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世界史の目

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ギャラリー

第7話


3人のアンリとヴァロワ朝の断絶(1589フランス)

 前王朝を支えたカペー家が断絶し、ヴァロワ伯のフィリップ6世(位1328~50)によっておこされたヴァロワ王朝(1328~1589)。百年戦争(1339~1543)・黒死病(ペスト)の流行(14世紀半頃)などを経験した動乱だらけの王朝であった。しかし中でもこの王朝の崩壊を決定的にしたのは、フランス内に流れ込んだ新教、つまりユグノーの登場であった。フランス出身のカルヴァン(カルヴィン1509~64)が来訪先のスイス・ジュネーヴで、旧来のカトリック教会の教義・制度を改め、新教派(カルヴァン派)を広めた、いわゆる宗教改革の活動により、フランス・ヴァロワ王朝は凋落していくのである。

 魂は、聖書による信仰によって救済されるという福音主義や、その教えは人間ではなく神が最初から決めたものだとする予定説を唱えて、カルヴァン派は産業市民層を中心に浸透・発展していった。予定説は、働く場を神に与えられた天職であるから、欲を捨てて勤労に励むべしと教えており、新興の勤労市民層の多いフランスは、この宗教改革に触発し、フランス内のカルヴァン派はユグノーと呼ばれるようになった。ユグノーは急進的な中小貴族や、中産市民層にも広がり、ブルボン家のナヴァル王アンリ(1553~1610)といった有力貴族も、ユグノーの指導者として名乗りを上げた。

 ヴァロワ王家の率いるフランスはカトリック、つまり、旧教国であり、ユグノーの増加は社会的にも文化的にも、また政治的・経済的にも目障りとなっていった。旧教の指導者である有力貴族、ギーズ公アンリ(1550~88)は、ユグノー制圧に乗り出すが、一方の王家では、アンリ2世(位1547~59)が死に、その妃であるカトリーヌ=ド=メディシス(1519~89)が子シャルル9世(位1560~74)を10歳で即位させていた。カトリーヌは大富豪メディチ家出身で、彼女はシャルル9世の摂政となって、実権を掌握していた。王家存続に徹する彼女は、新教国イギリスに対抗するため、ユグノーとの接近をはかりながらも、旧教国を守るうえカトリック指導者ギーズ公アンリにも接触したのである。

 1562年、ギーズ公アンリによるユグノー制圧は、瞬く間に新旧両派の対立となり、歴史的宗教戦争であるユグノー戦争(1562~98)の勃発となった。ところが、10年後の1572年、国王側カトリーヌはギーズ公アンリと結んで、新教側と和解を持ち出した。それは国王シャルル9世の妹マルグリートと、ユグノーの指導者ナヴァル王アンリの(政略)結婚であった。同年8月24日(サン=バルテルミ祭日とされる)の未明、パリで結婚式に出席する多数の新教ユグノー貴族が集まった。国王側である旧教派はこれを機会に未曾有のユグノー皆殺しを行った。これが"サン=バルテルミの虐殺"である。時のユグノー指導者コリニー提督をはじめ、多くのユグノーが犠牲になった。ナヴァル王アンリは宮廷に監禁され、カトリックにすぐさま改宗して難を逃れた。

 これにより新旧対立は激化し、カトリックはローマ教皇や旧教国スペインのハプスブルク家などに援助を受け、新教派ユグノーはイギリスや新教の故郷スイスなどに援助を受け、ユグノー戦争は大戦となっていった。その間の1574年、シャルル9世は24歳で病没し、その弟アンリ3世が即位(位1574~89)し、カトリーヌは摂政を退いて隠棲した。彼女は1589年に永眠。アンリ3世の心の中では新旧の決着がまだついておらず、1576年、行政の上での旧教同盟を組織した。その中にはギーズ公アンリも含まれたが、盟主が国王でありながら、実質旧教者の中で信頼を受けたのはギーズ公アンリであり、やがて王と対立した。ギーズ公アンリは旧教国スペインのハプスブルク家(フェリペ2世)にも接近。一方ナヴァル王アンリは同じ1576年に宮廷を脱走し、ユグノーに再改宗した。ここに、アンリ3世・ギーズ公アンリ・ナヴァル王アンリの3人のアンリによる闘争が繰り広げられた。これが"3アンリの戦い"と呼ばれるもので、1585年頃から本格化した。ナヴァル王アンリは「勇者中の勇者」といわれ、ギーズ公アンリは戦争で顔をケガし「むこう傷のアンリ」ともいわれた。アンリ3世は2人のアンリと比べると人気がなかった。3アンリの戦いで、アンリ3世はギーズ公アンリを支援するスペインと戦って敗れ、旧教同盟にも嫌われたため、同盟内ではギーズ公アンリとアンリ3世の立場は完全に逆転した。これにより、アンリ3世の近衛兵によって、1588年、ギーズ公アンリは暗殺された。

 その後アンリ3世は、新教派ナヴァル王アンリからなだめられ、旧教派にもかかわらず、ナヴァル王アンリと結んで公然と旧教同盟に敵対したが、母カトリーヌが没した1589年に、旧教派の修道僧に暗殺された。アンリ3世は子がなく、ブルボン家出身のナヴァル王アンリが即位した(アンリ4世。位1589~1610)ため、ついに王家断絶となり、ヴァロワ朝は滅亡し、ブルボン朝(1589~1792)の開基となった。アンリ4世がアンリ3世に接触したのは、ここまでの計画に勝算の見込みがあったからなのだろうか?アンリ4世は当時の情勢から、旧教に再改宗して、国民の感情を和らげて、1598年、新旧両派の対立を解消するため、ナントの勅令を発表、ユグノーに信仰の自由と完全市民権を与え、新旧両派を平等にさせ、ユグノー戦争を終結させ、フランス絶対主義の基礎を形成した。しかし、室内では、1599年、サン=バルテルミで結婚した王妃マルグリートと離婚し、母カトリーヌと同じメディチ家のマリ=ド=メディシスと結婚するなど安定せず、1610年、カトリックの狂信者に刺され、正義王ルイ13世(位1610~43)に王位を譲り、フランス絶対王政の最盛期を迎える。


 フランス絶対主義が始まるまでのお話しでした。政策に一貫性のない行政でヴァロワ朝末期を混乱へと導いたカトリーヌ=ド=メディシス。彼女の子どもたちも政略に使われ、宗教対立から戦争へと発展させた彼女の影響ははかりしれません。また3人のアンリですが、残念ながら、高校の世界史では、"アンリ3世は暗殺され、ヴァロワ朝は断絶"とまでしか記述されず、3アンリの戦いは記述されておりませんので、入試にはあまり重要項目ではなさそうですm(--)m。当然のことながらギーズ公アンリやナヴァル王アンリも、入試頻出用語とまではいかなさそうです。本編では触れなかったエピソードですが、カトリーヌの夫、つまり国王で、さらにアンリ3世の父親だったアンリ2世の話。ノストラダムスが書いた詩が国王の事故死を予言する内容で、その4年後見事的中し、アンリ2世は事故死したということです。これも入試には出ませんけどね。カトリーヌといい、旦那のアンリ2世といい、子のアンリ3世といい、史料を読む限りでは、当時はかなり悪名高い人たちだったのでしょうね。個人的には政略のために次々と改宗するアンリ4世(ナヴァル王アンリ)の方が好きになれませんが、でも、当時のご時世としてはこれぐらいやらないと生きていけなかったのかもしれません。

 今回のポイントは新教です。カルヴァン派はフランスへ流れたユグノーを始め、他国でも浸透しました。イングランドのカルヴァン派はピューリタン清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、オランダはゴイセンと呼ばれてます。彼らは1648年のウェストファリア条約で正式に承認されました。それぞれの地でのカルヴァン派の呼び名は覚えた方がいいですね。

 当時はテレビやラジオなど、メディアたるものがない時代でした。国が民衆をおさめるには、宗教が大きな武器となりました。よって、他の宗教が、昔からある宗教で浸透している国に流れ入ってくると言うことは、国を揺るがす大事件であり、現代では考えられないほどの宗教抗争となったのでしょう。

 宗教戦争はユグノー戦争以外にも、オランダ独立戦争(1568~1609)やドイツの三十年戦争(1618~48)などがありますが、詳細はまた別の機会といたしましょう。

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