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15世紀のイベリア半島では、西にはポルトガル王国(首都:リスボン。1143-1910)、中央にはカスティリャ王国(1035-1479)、東にはアラゴン王国(1035-1479)、といった3大王国が形成されていた。特にアラゴン王国は、1137年バルセロナ伯とアラゴン王女と結婚してカタルニアと同君連合国家となっていた(アラゴン連合王国)。1469年、アラゴン王子フェルナンド(1452-1516)とカスティリャ王女イサベル(イザベラ。1451-1504)が結婚し、1474年、ローマ教皇から授与された称号"カトリック両王"としてカスティリャ王国・女王イサベル1世(位1474-1504)と国王フェルナンド5世(位1474-1504)が共同統治した。さらにフェルナンド5世は父の死でアラゴン王国の王位も継承(1479)、フェルナンド2世(位1479-1516)として統治した。
イベリア半島に根強く定着するイスラム勢力を駆逐するため、8世紀ごろからキリスト教徒らによるレコンキスタ(国土回復運動)の精神により、同1479年、カスティリャ王国はアラゴン連合王国と合邦し、スペイン王国となった。
スペイン王国は、1492年1月、イベリア半島に残るイスラム勢力最後の拠点ナスル朝(1230-1492)の都グラナダを陥落させてこれを滅ぼし、レコンキスタを完了させた。女王イサベルはキリスト教国家の威厳を保つため、イベリア半島における宗教統一完了の後は、キリスト教領土拡張に燃えた。折しも大航海時代であり、ポルトガル王国もジョアン2世(無欠王。位1481-95)の治世下、スペインに先立って東方航路の開拓に努め、王は航海者バルトロメウ=ディアス(1450?-1500。父はヴェルデ岬発見者)にアフリカ周航を命じてアフリカ南端"嵐の岬"を発見させ、「喜望峰」と命名し、アフリカを廻ってインドに達する途を開いていた。
イサベルは、グラナダが陥落してまもなく、ポルトガルのインド航路とは逆に、大西洋を横断して西方航路の開拓を企画している、イタリア・ジェノヴァ出身のある航海者のことが気になった。その男こそ、クリストファー=コロンブス(1446/51-1506)であった。
コロンブスは、以前から航海術・天文学の知識を身に付け、航海に従事していたとされる。1479年にはリスボンに移ってイタリア人の娘と結婚したが、この時義父から新しい航海の資料を得た。それはイタリア・フィレンツェの天文学・地理学者トスカネリ(1397-1482)の「地球球体説」だった。この資料に刺激を受けたコロンブスは、大西洋を西航してインドに到達することを信じた。コロンブスは、早速ポルトガルのジョアン2世に後援を得るため、王室に向かった。しかし、東方航路を期待しているジョアン2世はコロンブスの依頼を拒み(1484)、同じくスペイン王室にも向かったが(1486)、当時レコンキスタによるグラナダ攻略に余念が無く、援助は得られなかった。イサベルはこの時コロンブスを知った。
イギリス王室にも依頼を拒まれたコロンブスは、再度スペイン王室に向かった。キリスト教領土拡張に野心を抱いていたイサベルはコロンブスの航海による新領土発見を期待し、コロンブスからの会見に応じた。1492年4月、イサベルはフェルナンド5世と共にコロンブスの援助を決め、コロンブスは遂にスペイン王の命で大西洋西航によるインド到達計画を実施するに至った。しかし、イサベルはそれほど重要には考えてはおらず、援助は彼女の所持品(指輪か)、ただ1つだったとされている。
同1492年8月3日、コロンブスは3隻の帆船(サンタ=マリア号・ピンタ号・ニーニャ号)と乗員120人を率いて、カスティリャのパロス港を出航、大西洋を西へと横断する航海が始まった。しかし快調に進むはずが、約10週間(72日)も航海が続き、食糧不足や未達の苛立たしさから船員間に不協和音が起こるなど、必ずしも順風満帆ではなかった。しかし10月12日未明、遂に陸地を発見、バハマ諸島の一部グアナハニ島に到達した。コロンブス一行は同島に上陸して、"サン=サルバドル島(=スペイン語で"聖なる救世主")"と名付けた。
その後、大アンティル諸島のキューバ、ハイチと探検し、ハイチに植民者を残して翌1493年3月に帰国した。コロンブス本人は到達地をインドの一部と信じてはいたものの、この航海はヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の糸口となった。
帰国後、コロンブスは周囲から大歓迎を受け、西航路発見に成功した恩賞として、王室から発見地の総督を任命された。しかし、陸地発見を安易な業績として妬んだ民衆も多く、彼らに対しコロンブスは、最初に行うのは難しいが、達成した後は容易いと反撃、"机上に卵を立ててみろ"と問いかけ、不可能と答えた民衆の前で、卵の底をつぶして立たせたという"コロンブスの卵"伝説もこの頃生まれた。
同1493年9月、コロンブスは20隻・乗組1500人と大幅に増加して第二次航海を行った。"コロンブス総督"として、今回の航海の目的は、植民地経営と金銀の鉱物・香辛料の発見だった。小アンティル諸島・ドミニカ・ジャマイカ・プエルトリコといったカリブ海の島々に到達したが、植民をめぐっては現地人との対立がおこったとされ、コロンブスも現地人の虐待の疑いをかけられて、本国に召還された。
1498年5月、コロンブスは第三次航海(1498-1500)を開始した。今度は小アンティル諸島の南端トリニダート島(現トリニダート=トバゴ)から南米ベネズエラのオリノコ川下流に上陸し、ドミニカのサント=ドミンゴに向かった。しかし今回も入植による不正の疑いがかけられ、逮捕・送還され、容疑は晴れたものの、総督など全ての地位を剥奪された。やがて、1502年に第四次航海(1502-04)に向けて計画をたてたが、王室はすでに彼を見限り、4隻の船を与えただけであった。それでもコロンブスは小アンティル諸島のウインドワード諸島の一火山島マルティニックを経由してホンジュラス・ニカラグア・パナマと、中米を探検し、帰国したが、植民地経営の失敗、鉱物採掘失敗、香辛料未発見といった失意の結果がその後も彼に付きまとった。同年、援助者イザベル女王も没したことで、周囲からは度外視され、隠退後は不遇な人生を歩み、1506年、最後までインドの一部に到達したと信じながら、5月20日、カスティリャ王国の都バリャドリードで、病気のため没した。"航海の王"と称された男の、悲惨な末路であった。一方のポルトガル王国は、かつてバルトロメウ=ディアスが発見した喜望峰を経由して、インドへと向かう"東からの"インド航路を目指し、1498年、ポルトガルの航海者ヴァスコ=ダ=ガマ(1469?-1524)に命じて、東方航路によってインドのカリカットに到達し、香辛料を手にして翌年リスボンに帰着したのだった。
いつも最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございます。遂に50作目となりました。2004年8月31日にスタートして、1年以上経ちましたが、その間に50作も掲載するとは想像もつきませんでした。当初は5~6行の純粋な受験用の内容のみであったのが、塾のホームページでありながら、完全な私の趣味として、大作主義に暴走してしまいましたm(_
_)m
実はVol.49の十字軍を書いている時はすでに、"Vol.50は必ずコロンブス"、と勝手に心に誓っていました。記念すべきVol.1が「マゼランの世界周航」でしたから、節目の50作品目は"大航海時代つながり"にしようと計画していたわけです。
さて、肉を食する中世のヨーロッパでは、胡椒などの香辛料は生活必需品となり、インドを主とするアジア産の香辛料を東方貿易(レヴァント)によって輸入が促進されました。1453年、オスマン帝国(1299-1922)のスルタン・メフメト2世(位1444,51-81)がビザンツ帝国(395-1453)を滅ぼして広大な領土を築いて以来、陸路による交易はオスマン帝国の介入を受けたため、これを避けて海路による貿易を必要としていました。絶対王政時代に突入していたヨーロッパは、国王の命で、新しい交易路を海に選び、新航路を発見する方へ向かったのです。
ヴェネツィアのマルコ=ポーロ(1254-1324)による「世界の記述(東方見聞録)」の伝聞、イスラム経由で伝播した羅針盤の実用化、造船などの技術革新なども背景にあって、15世紀から17世紀にかけての大航海時代が始まりました。
ポルトガル王国は、アヴィス朝(1385-1580)の初代国王ジョアン1世(大王。位1385-1433)の時、1415年、北アフリカのモロッコ北端で、ジブラルタル海峡南岸の都市セウタを攻略してイスラム教徒から略奪、これがポルトガル海外進出の出発点となりました。また、このセウタ攻略時に指揮をとったのが、ジョアン1世の子エンリケ航海王子(1394-1460)です。"航海王子"とは、後世にポルトガルの海外進出成功者として神格化されて叫ばれた呼称ですが、実を言うとエンリケ自身は船酔いがひどく、一度も航海はしなかったとされています。その後も彼は大西洋やアフリカの航海・探検を奨励・推進し、イベリア半島のヴィンセント岬に研究館を創建して地理研究・航海術の知識発展に努めました。その後、本編に登場したバルトロメウ=ディアスやヴァスコ=ダ=ガマといったインド航路にむけての長い航海が達成されていくのです。よって、インド航路を始めたのはスペインではなくポルトガルであることに注目しておいて下さい。
新大陸発見は、もとはと言えば西からインド航路を目指して行ったことから始まり、結果としてインド以上の巨大大陸を見つけることになったわけですが、こちらは、どちらかと言えばスペイン中心の政策です。コロンブスの新大陸発見(1492)で、スペインはローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)に依頼してヴェルデ岬西方560kmの子午線の西側での発見地をスペイン領とすることを認めてもらいましたが、ポルトガルはこれに反発して、1494年、子午線をさらに150km西に移動し、境界線の西側の発見地をスペイン領、東側の発見地をポルトガル領とするトルデシリャス条約を締結しました。これで、大西洋の管轄権は定められ、世界的な分割が両国において進められていったのです。この、トルデシリャス条約(1494)は意外とよく出題されますので覚えておきましょう。
その後、イタリアの探検家カボット親子(父ジョヴァンニ。1451?-98?。子セバスチャン。1476?-1557)がテューダー朝開祖ヘンリー7世(位1485-1509)の援助で北米海岸到達を達成、1500年にはポルトガルの軍人カブラル(1460?-1526)がブラジルに漂着してここをポルトガル領としました(カ"ブラ"ルと"ブラ"ジルで、"ブラブラつながり"で覚えよう)。またフィレンツェのアメリゴ=ヴェスプッチ(1454-1512)は新大陸がインドの一部ではないとする見解を打ち出し、新大陸発見者として、新大陸名を、彼の名前アメリゴから"アメリカ"と名付けられたのは有名な話です。他にも、スペイン人のバルボア(1475?-1517)は、パナマ地峡の横断後、「南の海」を発見(1513)してスペイン領としましたが、この海が、のちに世界周航でマゼラン(ポルトガル人。1480?-1521)が命名する"太平洋"だったのです。いちおう、バルボアは"太平洋"の発見者とされています。
コロンブスをはじめとして、エンリケ航海王子・バルトロメウ=ディアス・ヴァスコ=ダ=ガマ・カボット・カブラル・ヴェスプッチ・バルボア・マゼランら9人の航海者はよく出題される人物ですので覚えておいて下さい。
本編のコロンブスですが、彼の幼少期や少年時代は現代でも明らかにされてはいません。よって、生年もはっきりしていないのが現状です。コロンブスの所で出題されやすいのは、①トスカネリの学説を信じたこと②イザベラの援助を受けて航海したこと③1492年サン=サルバドル島に到達したこと、の3つですかね。特に②の政局事情はアラゴンとカスティリャからスペインになるまでの経緯も知っておいた方が良いでしょう。ちなみに本編に登場したナスル朝に関してですが、王朝遺産のアルハンブラ宮殿は、資料集でもよく目にする非常に美しい宮殿です。この宮殿名も知っておきましょう。