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ドイツの統一を志すプロイセン首相ビスマルク(任1862~90)の挑発で、1870年9月2日、プロイセン王国は普仏戦争(プロイセン=フランス戦争。1870.7~1871.2)において、フランス皇帝ナポレオン3世(位1852~70)をフランス東部国境のセダンで降伏させ、フランス第二帝政を崩壊させた。1871年1月18日、ビスマルクはパリを開城する直前、ヴェルサイユ宮殿の"鏡の間"で、ドイツ帝国(1871~1918)の成立を宣言し、ドイツ皇帝(カイザー。カエサルの意味)は、プロイセン王ヴィルヘルム1世(位1861~88)が兼ねて初代皇帝となり(位1871~88)、ビスマルク首相は"宰相"となって(任1871~90)、ドイツ帝国におけるビスマルク時代の到来となった。
一方、敗北したフランスは、第二帝政崩壊後、第三共和政(1870.9~1940.6)となった。国防政府(国民防衛政府)の結成でドイツとの戦争を継続しようとしていたのだが、ティエール(1797~1877)を中心とする穏健的なブルジョワ共和派はドイツとの妥協をはかり、1871年1月、普仏戦争における仮講和条約をヴェルサイユで結んだ。2月にはボルドー国民議会でティエールを行政長官に任命、臨時政府を樹立した。休戦に際して、一時パリ市民の大反抗(パリ=コミューン。1871.3.18~5.28)があったものの、いわゆる"血の一週間"でコミューンの弾圧に成功した。普仏戦争の正式な講和条約は1871年5月にフランクフルトで行われ、フランスは50億フランの賠償金をドイツに払い、鉱産資源の豊かなアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲した。9月ティエールは遂に第三共和政における初代大統領に就任(任1871~73)、ブルジョワ共和派代表として共和政を推進するはずであった。しかし王党派の大規模な攻撃で2年後に辞任、その後王党派の支持を得ていた元軍人マクマオン(1803~93)が大統領に選ばれた(任1873~77)ことで、王党派の勢いが強まり、第三共和政憲法の制定もわずか1票差で可決された(1875.1)。さらに1877年、マクマオン大統領自ら王政復活を計画、議会停会を決行するが(マクマオン王政企図事件)、マクマオンは次の総選挙に敗れ辞任した。フランス国民においても"対ドイツ復讐"、"戦争続行"は根強く、"感激なき共和政"の状態は依然として続いた。
ドイツでは、普仏戦争の勝利で獲得したアルザス・ロレーヌ地方の鉱産資源、賠償金50億フランによって、国内市場の統一によって資本主義経済を発展させていた。さらにビスマルク外交によって、フランスの復讐を警戒するため、フランスの孤立化を実行すべく、オーストリア、イタリアと三国同盟(1882~1915)を結び、ロシアとは1887年6月17日、独露再保障条約(二重保障条約)を結んだ。三国同盟と再保障条約の締結で、ビスマルク外交は成功し、これでフランスは完全に孤立化した。
ビスマルク外交による国際情勢の変化によって、フランス国民はナショナリズムを高めていき、ドイツに対する復讐心を以前よりも増して震え上がらせた。以前、普仏戦争に従軍していたブーランジェ(1837~91)は、1886年陸相になり、軍備強化と対独強硬論を訴えた。この訴えが直接国民に響き、人気が上がった。しかしドイツへの妥協で成立したフランス第三共和政府は、彼を危険人物とみなして、翌1887年に更迭する。さらに翌1888年退役処分となったブーランジェは、「議会解散・立憲議会・憲法改正」をスローガンに、軍部保守派や右翼など、腐敗した議会・政府に反発し、対独強硬を唱える支持者を集めて"ブーランジスト"を結成、各地の補欠選挙に当選した。ブーランジェの政府転覆実行が予想される中、1889年1月、最も急進派の多いセーヌ県での補欠選挙にも大勝し、ブーランジェのクーデタ熱は高まったものの、躊躇したため未然に発覚、政府の緊急措置で起訴され、ブーランジストを圧した。その後の総選挙でブーランジストは大敗し、1891年、結局ブーランジェはブリュッセルで、愛人の墓前で自殺することになる(ブーランジェ事件)。
フェリックス=フォール大統領(1841~99。任1895~99)の時、第三共和政に本格的な危機がおとずれた。アルザスのユダヤ人工業家出身で、フランス参謀本部付き砲兵大尉として勤務していたアルフレッド=ドレフュス(1859~1935)が、1894年10月、対ドイツのスパイの嫌疑をかけられて逮捕された。軍法会議でも終始否認したドレフュスだったが、証拠不十分にもかかわらず、終身禁固刑、そして軍籍と官位の剥奪の判決が下り、1895年2月、南米にあるフランス領ギアナの悪魔島に送られた。
ドレフュス事件は、軍部の威信にかけて、ドレフュスを有罪にし向けた事件である。普仏戦争で失ったアルザス出身のユダヤ系フランス人が実はドイツのスパイだったという格好の材料でもって、対独強硬派をあおる形となった。その後、ドレフュスの家族の協力、新任の参謀本部情報局長ピカール中佐の調査によって、真犯人が同僚エステラージ少佐であることが分かった。しかし軍の上層部は軍部の威信のため、裁判は正当だったと主張した。ピカール中佐は、再審を求めて奔走し、やがて更迭されるが、結果世論を巻き込んで、"ドレフュス問題"として国民にも伝わっていった。1897年11月、ドレフュスの家族によってエステラージ少佐は告発されたが、翌1898年1月の軍法会議で、彼は無罪判決となった。
同年同月、ドレフュスの無実を訴える文豪ゾラ(1840~1902)は、後に首相となるジャーナリスト・クレマンソー(1841~1929。任1906~09,17~20)の新聞『オーロラ』紙上に"私は弾劾する"という見出しでフォール大統領宛の公開書簡を一面に発表、クレマンソーや作家アナトール=フランス(1844~1924)、社会主義者ジャン=ジョレス(1859~1914)もドレフュス被告の冤罪を主張したが、ゾラは法廷侮辱罪に問われ、イギリスに亡命した。しかしこの書簡によって知識人の再審要求運動が高揚し、ついにはフォール大統領が支持する軍部やカトリック教会、右翼、反ユダヤ主義らによる反ドレフュス派の再審反対運動と、クレマンソーらを中心とする共和派、社会主義派の政治家、さらには知識人らによるドレフュス支持派の再審要求運動と、国論は分かれ、両者の闘争は政治社会の対立へと発展、第三共和政の最大の危機が訪れた。
1898年10月、遂に再審要求は受理された。失意のうちにフォール大統領は1899年の2月に急死し、次のエミール=ルーベ大統領(任1899~1906)はドレフュスを支持する方向を見せた。翌99年8月、再審による軍法会議がブルターニュのレンヌという遠方の都市で行われたが、軍上層部の威圧で、減刑となっただけで、有罪判決であった。このためドレフュスはルーベ大統領の特赦を受けて釈放され、後味の悪い結果となった。レンヌ判決が不当として破棄され、ドレフュスの無罪と復権が確認されたのは1906年になってからであり、この時、ドレフュスの少佐への任命・昇格も決まった。ドレフュスは、第一次世界大戦終了時には大佐まで駆け登り、1935年、パリで没した。
マクマオン王政企図事件、ブーランジェ事件、ドレフュス事件の3事件は、第三共和政にとって、"崩壊"という危機感を募らせた3つの悪夢だったが、その後は民主的方向に揺れ動いた。共和派と結んで強力になった社会主義勢力は、1901年に結成された急進社会党や、ジャン=ジョレスやブルム(1872~1950)らも参加した統一社会党(フランス社会党。1905年結成)といった政党として発展、対外面では、第三共和政発足当時からの最重要策であるドイツ対抗策を怠らず、露仏同盟(1891)に続く英仏協商(1904)を展開し、第一次世界大戦(1914~18)にもドイツに戦勝した。しかし、こういった努力もむなしく、第二次世界大戦(1939~45)では、これまで以上に、ドイツからの最大の脅威にさらされた。ナチス=ドイツの登場である。1936年に発足したブルム人民戦線内閣(1936~37)による反ファシズム対策失敗から転落の一途をたどり、1940年6月14日、パリを占領された第三共和政は、結局ドイツ軍によって玉砕し、四度目の悪夢は現実となって、70年の激動の歴史に幕を閉じることになる。
Vol.28のサッコ=ヴァンゼッティ事件に続く冤罪事件第2弾です。実は、ドレフュス自身、1920年に、このサッコ=ヴァンゼッティ事件における再審請願書に署名しています。ドレフュスにとって他人事ではなかったのですね。
今回は非常に重い内容でした。海外の帝国主義政策を含めて書いたら、軽く5シリーズ分ぐらいにはなるでしょうね。ただ今回はフランスの政情を背景に3つの事件をご紹介させていただきました。
では学習ポイントです。3つの悪夢の1つ目にあたるマクマオン王政企図事件は、まず出題されません。まず第三共和政に登場する大統領は初代のティエールぐらいだと思っていただいて良いと思います。首相は本編でも登場したクレマンソー、ブルム以外にも、外相も兼ねてロカルノ条約など、国際的にも貢献したブリアン(1862~1932)、ルール出兵を行ったポワンカレ(1860~1934)、ミュンヘン協定に調印したダラディエ(1884~1970)、パリ占領時の内閣ペタン(1856~1951)などがよく出ます。個人的には、普仏戦争でフランスが敗北し、パリがプロイセン軍に包囲された時、気球に乗って脱出し、地方で国民軍を指揮して抵抗した話で知られるガンベッタ(1838~82)を特に気に入っており、1881年から2年近く首相を務めていますが、出題されることはありません。
帝国主義時代なので、国際協調と国際対立は必ず出題されます。とくにビスマルク外交は本当によく出されます。実は再保障条約の結成には複雑な経緯があり、もともとビスマルクが最初に結成したのはロシア、オーストリアとの三帝同盟(1873.10)でした。しかしバルカン半島で、パン=スラヴ主義を主張するロシアとパン=ゲルマン主義を主張するオーストリアとの対立があったので、ロシアは離れてしまい、独墺同盟(どくおう。1879~1918)となったのです。1881年にロシアがバルカンでの利害調整を受け入れたことで一時的に三帝同盟が再結成されたこともありましたが、結局ロシアはオーストリアとの対立を避けられず、再度脱退、三帝同盟が完全に崩れたことでロシアのフランス接近を警戒したドイツが、オーストリアとの同盟を維持しながら、保障関係を守るべく秘密条約をロシアと単独で結びました。この秘密条約が再保障条約だったわけです。ビスマルクは本当に外交策が得意ですね。ちなみに、イタリアが三国同盟に加盟したのは、ローマやオスマン帝国の属領だったチュニジアをフランスが保護国化(1881)したことで、争奪戦の相手だったイタリアがフランスと対立したことによります。この間、イギリスはあまり姿を現しませんが、「光栄ある孤立」を誇っており、自身の植民策に集中していました。スエズ運河株買収(1875)によるアフリカ政策の開始やインド帝国成立(1877)によるインド経営などが代表政策です。
最後に本編の"3つの悪夢"ですが、前にも述べたように、マクマオン王政企図事件はまず試験に出されませんが、あとの2つは超重要です。だいたいブーランジェ事件とドレフュス事件はセットになって登場します。事件の内容を細かく問われることはないのですが、1890年後半から1900年代前半にかけての大事件であること、ドレフュス事件ではゾラが援助したこと、事件によって社会主義政党が誕生したことなどを知っておきましょう。ちなみに(統一)社会党は、左派が1920年に分裂して共産党が誕生しています。社会党、急進社会党、共産党の3政党はセットで覚えておくと便利です。
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