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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第21話


匈奴(きょうど)

 アジア大陸中央部を内陸アジアといい、東はモンゴル高原、西はカスピ海、南はヒマラヤ山脈、北はシベリアのタイガ(針葉樹林帯)に囲まれ、ゴビ砂漠、カラクム砂漠など、乾燥地帯であり、また高山も多く点在する。気候は冬と夏の寒暑の差、また昼夜の温度差が激しく、湿度が低くて降水量が少ない。生産力が乏しい地帯のため、オアシス(湧水地。泉。)地帯では、果樹栽培や農耕、キャラバン(隊商)貿易などが行われ、草原地帯では、移動性牧畜業、いわゆる遊牧が発展し、馬や羊、場所によっては牛やラクダなどを放牧した。これに従事する遊牧民族は、季節が変わると、牧草地や環境適応住居を求めて移動する生活だった。

 遊牧民族の中でも、騎馬戦術を身に付けた民族を遊牧騎馬民族(騎馬遊牧民)と呼ばれ、B.C.7世紀頃からB.C.4世紀頃にかけて、南ロシア草原地帯に現れた、イラン系と推定されるスキタイが最初の遊牧騎馬民族として登場している。遊牧騎馬民族は、生活の不安定さから、自給自足から、次第に他との交易スタイルに変わっていき、さらに交易が未達のときは、騎馬戦術でもって略奪・破壊へ展開し、やがて有力指導者の下で組織作りが行われ、部族制国家を形成していくのである。スキタイは独自の戦闘能力を持ちながら、ペルシア(アケメネス朝。B.C.550~B.C.330)などのオリエント文化やギリシア文化などの影響を受け、黄金製の櫛飾り・黄金製の葬衣(被葬者に着せる衣。別名"黄金人間")・黄金製の壺などの金属文化や、動物文様を武具などに施すなど、独自の騎馬文化をうみだした。

 モンゴル高原では、中国戦国時代(B.C.403~B.C.221)、匈奴(トルコ系?モンゴル系?)なる遊牧騎馬民族が現れた。匈奴はスキタイ文化の影響をメインとしながらも、外来の文化も積極的に取り込んだ。バイカル湖南端とモンゴル首都ウランバートルとの間に残るノイン=ウラ遺跡は匈奴の王墓であり、中国製品も多数出土している。

 匈奴では、君主の称号を単于(ぜんう)といい、初代君主頭曼単于(とうまんぜんう。?~B.C.209)のもとで、諸部族を集めて遊牧騎馬連合を形成、強大化し、中国に侵入するようになった。戦国の諸侯で、後に"戦国の七雄"に数えられる燕(えん。?~B.C.222)、趙(ちょう。B.C.403~B.C.222)、(しん。B.C.8C~B.C.206)らは、匈奴の進出に備えて部分的に城壁を構築した。やがて、秦の始皇帝(位B.C.247~B.C.210)が中国統一を実現し(B.C.221)、統一国家として異民族・匈奴の討伐をはかり、武将蒙恬(もうてん。?~B.C.210)を派遣した。蒙恬は30万の兵を率いて北国境のオルドス(黄河湾曲部内側の地域。黄土高原北部。)に出陣し、頭曼率いる匈奴は討たれてゴビ砂漠北部に敗走した。始皇帝は匈奴の再来を防ぐため、蒙恬に命じて燕・趙らが部分的に構築した城壁を連結させ、万里の長城として修築した。蒙恬はその後、始皇帝から華北警衛の総司令官の任命をうけて、オルドス南部の上郡(じょうぐん)に駐屯した。

 しかし、始皇帝が没し(B.C.210)、蒙恬も謀略によって幽閉、自殺し(B.C.210)、幼帝が擁立されると、匈奴の上層部はあわただしくなった。頭曼の子冒頓(ぼくとつ。?~B.C.174)は、単于のイスを得るため、父頭曼を鏑矢で射殺、冒頓単于(ぼくとつぜんう)として2代目君主に就任した(任B.C.209?~B.C.174)。冒頓単于は、まず東モンゴルの狩猟遊牧民族・東胡(とうこ。モンゴル系?ツングース系?)と現甘粛(かんしゅく。オルドス南西部。西安より西方)省にいた民族月氏(げっし。トルコ系?イラン系?)を討った。東胡は滅び、部族であった烏桓(うがん)と鮮卑(せんび。後に北魏を建国)は匈奴に服属となった。月氏は西方に敗走、その一派は中央アジアのアム(ダリヤ)川とシル(ダリヤ)川に挟まれたソグディアナで大月氏(B.C.140頃~A.D.1C)に成長した。また月氏撃退後、甘粛方面にあった絹の道シルク=ロード)の出入口をおさえてオアシス諸国との交易の利を収めた。冒頓単于と次の老上単于(ろうじょうぜんう。位B.C.174~B.C.166)の時には強大な遊牧国家として成長した。

 匈奴は、続いて矛先をゴビ砂漠以北に向けて、トルコ系民族の丁零(ていれい。丁霊、丁令とも。トルコ系で、Türkの音訳)や堅昆(けんこん。キルギスの前身)を服属し、東アジア初の大遊牧国家を形成した。また、秦に奪われたオルドス地方を回復するため、再度侵入、秦に代わった前漢B.C.202~A.D.8)を圧迫し、オルドスを回復した。この時は前漢は高祖(こうそ。劉邦。りゅうほう。位B.C.202~B.C.195)によって統一を成し遂げたばかりで(B.C.202)、東アジアでは北に匈奴国、南に前漢が対峙することとなった。

 冒頓単于率いる匈奴騎馬軍は前漢に侵入を繰り返し、遂にB.C.200年、高祖を平城(へいじょう。山西省大同市。北魏前期の首都)で包囲し勝利を収めた(白登山の戦い。白登山(はくとうざん)は平城の南東)。冒頓単于に負けた高祖は、対外的には宥和・和親策をとり、匈奴とも和議を結んで(B.C.198)、毎年匈奴に多額の金品を贈った。この対策を歳幣(さいへい。歳貢(さいこう)とも。)という。匈奴はさらに亡命した高祖の功臣や戦いで投降した漢人などを重用して中国文化・社会を流入した。一方で西方にも拡大して西域(さいいき。タリム盆地周辺)のオアシス国家群を支配し、国家は広大となって、盛時を迎えた。

 しかし、前漢皇帝武帝(ぶてい。位B.C.141~B.C.87)となってからは、前漢王室の中央集権体制をきずいたことで、対外和親策を捨て、匈奴の征討策に転向した。武帝は将軍・衛青(えいせい。?~B.C.106)と将軍・霍去病(かくきょへい。B.C.140頃~B.C.117)らに匈奴征討を命じ(B.C.129~B.C.119)、苦戦しつつも匈奴に勝利した。とくに年齢20代前半の霍去病は約7万の匈奴兵を斬殺したと言われる。この結果、匈奴はまたもやゴビ砂漠北方に敗走した。その後の匈奴は内紛が起こって、単于が一度に数人も擁立されるなど、統一感を欠き、衰退に向かった。単于の一人である呼韓邪(こかんや。位B.C.58~B.C.31)は兄の郅支(しっし。位B.C.56~B.C.31)とも対立を起こし、結局東匈奴西匈奴に分裂(B.C.56)、郅支単于は西匈奴を率いて呼韓邪単于と戦い、呼韓邪は敗れた。

 呼韓邪単于は前漢に降り、B.C.51年、長安(現・西安)に赴いて援助を求めた。この結果、呼韓邪は前漢と臣従関係を結び、モンゴル高原に復帰することができ、和睦が実現した。一方で、西匈奴は前漢の西域都護府(B.C.59~A.D.107。西域諸国の統轄)からの攻撃で、B.C.36年に滅亡した。

 匈奴と前漢との間に親善関係を保つ策として、こんなエピソードがある。呼韓邪単于と、前漢の元帝(げんてい。位B.C.49~B.C.33)の後宮・王昭君(おうしょうくん。生没年不明)との結婚があった。王昭君は湖北省の名家の娘で、その後元帝の後宮として仕えたが、呼韓邪単于が和睦策の一環として、王昭君との結婚を求めた。王昭君は、自身の美貌に自信こそあったが、皇帝の御用画家に贈り物をしなかったがため醜く描かれたので、皇帝は彼女を召そうともせず、呼韓邪への降嫁の一番手となっていた。王昭君は召されない悲しみと恨みから、自ら異民族への降嫁を希望した(B.C.33)が、帝は彼女の美貌を降嫁直前に知り、激しく後悔をしたといわれる。彼女は呼韓邪との間に1男を産み、次期単于として期待をよせたものの、呼韓邪の没(B.C.31)後、次期単于は呼韓邪と匈奴貴族の娘(先妻)との間にできた男子が次期単于となった。さらに、匈奴の風習に従い、王昭君はその男の妃として再婚させられ、2女を産み、結局中国に戻らずに没したといわれている。この悲話は王朝・元(げん。1271~1368)の時代に作られた雑劇(元曲)『漢宮秋(かんきゅうしゅう)』などで広く知られている。

 匈奴と前漢との和平は紀元後8年に転機を迎えた。その頃の前漢の宮廷では、外戚(がいせき。皇后・妃の親族)と宦官(かんがん。後宮や貴族に仕えた、去勢された男子)の台頭が目立ち、専権を振るい始めた。こうした中で、元帝の外戚・王氏一族の王莽(おうもう。B.C.45~A.D.23)が、自ら擁立した若年の皇帝を毒殺、紀元後8年に国号を(しん。8~23)として皇帝となった(位8~23)。王莽は、王朝・周(B.C.11~B.C.256/B.C.249)時代の政策を理想として、異民族を蔑視・冷遇したため、匈奴と中国との和平は再び失われ、匈奴と新は断交し、新は匈奴征討を実施した。しかしまとまりのない体制のままで行ったため、征討に失敗、逆に匈奴は勢いが復活し始めた。

 さらに新では、体制に不満を持つ農民が反乱を起こし(赤眉の乱。せきびのらん。18~27)、23年王莽も殺されて長安は陥落、新は滅び、27年には高祖(劉邦)の子孫・劉秀(りゅうしゅう。B.C.6~A.D.57)が乱を鎮めて後漢をおこし(25~220)、光武帝(こうぶてい。位25~57)となった。

 匈奴は再び勢いを盛り返し、後漢とも戦った。光武帝は当初、外戚を退けるため、内政を最重視したので対外的には消極的になった。よって、勢いづいた匈奴は光武帝が派遣した遠征軍も容易に撃退できた。しかし、48年、匈奴は内紛の再発でまたも統一感を欠いて今度は南北に分裂し、北匈奴南匈奴に二分し、翌49年、南匈奴は後漢に服属、長城付近に定着した。一方後漢は、光武帝死後、子が明帝(めいてい)となって即位し(位57~75)、父の功績で国力が整ったため、後回しとなっていた対外政策を積極化して、将軍竇固(とうこ。?~88)に命じて北匈奴を討たせた。さらに将軍班超(はんちょう。32~102)は竇固軍に別将として従軍(73)、危険を冒しながらも軍功をたて、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と叫んで、部下36人で匈奴の宿舎を襲撃し、百数十の兵を全滅させた。続いて4代目・和帝(わてい。位88~105)が即位した時は、将軍竇憲(とうけん。?~92) が北匈奴征討を行ったが(89)、この功績で竇一族は権勢をふるったことにより、和帝の反感を買うようになった。またこの征討の際、班超の兄で、紀伝体歴史書『漢書』の編者の1人である班固(はんこ。32~92)も従軍している。結果、北匈奴は大敗して本拠地を失い(91)、西方へ敗走し、2世紀半ばカザフ草原に移ったが、その後消息を絶った。結果、班超は西域都護府の長官に任命され(91)、西域50余国を服属した。が、一方の兄・班固は、竇一族に連座して投獄、和帝により竇一族が滅ぼされた(92)後、獄死した。

 後漢が宦官の専横(166,169。党錮の禁(とうこのきん))や農民反乱(184黄巾の乱(こうきんのらん))などで群雄割拠が起こり、後漢は(ぎ。220~265)の曹丕(そうひ。187~226)による禅譲(政権譲位)で滅亡した。その後は三国時代(220~280)を経て、司馬(しば)氏の西晋(せいしん。265~316)が建った。

 後漢時代に服属し、長城付近に定着していた南匈奴は、その後、魏の曹操(そうそう。曹丕の父。155~220)によって統制されていたが、匈奴の末裔が陝西・山西に進出し、その内の1人、劉淵(りゅうえん。?~310)は、西晋が内乱(八王の乱。はちおうのらん。290~306)で混乱を極めているのに乗じ、匈奴による漢を建国(のちの十六国の前趙。ぜんちょう。304~329)して、自身を漢王と称し、ついで山西で皇帝と称し(位304~310)、西晋への攻撃を開始した(永嘉(えいが)の乱勃発)。そして劉淵の子・劉聡(りゅうそう。位310~318)の時、西晋の首都・洛陽を陥落させて懐帝(かいてい。位306~313)を捕殺(311)、316年、長安の愍帝(びんてい。位313~316)を降して西晋を滅ぼした(永嘉の乱終了)。こうして華北は南匈奴をはじめとする多民族が押し寄せ、(けつ)・鮮卑の北方系民族と(てい)・(きょう)のチベット系民族ら(5民族を五胡という。)が短期間(304~439)の間に13国の興亡を繰り返し、漢民族はたった3国しか入り込めない時代が到来した。これが五胡十六国の時代である。

 中国はその後南北朝時代(439~589)を経て、(ずい。581~618)・(とう。618~907)の長期平和時代が続くが、匈奴は五胡十六国時代、正統が断絶(329)、残党が2つの国・北涼(ほくりょう。397~439)・夏(か。407~431)を建国するも、結局は鮮卑の北魏(ほくぎ。386~534439統一。)によって華北が統一され、匈奴(南匈奴)は吸収、消滅した。

 後漢時代、西へ敗走し、消息を絶った北匈奴は、2世紀半ばにロシア南西部のカザフ草原にいたことを示す記事を最後に、中国の歴史書からは名前が消えているが、3世期頃、ロシア南西部のアラル海、カスピ海付近に出現し、375年、ドン河(黒海東方)を渡ってヨーロッパに侵入、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族と称する遊牧民族となったといわれている。しかし北匈奴とフンの同族説は、いまだ論争中である。ただ、ヴォルガ河流域(ドン河と連結。カスピ海北方。)に、匈奴が流入した漢の文化的遺物が発掘されて、同族説は強まってきている。


 連載21作品目は、北方異民族の匈奴を紹介しようと思いましたが、匈奴が長年に渡って中国と関係を持っているため、中国王朝の対外策もお話ししながらの紹介となりました。思えば戦国時代から五胡十六国までですから、約850年の歴史です。ヨーロッパ中世~近世史でのイギリスとフランス並みのヴォリュームです。

 私は経済学部の大学出身ですが、東洋史や西洋史も好んで受講していました。まさか、この時学んだ知識がここで役立つとは思いませんでしたが、その時使用した文献が貝塚茂樹さんの「中国の歴史(上・中・下。全3巻)」でした。何度も読了した作品で、今回は上巻と中巻を参考にさせていただきました。

 さて、今回の受験におけるポイントを挙げてみましょう。アジア大陸の、あまりメジャーではない地域の歴史だったため、聞き慣れない地名がワンサカと出ました。内陸アジアは、世界史の中では多くの民族国家が興亡したり、条約が結ばれたり、戦争があったりしてますので意外と重要だったりするのですね。天山山脈、ヒンドゥークシュ山脈、アルタイ山脈、バイカル湖、アラル海、タリム盆地、ゴビ砂漠、オルドス、イリ地方(月氏が敗走した地方)、オルホン川などは地図帳で位置を確認しておきましょう。

 今回は匈奴の他にも、遊牧騎馬民族の親分的存在のスキタイや、東胡(烏桓・鮮卑)、月氏、丁零、堅昆(キルギス)、などの遊牧民が登場しました。本編に出なかったエフタル(イラン系)、突厥(とっけつ。トルコ系)、ウィグル(トルコ系)、モンゴル民族柔然(じゅうぜん。モンゴル系)、烏孫(うそん。トルコ系)、サカ族(イラン系)、アヴァール人(モンゴル系)、契丹(きったん。モンゴル系)なども有名です。太字の民族は知っておきましょう。

 匈奴出身の登場人物で、受験にでる人物というと、冒頓単于ですね。本編では他にも多くの匈奴人が登場しましたが、試験にはほとんど出ませんので、匈奴の人物は冒頓単于だけ知っておいて下さい。そして、彼の生きた時代は前漢の劉邦(高祖)の時です。武帝が即位した時には既に没していました。

 ちなみに冒頓単于は、本編であったように父である頭曼単于を殺すのですが、私の愛読書・山川出版社「詳説 世界史研究」によると、冒頓単于はかなり残虐な方法で頭曼を暗殺しています。あまりにひどい殺し方なので、この場では紹介しませんが、興味のある方は是非「詳説 世界史研究」を買って読んでみてください。

 匈奴はB.C.56年に東西分裂、A.D.48年に南北分裂しています。正確な年号は覚えなくていいので、東西分裂は紀元前1世紀、南北分裂は紀元後1世紀と覚えておくと、その周辺の時代把握に役立ちます。また王昭君の悲劇のお話ですが、中国では古くから広く大衆に読み物や雑劇などで知られているお話です。受験には出ないのですが、知ってもらいたいお話ですね(でも元曲『漢宮秋』は大事です)。おまけの話ですが、高祖没(B.C.195)後、冒頓単于は高祖の皇后(太后)に求婚したのですが、結局断られたそうですね。

 五胡十六国については、16国すべての名前までは覚える必要はありません。ただ、難解な出題をする大学入試であれば、16国のうち、漢人の国は幾つか?っていう問題もたまにあります。本編であったように、漢人の国は3国です。また匈奴・羯・鮮卑・氐・羌は最初の3民族は北方系、うしろ2民族はチベット系であることも知っておきましょう。私は"ド()ケチ()、やかチベット提供()"といって覚えたものです。

 中国では、大事なところだらけですが、スペースの関係上、選りすぐって1つだけを。班固の『漢書』が出ましたが、この歴史記述は皇帝の事績や列伝で通史を表す紀伝体です。紀伝体で有名なのは、これと『史記』です。『漢書』は後漢時代の歴史書ですが、『史記』は前漢時代の歴史書で、紀伝体の元祖です。著者の司馬遷(しばせん。B.C.145頃~B.C.86頃)も知っておきましょう。紀伝体の歴史家は、有名なところでは北宋時代に欧陽脩(おうようしゅう。1007~72)という人もいます。また、紀伝体に対して、年代順に記述する形式を編年体といいます。編年体の作品には、北宋の政治家・司馬光(しばこう。1019~86)が編纂した『資治通鑑(しじつがん)』が有名でしょう。

 今回は匈奴のご紹介ですので、登場した戦国時代~魏晋南北朝時代に関する歴史は、あらためてメインとして、別の機会にお話しするとします。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。
氐(てい)→"氏"の下に一、郅支(しっし)単于→"至"がへん、つくりはおおざと("部"などの右側)


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