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絶対王政下のイギリスでは、商業資本(商品の流通過程から利潤を得るための資本)による経済発展が大きかった。この時代は、商人が手工業生産者に原料・道具を前貸しし、生産者はこれを加工して製品化、製品は商人が独占的に買い取り、販売して利潤を得るという問屋制度(問屋制家内工業)が主流であり、これによって商人の営業拡大が促進された。また重商主義に基づく輸出中心の貿易体制の下、貿易商も利潤を潤った。こうして富裕化した大商人や貿易商は商業資本家として権力を強め、政界(下院議員)にも参入した。王室では、富国策あるいは王室財政策として、こうした商業資本家に独占権を与えて経営を任せ、これとひきかえにその収益の分配分を宮廷の財政援助とするようになった。絶対主義時代は、王は議会の抑制を受けることがないため、商業資本家は王権と結合して絶対的地位を確立していった。
16世紀後半になって、経営方式に変化が生じた。マニュファクチュア(工場制手工業)の誕生である。経営者である資本家が工場を建て、手工業労働者を単一の工場に集めて商品をつくる方式であり、これまでの絶対王政に守られた商業資本家の問屋制家内工業とは全く異なっていた。マニュファクチュアを施す資本家は、商品の生産過程から利潤を得るための資本(産業資本)を投じる産業資本家であり、民間の富裕な市民階級(ブルジョワジー)が為し得たことであった。
マニュファクチュア体制の場合、手工業労働者を分業・協業で行ったところが大きい。分業とはいくつかの生産工程に労働者を分割して配置する生産方式のことで、一人で生産する家内工業よりも、格段と生産力を高めることが可能である。協業(コーポレーション)というのは、分業にもとづいて、一連の生産工程を多数の労働者で分担し、協同して働くことを意味し、数多くの労働者宅内で生産する家内工業よりも、労働者は工場という1つの組織の中で共同に利用でき、連続生産工程を順次分担することができるので、生産性の向上化が促進される。こうして生産手段(工場などの土地や、道具・機械などの設備)を所有する資本家が、労働者階級(プロレタリアート)を賃金で雇い、生産を行う資本主義の原点が現出されていくのである。やがて、マニュファクチュア方式による商品生産が脅威的に拡大して、これまでの国王に支えられた商業資本家と、新しい民間(市民)の産業資本家との間に、激しい競争や対立が生じてきた。そして、この競争に決着をつけるきっかけとなったのが、2つのイギリス市民革命(イギリス革命)の勃発であった。すなわち清教徒革命(せいきょうと。1642-49。ピューリタン革命)と名誉革命(1688-89。無血革命)の2つの革命であり、ブルジョワジーが王政を圧倒する象徴的な事件であるとともに、絶対王政の終焉を意味するものであった。同時に、王政に支えられてきた商業資本家の衰退をも意味し、代わって産業資本家の著しい台頭を示した。
16世紀のイギリス国内の主産業は毛織物業(羊毛の紡績)の発達期であり、特に国王ヘンリ8世(位1509-47)の時代ではアントワープ(ネーデルラント南部)への毛織物の輸出が急速に成長していた。このため、原料となる羊毛の生産を目指し、牧羊のため、地主や領主が小作人から農地を没収して取り囲んだ(エンクロージャー。第1次囲い込み)。また対外的にはイギリス東インド会社の誕生によって(1600)、インド経営もマドラス・ボンベイ・カルカッタのいわゆる3大拠点を中心に活発化した。インド産綿織物の輸入により、本国での木綿工業はマンチェスター(綿工業の中心地として"コットン=ポリス"の異名がある)を中心に、毛織物業に次いで急速に発達した。新大陸経営に至っては、敵国フランスとの植民地獲得競争に勝利して世界貿易・世界市場の支配権を確立した。これによって、イギリスの需要を増加させ、生産力の大幅な増進が要求されるようになってきた。そのためには工業技術の改良が必要とされた。
科学の分野でも国内で変化が起こった、1662年に国王の特許を得たイギリス王立協会(ロイヤル・ソサエティ)によって、物理・化学・生物・数学・医学といった自然科学の普及と発達が進められたのである(科学革命)。物理・化学者のロバート=ボイル(1626-91。「ボイルの法則」。化学の父)や、建築家クリストファー=レン(1632-1723)らが参加、18世紀には数学・物理学者アイザック=ニュートン(1642-1727。「万有引力の法則」「微積分法」。著作「プリンピキア」)も加わった。この科学革命によって、イギリス国民にこうした知性が加えられていったことは、産業社会イギリスとして発展していく上で重要な経路でもある。
18世紀に入ると、穀物増産を目的として第2次エンクロージャー(第2次囲い込み)が行われた。第1次は、牧羊地への転換を目的として、非合法で行われたため、失地農を増加させて失敗したが、第2次では、議会が奨励した合法的なもので、営利を目的とした大農家が土地を持たないプロレタリアートを安価で雇い、囲い込んだ大農園で生産力を増進させ、これによる農業技術の改良も行われていった。農業分野でも資本主義的経営が始まったのである(農業革命)。市場の拡大と産業資本の成長、さらには農業革命といった経済・社会構造のめまぐるしい変化によって、人口も年々増加傾向となり、これらは労働供給源となっていった。
こうして、民間資本の蓄積、海外市場の拡大、市民革命における民間の参入、マニュファクチュアの成立と農業革命における安価な労働力の大量供給、科学革命などにおける科学思想の発達と技術水準の高度化、そして、鉄鉱石や石炭といった国内の資源の豊富さも手伝って、18世紀半ばからイギリスは本格的に産業革命の時代へと突入していった(第1次産業革命)。
木綿工業の技術革新では、まず織工兼発明家ジョン=ケイ(1704-64?)の飛び杼(飛び梭。とびひ)の発明(1733)から始まる。織機の付属具である杼(おさ。梭。横糸を通す部分)を自動化し、一人の織布工の生産能力を3倍速させ、広幅物の織布も可能となった。そのため糸不足を招いたことで、紡績の分野での発明が要請された。そこで登場したのが、織工ジェームズ=ハーグリーヴズ(?-1778)のジェニー紡績機(多軸紡績機。1764年か67年頃の発明。"ジェニー"はハーグリーヴズの妻か娘の名。ローラーを利用して80本の糸が紡げる)や、実業家リチャード=アークライト(1732-92)の水力紡績機(1769)ら紡績機の登場である。そしてジェニー紡績機と水力紡績機の長所を結合して、細く頑丈な糸を紡げ、製品の質を安定化させたのが、紡績工サミュエル=クロンプトン(1753-1827)の発明したミュール紡績機(1779。走錘紡績機)であった。ミュールは騾馬(ラバ。馬とロバをかけあわせた一代限りの雑種)のことで、クロンプトンは、他人の長所をくっつけただけの機械を発明したにすぎないとして、謙遜してこう名付けた。
糸が増産されると、織布部門でも改良がおこり、牧師エドモンド=カートライト(1743-1823)は飛び杼の性能をはるかに凌ぐ力織機(1785)を発明し、木綿工業は一層前進した。これにより本国の綿花需要が増大したことで、新大陸・アメリカ南部の綿花栽培にも拍車がかかり、綿花から種子を取り除く速度を上げるために、発明家エリ=ホイットニー(1765-1825。アメリカ出身)による綿繰り機(1793)が生まれた。アメリカ南部は、のちに"綿花栽培の宝庫"となっていくのである。
こうした工業機械の発明の手助けとなったのは、動力の進歩によるところが大きく、特にアークライトの水力紡績機やカートライトの力織機などは、蒸気を使った動力(蒸気機関)で飛躍的に伸びた。これまでの手作業による人力にかわる、機械による動力というのは、当時としては画期的であった。そもそも蒸気機関は1698年にトマス=セーヴァリなる人物が発明した揚水機に端を発し、続いて1710年にイギリス人技術者のトマス=ニューコメン(1663-1729)の使った炭鉱内の排水ポンプで脚光を浴びたが、シリンダーと冷却器が共用なので熱効率が低く、燃費も悪かったため、一般使用は難しかった。実質的に蒸気機関の利用価値が安定したのは、発明家ジェームズ=ワット(1736-1819)がでてからであった。ワットは、もともとニューコメンの蒸気機関の修理を依頼されて、設計上の欠陥から大改良を決意し、1765年にシリンダーと冷却器を分離することに成功、その後も次々と改良を重ね、炭坑の生産効率を上昇させたばかりでなく、工場や運輸などにも蒸気機関を導入する道を開いた。電力の単位ワット(W)は彼の名に因む。
動力が蒸気機関となった頃、機械工業分野が発展する。その中でも鉄工業は大きな進歩であった。機械・機材の原料として鉄の需要が増え、製鉄の改良も進められた。それを担ったのが製鉄業者エイブラハム=ダービー(1677-1717)で、1709年、石炭をコークス化(石炭を高熱で蒸し焼きにし、石炭ガスなどの揮発分をとったもの。無煙で火力の強い燃料となる)して燃料とするコークス高炉を発明し、彼の死後引き継いだ子(1711-63)によってコークス製鉄法が完成(1735)、以降、石炭需要の増大と鉄製機械の普及が進み、さらに蒸気機関の革命と合わさって、生産用具として、道具にかわり機械を使用する大工場制生産(機械制工場)へと移っていく。
運輸業では、価格のわりに重量のある鉄・石炭を大量に運ぶための改良が施された(交通革命。運輸革命)。まず内陸水上輸送用として、18世紀後半から多くの運河が建設された。運河の増設とともに、航行する汽船の改良も施され、蒸気機関を動力とする蒸気船が建造された。アメリカの画家ロバート=フルトン(1765-1815)は1786年に渡英して機械発明に興じ、発明業に転向して水門などを発明した。彼は、フランスにも渡り、セーヌ川で初の蒸気船の航行に成功、1806年にはアメリカで、彼の建造した外輪式蒸気船クレアモント号を、時速4ノットで、240kmのハドソン川の遡航に成功している。その後アメリカのみならず西ヨーロッパでは、1830年代後半になると外輪式からスクリュープロペラ式の蒸気船が登場した。
19世紀半ば以降になると、水上から陸上の輸送にも進歩が見られた。鉄道とその上を走行する蒸気機関車(SL)である。鉄道のレールは炭鉱内で古くから使われ、トロッコを走らせていた。蒸気機関車の発明は、イギリス人技師リチャード=トレヴィシック(1771-1833)が1801年に初めて高圧蒸気機関を製造し、レールの上を走らせる実験を試みていたが、本格的に実用化されたのはイギリス人発明家ジョージ=スティーヴンソン(1781-1848)の1814年に走らせた蒸気機関車で、ワットの蒸気機関を利用して、炭鉱内で石炭運搬用として走らせ、1825年に世界初の旅客用蒸気機関車を走らせた。この年建設されたストックトン~ダーリントン間の約17kmを実験的に走らせたが、時速約18kmで走破し、遂に1830年9月にはマンチェスター~リヴァプール間の約45kmの実用鉄道を開通、「ロケット」号(時速40km)を走らせて営業化した。その後イギリスは1840年代から"鉄道狂時代(railway
mania)"を迎え、鉄道敷設ブームが湧き起こった。
圧倒的工業力をもった19世紀中葉のイギリスは「世界の工場(Workshop of the World)」と呼ばれ、工業製品は瞬く間に全世界へ供給していった。またイギリスの経済・社会によって全世界が守られているとする風潮から"パクス=ブリタニカ(イギリスの平和)"が叫ばれたことからも理解できるように、世界の産業の中心はイギリスであった。それを象徴するのが1851年には第1回ロンドン万国博覧会(万博)の開催で、産業革命を完成させたイギリスの技術と産業を見せつけた。万博開催の3年前に、資本主義国特有の恐慌がおこってからはイギリスの産業革命も下火になっていった。
イギリス産業革命の結果、イギリス全土に多くの産業都市が劇的に発展した。綿工業を中心に産業革命の拠点となったマンチェスターでは、人口が急増し、重要産業都市になっていたが、同市以外にもバーミンガム(金属工業)、リヴァプール(奴隷貿易で発展。外港都市として繁栄)、ブリストル(奴隷・砂糖・タバコ。造船業)、リーズ、グラスゴーなどといった都市が、ロンドンに並ぶほどに巨大都市化した。
これらの都市では、商業資本主義から産業資本主義への移行が達成され、産業資本家があらゆる分野で資本主義体制としての支配的地位を確立した。工場制手工業から工場制機械工業への転換によって、肉体労働者や、熟練工に代わり、機械操作を主とする低賃金の女性や子どもらが増加したが、労働条件が劣悪化し、低賃金・長時間労働、待遇の劣化、とりわけ衛生管理が不完全なためにコレラ(1830年代初め頃)など、伝染病の流行が災いした。また労働条件改善のために労働者が施す団結や結社も禁じられ(団結禁止法。1799,1800)、労働者を高圧的に拘束した。こうした労働問題で、労働者はしばしば抵抗運動をおこした。また機械の普及で職を失った手工業者に至っては、1811年頃からイギリス中部・北部にかけて、機械打ちこわし(ラダイト運動。ラッダイト運動。1811頃-17。徒弟出身の伝説的な覆面の手工業指導者ネッド=ラッドに因む)もおこった。
労働問題解消のため、政府は団結禁止法を撤廃(1824)、1833年、1844年、1847年に工場法を制定した(1833年は空想的社会主義者ロバート=オーウェンによるもの。1771-1858)。18歳未満の夜業の禁止や、1日の労働時間数を定めて、労働条件改善をはかった。これにより労働者は階級意識が芽生え、組織的な活動を試み、労働運動へと発展していった。その代表が労働組合の結成(1871公認)である。熟練労働者の職業別組合、不熟練労働者も含む産業別組合などがおこされ、資本主義のあり方に批判精神をつぎ込み、しばしば社会主義運動ともつながったりしたが、全体的には労働者としての地位の確立と、労働条件改善にむけて成果を上げていった。
産業革命によって都市は大衆社会化し、労働問題のみならず、社会政策の対象となる衛生・犯罪・住宅・婦人・物価などの、社会として解決すべき諸問題(社会問題)も数多く発生した。大衆社会による社会問題が20世紀・21世紀にも受け継がれていくことを考えれば、産業革命の勃発は、現代社会が形成される原点であり、世界史における大きなターニング・ポイントであった。
連載63回目にして、ようやくイギリス産業革命の登場となりました。産業革命の話をする場合、とっかかりがいろいろあって、いきなりジョン=ケイの飛び杼から始めたらよいか、絶対王政時代の重商主義や貿易差額主義の話から入ればよいか、植民地獲得競争での英仏合戦から入ればよいか、ヘンリ8世の囲い込み運動から入ればよいか、農業革命と第2次囲い込みから話せばよいか、資本主義経済のしくみから入ればよいか、科学革命の話から始めたらよいかなど、いろいろ模索した結果、全てを導入することにしました。全てを導入しないと、産業革命は話せませんね。それだけに重要な分野なのです。教科書ではアメリカ独立宣言やナポレオン戦争、フランス革命の前後に産業革命の単元が登場するので、誰が何を発明したかだけ教わって終わることもあり、産業革命の重要性が分からないまま通り過ぎることもありますが、ここの単元は至って大事で、入試にもよく出される分野であり、1つの文化史的見方で覚えているとエラい目に遭います。
さて、産業革命は第1次と第2次とあります。今回ご紹介したのは軽工業が主の第1次で、イギリスが中心。第2次は19世紀末の帝国主義体制となる時期におこり、重工業(重化学工業・電機工業など)が主で、アメリカやドイツが中心です。第2次産業革命のお話はまた今後機会があれば紹介させていただきます。
では、今回の学習ポイントです。まず産業革命が起こるための準備・条件を知っておきましょう。まず、絶対王政期は商業資本家が主で、問屋制家内工業がさかんだったことです。やがてイギリスの世界市場の支配権を確立してからは、産業資本家が台頭し、問屋制家内工業からマニュファクチュア体制とうつり、資本家と労働者の階級が整えられます。続いて、科学革命と農業革命の勃発により、技術改良の可能性が開かれます。あと、鉄・石炭などの資源が豊富であること。...だいたいこの辺りをおさえておけば良いでしょう。なお、植民地獲得競争はかなり奥が深いので、これもまた別の機会でお話しします。
ちなみに商業資本と産業資本のちがいですが、商品の流通過程で利潤を得る資本が商業資本、商品の生産過程で利潤を得る資本が産業資本と考えればイイでしょう。生産手段である工場や機械を所有し、商品の生産を行うことで利潤を求めるのが産業資本家です。各業界の製造業(メーカー)の経営者があてはまりますね。商業資本家は資本でメーカーから商品を買い入れて、これを売って利潤を得るしくみを用います。商社や輸入代行などの卸売業の経営者があてはまります。
さて、あとは発明者と発明品の暗記です。アメリカ人であるフルトンとホイットニー以外はみなイギリス人だと思っておいて下さい。本当は登場順に覚えるのがいいのですが、無理なら発明者と発明品がつながればいいです。綿業に関しては、ジョン=ケイの飛び杼、ハーグリーヴズのジェニー紡績機(多軸紡績機)、アークライトの水力紡績機、クロンプトンのミュール紡績機、カートライトの力織機、ホイットニーの綿繰り機を覚えましょう。カートライトの力織機は"カ"・"力"つながりで覚えやすいですよ。
動力はニューコメンとワットの蒸気機関関係、鉄工業関係はダービー父子のコークス製鉄法を知っておいて下さい。そして交通革命関係では、蒸気船はアメリカのフルトン、蒸気機関車はトレヴィシックとスティーヴンソンですが、トレヴィシックはマイナーなので、無理ならスティーヴンソンだけ覚えておいて下さい。スティーヴンソン関係はあと、鉄道の開通に関する問題も出されます。1825年にストックトン~ダーリントン間で試運転、1830年にマンチェスター~リヴァプール間で実用開通、営業化しました。
あと本編には出てきませんでしたが、イギリス産業革命は世界各国に波及していることも注目しておきましょう。1830年にフランスの七月革命がおこった影響と相まって、オランダから独立したベルギーでまずおこりました(ベルギー産業革命)。同じく1830年代の七月王政期におけるフランス産業革命も、資本が少ないため発展は小規模で緩やかながらも、リヨンの絹織物を中心におこりました。さらにラインラントを中心に1840年代から発展したドイツ産業革命も大事で、勃発のきっかけは1834年のドイツ関税同盟の結成です。ここでは重化学工業が発展しました。あと、木綿工業中心にはじまり、南北戦争以後に北部の工業と西部の農業機械が発展・本格化したアメリカ産業革命や1861年の農奴解放令以後に進展したロシア産業革命、そして明治維新(1868)後の1870年代、殖産興業による軽工業でスタートし、八幡製鉄所の設立と日露戦争(1904-5)で本格化した日本産業革命があります。