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1920年代。第一次世界大戦(1914-18)の戦勝国アメリカは、空前の経済発展をもたらした。アメリカは連合国軍用兵器の生産を担当し、多くの兵器工場を設立して、連合国に輸出して巨利を収めた。これにより戦前の債務国から一転して、戦後は債権国として躍り出たわけである。国際市場もロンバート街(ロンドン)からウォール街(ニューヨーク)へと移り、戦後の国際経済はアメリカが主導権を握った。
政局では、ハーディング(任1921~1923)・クーリッジ(任1923~29)・フーヴァー(任1929~33)と、共和党大統領が政権を維持し、黄金の1920年代を謳歌した。とりわけフーヴァー大統領は1929年頭、国内経済を賛美して"永遠の繁栄"と唱った。海外投資も270億ドルにふくらみ、自動車生産では480万台になった。自動車以外の工業生産においても、石油・鉄鋼など、全世界の42%を占め、国内文化では電話の普及、ラジオ、映画、ジャズ音楽、摩天楼建設などが流行していった。
第一次世界大戦中は、アメリカ国内での兵器工場などは、男性たちが戦場に赴くことで、国内の労働者が不足するため、彼らの妻や娘など、女性たちが従業者として代わりに勤めることになった。フーヴァー大統領は"永遠の繁栄"と叫んではいたが、債務国から債権国に成り立ての時期であり、実際、1920年代のの国民所得は厳しく、最低限生活できる水準のぎりぎりの額まで落ち込んでいたという。そのため消費力も著しく劣っており、共働きを余儀なくさせられる状況だった。特に農業においては深刻で、消費力、つまり国民の購買力が弱いと、まず最初に打撃を被るのが農業であり、農産物価格は繁栄期とは裏腹に下落傾向にあった。その後景気は悪化を辿り、農業恐慌と呼ばれる不況に陥った。
景気というのは、規則的な変動を繰り返す。これを景気循環というが、不況→回復→好況→後退の4局面に分けられ、後退から不況に達する。経済の拡大によって生産や投資が増え、多くの需要や雇用をもたらして好況期が訪れるが、雇用者の増加によって超過供給となり、生産が減退していく。これが後退期で、投資が減り、雇用が削減される。この後退期がより急激に進行すると恐慌となるのである。
第一次世界大戦の戦勝国アメリカは、戦後、債権国として経済の中心となったが、大戦が終了すると、多くの兵士が復員し、国内において職場復帰すると、アメリカ全体の雇用量は、急激に増加した。このため、消費者の購買力の弱い状態の中で、過剰投資と過剰生産に拍車がかかり、倉庫に商品在庫が余り始めた。商品が売れず、利潤の得られない企業は、銀行への借入金の返済が滞っていく。当然、多くの企業は信用度失墜を余儀なくされ、株券の売却が進行して株価が値下がり始めた。
また、貿易収支面においても、アメリカの輸出品増大化は急激に進行していたため、各列強は高関税政策を打ち出してきた。そのため、アメリカが行う貿易の規模は縮小化されていった。
先んじて起こった農業恐慌の下で、内需の縮小、貿易縮小、過剰投資、過剰供給、株価下落....市場メカニズムが見事なほどアンバランス状態であった。"永遠の繁栄"の挫折に気づいた時は、すでに遅く、1929年10月24日木曜日、ニューヨーク・ウォール街での株式市場で、株価が前月の約半分の値にまで大暴落したのである(株価大暴落。結果80%の下落率)。物価下落、企業倒産が進行して、アメリカ国内で失職者が1300万人(4人に1人)にまで膨らんだ。たとえ職を失わなかった労働者も、収入が著しく減少した。さらに企業倒産続出によって、貸した金が返済されなくなった約4500にも及ぶ銀行は次々と破産、まさしく大恐慌であった。
1924年初頭にフーヴァー大統領の叫んだ"永遠の繁栄"は1年を待たずして脆くも崩れ去った。しかもアメリカ経済・金融はその他資本主義諸国の中心的存在となっていたため、ヨーロッパ・アジアに恐慌が波及した。特に第一次世界大戦の敗戦国ドイツ、オーストリアは、敗戦後の経済再興をはかっていた矢先の大打撃であった。こうしてアメリカの恐慌は世界(経済)恐慌(世界大恐慌)となり、アメリカと、影響を受けた諸国は早急の対策を余儀なくされた。
まずイギリスでは、恐慌の波及で貿易縮小・工場閉鎖から、270万人にも及ぶ失業者を出した。頃は労働党党首マクドナルド(1886-1937)による第2次マクドナルド内閣(1929-31)であったが、失業者激増によって失業手当の給付が激増し、財政危機に陥っていた。マクドナルド首相は、失業保険の大削減案を持ち出したが、与党である労働党が反対し、結果総辞職した(1931)。直後、国王ジョージ5世(位1910-36)の要請で、マクドナルドを含む労働党4人・保守党4人・自由党2人よりなるマクドナルド挙国一致内閣(1931-35)を同1931年に成立させた。労働党からは"裏切り者"呼ばわりされたマクドナルドら4人の党員は、その後労働党から除名されたが、2ヶ月後の10月に行われた総選挙では、国民の圧倒的支持を得て、保守・自由及びマクドナルド派から9割(615名中554名)の議席を獲得し、逆に労働党は大敗北して50数名の少数党に成りかわった。
挙国一致内閣で行った最初の恐慌対策は、ポンド貨幣を金と兌換することを停止させて通貨量を金保有量と関係なく発行できるようにする金本位制度停止政策であった(1931)。2年前のオーストラリアですでに停止が行われたが、国際収支赤字と債務返済が深刻化したイギリスでもこの政策を適用せざるを得なくなった。金本位制は、1934年にアメリカ、1936年フランスも停止にふみきっている。
政府はその後も対策を次々と打ち出した。1926年に宣言されたウェストミンスター憲章(自治領であるカナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ連邦は本国イギリスと同等の地位にあることを提唱)を同1931年に成文化し、同年に非常関税法(特殊輸入品法)、翌32年6月には保護関税法を成立させて保護貿易政策への転換を図った。そして自治領国と本国の経済力強化を分かち合うために、同1932年、カナダの首都オタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)を開き、決定されたオタワ協定によって、本国と自治領間の貿易は特恵関税制度を設け、それ以外の諸国との貿易は高関税体制をとり、イギリス市場から他国を締め出す排他的封鎖経済をしいた。他国製品はイギリス連邦内に進出することが難しくなり、経済的にブロックされた。これがブロック経済で、イギリスではスターリング=ブロックと呼ばれた。
イギリスは植民地と資源、さらに自己市場によって、"持てる国"として自国優位の経済体制をつくりあげ、それにより他の"持てる国"フランス・アメリカもそれぞれ"フラン=ブロック"・"ドル=ブロック"を掲げて保護関税貿易が促進され、自由貿易体制による世界貿易は大幅に減少した。一方で植民地・資源を持たない、いわゆる"持たざる国"であるドイツ・イタリア・日本は、列強の経済ブロック化によって、アメリカ・イギリス・フランスの市場から締め出されたことにより、方向を軍事に向けて近隣諸国への侵略・再分割を促進する結果となった。全体主義からなるファシズムやナチズムを生み出す形となるわけである。彼らはこれらを正当化して自国の経済を強化していく。
恐慌の発信地アメリカは、1931年、フーヴァー大統領による"フーヴァー=モラトリアム"を実施した。敗戦国ドイツの賠償・戦債を和らげるため、1年間支払いを猶予した政策である。ドイツ救済によって資本主義による自然的な景気回復を期待した政策であったが、結果的には失敗、翌32年の大統領選挙で敗れ、1933年3月、民主党のフランクリン=ルーズヴェルト(ローズヴェルト。1882-1945)が第32代大統領に就任した(任1933-45)。ルーズヴェルトは、大統領選挙時の演説で、トランプを配り直す意味として用いる"ニュー=ディール"という語を発して、新規まき直しを約束した。ニュー=ディール政策の開始である。
ルーズヴェルトは、"3つのR"をスローガンにニュー=ディール実施にふみきった。3Rとは、救済(Relief)・復興(Recovery)・改革(Reform)の3つで、資本主義経済の国家介入を積極的に行うことを決めたが、従来は資本主義の仕組みから自然回復を主張してきた政策とは全く対照的だった。まず全国産業復興法(NIRA。National Industrial Recovery Act)を1933年に制定したが、これは、企業・労働者対象の法律で、設立された全国復興局(NRA)を中心に、各企業の生産規制と価格調整を行って物価の安定をはかり、労働者には団結権と団体交渉権を認めた。
続いて制定されたのが農業調整法(AAA。Agricultural Adjustment Act)である。これは、農業従事者に対する法律で、過剰になった農業生産に規制をかけ、下落した農産物価格の回復をめざしたものである。農民へ補助金を給付し、その見返りとして農産物(小麦・綿花など)の作付け面積を削減して生産統制をはかった。
さらに民間の電力独占を統制するため、政府支出の1つであるテネシー河流域開発公社(TVA。Tennessee Valley Authority。テネシー渓谷開発公社)を設立した。南部テネシー川流域のダム建設・水力発電などの公共事業によって、安価で電力供給を実現が可能となり、電力消費者も増加した。これは普通、不景気に行う財政政策として進められるもので、公共事業支出を増やすことによって失業者を減少させる効果があった。
貿易面では、前述の金本位制停止(1934)により、ドル増発によるインフレ政策で輸出を促進させた。
ルーズヴェルト大統領のおこしたニュー=ディール政策は、"修正資本主義による資本家保護"、"社会主義経済の二番煎じ"的見解で攻撃されるなどして保守派には受け入れられず、1935年NIRAが、翌36年にはAAAが最高裁から違憲判決が出るなど、順調ではなかった。このため、ルーズヴェルトはNIRAやAAAに含まれる諸政策を細分化し、再び立法化して政策を進めることにした。こうして成立した社会保険法(1935)やワグナー法(1935。全国労働関係法)などによって、労働者の団結権・団体交渉権などといった労働条件を明確に保障し、やがて誕生する産業別組織会議(1938。CIO。Congress of Industrial Organizations)といった労働組合の発展を促していったのである。
ルーズヴェルト大統領の施した様々な政策により、アメリカは恐慌から脱していくことになる。しかし、同時に、アメリカのニュー=ディールやイギリス・フランスのブロック経済からくる封鎖された経済圏によって、自国の経済打撃を軍事・侵略から解決に導き出す日本・ドイツ・イタリアは次第に全体主義に傾いていき、アメリカはやがて来る2度目の世界大戦とも向き合わねばならなくなっていくのであった。
今回は世界恐慌をご紹介しました。1929年というのは、資本主義諸国においては大きな経済転換期であったと思います。恐慌を経験した経済学者は、修正資本主義の立場から近代経済学を確立していきました。代表的なのがイギリス出身の経済学者ケインズ(1883-1946)です。1936年に発表した主著「雇用、利子および貨幣の一般理論」で、資本主義の修正を完璧なまでに論じています。その内容を申しますと、労働量や生産量は、国家の有効需要(金銭的な支出を伴って欲望を満たす需要)の水準によって完全雇用が成し遂げられるのであって、これまでアダム=スミス(1723-90)らが考えてきた自由放任経済とは逆の主張です。さらに国家が経済に介入して、今回のTVAのように公共投資を行って有効需要を増やしていくことが、完全雇用による失業者減少につながるという、恐慌対策には持ってこいの指導理論でした。これによって各資本主義国はその後も拡大経済をとっていくのですね。
さて、今回のポイントですが、世界恐慌の起こった1929年という年代は絶対に覚えておきましょう。私は"苦肉(=929)の恐慌"という覚え方で覚えていました。暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー)となった10月24日もできたら覚えておいた方が良いです。
それと何と言っても大事なのはアメリカのルーズヴェルト大統領の行ったニュー=ディールと、イギリスのブロック経済でしょう。まずはアメリカですが、前任フーヴァー大統領のフーヴァー=モラトリアムの失敗(フーヴァーの政策はこれだけ覚えてください)によって、積極的な国家の経済介入策として、ニュー=ディールが施されました。覚えなければならない諸政策は、NIRA・AAA・TVA・ワグナー法・金本位制停止の5つです。もちろん略語は正式名称も知っておきましょう。あと1938年のCIO設立も重要です。
またルーズヴェルト大統領はニュー=ディールと並行して外交策も改革をおこしています。中南米諸国に対しては、従来の孤立主義政策を改めて、南北アメリカの友好結束に努めています。これを善隣外交といいます。また1933年には恐慌の影響が無かった社会主義国ソ連を承認して、1934年にはフィリピンの独立を約束して、キューバも同年に完全独立を承認しています。以上の3つの内容も知っておきましょう。
イギリスのブロック経済で知るところは、マクドナルド内閣でしょう。まず彼は労働党であることは当然の事ながら知っておきましょう。マクドナルドの組閣した政府は第二次と次の挙国一致内閣が重要です。第二次内閣で大事なのは、恐慌対策として失業保険削減案を出して総辞職したこと、反対したのがマクドナルドが所属する労働党で、まるで最近のどこかの国で起こった法案否決→解散→総選挙みたいな政情ですね。挙国一致内閣は、その語が示すように"国を挙げての内閣"ですので、全政党が加わった内閣です。あと、オタワ会議、金本位制度停止、ウェストミンスター憲章なども重要ワードです。
あと、これは余談ですが、「暗黒の木曜日」ならぬ「暗黒の月曜日」というのがあったのをご存知ですか?1987年10月19日(月)にニューヨーク株式市場で株価の大暴落がありまして、"ブラック・マンデー"とも呼ばれています。恐慌の起こった「暗黒の木曜日」以上の下げ幅でありましたが、日本はすぐ立ち直ってバブル時代を迎えています。