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1877年、イギリス・ヴィクトリア女王(位1837-1901)がイギリス領インドにおいてインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国としてイギリスの植民地としての完全支配がはかられた。それ以降、インドはイギリス資本で開発が促進され、労働者の激増に加えて、英語による近代教育を施した知識人の増加など、近代化が進んで親英インド人も増えたが、こうした発展から得た収益は本国イギリスにのものであり、インド人の生活は停滞していた。
やがて、綿工業などにみられるインド本来の産業が活性化した。これは、民族資本の成長によるものである。民族資本とは、土着民族が形成した資本で、外国資本と対抗してつくられた資本である。労働者は待遇改善を主張し、農民は茶などのプランテーションの発達による酷使で不満を訴え、また地主の土地集中によって貧窮化した。知識人にいたっては、官吏・ジャーナリスト・教育者などとして活躍していたが、真理を追究することによって、民族意識(ナショナリズム)にめざめ、植民地支配下におかれていた立場を見直し、イギリスの統治に対する批判と、民族主義にもとづく解放を目的とした啓蒙運動がおこされるようになった。
本国イギリスはインドのこうした動きを見て、1885年、ボンベイでインド人による国民会議(National Congress)を開催させて、インド人懐柔策として彼らの不満を反らせるように仕向け、対英協調を求めた。インド総督のもと、親英的な知識人や地主などが集まり、元裁判所判事で教師のバネルジー(バナジー。1848-1925)、元教師で藩王国の首相も務めた下院議員ナオロジー(1825-1917)、宗教団体ブラフモ=サマージの活動家パール(1858-1932)らが出席し、当初はイギリスとの協調に重点を置いて、穏健に進んだ。
しかし、ナショナリズムの高揚と拍車のかかった植民地支配が進行すると、反英精神からくる民族独立を主張し始め、政党化して国民会議派が誕生することとなった。特にナオロジーは、インドの貧窮化は、インドの"富"がイギリスへ"流出"しているためだと説明し、イギリスからの解放を求めた。また元新聞発行者ティラク(1856-1920)は、派内の急進的存在となり、急進化したパールや、"ヴェーダに帰れ"というスローガンをもとに設立されたヒンドゥー教徒の改革運動組織アーリヤ=サマージ(設立者ダヤーナンド=サラスヴァティ。1824-83)の指導者だったラーラー=ラージパット=ラーイ(1865-1928)らも立ち上がって、共に反帝・反英を強力に主張していった。特にラーイの協力は、国民会議派の活動を、ヒンドゥー教徒の支持によって一層強化させた。
これによりインド総督カーゾン(任1859-1925)は、1905年、反英運動の激しいベンガル行政区において、イスラム・ヒンドゥー両教徒の居住地域を、東西、宗教的に強制分割し、宗教的対立から反英運動を反らせ、さらに地租増収を定めた(ベンガル分割令。カーゾン法)。しかしこうした分割統治は効力があるわけがなく、分割反対運動(1905-08)がティラク、パール、ラーイら急進派らによって激化し、かえって反英闘争は促進され、独立運動の気運を高める結果となった。また折しも小国日本が大国ロシア相手に日露戦争(1904-05)で勝利した影響が、大国イギリスに立ち向かうインド国民会議派へ好都合に動いていった。
国民会議派は議長バネルジーをはじめ穏健派が中心であり、ベナーレス(ヴァーラーナシー)での大会(1905)までは常に穏健派による推進が続いたが、翌1906年、国民会議派はティラクら急進派が中心となり、同年に開催されたカルカッタ大会でイギリスに対する四大決議(四大綱領)を通過させた。その4つとは、①英貨排斥(ボイコット)②スワデーシー(インド国産品愛用)③スワラージ(インドの自治、そして独立)④民族教育(植民地奴隷の意識付けの廃止)であり、実践的な内容が打ち立てられた。これにより穏健派と急進派との間に対立が生じ始めた。翌1907年末のスーラト大会では、穏健派が巻き返しをはかろうとして急進派との対立が表面化し、会場でサンダルが投げつけられるといった不名誉な事件も起こるなどして両派は完全に分裂、またイギリスも急進派には弾圧を、穏健派には懐柔をはかり、ナショナリズムの鎮静化を期待した。ティラクは逮捕・投獄されたが(1908-14)、ラーイは本格的な海外活動(1913-1920。1915年には訪日も)を始めて独立運動に支持を取り付けた。一方穏健派のバネルジーは1918年、穏健派メンバーを率いて国民会議派を脱退、1921年政界を引退した。
国民会議派が派閥党争を展開していた頃、イギリスは分割統治の推進を促していた。1906年当時、国民会議派はヒンドゥー教徒からの支持力が強かったため、イギリスは少数派のイスラム教徒に近づき、イギリスの支援で、全インド=ムスリム連盟を結成、イスラム教徒を親英、反国民会議派の立場をとらせ、国民会議派との対立を増長させようとしたのである。1909年にはインド担当国務大臣モーリーとインド総督ミント(任1905-10)が、モーリー=ミント法と呼ばれるインド統治法を改定して、イスラム教徒の代表選出する選挙区を別個に設け、ヒンドゥー教徒より有利に導かせていった。しかし、こうして両教徒との対立を煽ろうとしたベンガル分割令は、イギリス国王ジョージ5世(位1910-36)がイギリス国王として初めて訪印を行った結果、1911年廃止された。
1914年、第一次世界大戦(1914-18)が始まり、イギリスは大量の兵士と物資をインドから供給するため、インドはイギリス側に立って参戦させられ、メソポタミア戦線で40万人以上の戦没者を出した。さらに1915年にはインド防衛法を制定して、インド総督にインドの反英運動を取り締まる権限をさらに強化させた。これにより、インドはこれらの代償として自治要求が高まった。また全インド=ムスリム連盟においても、連合軍イギリスが同盟国側にいるイスラム帝国・オスマン=トルコ(オスマン帝国。1299-1922)と戦うことに不満を抱き、1916年、インド北部の都市ラクナウで、全インド=ムスリム連盟は国民会議派との協調を約した(ラクナウ協定)。カリフ擁護を目的とするインドのイスラム教徒の反英・反帝国主義運動(キラーファット。ヒラーファト)はこれを機に動き出した。
このため1917年、イギリスはインド担当国務大臣モンタギューの宣言によって、大戦後、インドに自治を与える約束(漸次自治権)を取り付けた。これにより、100万人以上のインド人がイギリスを信頼して軍隊に奉仕したとされている。しかし、これはその場凌ぎの公約であり、大戦終了後、インド人はこれまでにない大きな代償を受けることとなる。これが1919年にインド政庁が発布したローラット法だった。
ローラット法はインド政庁のローラット委員長の率いる委員会が、大戦中に制定されたインド防衛法をさらに強化して、弾圧を継続させるために制定された。違反者は、令状なしで逮捕され、裁判を通さずに投獄されるなど、インド人の人権を度外視した、大胆で高圧的な政策を押しつけたのである。これによりローラット法を撤廃する運動が各地で勃発し始めた。
この時モンタギューはあるインド人の行動を警戒していた。この人物はもともと南アフリカで弁護士をしており、1915年に帰国後、国民会議派に参加し、漸次自治権の約束によりイギリスを支持した男だった。ガンディー(マハトマ。ガンジー。1869-1948)である
ガンディーはイギリスによる"約束の代償"、つまりローラット法の制定で反英派に転向し、法撤廃運動を指導した。さらに1919年4月、反英運動の手段としていっさいの仕事を停止する「ハルタール(罷業)の日」を定め、反英を民衆に訴えた。
ハルタールが全インドに決行されると、インド北部、パンジャーブ州のアムリットサル市のジャリヤーンワーラー・バーグ広場で同年同月13日、一般市民が政治集会を開いた。この集会は、戦後自治の公約違反、またローラット体制に対する抗議にほかならなかったが、平穏で非武装状態のもとで開かれていた。これを聞きつけたイギリス軍隊が、戒厳司令官ダイヤー将軍によってアムリットサルに進軍し、到着後、ダイヤー将軍は無警告に発砲を命令、集会に参加している無防備の民衆に銃弾が浴びせられた。公式発表では379名の死者が出たとされ、1000人以上の負傷者も出て集会は流血の惨状と化した(アムリットサル虐殺事件)。見せしめのための虐殺行為であり、悲劇はインド全土に衝撃を与えた。ダイヤー将軍はイギリス国民に"英雄"として遇された。インド人の反英感情は頂点に達し、前のカルカッタ大会4大綱領で出されたスワデーシ・英貨ボイコットなどが激しく行われた。ガンディーもまたイギリス製の衣服を焼き払い、国産の綿製品の着用を広めた。
モンタギューはインド総督チェムスファドとの協力によって、発生したローラット法撤廃運動への対策を練り(モンタギュー=チェムスファド改革)、インド統治法として制定した。この改革は反英運動者に対する宥和策として掲げられたが、まず立法府には上下二院制が導入された。これにより選挙法の改正も行われ、選出議員を増やすことになったが、以前のモーリー=ミント法で決められたイスラム教徒を選出する選挙区は依然として別個として分割して選出された。行政権についても改革が施され、インド総督による政府(行政参事会)は半数がインド人から選ばれるようになった。しかし、議院内閣制の性質を持たず、行政参事会は立法府に対して責任を負わないことになっており、立法府の権限は縮小化した。さらにインドの中央の統治管轄と地方州の統治管轄を分割させ、地方自治を認めたものの、ごく一部に過ぎず、また統治法発布から実施に至るまで2年かかったことで(1921年実施)、反英運動は依然として続いた。
ガンディーは南アフリカ滞在中(1893-1914)、南アフリカ在住インド人の差別反対運動を指導してきた。この時、悪との対決姿勢として、"暴力"という非真理に対して、平和を願う真理の力、つまり"非暴力"的な手段で抵抗することを目指した。これを非暴力主義といい、ガンディーは真理の"堅持"・"把持"・"把握"を意味する「サティヤーグラハ」を非暴力による抵抗手段として用い、真理を把握して具現化していくことを目指した。具現化するための手段としては、インド古来の"不殺生"の思想として定義されている「アヒンサー」、また感情を統制(禁欲)して真理のみをただひたすら探究して自己浄化を目指す「ブラフマチャリヤー」が取り上げられた。これをイギリスへの抵抗運動の精神として維持させ、1920年、ガンディーの第一次非暴力・不服従運動(1920-22)が展開された。しかしガンディーの指導に対してパールやラーイら、反対派もおり、運動はその後ガンディーの意に反して暴徒化したことで、ガンディーの理想からかけ離れたため、ガンディーは1922年に運動停止宣言を行った。しかし結果として、ローラット法は1922年に撤廃された。1920年に没したティラクに代わる新しい民族運動指導者として、ガンディーはその名が知られるようになるが、運動停止宣言を行った際、暴徒化した民衆の罪を受け、2年間投獄された。その後運動は停滞期を迎え、国民会議派は度重なる弾圧によって動揺が続いた。運動停止宣言が出されて以降、目立った動きは1925年、北インドのカーンプルで反帝・反ファシズム路線のインド共産党の結成(実質1920年)が公認されたぐらいであった。
しかし、反英精神は失わず、国民会議派を中心とする抵抗活動は地道に続いた。このため、イギリス政府は、1919年に制定したインド統治法の改正を約し、統治法下におけるインドの現状を調査するための委員をインドに派遣し(1927)、法定委員会を開くことを決めた。委員長の名をとって、サイモン委員会と呼ばれたこの法定委員会は、参加者が全員イギリス人であり、インド人はひとりも加えられていなかった。これがきっかけとなって、反英運動は再燃、国民会議派は委員会へのボイコットを決定した。この時ラーイは委員会ボイコット・デモを起こして警官に警棒で何度も殴打され、死亡している(1928)。そして1929年、国民会議派左派のジャワハルラール=ネルー(ネール。1889-1964。1916年国民会議派に参加)議長によるラホール大会(パンジャーブ地方)が開かれ、初めて"プールナ=スワラージ(完全な自治)"を決議した。完全な自治、つまり完全独立の提唱である。
またガンディーは、製塩禁止法により生活必需品の塩を専売にして重税をかけているイギリスに対して、非暴力・不服従運動を再開した(第2次非暴力・不服従運動。1930-34)。80人の支持者を連れたガンディーはインド西部のアフマダーバードにある自身のアシュラム(学校)を出発し、ボンベイ近くのダンディの海岸まで約360kmを4週間近く徒歩で行進した(「塩の行進」)。海岸到着後、数千人に拡大した行進の一団は、海岸の塩を作る作業を行った。この塩が専売制を無視してインド各地で販売されていき、同時に外国製品のボイコットはエスカレートしていった。
サイモン委員会の報告を受けたイギリス政府は、インドのこうした抵抗運動の抑止と、今後のインドについて論議を行うため、ロンドンに英印円卓会議を召集した(1回目1930.11-31.1。2回目1931.9-12。3回目1932.11-12)。インドからも指導者や政治勢力を招き入れた。国民会議派では2回目のみガンディーらが運動を中断して参加したが、1,3回目はボイコットした。インドの自治や、憲法作成などの議題に挙げるなどしたが、結局イギリスの譲歩もなく、インド側にとっては手応えがないままに終わった。イギリスにとっては、落胆に変わった国民会議派の運動が縮小したことで、次の手順にふみきることができた。これが、1935年に制定した改正インド統治法(新インド統治法)である。
改正インド統治法は、インドの各州に責任自治制を導入し、イギリス領内におけるインドの連邦制を確立した内容であった。しかし外交や軍事はイギリスが管理するため、完全独立・完全自治を要求するインドの願いはかなえずじまいとなった。しかも、これまで国民会議派と提携してイギリスに立ち向かっていたきた全インド=ムスリム連盟(ジンナー総裁。1876-1948)も、カリフ制の廃止(1924)が決まったトルコ革命(1922-23)によって反英精神はなくなり、国民会議派との提携続行は困難であると判断して、1937年以降は反ヒンドゥー・親英路線に代わり、国民会議派との対立を深めていった。その後も第二次世界大戦勃発(1939)にともないインドは再び参戦させられ、国民会議派は必死にイギリスからの弾圧に抵抗、ネルーも数回投獄された。一方の少数派の全インド=ムスリム連盟はムスリム国パキスタンの建設を主張していき、ムスリム、ヒンドゥー両派がそれぞれイギリスから独立するのは、終戦後の1947年8月まで待たねばならなかったのである。
非常に重い内容でしたが、世界史を学習する上では避けて通れない単元ですね。実際のところ、パキスタン=イスラム共和国、インド共和国が誕生するまでの話もご紹介したかったのですが、スペースの都合上、改正インド統治法制定までをお話しさせていただきました。
イギリスが作らせた国民会議は、結果、イギリスの思惑とかけ離れて、インド独立の中心となっていきました。インド民衆の支持を集めた多数派の大衆政党であったことがその後も長く存続するゆえんです。しかしイギリス支配下におけるティラク時代、ガンディー時代は特に弾圧と抵抗の繰り返しでした。完全自治が見出せないまま時だけが過ぎ去って行き、その後イスラム教徒とも対立しながら、独立の気運を呼び起こし続け、やがて1947年8月にインド独立法にもとづくインド連邦として独立(1950年インド共和国に改称)し、ネルーが初代首相になり順調に国家建設が進められていきました。しかしこの間ティラクは1920年にボンベイで急死、ガンディーもヒンドゥー教徒の青年に暗殺されるなど(1948.1)、動揺もありました。まさしくティラク、ガンディーら独立までに活躍した国民会議派のメンバーは、息つく暇もなかったでしょう。
さて、今回の学習ポイントです。まず、ティラク時代からですが、覚えなければいけないのは、国民会議の発足年(1885)、ベンガル分割令(1905)と立案者であるインド総督カーゾン、カルカッタ大会(1906)の4綱領(英貨排斥・スワデーシー・スワラージ・民族教育)といったところです。スワデーシーとスワラージの内容も知っておいて下さい(国産品愛用と自治。スワラージと自治で"じ"つながりと覚えたことがあります)。ナオロジー、バネルジー、パール、ラーイらの名前はマイナーですが、ナオロジーは国民会議結成段階の人物。その後穏健派と急進派に分立して、バネルジーは穏健派、パールやラーイはティラクと同じ急進派に属していました。要注意事項ではありませんが、余裕が有ればナオロジー、バネルジーあたりは知っておいても良いと思います。
続いてガンディー時代では、まずは戦後自治の約束の代償として制定されたローラット法(1919)が重要です。インド側から見れば、イギリスの裏切り行為は非道であったでしょう。さらに弾圧の徹底から予想以上の惨劇をもたらしたアムリットサル虐殺事件(1919)は受験用語ですが、そうでなくても、是非知っておいてほしいと思います。あとはガンディーの非暴力・不服従運動も重要ですが、倫理分野では、サティヤーグラハ、アヒンサー、ブラフマチャリヤー、非暴力主義といった用語が説明できるようにしておくと便利です。
他に大事な箇所は、ラホール大会での"プールナ=スワラージ(1929)"、英印円卓会議(1930-32)、改正インド統治法(新インド統治法)の3用語は頻出用語ですので覚えておきましょう。
あと、ヒンドゥー教徒の多数派だった国民会議派とは対照的にイスラム教徒の少数派だった全インド=ムスリム連盟の存在もかなり重要です。パキスタンの建設を大きく推進してきたわけですから。議長だったジンナーの名前も知っておきましょう。
2005年10月8日(土)にパキスタンを襲った大地震は未曾有の大災害をもたらし、私も悲痛の思いでニュースを見ておりました。2001年のインドでの大地震、2003年のイランでの大地震、そして記憶に新しい昨年末のインド洋大地震と大津波など、アジアでは大多数の死者を出す震災が相次いでおります。実際現地では、身体に感じる二度目以降の余震が数百回、数千回と続き、二次災害、三次災害を引き起こしているのです。私たちはこうして日常茶飯事のように起こり来る自然災害の恐ろしさを常に意識して生きていくこと、この恐ろしさに対する対策・処置を、1つでも多く産みだし、実用できること、被災者に対しての惜しみない愛情をふりそそぎ、救い、見守ること、そして残された私たちが、一瞬一瞬を大切に生きていくこと...これらを実行することが、被災してなくなられた方々への何よりの供養になっていくことと思います。
心からご冥福をお祈りいたします。