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約250万平方キロメートルにおよぶモンゴル高原(モンゴリア)は、数多くの遊牧民族が興亡した地である。6世紀には突厥(とっけつ)、8世紀にはウイグルなどといったトルコ系遊牧騎馬民族もモンゴリアに定住・支配していた。その後高原西部にはトルコ系のナイマン部(10世紀~)、高原北部のハンガイ山脈付近には12世紀ごろからケレイト部(モンゴル系?トルコ系?。12世紀~)、高原南部にはトルコ系のオングト部(12世紀~)といった遊牧民が点在していった。
7世紀、モンゴル高原北東を流れるオノン川の源泉ブルカン山で、モンゴル系遊牧民族の一部族、モンゴル部は誕生した。"蒼き狼と白き牝鹿"伝説の発祥の地である。この頃のモンゴル部は、オノン川での遊牧生活をいとなみ、目立った活動はなかった。同じくモンゴル系では、高原東部にタタール部(8世紀~)がおり、この名は、のちに中国・明朝(みん。1368~1644)でモンゴル系遊牧諸部族を総称した"韃靼(だったん)"という名に変化していった。
916年、モンゴル系契丹8部族(きったん。キタイ)の1つ、迭剌部(てつらぶ)のリーダー・耶律阿保機(やりつあぼき。872~926)が8部族を統一させて中国・華北北辺を制圧し、遼(りょう。916~1125)を建国、阿保機は初代皇帝・太祖(たいそ。位916~926)となった。太祖は統一に向け、西方の突厥、ウィグル、チベット系タングート(党項。とうこう)の諸部族を討ち、東方ではツングース系の渤海(ぼっかい)を滅ぼすなど、モンゴル系民族としては、彼ら自身の拠点を保ちながら中国本土も支配した初めての王朝であり、のちに征服王朝と呼ばれた。
しかし、1115年にはツングース系女真族(じょしん)の完顔部(ワンヤンぶ)のリーダー阿骨打(アグダ。1068~1123)が遼の圧政に反抗して中国東北地方に金を建国(1115~1234)、阿骨打は初代皇帝・太祖となった(位1115~23)。やがて2代皇帝・太宗(たいそう。位1123~35)のとき、金は強大化し、遼を滅ぼし(1125)、1127年には中国・宋朝(そう。北宋。960~1127)の皇帝を捕囚(靖康の変。せいこうのへん)、これにより北宋は滅び、残党は江南に逃れて南宋(1127~1279)を再建した。一方の契丹の残党は遼・太祖から8代目の子孫である耶律大石(やりつたいせき。1087~1143)に率いられて西トルキスタンに逃れ、西遼(せいりょう。カラ=キタイ。1132~1211)を建国、大石は初代皇帝・徳宗(とくそう。位1132~43)となったが、中国方面においてのモンゴル系民族の活動は一時衰退した。
モンゴル高原では、ウイグルが840年に分散してから、冒頭に挙げたトルコ系やモンゴル系の遊牧民族が割拠するだけで、統一勢力は弱く、せいぜい契丹の遼や女真族の金が、中国(五代十国~南宋)の一時的な弱体化に乗じて華北地方に勢力を上げた程度だった。モンゴル系民族の勢いが再び出始めたのは、12世紀、モンゴル部の有力指導者、鉄木真(テムジン。1155/61/62/67~1227)があらわれてからである。モンゴル高原においての、モンゴル民族による、モンゴル統一の気運が高まっていくのである。
"鉄木真"とはモンゴル語で"最良の鉄でできた人"という意味だが、テムジンの幼少期は不遇で、金にそそのかされてモンゴル征討を任されたタタール部の襲撃で、父イェスゲイ(。生没年不詳。モンゴル部の首長)を亡くし、また妻も他部族に略奪された。そのため弱小化したモンゴル部の部衆はテムジンのもとを離れていき、テムジンは母・弟らとともに苦境を歩むこととなる。しかし1188年頃、イェスゲイの親友でケレイト族の族長ワン=ハン(ワン=カン。?-1203)がテムジンを支援するようになり、離散した部衆を集めて、遂にモンゴル部の統合を果たし、可汗(カカン。ハン。ハーン)の称号を得た。モンゴル=ウルス(ウルスはモンゴル語で"政治集団"、"国家"などの意味)の誕生である。即位後、3人の子、長男ジュチ(1177?/84?~1224?/25?)・次男チャガタイ(?~1242)・第3子オゴタイ(オゴデイ。1186~1241)にはモンゴル高原西部にそれぞれのウルス統治権を、東部にはチンギスの弟たちに3つのウルス統治権を分け与え、チンギス自身のウルス(高原中央部)を合わせて7つの集合体とする大帝国の原型を確立させ、"鉄の天才"は強大化していくことになる。
その後タタール部を制圧してモンゴル部は台頭していったが、ワン=ハンは、ケレイト族によるケレイト王国のモンゴリア支配を第一に考えていたため、テムジン家と縁を組み、モンゴリア制覇を目論んだが、テムジンがこれを拒んだことでワン=ハンとテムジンとの間に亀裂が生じた。1203年、ワン=ハンはテムジンを襲撃、一時は戦局を優勢に導くが、逆にテムジンの奇襲攻撃でワン=ハンは討たれ、ケレイト王国は滅亡することになる(ケレイト滅亡)。またテムジンは翌1204年、ナイマン部の国ナイマン王国の王タヤン=ハン(?~1204)を討って同王国を滅ぼした(ナイマン滅亡)。タヤン=ハンの子クチュルク(?~1218)は父の陣没後、西走して中央アジアで勢力を増大していた西遼へ逃亡、アムダリア川(アラル海)下流域のホラズム(フワーリズム)地方に興っていたトルコ系イスラム国家・ホラズム=シャー朝(ホラズム朝。1077~1231)と結び、西遼を簒奪して西遼王となり、モンゴルと対抗した。
1206年、テムジンはオノン上流で王族、功将など有力者を集めて族長会議を開いた。これが最初のクリルタイ(モンゴル語で"集会"の意味)である。テムジンはモンゴル帝国の長として可汗改め"汗(カン。ハン)"の称号を得、シャマニズム(霊と巫女を通して交感する呪術的宗教)における最高神"光の神"の意とされる"チンギス"を使用、チンギス=ハン(成吉思汗)と称してモンゴル帝国の初代皇帝となった(位1206~27)。ここにおいてユーラシアに君臨する空前の大国家・モンゴル帝国(1206~71)が誕生したのである。ちなみにチンギス=ハンは、中国・元朝(1271~1368)のとき、廟号「太祖」を贈られている。
チンギスは帝国成立に際し、支配したモンゴル系・トルコ系の遊牧民を千戸(せんこ。ミンガン)単位に分けてまとめ上げた。さらに一族・功将をそれぞれの千戸長に任命し、1千戸内では百戸単位、また十戸単位と、十進法編成によって組織され、それぞれ百戸長・十戸長が任命された。これを千戸制(せんこせい)と呼び、そのシステムは1000人単位の行政および軍事集団で動いた。千戸団は全部で95有したが、そのうち24は一族に与えられ、残りはチンギスに直属した。またチンギスの手元には親衛軍"ケシク"が置かれた。ケシクは各戸長の子弟が集められて編成され、3日ごとに4交代の輪番で宮廷警護にあたった。
官職では、ダルガチ(達魯花赤。モンゴル語で"鎮圧する"の意)を設置して占領地の監督者を派遣させ、徴税・戸籍などを管理した。また主要道路に駅(えき。ジャム)を設けてジャムチ(管理人)を置き、宿泊や交通(搬送)手段を提供するというジャムチ制度(站赤。駅伝制)を導入した。
また、個別の命令や軍令であったジャサ(ヤサ。モンゴル語で"法令"の意)が、チンギスによってまとめられて「大ジャサ」という成文法を制定した。さらにウイグルで使われたウィグル文字を発展させてモンゴル文字を作成させた。またチンギスは、遼の遺臣で諸学問に通じた耶律楚材(やりつそざい。1190~1244)を重用し、中国に精通する楚材の知識をもとにモンゴルの中国支配策も視野に入れた。
チンギスの外征では、指揮下の部将ジェベ(?~1225)やスベエディ(スブタイ。1176~1248)といった名将が派遣されて、外敵征討に奔走した。まず中央アジアに散在していたウィグルを帰順させ、1209年には黄河上流に栄え、金に属していたチベット系タングート族の西夏(せいか。1038~1227)を屈服させた。その後、次男チャガタイや4男トゥルイ(1193~1232)と華北に入って金を幾度にわたって攻撃し(1211頃~15)、1215年、首都燕京(えんけい。現・北京)を陥落させ、中国北部を占領した。金は北宋(960~1127)の首都であった開封(かいほう。カイフォン)に遷都した。
チンギスの金攻略は不完全に終わり、いったん断念して矛先を西方に向けた。1218年、まずはジェベを派遣して西遼を攻撃、王クチュルクを討ち、これを滅ぼした(西遼滅亡)。西遼滅亡後、西方の国境に接するのはイスラム国家・ホラズム朝だった。チンギスは翌1219年からスベエディ、ジェベらとともに西方遠征(チンギスの西征)を開始した。また派遣されたモンゴル通商使節団がシルダリア川中流の都市オトラルでホラズム総督により略奪・殺害されたのを口実に、同地制圧に取りかかった。モンゴル軍はボハラ(ブハラ)やサマルカンドなど主要オアシス都市を攻略しながら西方へと突進し、1220年、遂にホラズム朝を征服し、翌1221年同王朝は一時的ではあるが滅亡した(ホラズム朝滅亡)。またデリーを首都にインド最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206~90)が興っていた西北インドにも侵入するなど、アジア大陸を縦横に席巻、こうして中央アジア・南ロシアまでを版図に含む大帝国となり、西の境はヨーロッパまで及び、その広さはアレキサンダー大王(位B.C.336~B.C.323)の帝国を凌ぐ。南ロシアでは、チンギスの長男ジュチが同地に留まって監督したが、父に先立って病没し、ジュチの次男バトゥ(1207~55)がその所領を継承していく。チンギスは、4人の息子の中で最も困難な戦場につかせたジュチの死に深く嘆いた。そして帰国後、チンギスは遠征の応援に応じなかった西夏に対して再攻撃をかけ、1227年、これを滅ぼした(西夏滅亡)。しかし、西夏戦でチンギスは落馬により負傷した。
チンギスは、世界大帝国完成にむけての最後の難関である、金の攻略に集中した。父イェスゲイの殺害はタタールによるものだが、裏では金がタタールを操って父を殺害したとされ、まさにチンギスにとって金王朝は怨念の宿敵であった。1227年秋、復讐に向けて金へ再出征したが、出征先の甘粛省(かんしゅく。カンスー)と陝西省(せんせい。シャンシー)の省境にある六盤山(ろくばんざん)で、西夏戦での負傷がもとで病没(チンギス=ハン死去)、復讐も、世界大帝国の完成も、遂に果たせずじまいとなった。チンギス=ハンの伝記が詳しく紹介されている『元朝秘史(げんちょうひし)』では、ケルレン河畔に葬られたというが、正確な場所はいまだかつて不明である。
チンギス没後の2年間は空位時代が続いたが、1229年、トゥルイの召集によって、ハン継承者選定のクリルタイが開催され、オゴタイが次期皇帝として選出された。チャガタイやトゥルイの名も挙がったが、チンギスの子の中では、オゴタイが最も温厚な性格で、長男ジュチと次男チャガタイが不和になるとすかさず調停するという役割を果たし、チンギスもオゴタイを後継者として認めていたとされている。トゥルイは末子ということでチンギスから最も寵愛を受けたが、チンギスの遺命と、トゥルイ自身による兄弟関係の安定を重視して、オゴタイを推挙した。末子相続の慣習でモンゴル本国の領有権が与えられるのだが、トゥルイは皇帝にも立候補せず、監国(執政)を担当して、オゴタイ擁立後、本国領有権もオゴタイに譲ることによって兄弟間の亀裂(つまり帝国分裂)を未然に防いだわけである。よって、モンゴル帝国第2代皇帝としてオゴタイ=ハンが即位し(廟号:太宗。位1229~41)、チンギスの遺志を継承することを宣言した。オゴタイは耶律楚材を父に続いて重用し、都をオルコン川右岸のカラコルム(和林)に定め、ジャムチ制度を拡大して公道を多数建設した。また新領土に戸口調査を実施して新しい税制を定め、帝国進展に努めた。また1231年には再び勢いづいたホラズムを完全に支配下に入れた。
そして、父の果たせなかった偉業、つまり金王朝の征討の準備を練った。中国・南宋に使を遣わして、宋に河南地方譲渡を条件に、南北から挟撃する共同征討策を決めた。その間にトゥルイが病死する不幸もあったが、1234年、スベエディ率いるモンゴル軍と南宋軍は、金の首都開封を包囲し、開城に成功、金皇帝・哀宗(あいそう。位1223~34)を南宋国境の蔡州(さいしゅう)にて追撃し(金滅亡)、悲願の金征討を遂に果たせたのである。
その後オゴタイ=ハンは、ヨーロッパ遠征軍の総司令官バトゥにヨーロッパ遠征(大西征。だいせいせい。1236~42)を命じ、キエフやノヴゴロドといったロシアの有力公国や都市を次々と攻略した。1241年には、副司令官スベエディ率いる支軍もドイツ・ポーランドの諸侯連合軍をリーグニッツ東南のワールシュタットで破った(ワールシュタットの戦い)。オゴタイ=ハンはこの年に没し、この後は内紛が続くものの、スンナ派のイスラム大帝国・アッバース朝(750~1258)を滅亡させ、朝鮮の高麗(918~1392)を属させるなど(1259)、チンギス=ハンの残した遺産は瞬く間に子孫によって拡大し、全世界を驚倒させていったのだった。
私のお気に入りの分野です。実はオゴタイ=ハンが没してからクライマックスが二転三転するドラマが数多くあり、やがてモンゴル帝国は分裂し、4ハン国(位置は西からИ字形にキプチャク=ハン国・イル=ハン国・オゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国)と、チンギスの孫にあたるフビライ=ハン(世祖。せいそ。位1260~94)の元朝(げん。1271~1368)が登場します。本当はこの辺りも抜群に面白く、ご紹介したかったのですが、スペースの関係上、また別の機会にさせていただくということで、今回はチンギス=ハンを主人公に、オゴタイ=ハンが没するまでのモンゴル帝国の治世をご紹介させていただきました。
チンギス=ハンは、日本では、源義経(1159~89)の変身説などといった、一英雄で片づけられることが多いですが、実際は我々の計り知れないぐらい有能な人物であり、あれだけ広大な帝国を築き上げるのも並大抵の男ではなく、文字通りの"鉄の男"だったと思います。これまでにも、同じ大帝国を築いたアレキサンダー大王の帝国や古代ペルシア帝国、ローマ帝国などがありましたが、モンゴル帝国との相違なる点は、起伏の激しいチベットや砂漠の多い中央アジアでこうした大帝国を築いたところにあるといえます。遊牧民は、生きるために転住を繰り返し、馬を巧みに使って、遠距離移動も容易にこなし、同行する"歩く食糧"である羊を食べ、水の湧き出るオアシスがあれば、そこに留まって、財産のために他と交易を行う。平坦な場所で交通や商業・経済が行き届き、根を下ろした家で定住していた当時のヨーロッパ人には考えられなかった概念です。強固な軍事力を持つヨーロッパと隣接しながらも、これまでまとまりに欠けていた部族を呼び戻して、民族国家の完璧とも言える統合性でもって、敵対勢力を押し返すところもまた、有能に意識的改革を施す類い希な人物だったに違いありません。
モンゴル帝国史を学習する上で、重要な点をまとめておきます。
1.11~13世紀のアジアの国々の変遷・・・中国王朝では唐→五代十国→北宋→南宋→元のあたりが重要になりますが、これ以上に重要なのが中国に攻め入った異民族国家(遼・西夏・金)です。国名だけでなく、民族名とその系統、建国・滅亡年、建国者、高難易度の私立大学ではこれらの首都も出ます。一覧を出しておきます。
(1)遼(916~1225):モンゴル系の契丹人。建国者・耶律阿保機。首都・上京臨瀇府(じょうけいりんこうふ)
(2)西夏(1038~1227):チベット系タングート(党項)族。建国者・李元昊(りげんこう)。首都・興慶府(こうけいふ)
(3)金(1115~1234):ツングース系女真族。建国者・完顔阿骨打。首都は会寧府(かいねいふ)→燕京(現・北京)→開封
(4)西遼(カラ=キタイ。1132~1211):モンゴル系の契丹人。建国者・耶律大石。首都ベラサグン(フス=オルダ)
2.チンギス=ハン以降の家系を読みとること。できれば、教科書、資料集などに必ず掲載されているチンギス以降の系図を覚えてもらいたいです。チャガタイ、バトゥ、フラグ(1218?~65)、ハイドゥ(?~1301)は皇帝にはなっていないですが出題頻度は高いです。ただ、トゥルイやジュチ、また親族ではありませんですが、部将のジェベやスベエディは今のところ出題回数は低いものと見ております。
3.モンゴル帝国が撃ち破ったり征服した部族や諸国を知ること。よく出題されるのが、1204年のナイマン部、1220/21年のホラズム、1227年の西夏、1234年の金、1258年のアッバース朝、1259年の高麗(服属)あたりは重要です。
4.本編以外で大事な部分は、帝国分裂後の俗に言う「4ハン国」の名称・位置(И字形の順に頭文字をくっつけて"キルゴッチャ"の呪文風の暗記で覚えました)を知ること。これらも高難易度での出題では、それぞれの首都(順にサライ・タブリーズ・エミール・アルマリク)も出ますので気をつけましょう。また4ハン国はロシア史やイスラム史などでも登場しますので注意が必要です。
なお、本編では駅伝制(ジャムチ)も登場しましたが、どちらかといえば元朝で発展する制度ですので、元朝の分野で知ておいた方が良いでしょう。