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ウィーン体制下、イタリアでは自由主義とナショナリズムといった反体制が高揚していたが、とりわけ秘密結社・カルボナリ党の革命運動が特に活発化していた。ウィーン議定書において、イタリアのナポリではスペイン・ブルボン家が復活してしまい、当事国オーストリアより北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを奪われた。またそれ以前においても同地はナポレオン時代における侵略が甚だしかったように、全体的に不安定な立場にあったことから、イタリア各地では、リソルジメント(Risorgimento。"再興""復興"が原義)と呼ばれる外国支配からの解放と国家統一が盛んになった。
カルボナリ党の蜂起は失敗に終わり、党員だったマッツィーニ(1805-72)は、カルボナリ党が秘密結社だったことで、反体制派として逮捕され(1830)、フランスのマルセイユに亡命した。マッツィーニは、イタリア統一を完成させるためには、秘密結社ではなく大衆政党として立ち上がるのが得策と考え、1831年、同志と新たな組織「青年イタリア」を結成した。しかし、同地では受容されず、結局追われて翌1832年にはスイスに亡命した。
同じ頃、地中海第2の島サルデーニャ(サルディニア。コルシカ島からすぐ南に位置)では、サヴォイア家の王国"サルデーニャ王国"がおこっていたが、カルロ=アルベルト(1798-1849)が王位を継承してから(位1831-49)、自由主義的な憲法を制定するなど、ウィーン体制に対抗する自由主義運動を展開し始めていた。
1848年に起こったフランス二月革命の影響で、サルディーニャは領土拡張と王国の統一の野心を大胆に見せ始めた。もともと、サヴォイア家は読んで字の如く大陸に位置するサヴォイア(アルプス山脈フランス側斜面。トリノの西側地方)やピエモンテ(現イタリア最西部。トリノが中心都市)を領有していたが、ナポレオン時代にサルデーニャ島以外の大陸領土を全て失っていた。ウィーン議定書でサヴォイアとジェノヴァを併合できたものの、拡大統一の野心は捨てなかった。
民主的な共和主義によるリソルジメントを達成すべく、マッツィーニは、1833年に青年イタリアに参加したガリバルディ(1807-82)と意気投合、1834年ジェノヴァで青年イタリアの蜂起を企てたが失敗、しかもサルデーニャの軍隊の陰謀に加担したとして死刑判決を受け、スイス内を転々として結局ロンドンへ亡命となった(1836)。この間は"青年ヨーロッパ"や"青年スイス"なる組織も立ち上げている。ガリバルディも同地を追われ、1836年南米ウルグアイに身を置いた。そして、フランス二月革命が起こり、2人は再会、青年イタリアを再び立ち上げ、1848年義勇軍に参加、その後ローマで蜂起した。一方、サルディーニャのカルロ=アルベルトは、1848年、北イタリア統一を目指してオーストリアと対戦した(イタリア=オーストリア戦争とも呼ばれる。1848.3-49.3)。カルロはマッツィーニとの協力を要請したが実現できず、オーストリア・ラデツキー将軍(1766-1858)の軍隊に敗れ(ノヴァーラの戦い。1849.3)、カルロは退位、亡命した。子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(1820-78)にサルデーニャ王位を譲った(位1849-61)。
サルディーニャの対墺戦争が展開する中、マッツィーニもローマで戦闘を展開した。時のローマ教皇ピウス9世(位1846-78)は反動的で、ウィーン体制を支持していたため、身の安全を考えてローマを離れた(1848.11)。そして翌1849年2月、マッツィーニはローマ共和国(1849.2-49.7)の樹立宣言を行った。ピウス9世がローマ教会の保護者的存在であるカトリック国フランスに援助を要請したことで、ルイ=ナポレオン大統領(任1848.12-52.12。のちのナポレオン3世。位1852-70)はローマに軍を派遣、ピウス9世もローマへ戻り、ローマ共和国は1849年7月に崩壊した。ガリバルディ軍の必死の防衛も及ばず、リソルジメントに向けた、マッツィーニの立憲に基づく共和主義構想と統一の野望はまたしても挫折、青年イタリアも実質上は消滅してしまった。ローマ教皇領はフランスが進駐することになり、ガリバルディは同地を追われて再度亡命、マッツィーニも他国へ移って外からリソルジメントの計画を練り直した。
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は、宰相に自由主義者のカヴール(1810-61。任1852-61)を任命した。カヴールはトリノ出身で、自由主義思想とリソルジメントへの野望を持つ人物であり、1847年には『リソルジメント』誌を創刊して、カルロ時代から受け継がれている立憲体制の必要と、オーストリアへの報復、そしてサルデーニャのサヴォイア家を軸とするイタリア統一を主張していた。実はイタリア=オーストリア戦争の時、父であるカルロ前王が、会談したマッツィーニとサルデーニャの統率をめぐって意見が合わなかったことをヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は悔やんでいた。彼は、マッツィーニのように暴力と民衆蜂起でなりたつリソルジメントは限界があり、彼の共和主義思想は空想的であると批判、列強と手を組んでサルデーニャの国際的地位を高めてこそリソルジメントが実現できると考えていたのである。
ヨーロッパでは、この時期、東方問題に揺れ動いていた。1853年、黒海でクリミア戦争(1853-56)が勃発、ロシアはトルコと戦い、トルコにはイギリス・フランスが援助した。この情勢下、サルデーニャは、第二帝政となったフランス・ナポレオン3世に接近、遂に列強同士の戦争に参戦した(1855)。サルディーニャは英仏トルコの連合国側につき、ロシア相手に戦った。終戦後、パリ会議(1858)においてサルデーニャの国際的地位が高まり、フランスの後援によって、対オーストリア戦争への準備が整った。また亡命していたガリバルディが1854年に帰国、クリミア戦争に参戦するサルデーニャを見たとき、共和主義からのリソルジメントは非現実的だとし、サルデーニャによるイタリア統一を考えるようになった。一方マッツィーニは、1853年ミラノ、1857年ジェノヴァで革命運動を指導していた。
フィレンツェ市があるトスカナ地方など中部イタリアでは、同地方の諸邦がサルデーニャへの合併を希望し始めていた。そこでカヴールはナポレオン3世との関係を維持しながら、1858年、プロンビエールの密約を交わした。カヴールはサヴォイア家の中部イタリア併合承認の代償として、サヴォイア(サヴォイ)と港市ニース(ガリバルディの出身地)を割譲、フランスはサルデーニャの対オーストリア戦争の支援を約した。
プロンビエール密約を知ったオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(位1848-1916)は、サルデーニャが仕掛ける前に開戦に踏みきり、1859年4月、遂に第2次イタリア=オーストリア戦争が勃発した(イタリア統一戦争。1859.4-59.7)。この戦争には、ガリバルディも参加し、活躍した。パダノ=ヴェネタ平野に位置するソルフェリーノでの激戦で、フランスの援助を受けたサルデーニャが勝ちを収め、その後も連勝を重ねて、中部イタリアとその以北の諸邦の合併の気運が上昇した。
ところが、予期せぬ出来事が起こった。フランス・ナポレオン3世は、南接するイタリアが合併・統一によって強大化していく姿を脅威に感じ始めたのである。フランスはサルデーニャを見捨てて、同年7月、ヴィラフランカの講和をオーストリアと締結することになり、統一戦争は中途で挫折し、プロンビエール密約の締結内容も流れてしまった。これに失望したガリバルディは、サルデーニャから離反した。フランスは、ヴィラフランカの講和で、オーストリアからロンバルディアをサルディーニャ王国に割譲させる取り決めを行った。
イタリア統一戦争の結果、サルディーニャにおけるイタリア全土の統一は、北イタリアのロンバルディア併合のみとなった。しかも北イタリアにはまだヴェネツィアが残っていた。1860年、カヴールはサヴォイとニース割譲の代償として、サルディーニャの中部イタリア合併を実現させるため、同地の住民投票を行ってこれを決定し、3月、ナポレオン3世の合意をようやく取り付けた(中部イタリア併合)。
一方南イタリアでは、1815年のスペイン・ブルボン王朝の王政復古によって、ナポリ王国(1282-1815)がナポレオン支配から解放され、その後シチリア王国と合邦、両シチリア王国の復活が実現した(1815-60)。サルデーニャは今度、南イタリア併合を目指し、ガリバルディを利用する。1860年5月、カヴールの要請を受けたガリバルディは、自ら組織した義勇軍・"千人隊(赤シャツ隊)"を率いて、ジェノヴァからシチリアに向けて出発した。シチリア上陸後は住民に支援され、同島占領後(9月)、本土に上陸、南イタリアを征服した。半島内ではローマ教皇領が残っていたが、いまだフランス軍が軍隊を残していた。カヴールはガリバルディが、かつてマッツィーニとローマ共和国を立ち上げ、共和主義政権をおこすことに危惧の念を抱いていた。このため、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世自らガリバルディと会見することになり(1860.10.26)、会談の結果、ガリバルディはリソルジメントの完成という大義に変わりはないことで意見が一致し、再びサルデーニャによるイタリア統一を志し、同年、占領した南イタリアをサルデーニャに献上した(南イタリア併合)。
こうして、形式的ではあるが、リソルジメントは達成された。1861年2月、トリノでイタリアの代表が国会を召集、3月、遂にサヴォイア家によるイタリア王国が誕生、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代イタリア国王となり(位1861-78)、カヴールは首相に就任、1720年以来サルデーニャ王国の首都だったトリノを都に置いた。しかし、カヴールは力尽きて、直後にマラリアで病没、トスカナの執政官だったリカソリ(1809-1880)が首相に就任した(任1861-62)。1865年にはトリノからフィレンツェへ遷都した。
ヴェネツィアはいまだオーストリア領、ローマ(教皇領)はフランスが握っている。これ以外にもイタリア人居住地域でありながらオーストリア領のままである南チロルやトリエステなど、現在のトレンティノ=アルト・アルジェ州(州都トレント)や、現在のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア(州都トリエステ)地方、またはフィウメ(現リエカ。アドリア海東岸。現在はクロアチア領)といった港市があるイストリア半島など、"未回収のイタリア"と呼ばれる地域があった。統一といえども、回復しなければならない地域はたくさんあったのである。マッツィーニやガリバルディは1861年の王国成立は真のリソルジメント達成とは思ってはいなかった。特にマッツィーニは君主政ではなく共和政に徹底していたため、理想とはかなりかけ離れたものであった。その後マッツィーニは国際労働者協会(第1インターナショナル。1864-76)にカール=マルクス(1818-73)らと参加するが、マルクスやバクーニン(1814-76。アナーキスト)と意見が分かれて対立して脱退、イタリア議会に選出されたが、王政による活動はできないとしてこれを拒否、1872年、ピサで没した。
ガリバルディはマッツィーニのような共和主義精神はすでに捨ててしまっていたが、オーストリア領となっているイタリア人居住区やフランス軍が進駐しているローマが奪回できてこそ、真のリソルジメントが達成できると考え、翌1862年、単独で軍を率いたガリバルディはローマ奪回による進軍を行った。しかし失敗し彼自身も負傷した。
その後イタリア王国にとって願ってもない好機が訪れた。普墺戦争(ふおうせんそう。1866。プロイセン=オーストリア戦争)が勃発したのである。イタリア人居住地区が奪回できる数少ない機会であり、イタリア王国はプロイセン側に立って普墺戦争に参戦、ガリバルディも義勇軍を編成して戦った。結果オーストリアは大敗したが、奪回できたのはヴェネツィアのみであった(1866。ヴェネツィア併合)。その理由は、普墺戦争は"7週間戦争"と呼ばれるように、短期間で終了したため、ヴェネツィアより奥地のトリエステや南チロルといった"未回収のイタリア"地域は回収できなかったのである。
また、1870年に勃発した普仏戦争(ふふつせんそう。1870.7-1871.2。プロイセン=フランス戦争)により、フランス軍はローマから撤退した。これを契機と見たイタリアは、ガリバルディ軍の手を使おうとせず、正規の政府軍でローマ教皇領を占領した(1870。教皇領占領)。ガリバルディは失望して、遂にイタリアを捨て、フランス軍を支援した。その後ガリバルディはフランス政府に従事しようとしたが、同国民に疎まれて引退、サルデーニャ島北東部にあるカプレーラ島(マッダレーナ諸島の1つ)で余生を送った。
ヴェネツィア併合と教皇領占領で、イタリア王国の統一は、ほぼ完成された。1871年、同王国の首都もフィレンツェからローマに遷した(ローマ遷都)。教皇領はフランスによって独立を守られていたため、イタリア軍に占領された際のローマ教皇ピウス9世は、イタリア側から提案された教皇位の保障などを拒否し、自身は捕らわれた"ヴァチカンの囚人"であると宣言した。よって、イタリア政府とローマ教皇庁ヴァチカンは、1929年、ムッソリーニ首相(任1922-43)とローマ教皇ピウス11世(位1922-39)との間でラテラン条約が締結されるまでの約60年間、断交状態であった(この条約でローマ市の一画にヴァチカン市国が成立)。
最後に残された"未回収のイタリア"は、オーストリアからの解放を目指し、その後も併合する機会を窺っていた。第一次世界大戦(1914-18)の勃発当初は、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)の一員でありながら、オーストリアと対戦するために同盟を離脱、連合国軍側(三国協商)について、1915年5月、遂に参戦(第一次世界大戦のイタリア参戦)、イタリアはオーストリアと戦った。大戦は同盟国軍の敗戦で終わり、オーストリアはサン=ジェルマン条約の締結を結ぶことをパリ講和会議(1919)で決定した。この条約は9月に締結、"未回収のイタリア"地域は、イタリア王国に割譲された。ただしイストリア地方のフィウメはユーゴスラヴィアに領有されてしまうが、イタリアの学文学者であり、国粋派でもあるガブリエル=ダヌンツィオ(1863-1938)なる人物が率いた義勇軍によってフィウメを占領、イタリア政府も支持した。イタリアの完全統一は、強引にしろ、この時達成されたと思われたが、フィウメ市は1920年のラパロ条約によって自由市に留まり、国際連盟の管理下に置かれるようになった。フィウメの併合は1924年にムッソリーニによって実現された(フィウメ併合)。
第2次世界大戦(1939-45)ではイタリアは敗戦国となった。1946年6月に200万票差で王政廃止が決まり、最後の王ウンベルト2世(1946)は退位、サヴォイア家の支配は終わり、イタリア共和国の樹立が宣言された(1948年1月正式発足。同年共和国憲法制定)。
マッツィーニの生前の活動は、失敗と誤解の連続だったが、彼の理想は後世の人々に影響を与え、時代が変わってもその精神は決して潰えることはなく、マッツィーニの死後74年目にして、彼の理想であったイタリアの民主的な共和主義化が、形は違えども遂に実現できたともいえよう。
"イタリア統一の三傑"と呼ばれる、マッツィーニ、ガリバルディ、カヴールが登場するのが今回の目玉です。マッツィーニはもともと身体が弱かったとされています。弁護士の資格も持っていた人物です。ガリバルディは南米亡命時代においても同地で多くの功績を残しています。この2人は、イタリア以外の地においてもいろいろやっておりますが、カヴールはピエモンテ名門貴族の家柄出身で、トリノで生まれて、一歩も国外に逃げることなく、まさにイタリア統一のために生涯を捧げたような感がありますね。
さて、今回のイタリア統一ですが、サルデーニャ王国による統一となっています。受験世界史においては、1870年のローマ教皇領の占領においてリソルジメントの達成と見ています。未回収のイタリアの回収は第一次世界大戦後になります。
ではポイントです。まずリソルジメント運動のきっかけとなったのが、サルデーニャ王カルロ=アルベルトの対墺戦争(1848-49。敗北)と青年イタリアを引っ張るマッツィーニのローマ共和国建設(フランスにより挫折)の2点です。カルロ王はここでしか登場しませんので、イタリア統一前半での要注意人物ということになります。。
カルロ王退位後、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と宰相カヴールを中心にイタリア統一運動が展開します。まずなんと言ってもクリミア戦争の参戦でしょう(1855)。これは重要ですね。結局サルデーニャの国際的地位が向上しましたからね。ここがカヴール外交の本領発揮といったところで、フランスのナポレオン3世とプロンビエールの密約を交わします。ここではサヴォイとニースをフランスへ明け渡す変わりに対墺戦争に協力するという密約です。
統一戦争勃発後は、サルデーニャの連勝でしたが、フランスが強引に停戦させてしまいました。ここが個人的にナポレオン3世の気に入らないところですが、情勢上、仕方なかったのですね。
さて、統一への道程は、まず中部イタリア併合、ついで南イタリア併合(ここでガリバルディが千人隊で協力)でおおまかなイタリア統一ができあがります。あとは普墺戦争に乗じてヴェネツィアを、普仏戦争に乗じてローマ教皇領をいただきます。これで完成です。大事なのは、教皇領占領の直後、ローマへ遷都していることです。
あと、未回収のイタリアはサン=ジェルマン条約(1919)で南チロルやトリエステがイタリア領となります。この条約はベルサイユ体制の一環で、パリ講和会議で決定した条約です。ドイツのベルサイユ条約、ブルガリアはヌイイ条約、ハンガリーはトリアノン条約、トルコはセーヴル条約とワン・セットで覚えてください。
フィウメ併合(1924)と、ヴァチカン市国の誕生(ラテラン条約。1929)は、いずれもムッソリーニのファシスト政権時代(首相任1922-43)に施されました(フィウメを自由市としたラパロ条約締結は1920年)。ちなみに、ガリバルディが率いた千人隊は通称"赤シャツ隊"と呼ばれましたが、ムッソリーニが1922年10月、政権奪取のクーデタ、いわゆるローマ進軍を行った時、組織した軍隊が行動隊といい、通称"黒シャツ隊"と呼ばれています。行動隊はめったに試験に出ることはありませんが、興味深いですね。