学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。
中世イングランドの王朝であるプランタジネット朝(1154~1399)はヘンリ2世(位1154~89)が創始した王朝で、"封建国家"としての盛時を現出した時代であった。ヘンリ2世はフランス西半分の大陸領土を手に入れ、広大な大帝国をきずき、次のリチャード1世(獅子心王。位1189~99。ヘンリ2世の子)も第3回十字軍(1189~92)に参加して、エジプト・アイユーブ朝(1169~1250)の王サラディン(サラーフ=アッディーン。位1169~93)と戦い(1191)、軍功をあげた。ここまでは良かったのだが、帰途、ウィーンのオーストリア大公の捕虜となり、莫大な身代金を支払う羽目になったことで、国民の税負担が大きくなり、不人気となった。また多額の軍費負担により、諸侯からも不満の声があふれ、しばしば国内では反乱が起こる結果となった。
リチャードの弟ジョン(1167~1216)も生来の嘘つきやわがままから国民からは不安がられた。リチャード遠征中はジョンが内政を任されていたのだが、リチャードの死後、王位に就いたジョンは(欠地王。位1199~1216)、本来の王位継承者だった兄ジェフリの子アーサーを暗殺(1203)して王位を守るなど、残忍なふるまいを行った。このためフランス・カペー朝(987~1328)の王フィリップ2世(尊厳王。位1180~1223)に嫌われ、結果英仏間で戦争を交えることになった。
ジョンは大陸で戦うも連敗(1204~06)、ブルターニュ(フランス西北の半島)やノルマンディー(英仏海峡あたり)など、大陸におけるイギリス領の大半を奪われ、父ヘンリ2世が築いた大帝国はいっきに縮小した。
大陸領土の多くを失ったジョンは、王政の威信強化をはかって、カンタベリ大司教叙任権を取得するべく、教皇に迫った(1207)。当時のカンタベリ(ケント州)はイギリス最大の大司教管区を組織していた。大司教は司教の上位者で、一国を代表する司教であり、宗教的には重要なスポットであった。ただ、折しも教皇権の絶頂時で、時の教皇インノケンティウス3世(位1198~1216)は、ジョンの叙任権取得を拒み、ジョンを破門(1209)、さらに王位剥奪の処分を突きつけた(1212)。翌年ジョンは屈服してすべての領土を教皇に寄進、領土は封土として教皇に朝貢するという失態を演じ、結果破門と王位剥奪は解かれたものの、ジョン王の転落は決定的であった。にもかかわらず、ジョンは奪われた大陸の旧英領再獲得に向けて遠征を企図し、戦費を調達するために重税を課した。戦費負担に苦しむ国内の貴族は、1215年、遂に軍役を拒否して反乱を起こし、市民もこれに賛同した。同年6月15日、ジョン王は団結した貴族とロンドンで会見、ジョンは譲歩して貴族の要求に応じることに決めた。この貴族の要求をまとめた63ヵ条の条項が大憲章(マグナ=カルタ)で、封建的な負担、つまり税金の徴収は貴族の同意を求めること、王室の職権濫用防止、商業の自由化、教会の自由化などが求められた。大憲章はイギリス立憲政治の先駆となったわけだが、調印者ジョンは、大憲章は市民権や貴族権を訴えた文書にすぎず、法的価値は薄いと判断して、調印直後に無効を宣言、外国傭兵を導入して再び貴族と争い始めた。貴族はフランスの支援を受けて交戦したが、ジョンが病没(1216)、内乱は終息に向かった。
ジョン没後、長子ヘンリー3世(1207~72)が王位を継承(位1216~72)した。幼少で即位したため、当初は摂政に行政を任せたことによって、政情は安定した。しかし、1230頃から摂政を退かして親政を始めたヘンリー3世は、大陸領土回復の野心を燃やしたことで、大陸領土喪失以来、純粋な国民感情が芽生えていったイギリス国民(特に貴族)を逆なですることになる。反発するイギリス貴族を退かせ、逆に外国人貴族を重用し、教皇とドイツ皇帝の争いに介入して国費を散財、また大陸に遠征してはフランス軍に連敗し、財政が悪化すると戦費調達のため大憲章を無視して重税を課すなど、父ジョンと同じ失政を繰り返した。外国人貴族の中で、フランス名門貴族出身のシモン=ド=モンフォール(シモン=ド=モントフォート。1208頃~1265)がいた。彼はヘンリー3世の寵愛を受け、ヘンリーの妹と結婚した(1238)。しかしモンフォールは王の行政に不満を持ち始め、国内の反発貴族と手を結んで、1258年、貴族特権を定めたオックスフォード条令をヘンリー3世に認めさせた。
しかし、ヘンリー3世はこれを破棄したため、同1258年、モンフォールは蜂起し(シモン=ド=モンフォールの反乱)、1264年、ヘンリー3世は一時的捕虜となった。翌1265年、モンフォールはイギリスの支配者として、貴族や聖職者、特権都市の代表、州騎士などを加えた諮問議会(しもんぎかい)をヘンリー3世に召集させた。ヘンリーは捕虜を解かれたが、反王的議会の屈辱を味わうことになった。よって、この諮問議会はのちのイギリス下院(庶民院)の前身となり、イギリス議会の起源となったわけである。しかしモンフォールは、同1265年、父の敵討ちに挑んだ皇太子エドワード(1239~1307)の軍と戦闘を交え、戦死した。
エドワードは王位を継承してエドワード1世(位1272~1307)となった。彼は王権回復に向けるため、大陸領土獲得を避け、大ブリテン島の統一を目指して、ウェールズを征服(1276~83)、ついでスコットランドの遠征を行い(1285~1307)、1292年にはスコットランド民に王の主権を認めさせた。しかし軍費調達の必要がおこり1295年議会を招集、大貴族・高位聖職者に加え、各州の騎士と各市の市民および下級聖職者代表を2名ずつ加えるといった、規則的な召集を実施した。これが模範議会(Model Parliament)であり、身分制議会の成立となった。エドワード1世はスコットランド併合を実現できずに病没したが(1307)、孫エドワード3世(位1327~77)の時、模範議会は貴族が構成する上院(貴族院。House of Lords)と、州騎士と特権都市代表らが構成する下院(庶民院。House of Commons)の二院制議会となり(1341)、下院の承認を必要とした議決が実現し、結果立法上の平等が成り立った(1414)。百年戦争(1339~1453)が展開される中での成立であった。
イギリスの議会の誕生をご紹介しました。1265年のシモン=ド=モンフォールによる諮問議会が端を発しています。私は"シモン"="諮問"つながりで覚えました。諮問議会は一般用語なので、本当は覚える必要はありませんが、次に出てくる模範議会や二院制議会と並行して覚えるために、語呂合わせとして諮問議会も覚えても良いと思います。
今回の学習ポイントは、議会誕生に合わせて、プランタジネット朝の代表的な国王の行政内容や、フランス王との絡みなどが鍵を握ります。
まず、プランタジネット朝の国王はヘンリー2世→リチャード1世→ジョン王→ヘンリー3世→エドワード1世→エドワード2世→エドワード3世と続きますが、エドワード2世以外は名前、継承順ともに覚えなければなりません。ただし、リチャード1世はプランタジネット朝の国王としてより、十字軍遠征者として覚えた方がイイですね。また同時にフランス・カペー朝(創始者ユーグ=カペー)では尊厳王フィリップ2世、ルイ9世(位1226~70)、端麗王フィリップ4世(位1285~1314)を覚えておきましょう。ルイ9世は第6回・第7回十字軍遠征者で、エジプトとチュニスを攻撃しています(エッチのルイ9世という覚え方を予備校で学びました)。フィリップ4世はアナーニ事件や"教皇のバビロン捕囚"の当事者として重要ですし、また1302年にフランスの身分制議会である三部会を初召集した国王としても出題されます。
あと、カンタベリ大司教問題やマグナ=カルタ(大憲章)などの用語も覚えておきましょう。ジョン王関係の重要キーワードとなります。国王以外の人物では、シモン=ド=モンフォールと教皇インノケンティウス3世が重要です。またアイユーブ朝のサラディンが登場しましたが、これもリチャード1世やルイ9世同様、十字軍のセクションで覚えておきましょう。
ここで、番外編ではありますが、プランタジネット朝までのイングランドの歴史について簡単に学習しましょう。
イングランドにおいて最初に統一した国はイングランド王国(9~11C。統一者エグバート。775~839)で、その後、デーン朝(1016~42)→ノルマン朝(1066~1154)と続きます。ノルマン朝の創設者ウィリアム1世(征服王。位1066~87)はノルマンディー公出身でした。ノルマンディーは、もともと西フランク王国の諸侯としてノルマン族首長ロロ(860頃~933)が仏王から譲り受け、ロロは初代ノルマンディー公となり、911年にはノルマンディー公国として発展しました。この公国は名目上はフランス王に臣属するものの、実際はフランス王政を無視して自立しました。その後イングランドでノルマン王朝を創始したノルマンディー公ウィリアム改めウィリアム1世によって大帝国の基礎をきずき、子ヘンリー1世(ノルマン朝3代目。位1100~35)はノルマンディー公国を併合して王権を伸長、その娘マティルダが、フランス南西部のアンジュー伯爵家領出身のジェフロワと結婚して生まれたのがヘンリー2世で、父ジェフロワより大陸のアンジュー伯領を、母マティルダよりイングランドとノルマンディーを相続して、また結婚してからはアキテーヌ公国領(ガリア南部)も受け継ぎ、ノルマン朝断絶後、ヘンリー2世による広大な帝国プランタジネット朝の誕生となるわけです。ノルマン朝時代では、イングランドにある領土ではイギリス国王として統治しましたが、大陸側の、ノルマンディーを含んだフランスにある領土ではフランス国王の臣下となりました。プランタジネット朝においても、イングランド内の領土ではフランス王と対等の国王として統治し、アンジュー伯領など、フランス内にあるイギリスの領土ではフランス王の臣下であったために、英仏関係は複雑化し、領土関係において抗争が常に起こり、本編で紹介した大陸領土をめぐっての戦争や、百年戦争・植民地戦争など、常にケンカしていたのです。両国が領土関係において対立が解かれるのは、1904年の英仏協商からではないですかね。これはドイツ帝国主義政策に対抗したもので、イギリスが守るエジプト、フランスが守るモロッコ、それぞれの優越権を相互承認しています。
というわけでこの時代のイギリスは本当に複雑・難解です。でも上記番外編の中には重要箇所も多いので、また別の機会にてご紹介します。
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