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チェコスロヴァキア、三つの転機
第二次世界大戦終結後に始まった冷戦(冷たい戦争)によって、戦後世界は東西陣営に分裂、緊張を走らせた。西はアメリカやイギリスを中心とする自由主義圏、東はソヴィエト社会主義連邦(ソ連)を中心とする共産主義圏という陣営がそれぞれ築かれ、政治的・思想的対立が激化していく。なかでも東陣営ではソ連を取り巻く東欧諸国が人民民主主義形態をとり、共産主義・社会主義を推進していくのであった。
1946年3月、イギリス・チャーチル(1874-1965,首相任1940-45,51-55)が発した"鉄のカーテン"演説により始まった世界の分裂は、その後米ソ対立を徐々に深めていった。アメリカは、トルーマン大統領(1884-1972,大統領任1945-53)によって掲げられたトルーマン=ドクトリン(トルーマン宣言。1947.3)による対ソ封じ込め政策と、マーシャル国務長官(任1947-49)による経済政策(マーシャル=プラン。1947.6。アメリカの援助によるヨーロッパ諸国の経済復興援助計画)を発表、これに対抗したソ連陣営は、コミンテルン(1943年解散)の再来ともいうべき共産党情報局(コミンフォルム。1947.10)を結成し、ソ連・東欧といった東側陣営の共産党をはじめ、西からフランスやイタリアの共産党も集めて政治的結束を固めた。このコミンフォルムの結成は西側諸国に危機感を与えた。
このコミンフォルムにはチェコスロヴァキア(1918-39,45-92)の名前もあった。チェコスロヴァキアは、第一次世界大戦後にサン=ジェルマン条約(1919.9)によってオーストリアから独立を果たして共和国となり(1918.10.28。チェコスロヴァキア共和国)、マサリク(大統領任1918-35)やベネシュ(大統領任1935-38,45-48)ら有能な政治家の尽力で土地改革や工業発展に努めていった。
当時のチェコスロヴァキアは、東欧諸国の中で政治的に最も"西欧に近い国"とされ、議会制民主主義国として発展していった。一方で、社会主義活動も盛んに行われ、マサリク大統領の時代に結成されたチェコスロヴァキア共産党(1921-1992)は、政府に対して常に批判的であり、社会主義運動を率先して行った。
またチェコスロヴァキアはチェコ人、スロヴァキア人、ドイツ人といった複合民族国家であっただけに民族対立もたえなかったため、1939年までユーゴスラヴィア・ルーマニアと"小協商"を結成して、フランスからの支援を得るなどして持ちこたえた。しかし、ナチス=ドイツによってドイツとの国境にあたるズデーテン地方を要求され、結果チェコスロヴァキアは解体(チェコスロヴァキア解体。1939.3)、スロヴァキアはドイツの保護国となり(1939.3)、ベネシュ大統領も一時イギリスへ亡命した。チェコスロヴァキア共産党員は非共産主義国のナチス=ドイツにより多大な弾圧を受けたため、ソ連に逃れてソ連陸軍(労農赤軍)に組み込まれるなど辛酸をなめた。
第二次大戦後、再びスロヴァキアと合一、ベネシュ大統領のもとでチェコスロヴァキアは復活、共産党も含む国民戦線政府を樹立して、中立路線の構想による東西世界の仲介を行おうとした。1946年に総選挙が行われたが、ここで共産党が第一党となり、党首ゴットワルト(1896-1953)の主導による連立政権が発足したが、東西の架け橋役を担おうとするベネシュ大統領の下で、マサリクの子ヤン=マサリク外相(1886-1948。外相任1940-48)をはじめとする反共閣僚と、内閣を組織するゴットワルト首相を中心とする共産党との間で、次第に亀裂が生じていった。
1947年6月に発表されたマーシャル=プラン、同年10月のコミンフォルム結成は、チェコスロヴァキアを揺れ動かした。チェコスロヴァキア共産党はコミンフォルムの参加を表明したが、マーシャル=プラン援助に関しては、意見が分かれた。祖国復活直後であるだけに、西側援助の必要性があるものの、祖国の復活はドイツ降伏後におけるソ連陸軍の援助によるものであり、第一党となった共産党勢力もソ連共産党の多大な影響を受けていた。ヤン=マサリク外相はマーシャル=プラン参加の方向で動いていたが、結局ソ連共産党によって圧せられ、これを機にチェコスロヴァキア共産党の権限が次第に増大化していった。
そして1948年2月、ゴットワルト内閣の中で反共路線を歩む閣僚11名が連立政権を辞任した。ゴットワルト内閣の不信任決議案を浮かばせようとしたのである。先を越された共産党は、警察・労働組合を味方に付け、首都プラハで大胆なデモを行った。この騒動に早期解決を迫られたベネシュ大統領は同月25日、11名の辞任と、反共派の消えたゴットワルト内閣を承認するに至った(チェコスロヴァキア=クーデタ。チェコスロヴァキア政変。二月事件)。これにて、チェコスロヴァキアは人民民主共和国となった(チェコスロヴァキア共和国。チェコスロヴァキア人民民主共和国)。
クーデタ後も外相を留任することになったヤン=マサリクだったが、翌月、外務省内で変死体(パジャマ姿)で発見され、当時は自殺とされたが、その後窓からの転落事故死とされた(近年、共産党員によって投げ落とされたという他殺の疑惑も生じたこともあり、真相は定かではない)。
6月、ベネシュは大統領を辞任、ゴットワルトが大統領に就任した(任1948-53)。ベネシュの掲げた"東西の架け橋"構想は幻となり、辞任して3ヶ月後、失意のうちに病没した。ゴットワルトはソ連の大指導者スターリン(1879-1953)を師と仰ぎ、ソ連の共産主義を大胆に推進、国有産業とコルホーズ(集団農場)の建設を展開、反体制者は次々と粛清された。チェコスロヴァキアが加わることによって、東側陣営の全政権は、人民民主主義の名において、親であるソ連に引っ張られた共産党独裁政権ばかりとなり(途中ユーゴスラヴィアが抵抗を示し、マーシャル=プラン受入を決めたためコミンフォルムから除名される。1948.6.28)、西側諸国への対抗力を強めた。
チェコスロヴァキアが人民民主主義による社会主義化でソ連の東側陣営の一員になったことは、西側陣営にとって大きな衝撃であった。このため西側では、1ヶ月後の3月、イギリス・フランスとベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の5カ国間でブリュッセル条約(西ヨーロッパ連合条約。正式名称"経済・社会及び文化的協力並びに集団自衛のための条約")が締結され、西ヨーロッパ連合(WEU。西欧同盟)を結成、反共による軍事同盟関係を築いた。これは、後の北大西洋条約機構(NATO。1949.4- )設立の契機となった。
チェコスロヴァキア=クーデタによって冷戦構造がこれまで以上に深化し、東西対立はいっそう激しさを増した。直後におこったのは、西側陣営が施した西ドイツにおける新ドイツ=マルクの導入である(西ドイツ通貨改革。1948.6)。WEUの隣国であり、東側陣営の一員となったチェコスロヴァキアの隣国でもあるドイツは、戦敗国として大戦終結後にアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の共同管理によって分割占領されていたが(首都ベルリンも4分割共同管理)、冷戦構造が深化するにつれて、アメリカ・イギリス・フランスの西側諸国は西ドイツ政府を樹立させ、陣営に組み込もうとしたのである。東ドイツを占領するソ連には通告なしでおこされたこの通貨改革によって、ソ連側は激怒し、東ドイツでも独自の通貨(東ドイツ=マルク)を導入した。このため、ベルリンは2地域の通貨が競合し、ソ連は東ドイツ通貨防衛策として、同月、西ベルリンへの陸水路(鉄道・運河・車道)の遮断と電気・ガス・食糧の供給停止を実行した(ベルリン封鎖。1948.6-1949.5)。西側陣営はこれに対抗して大空輸作戦を断行、民間機を動員して西ベルリンへ物資(食糧・医薬品・燃料・生活品)を運んだ。さらにトルーマン大統領は核兵器の搭載可能な長距離爆撃機をイギリスに配備するなどで、世界戦争の危機にさらされたが(ベルリン危機)、11ヶ月後にスターリンは解除し、武力衝突は避けられた。このベルリン封鎖によって、ドイツは東西に分裂へと向かい、それぞれ両陣営に組み込まれていくのであった。やがて、西側ではNATOが組織され、東側ではこれにやや遅れてワルシャワ条約機構(東欧8カ国友好相互援助条約。WTO)が組織された(1955.5)。
1953年3月にスターリンが没し、チェコスロヴァキアでも5月にゴットワルト大統領が師の後を追うように急逝、後を継承したチェコスロヴァキア共産党第一書記のノヴォトニー(任1953-68)は大統領をも兼任した。東欧圏ではスターリン批判が行われ、コミンフォルム解散が発表された(1956.4)。こうした中、唯一チェコスロヴァキア国内ではこれまでの体制を維持しつつ、国名をチェコスロヴァキア社会主義共和国として(1960)、独自の社会主義路線を推進した。しかし中央集権的計画経済は国民からの賛意は示されず、経済格差も高まる中で、徐々にノヴォトニー政権に対する批判が生まれ始め、チェコスロヴァキアの自由化・民主化運動がおこり、1948年2月の革命以来の大改革の予感がみなぎった。。
1968年1月、非スターリン化精神が爆発したチェコスロヴァキアで、遂にノヴォトニーは失脚し、第一書記にドプチェク(1921-92)が選ばれた(任1968-69)。"人間の顔をした社会主義"を合言葉に、検閲廃止・政治犯釈放・企業の自主管理などのさまざまな改革を行った。さらに西ドイツと友好関係を築くなど、東欧圏以外での外交にも着手したが、基本的に共産党による社会主義姿勢は変えなかった。3月にドプチェクは大統領も兼任、この政権によるチェコスロヴァキア自由化改革期は"プラハの春"と呼ばれた。
しかし、改革路線を歩んだドプチェク政権は、思わぬ岐路に立たされる。自由化が促進される中で、6月、数多くの改革要求の署名が行われ(「二千語宣言」)、さらなる民主化要求と共産党支配からの解放がさらに強まっていったのである。ドプチェクは緩い共産党の支配をもとに、自由化促進を掲げようとしていたのだが、これはソ連のブレジネフ第一書記(任1964-82)に危機感を募らせ、ソ連はワルシャワ条約機構に属する東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの軍ととともに、チェコスロヴァキア自由化阻止に向けた軍事介入を行った(1968.8。チェコ事件)。
結果、チェコスロヴァキアはWTO軍によって占領され、ドプチェクもソ連に連行された。その後ドプチェクは解放され、政界に復帰したが、すぐさま解任されて、フサーク第一書記(任1969-87)の政権が発足(1969-89)、チェコスロヴァキアにおける2度目の大革命であった自由化改革は、挫折してしまった。
チェコスロヴァキアが3つ目の大きな局面を迎えたのは1989年である。ベルリンの壁崩壊後(1989.11)、東西ドイツ統一(1990.8)が実現し、ポーランドやハンガリーは共和国となった。ルーマニアではチャウシェスク政権(1974-89)が滅ぶなどして(チャウシェスク大統領処刑。1989.12)、1989年を中心に東欧の社会主義体制が次々と崩壊した(東欧革命)。その後、コメコン(COMECON。東欧経済相互援助会議。西のマーシャル=プランに対抗し1949年1月設立)解散(1991.6)、ワルシャワ条約機構解散(1991.7)、ソ連共産党解散(1991.8)、そしてソ連消滅(1991.12.25)と、社会主義圏は解体へと向かっていき、冷戦時代は終焉を迎えていく。
チェコスロヴァキアも例外ではなく、1989年11月以降、東欧革命の波を受けた。同月、知識人や学生のデモが起こり、"市民フォーラム"なる反政府運動が展開、チェコスロヴァキア共産党は12月に一党支配が崩壊、フサークも大統領を辞任した(ビロード革命。ヴェルヴェット革命。他の東欧革命と違い、非暴力的な革命であったとしてこの名がある)。フサーク政権崩壊後、かつて人権擁護を求める"憲章77(1977)"に尽力し、ビロード革命を主導したハヴェル(1936- )が大統領に就任(任1989-92)、連邦議会議長にはドプチェクが就任した(任1989-92)。1990年6月には、実に44年ぶりの自由選挙が行われ、"市民フォーラム"派が圧勝した。
1993年1月、チェコとスロヴァキアは連邦体制を解消し、それぞれ共和国として(チェコ共和国・スロヴァキア共和国)独自の道を歩み、チェコスロヴァキア共産党も分裂した。チェコではその後ハヴェルがチェコの初代大統領に選ばれ(任1993-2003)、1999年にNATO加盟、2004年にEU加盟を果たした。同年スロヴァキア共和国もEU加盟とNATO加盟が決定し、現在に至っている。
連載108作目にして、初めて冷戦中心の時代をとりあげましたが、米ソを主体とした話ではなく、チェコスロヴァキア中心でしたので、少し難しい内容になってしまいました。スミマセンm(_
_)m
世界史Bのセンター入試では、第二次世界大戦後の内容が世界史Aに委ねられて、徐々に出題範囲が減少をたどっていますが、私立一般入試やセンター入試の世界史A・現代社会の分野では避けては通れない単元ですね。最も、受験生は冷戦時代に基本的事項は覚えておかなければならず、いくらセンターの世界史Bの出題範囲が削られたとしても侮ってはいけません。
さて、今回はチェコスロヴァキアが主人公です。西スラヴ系のチェック人やスロヴァキア人(スロヴァク人)が元祖ですね。チェコスロヴァキアが大きく登場するのは、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制下で、サン=ジェルマン条約でオーストリアから独立した時です。そして、第二次世界大戦直前の1939年にナチスによって解体させられ、スロヴァキアがドイツの保護国となった時も重要。あとは、冷戦時代のチェコスロヴァキア・クーデタ(1948)、プラハの春(1968)、チェコスロヴァキア分離(1993)の3大革命でしょう。マサリク父子、ベネシュ、ドプチェク、ノヴォトニー、ハヴェルといった人物は超マイナー系ですので、出題頻度は少ないです。ゴットワルトも全く出題されていないようです。
冷戦は東西それぞれの政治経済軍事の内容を知っておきましょう。まず政治部門ではトルーマン=ドクトリン(西)とコミンフォルム(東)、経済部門ではマーシャル=プラン(西)とコメコン(東)、そして軍事部門ではNATO(西)とワルシャワ条約機構(東)です。要注意ですね。
次回は9月初旬(2学期スタート時)に更新します。長く更新が途絶えますが、御了承願います。