有化するなど、徐々に社会主義化していった。アメリカはキューバに対する砂糖の輸入量を削減して経済圧迫を加え、ついに1961年1月には国交を断絶し(アメリカ、キューバと断交)、禁輸品を増やして経済制裁を強化した。1961年と言えば東ドイツがベルリンの壁を構築して、東西ベルリンの交通を遮断した年で、米ソ両陣営による冷たい戦争の真っ直中であった。

 1961年5月、カストロは、「キューバ革命は社会主義革命」と宣言(社会主義宣言)、当時のソ連寄りの姿勢を強め、ユーラシア大陸以外での初の社会主義共和国が出現した。翌62年10月16日、アメリカは、ソ連がキューバに中距離核ミサイルIRBMの基地を建設していることを確認し、時の民主党大統領ジョン=フィッツジェラルド=ケネディ(任1961~63)は、22日、強硬な姿勢で海上封鎖を宣言し、24日米大西洋艦隊によって封鎖を実施したため、全世界は米ソ衝突による核戦争の危機にさらされた(キューバ危機)。これによりソ連のフルシチョフ(共産党第一書記任1953~64,首相任1958~64)はミサイル撤去の提案をして戦争回避の方向に向けた。

 26日、カストロはアメリカ偵察機に対して翌27日以降の爆撃を宣言し、翌27日、キューバに派遣されたソ連軍は対空ミサイルでアメリカのU2型偵察機を撃墜した(「暗黒の土曜日」)。これにより、28日、フルシチョフはキューバのミサイル撤去を発表し、11月9日、ミサイルをキューバから撤去した。10月16日から始まった人類危機の13日間は、28日の「黄金の日曜日」でもって終焉となった。


 非常に緊張感のあるお話でした。でも、この危機のあとの1963年には米ソ間の安定がはからい、両国間にホットライン(直通電話)が引かれ、8月部分的核実験停止条約を調印するなど、改善は進展しました。でも、65年ドミニカ共和国が立憲革命を起こして米軍が出兵したり、他にもコロンビアやペルーなど、ラテン=アメリカ諸国の武装ゲリラ闘争が頻繁におこるなど、「第2のキューバ化」を阻止することに奔走するあたり、情勢はまだまだ不安定でした。

 初めて現代史を取り上げましたが、戦前のキューバの歴史はスペインとアメリカとの対立で始まります。メイン号爆沈事件は乗組員266名が爆死した大惨事で、実は当時の爆沈の原因は不明でした。翌日の新聞では「リメンバー・ザ・メイン(メインを忘れるな)!」と書かれ、国民をスペイン非難の渦に巻き込んで、爆沈の犯行はスペインにあると植え付けました。これが導火線となって1898年米西戦争が始まるのですが、この戦争後の講和で、アメリカはフィリピン・グアム・プエルトリコを獲得しています。また、同年には王国だったハワイも併合しています。これは意外と大事です。1年後の1899年には国務長官ジョン=ヘイの「門戸開放宣言」で中国にも関心を示したりと、当時では偉大な大統領だったマッキンリーですが、世界史学習では次のセオドア=ローズベルト大統領の陰に隠れて、少々地味な気もします。ちなみに、マッキンリーは1900年に大統領に再選された後、無政府主義者に暗殺されております。

 キューバ革命・危機と続いた年代では、ケネディが大統領でした。彼が立候補時に掲げたスローガン"ニューフロンティア"も知っておきましょう。彼は1963年11月、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺されました。メディアでも暗殺の瞬間が公開されたこともあり、映画「JFK」でも取り上げられたので見たことのある方は多いと思います。で、その後を任されたのがジョンソン(民主党)で、ニクソン(共和党)→フォード(共和党)→カーター(民主党)→レーガン(共和党)→ブッシュ(共和党)→クリントン(民主党)、そして現在のブッシュ(共和党)と続きます。ちなみにケネディの前はアイゼンハウアー(共和党)、その前はトルーマン(民主党)です。アメリカの現代史は大統領の政策(特に対外政策)での出題が異常に多いのが特徴ですね。

 最後に、キューバ危機により、ミサイル撤去を決めたソ連がアメリカとの改善をはかろうとする中、ソ連と同じ社会主義国・中国はソ連を非難し、今度は中ソ間の対立が生まれます。中ソ論争とか中ソ対立などと呼ばれました。もともと中ソ間はあまり良くなかったのですが、キューバの一連の事件で論争が完全公開したと言えます。この中ソ対立も教科書には出てきますので、要注意です。


キューバ革命1953~1959年 モンカダ兵営攻撃から革命の勝利へ [ 河合恒生 ]

価格:3,024円
(2018/4/21 16:06時点)
感想(0件)

キューバ革命勝利への道 フィデル・カストロ自伝 [ フィデル・カストロ ]

価格:5,184円
(2018/4/21 16:06時点)
感想(0件)