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天使、灯を掲ぐ
クリミア戦争(1853-56)がロシアとオスマン帝国(1299-1922。オスマン=トルコ)間で勃発した。ロシアの進出を阻むイギリスは、フランスとともに翌1854年3月、トルコ側について参戦、2万人のイギリス軍がクリミア半島(現ウクライナ共和国。黒海に突き出た半島)に上陸した。ロシアの軍港である要塞セヴァストーポリでの1年近くに及ぶ籠城戦は海から、また陸からの総攻撃で、激戦となっていった。英仏中心の連合軍は翌1855年9月に同要塞を陥落させ、英仏側が勝利を収め、戦争は終結した。
イギリス軍は戦勝国であったが、激戦であったため被害も甚大であった。後方基地と野戦病院はスクタリ(現ユスキュダル。ボスフォラス海峡東岸)に設置されていたが、戦傷を負った兵士が山のようにスクタリに運び込まれていった。特に前線で負傷した兵士は、スクタリに到着するまでに傷が悪化、さらに到着後のスクタリでの野戦病院の不衛生さ、あるいは救援物資の不足、軍医長官のお役所的な管理体制といった二次被害によって、傷病兵は息絶えていくばかりであった。
イギリス参戦から8ヶ月後、クリミア戦争の惨状はロンドンタイムスによって国内に伝わり、世論が沸き立った。陸軍大臣を務めるシドニー=ハーバート(1810-61)は、この事態を重く受け止め、看護団の救援を求めた。看護団は看護婦を中心に約40名で構成され、陸相の信頼を得て、この看護団を率いたのがフローレンス=ナイティンゲール(ナイチンゲール。1820-1910)であった。
ナイチンゲールはイギリスのジェントリの娘(次女)であり、両親の新婚旅行中、イタリアのフィレンツェに生まれ(1820)、フィレンツェの英語読みである"フローレンス"と名付けられた。
ナイチンゲールが成人に達した1840年代、イギリスは、"飢餓時代"と呼ばれる経済不況を招き、市民の貧困化が高まっていた。隣のアイルランドにおいても、じゃがいもに蔓延した疫病により大飢饉が発生(ジャガイモ飢饉)、餓死者・他国への移住者が激増した。貧困化した農村地帯の惨状を目の当たりにしたナイチンゲールは、病院・慈善施設を訪問するうちに、貧窮・病気による悲惨な生活を余儀なくされた人々に奉仕したいと思うようになり、看護の道を歩み始めた。政治家パーマストン(1784-1865)や公衆衛生に取り組んだ社会改良家チャドウィック(1800-90)らの激励を受けながら正規の看護教育を受け、本格的に看護に携わるようになったのは33歳の時、シドニー=ハーバートの妻の紹介で就職した、ロンドンの"淑女病院"であった(1853)。
"淑女病院"は女性だけで営まれた小病院であったが、彼女は懸命に看護に従事した。看護もさることながら、管理者としての才能も発揮し、患者に対する食事の管理や、病室の間取りの設計、さらには病院そのものの建築設計も発案した。また彼女の偉業は給水・給湯の設備を病棟全室に設け、患者が看護婦を呼ぶための発信灯(現在の"ナースコール"の起源)の発明まで及んだ。
しかしここまで施すにも長い道のりであった。当初は無給であり、父の支援だけで生活を強いられたが、国内各地の病院を訪問して状況調査を行ってきた。調査の結果、看護婦という職は、単に病人の世話役としての価値にすぎないとされていたことが分かったのである。ナイチンゲールは、本格的な看護教育を受けさせ、価値ある専門職としての位置づけの必要性を主張し、看護婦の地位向上に尽力した。そして、同年、ナイチンゲールは、淑女病院の看護婦長(看護監督)に就任したのである。そして、翌1854年3月、イギリスのクリミア戦争参戦が発表され、10月、看護団を組織してスクタリに向かい、淑女病院を後にした。
現地の兵舎病院では陸軍の軍医長官であるホール(1795-1866)の管理体制におかれていた。11月に到着した看護団に対し、ホールは冷遇的態度であった。看護団の病院入室を拒否し、従軍に嫌悪感を示したのである。このため、ナイチンゲールら看護婦は同地の不衛生さを取り払うため、病院の便所や手洗い場の清掃に取りかかった。
やがて、セヴァストーポリ戦が激化し、スクタリには山のように積み上げられるほどの傷病兵が送られてきたため、ナイチンゲールらは看護にようやく従事できるようになった。傷口の消毒から衛生における体の洗浄、また包帯、寝具、衣類など日用品を自弁でもって調達、そして常に患者のそばから離れることなく、ろうそくのランプを手に夜回りを行い("ランプの貴婦人"・"光を掲げる貴婦人"と呼ばれた)、また病室を増やして入院をさらに可能にさせるなど努めるも、大数に及ぶ傷病兵の臨終に立ち会わねばならない現状は避けられず、翌1855年初頭に流行した疫病で、患者のみならず、同僚や軍医までも命を落とす悲運も襲いかかるなど最悪であった。しかし、ナイチンゲールは、こうした現状を打破するため、看護婦同士の規律を高めて社会的な信頼を築くことに努力したことで、傷病兵からは大いに絶賛され、"クリミアの天使"とうたわれた。また当時のイギリスはヴィクトリア女王(位1837-1901)の治世であり、同じ女性としてナイチンゲールの尽力を高く評価した。
ただ現場での不衛生は未だにぬぐえず、疫病の蔓延は思うように終息できないでいた。この時、これまでナイチンゲールを支援してきた政治家パーマストン(1784-1865)が首相になり(外相任1830-34,35-41,46-51。内相任52-55。首相任55-58,59-65)、事態は好転した。陸軍省から組織された「衛生委員会」の現地への派遣が決まったのである。これにより、上下水道設備と換気設備を点検して衛生管理を徹底、死亡数が激減したが、後になって、これまで大勢の傷病兵が死亡した原因は、戦傷がもとではなく、病院の不衛生からくる疫病の蔓延が原因であることが突きとめられた。
クリミア戦争は、1856年終結した(パリ条約)。2万人以上の死者を出したが、凡そ3分の2が病死であり、そのほとんどは疫病であった。その後病院は片づけられていき、徐々に帰国の途につき始めた。
ナイチンゲールの功労はすでにイギリス国民に知れ渡り、国民的英雄であった。しかし彼女はこれをひどく嫌った。彼女の尽力があったにせよ、多くの人々を助けられなかったことの無念さ、そして自身に対する未熟さを痛烈に感じたことで、ナイチンゲールは、7月最後の患者が退院した後、"スミス"という偽名(母の名を使用か?)を使って人知れずに帰国した。
帰国後、ナイチンゲールはヴィクトリア女王と謁見、勲功を讃えられた。その後のナイチンゲールは病院状況を、独自の統計方式で分析するようになった。大量に及ぶ統計資料を作成して、保健制度から陸軍の衛生問題(兵舎・軍医局・陸軍病院の管理)を含む病院改革を考案した。またその時の統計資料は、"鶏のトサカ"と呼ばれる扇形状の円グラフで、月ごとに突出させた扇形の円弧で、クリミア戦争時の死亡率を表した。グラフによる統計資料を確立させた、当時としては斬新な発想であったため、統計学においても革命的であった。
また戦時中にシドニー=ハーバートら多くの支持者たちの呼びかけによって創設され、集められたナイチンゲール基金は、ロンドンの聖トマス病院内に「ナイチンゲール看護学校」の設立費に充てられ、1860年に完成を見た。この影響で、国内を始めイギリス連邦内に看護学校が設立されていくなど養成システムが整い、看護婦としての地位を確立させるとともに、レベルが高く優秀な看護婦を生み出すようになっていった。1860年はナイチンゲールの『看護覚書』が著された年で、看護教育者のバイブルとして、広く読み継がれていった。
また彼女の功績は多くの人の心を動かした。銀行家だったスイスのアンリ=デュナン(1828-1910)が彼女の看護活動に感銘を受け、1863年ジュネーヴにおいて国際赤十字社を設立して活動を行い、翌1864年には赤十字規約によって条約が締結され、16ヵ国が参加、国際赤十字連盟の成立に至った原点というのは、紛れもなくナイチンゲールの功績からであった。
イギリスは植民地インドでの大反乱(1857。シパーヒーの反乱。セポイの反乱)に悩まされるが、ナイチンゲールはインドにおいても衛生管理の改善に尽力、上下水道の点検、灌漑用水の設置などに努めた。晩年は看護活動を減らしていったが、1883年にはヴィクトリア女王より赤十字の勲章("Royal Red Cross")を授与、1907年には女性としては初めてのメリット勲章を授与された。この年は第8回赤十字国際会議が開かれていたが、この決議と1912年の第9回の決議に基づき、ナイチンゲール基金によって創設されたのがナイチンゲール記章であり、赤十字国際委員会の選考によって看護に大きく貢献した看護婦・看護士に与えられ、第1回記章授与は1920年に行われた。
1910年8月13日、ナイチンゲールは90歳で没した。墓碑には"F.N."のみ刻まれたが、生前、英雄・有名人として扱われるのをひどく嫌った彼女が、フルネームで残すことを拒んだことに因んだためであった。人のために生き、傷病に悩む人々に"光"を掲げ、近代看護制度の確立に大きく貢献した偉大なる功労者に、国民はその死を惜しんだ。
5月12日はナイチンゲールの誕生日で、現在は「看護の日」となっています。ナイチンゲールの生涯を研究するまで、私は彼女を単なる"クリミアの天使"、もしくは"白衣の天使"の祖、看護学を確立させた人という解釈しかなかったのですが、まさか、病院建築の設計に長け、統計学に通じる、陸軍経営の改革者であるとは思ってもみませんでした。世界史上、稀に見る偉人でしたね。
"ランプの貴婦人"伝説は、現在の看護学生の戴帽式の際、ナイチンゲール像が手にするろうそくから、学生たちが自身のろうそくに分火し、"ナイチンゲール誓詞"を交わすという儀式に受け継がれています。
さて、今回の学習ポイントです。ナイチンゲールの名前は一般常識として知っておくべきですね。19世紀のヨーロッパ文化のセクションで登場しますが、その中の国際運動の分野で、デュナンと一緒に登場しています。2人の名前はもちろんのこと、デュナンの設立した国際赤十字社も知っておきましょう。ナイチンゲールの生涯は、残念ながら受験世界史には登場しませんが、クリミア戦争時代、広く言えばヴィクトリア女王の時代に生きたことを知っておきましょう。公衆衛生・疫病予防に力を尽くしたチャドウィックも、一応新課程の用語集に登場しておりますので、余裕があれば彼も知っておくと便利です。
ちなみに国際運動のセクションに登場する"万国○○、国際○○"は、万国博覧会(ロンドン万博が最初)、万国郵便連合、万国平和会議、国際オリンピック大会、国際電信連合、国際仲裁裁判所、国際労働者協会(いわゆる第1インターナショナル)などがあります。要チェックです。
本編では大英帝国の全盛期を現出したヴィクトリア女王が登場しました。ヴィクトリア時代は入試においてもかなり重要です。選挙法改正とか、アイルランド問題とか、穀物法とか、チャーティスト運動とか、イギリス自治領とか、インド帝国とかとか、覚える事項がいっぱいあります。用語集で確認しておきましょう。余談ですが、ヴィクトリア女王の次女にアリス=モード=メアリ(1843-1878)という人物がいます。彼女はヘッセン大公妃であり、またナイチンゲールの弟子として医療や福祉に貢献した人としても名が知られています。35歳にジフテリアにかかった子を看病している最中、自身もジフテリアにかかり死亡しています。入試には登場しませんが、興味深いですね。
ちなみに、オマケとして、こういう話も付け加えておきましょう。傷病兵が、親身になって看護をするナイチンゲールの影にキスをしたという伝説から、世話をする人と、される人との間に愛情が芽生えることを、"ナイチンゲール=シンドローム(症候群)"と言うそうです。あと、ヨーロッパでナイチンゲールと呼ばれる鳥がいますが、これは彼女の名前や生涯とは関係がないようで、日本ではサヨナキドリとか、ヨナキウグイスとかという別名を持つツグミ科の鳥だそうです。鳴き声は綺麗で美しいと言われますが、こうした事柄も看護婦・ナイチンゲールに投影されて、理想の女性像として、長く慕われ、そして尊敬され続けているゆえんでしょう。
次回は11月中旬に更新いたします。ずいぶんと間があきますが、それまでご辛抱下さいませm(_ _)m