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世界史の目

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ギャラリー

第106話


天文革命

 16世紀、ポーランドの天文学者、コペルニクス(1473-1543)が没する直前、著書『天球回転論(天球の回転について)』が刊行された。彼の強い意向があり、臨終の際に出版されたのである。著書が彼の手元に届けられ、その数時間後に彼は没した。

 コペルニクスが著書の出版を臨終直前に刊行しようとした理由は、彼が1530年頃に打ち立てた宇宙観である地動説(地球の自転と公転を認める説)に原因があった。この自説は、かつてアリストテレス(ギリシャの哲学者。B.C.384-B.C.322)やプトレマイオス(2C頃のギリシア人。古代ローマ時代に活躍。主著『天文学大全(アルマゲスト)』)らが長年に渡って唱えられ、定説とされていた地球中心に宇宙が動いているという天動説(地球中心説)を否定するものであった。
 特にキリスト教の頂点に立つローマ教皇は天動説を絶賛し、プトレマイオスの天動説を長年に渡って、教会公認の定説とされていたため、天動説を否定して地動説を主張するということは、カトリック教会を敵に回すことと同様であった。かつてユリウス暦やグレゴリ暦(グレゴリウス暦)も天動説に基づいて着手され、中世キリスト教世界で政治・文化・社会・宗教のあらゆる面で定着していた状況をみて、コペルニクスは、地動説は単純に認知されるものではないと実感し、死する直前まで胸の内に秘めていたとされている。

 コペルニクス没後、著書『天球の回転について』は予想通りに激しい非難を受けた。そして、カトリックの反宗教改革(対抗宗教改革)における禁書目録(Index。反カトリック対象の著作物と著者リスト)に載せられた(1616)。また当時のドイツ宗教改革の中心だったマルティン=ルター(1483-1546)も、当時の教会に関して批判的であったにもかかわらず、コペルニクスの主張は聖書記載からの逸脱行為であると非難したほどであった。

 コペルニクスが没して約20年後、後に"天文学の父"と称される人物がイタリアに誕生した。ガリレオ=ガリレイ(1564-1642)である。ガリレイは、イタリアのトスカナ大公国の領であるピサ郊外で、音楽家の家に生まれた。1581年、ピサ大学に入学して医学を学ぶも、数学・物理学に関心を寄せ、医学を断念、エウクレイデス(ユークリッド。B.C.300頃のギリシア人幾何学者)やアルキメデス(シチリア島シラクサの数学・物理学者。B.C.287?-B.C.212)の著書に基づき、振り子の等時性(振り子の揺れる規模が違っても、往復時間が等しい)を発見して天秤を改良、"小天秤"として発表し絶賛を受け(ピサ大聖堂で揺れるシャンデリアを見たことからヒントを得たという説もある)、1589年、25歳にしてピサ大学の教授となった。
 当時の物理学分野では、アリストテレスの自然哲学大系が最高権威として用いられていた。例えば、落体に関して、重いものほど早く落下するのが定説であった。ガリレイはアリストテレスの著作を読んだが、この説は正統ではないと批判した。しかし認められず、彼はピサ大学を離れて、当時ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学教授として、ヴェネツィアに移住、落体の研究に没頭(有名な故事であるピサの斜塔から大きさの違う2つの物体を同時に落とし、同時に着地させたという実験は事実ではなく、ガリレイの弟子による創作とされている)、その後、物体の落下時間は質量には依存せず、落下距離は落下時間の2乗に比例するという落体の法則を発見する。

 ヴェネツィアに移住したとき、イタリアでは偉大な哲学者が宗教裁判所異端審問所)に告発されていた(1592)。ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)という哲学者である。ヴェネツィアにいたブルーノは、汎神論(はんしんろん)を唱えていた。汎神論は物体も精神も神のもっている性質のあらわれであり、神と万物は同一であるという考え方であるため、神は超越的存在であるとして信奉するキリスト教会から異端視されていた。またコペルニクスや、コペルニクス以前に地球の自転を承認したとされるドイツ学者ニコラウス=クザーヌス(1401-64)を信奉していたブルーノは、『無限な宇宙と諸世界について』などを著し、無限の宇宙の中には、絶えず生成と死滅を繰り返す無限の世界(太陽系のこと)があると主張し、地球だけが宇宙の中で唯一生命がある星であるという当時のキリスト教会の世界観とは全く対照的であった。ブルーノの世界観は汎神論と地動説を源流としていることで、反カトリックの危険人物として警戒された。

 ガリレイはアリストテレスの説が物理学だけではなく、天文学においても批判的であった。ガリレイはコペルニクスやブルーノと同じく、地動説を信じていたのである。ガリレイの7歳年下であるドイツの天文学者ヨハネス=ケプラー(1571-1630)は、コペルニクスの地動説に感激し、共鳴者としてガリレイと親交を深め、1597年、ガリレイはケプラーに宛てた手紙に地動説を信じていると記した。しかし地動説は異端者対象となるため、公言は常に避けられていた。そんな中、彼らに衝撃が走った。1600年、ブルーノが焚刑に処されたのである。

 ブルーノは逮捕後ローマに護送され、7年間、尋問と拷問を受けていた。そして焚刑を目前にして、ブルーノは「判決を受ける私よりも、判決を言い渡したあなたたち(審問官)の方が真理の前に怖れおののいているではないか」と発し、苦痛の声ひとつあげず火中に消えていった。ブルーノとガリレイとの間には直接的な接触はなかったが、ガリレイにとって、ブルーノの焚刑は他人事ではなく、宗教裁判の恐ろしさを改めて痛感した。しかし、地動説の考えを曲げることはなく、さらに研究を進めた。

 1608年、オランダで望遠鏡が発明されたのをきっかけに、ガリレイ自身も望遠鏡を製造、1610年3月、木星の衛星を4個発見した(ガリレイ衛星。第1衛星をイオ、第2をエウロパ、第3をガニメデ、第4をカリストという)。ガリレイはこの観測結果を『星界の報告』として論文発表した。これを機に、ガリレイの地動説発言が多くなり、ケプラーもガリレイを擁護する目的で地動説を主張した。その後、ガリレイは金星の満ち欠けと公転、太陽の黒点、月面の凹凸、天の川が恒星の集合であることなど、不変の宇宙を主張する地球中心の天動説を大きく覆す発見を次々と行った。地球が自転・公転しなければ、これらは発見できなかったものとして、コペルニクスの地動説を裏付ける確固たる証拠となったのである。このためアリストテレス派の学者や、天動説を主張するドミニコ修道会らと激しい論争となっていった。

 ドミニコ修道会士は、異端審問所にガリレイの地動説の異端性を訴え、1616年、ガリレイはローマに召喚された。1回目の宗教裁判であった。ここでは、地動説を主張せず、大幅な言動を控えよとの忠告に留まり、無罪となったが、同年、コペルニクスの『天球の回転について』を一時的に閲覧禁止処分にしている。
 フィレンツェ郊外に住居を移し、しばらく活動を自粛していたガリレイだったが、1632年、彼は『天文対話』をフィレンツェで発刊した。地動説と天動説をそれぞれ主張する者同士の対話を記したもので、地動説を一方的に主張する形では書かれてはいない。しかし、後の影響を考えたのか、1633年、再度ローマ教皇庁の異端審問所から出頭を命じられ、2回目の宗教裁判にかけられてしまった。

 『天文対話』が慎重に執筆されたにもかかわらず、地動説を擁護している面があり、1回目の裁判での忠告を無視しているということであった。1回目の無罪判決内容を主張したガリレイは2回目の裁判でも無罪を主張するが、異端審問所側からは1回目の裁判の撤回と、ガリレイの有罪判決を言い渡し、ガリレイは終身刑の身となってしまった。また教皇からカトリックにおける破門が宣告、すべての役職を剥奪され、『天文対話』の禁書目録入りも決定、そして地動説放棄を命じられた(地動説放棄の宣誓をさせられたガリレイが、宣誓直後に"それでも地球は動く"とつぶやいたとされているが、彼の今後にかける研究の熱意と、死罪か無期刑の決断を迫られた当時の裁判から考えて、この発言はありえないとされ、後に創作されたとする説も有力である)。

 同1633年の判決が下されたガリレイは、数ヶ月後に軟禁に減刑され、フィレンツェ郊外に幽閉され、監視付きの生活の身となったが、フィレンツェにある住居への帰宅は許されなかった。翌1634年には、ガリレイを支えた長女が没し、1637年にはガリレイの片眼が失明、翌1638年には、とうとう両眼が失明した(望遠鏡による太陽観測が原因とする説がある)。
 それでもガリレイは執筆行を怠らず、彼の口頭を弟子と息子に執筆させ、1638年に『新科学対話』を、カトリックの息がかからない、プロテスタント国オランダのライデンで発刊した。

 1642年、ガリレイは幽閉先で78年の生涯を終えた。しかし没後も身分回復は成らず、家族の墓地に葬られず、弔辞を読むことも、墓碑を建てることも許されず、正式な埋葬は1737年まで延ばされた。

 後世になり、ローマ教皇ヨハネス=パウルス2世(位1920-2005)は初めて、裁判の見直しを発表(1980)、教皇自身も裁判の誤りを認め(1983)、翌年調査委員会はガリレイの有罪判決を撤回した。そして1992年、2回目の裁判から359年ぶりに、ガリレイは教皇によって破門を解かれたのであった。


 今回の主人公は、近代自然科学の基礎を築いたイタリアの天文学者・物理学者、ガリレオ=ガリレイです。ルネサンス期の後半~末期に活躍したガリレイですが、カトリック教会の権威が絶対的だったことで、現世よりも死後の理想界を重んじていた中で、現世における経験や実験、感覚などで確かめられる現実の世界を重んじたのが、近代科学者だったのです。その代表が、コペルニクス・ガリレイ・ケプラーら天文学者であるといえます。そして、彼らの活躍により、科学・技術の革新が年々飛躍していき、後のニュートン(イギリス。1642-1727)らをはじめとする、17・18世紀を支える偉大な科学者達を生んだと言っても過言ではありません(ニュートンの生年はガリレイの没年と同じというのも興味深いです)。

 さて、今回の学習ポイントです。コペルニクス・ガリレイ・ケプラーの3人は地動説を主張し、教会の天動説を否定しました。コペルニクスが唱えた地動説を、ガリレイは望遠鏡などを使用して実証、またケプラーも惑星運動の法則を確認するなど数理的に実証しました。コペルニクスの『天球回転論(天球の回転について)』は新旧両課程の用語集に登場しますが、ガリレイの『天文対話』は、旧課程の用語集のみ登場しています。入試で著書名を書かせることはあまりありませんが、余裕があれば知ってもらいたいです。

 本編以外の天文学者を覚えるとするならば、少々時代がずれますが、地球球体説を主張したイタリアのトスカネリ(1397-1482)がいます。コロンブス(1446/51-1506)の航海に影響を与えた人物です。
 またジョルダーノ=ブルーノも登場しました。彼は天文学者ではありませんでしたが、汎神論と地動説を融合させて発表したので、教皇の怒りに触れ処刑されました。汎神論はのちにオランダの哲学者スピノザ(1632-77)によって取り上げられました。

 余談ですがルネサンス期は火薬(火砲)・羅針盤活版印刷の三大技術革新がありました。とくに活版印刷は1450年頃、マインツ出身のグーテンベルク(1400?-68)の改良によって新たな文化を切り開きました。大量印刷によって、思想の普及が進展されていくのですね。このグーテンベルクの名前も知っておきましょう。