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東方問題・その1~ムハンマド=アリーとエジプト=トルコ戦争~はこちら●
キリスト教の聖地イェルサレムは、16世紀以降、ローマ=カトリック教会の保護者として、カトリック国フランス王のもとで管理されていた。しかし、フランス革命(1789-99)がおこると、その管理権(聖地管理権)は、ロシアの支持を得て、カトリックからギリシア正教徒(ギリシア正教会。東方正教会)の手に渡った。
1453年、オスマン帝国(1299-1922。オスマン=トルコ)の攻撃により、コンスタンティノープル(イスタンブル)が陥落して、ビザンツ帝国(395-1453)は滅亡したが、このときコンスタンティノープル総主教(西のローマ教皇に対する、東のギリシア正教会の首長)は、スルタンのもとで被征服キリスト教徒の首長となっていたため、フランス革命以降、手渡った聖地管理権はオスマン帝国によって握られることになった。
さらに、18世紀になって、オスマン帝国内のカトリック教徒はフランスが、ギリシア正教徒はロシアが、それぞれの保護者となって管理するという協定が締結されていたため、聖地管理権をめぐって、カトリックを代表するフランスと、正教会を代表するロシアとの間で係争が生じ、1850年代に入るとさらに激化した。
オスマン帝国は、エジプト事件(エジプト=トルコ戦争。1831-33,39-40)解決後、アブデュルメジト1世(位1839-61)が、宰相ムスタファ=レシト=パシャ(1799-1857)のとともに統率していた。イギリスとフランスの支援を得るため、1839年、トプカプ宮殿のギュルハネ庭園において、"ギュルハネ勅令"を布告したアブデュルメジト1世は、オスマン帝国の政治・経済・軍事・社会における様々な近代西欧化改革を施すことを決めた。これはタンジマート(恩恵改革。1839-76)と名付けられ、西欧諸国からの圧力による"上からの近代化"として進められたものであった。イスラム教徒でない住民にも改革の対象となり、徴税請負の廃止や徴兵制改革、司法改革、臣民の生命・財産の保障などが盛り込まれた。1838年に、オスマン帝国はトルコ=イギリス通商条約を機に市場開放を行ったが、条約相手国・イギリスの本来の目的は、市場開放によってオスマン帝国の国家財政を破綻させ、借款が発生することで、イギリス外債を導入するという干渉策があった。
この外債導入は"軍事費"という思わぬ形で促進された。前述の聖地管理権問題を握るオスマン帝国に対して、フランス第二帝政(1852-70)が始まったばかりの、皇帝ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン。位1852-70)が圧迫、自身がカトリック保護者として、聖地管理権を要求してきたのである。タンジマートの一環としたのか、オスマン帝国はこの要求を受け入れて、聖地管理権をフランスに譲り渡した。
ロシア・ロマノフ朝(1613-1917。"ヨーロッパの憲兵"と呼ばれた)の皇帝ニコライ1世(位1796-1855)は、フランスのこうした抜け駆けを許すわけはなかった。ロシアは、ギリシア正教会の一派、ロシア正教会である。ロシアは、正教徒が領内で管理していた聖地管理権を、カトリック国フランスに手渡したオスマン帝国に迫り、譲渡撤回を強く求めた。強行策として、ロシアは軍を進めてオスマンの宗主下にあったモルダヴィア(モルドヴァ。ルーマニア東北部。ベッサラビア地方はロシアに奪われた)・ワラキア(ルーマニア南部。ルーマニアの首都ブカレストがある地域)両公国を占領した。
実際、ロシア・フランス両方にとっても、聖地管理権に対してはどうでも良く、オスマン領土をどの国が入り込むかによって、形勢や権益が変わっていくわけである。ロシアがオスマン領に進出すれば、黒海・地中海の制海権、またバルカン半島の制圧は容易に行えるだろうし、パン=スラヴ主義(全スラヴ統一主義)となって、西欧諸国に対して大きな圧力となる。フランスはオスマン領、特に1830年代はオスマン領エジプトに執着し、イギリスらの圧力で失敗はしたが、ナポレオン3世は、フランス国内の産業発展を目指し、かつて伯父ナポレオン1世(ナポレオン=ボナパルト。位1804-14,15)の行った植民地拡大主義の第一帝政(1804-14,15)の復興を実現したいという野心があった。また言論弾圧や議会軽視をはじめとする皇帝独裁によって反動化したフランス体制に、国民が不満を持たずに、常に人気を維持させる策として行うための対外進出でもあった。
一方、イギリスも東にはイギリス領インドがあり、オスマンが解体となると近隣のインドも危機的状況となる。経済もこれまで大市場を誇り、"世界の工場"と呼ばれて産業発展の頂点にいたイギリスも今度ばかりは黙視できず、フランスやロシアにも牽制球を投げながら警戒していた。東方問題(イースタン=クェスチョン)には、そうした恐ろしさがあったのである。
オスマン帝国は、結局ロシア・ニコライ1世によって、オスマン帝国解体の提議をイギリスに持ちかけられる羽目になった。ニコライ1世はオスマン帝国を"瀕死の病人"となぞらえ、聖地管理権問題を口実としてオスマン帝国に宣戦した。すでにルーマニア地方(モルダヴィア・ワラキア両公国)を占領されて、病人となっているオスマン帝国は、市場開放で財政困難に陥りつつある中、ロシアと戦うことになったのである。舞台は黒海のクリミア半島(現・ウクライナ共和国内。保養地ヤルタで有名)であり、クリミア戦争の勃発であった(1853-56)。
オスマン帝国には、ロシアの南下政策に警戒するイギリス、皇帝ナポレオン3世が、自身の威信を拡大させようとしているフランスが支援することになり、翌1854年、英仏両国連合軍はロシアに宣戦、黒海沿岸でロシアと対峙することになった。翌々1855年には国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(位1849-61)が統率するサルディーニャ王国(北イタリアとサルディーニャ島。首都トリノ)も連合軍に参加した。
一方のロシアは、ウィーン体制を共に支えてきたオーストリアからの支援を期待するが、すでに崩壊したウィーン体制の面影のないオーストリアでは、すでにウィーン体制の統率者メッテルニヒ(任1809-48)は、政界においては過去の人となっており、自由主義が蔓延していた。どちらかといえば、オーストリアは、バルカン進出を狙うロシアに対して、警戒する傾向にあったため、クリミア戦争に関してはロシアに味方せず、徹底して中立を保った。このため、ロシアは完全に孤立した。
クリミア半島での激戦は、1854年のロシア黒海軍隊の要塞港市セヴァストーポリにおいて、イギリス軍2万、フランス軍3万、そして6千のトルコ軍が、海から陸から攻撃、5万のロシア軍を包囲し、11ヶ月間籠城戦を繰り広げた。この結果、1855年9月、ロシア人が難攻不落の要塞として誇っていたセヴァストーポリが陥落した。ロシアは、自国よりはるかに優れていた西欧列強の軍事技術をまざまざと見せつけられてしまったのである。これによりロシアは大敗北を喫した。ロシア兵として従軍した文豪トルストイ(1828-1910。著書『戦争と平和』『アンナ=カレーニナ』など)は、セヴァストーポリ籠城戦についての生々しい有り様を、著書『セヴァストーポリ』で綴っている。
クリミア戦争はパリ条約(1856)で講和となった。それによると、オスマン帝国及びロシアに対して、以下の内容が規定された。
①オスマン帝国の独立と領土保全
②オスマン領内の宗教非差別化
③オスマン帝国に対する内政不干渉
④ダーダネルス=ボスフォラス両海峡閉鎖の原則確認
⑤黒海の中立化
⑥ドナウ川航行の自由化
⑦ロシアは、元来モルタヴィア公国領だったベッサラビア地方を同公国に譲渡する。そのモルタヴィア・ワラキア両公国は、連合公国として自治権を承認、事実上独立。
⑧オスマン帝国の支配下におかれていた南スラヴ民族国家・セルビアの自治権承認。
ロシアは、エジプト事件で失敗した南下政策を、再度挑むも、またしてもイギリス・フランスら西欧列強に阻まれてしまった。ニコライ1世は、セヴァストーポリ陥落のショックで没し(1855)、即位した子アレクサンドル2世(位1855-81)は、敗戦して露呈した自国の後進性を見つめ直し、"上からの改革"に踏みきって、裁判制度再編、軍政の改革、農奴解放(1861)など諸改革をおこしていく。
一方、一応の戦勝国となったオスマン帝国だったが、過剰な市場経済によって海外産業が多く入り込み、国内産業は低下、またクリミア戦争における軍事費としての外債導入が、ここへきて財政逼迫へ向かった。アブデュルメジト1世没後(1861)、その弟で、35代スルタンとして即位したアブデュルアジズ(位1861-76)は、学力・政治力は兄には到底及ばず、タンジマートを形式上、継承したにすぎなかった。アジズは外債が積み上げられているとも知らず、財政悪化が進むのを顧みずに浪費を繰り返した。オスマン帝国の歳出のほとんどは、続けざまに行われた借款の返済に充てられ、遂に利子返済不能の宣言を行って(1875)、国家財政の破綻を発表した。1856年のパリ条約でオスマン帝国がトルコとしてヨーロッパ国際社会の一員となったにもかかわらず、その後は無能な皇帝の専制化に悩まされた。タンジマート時代に学識・教育を積んだ知識人階級(新オスマン人)は、スルタンを批判して、立憲制の呼び声を高めた。
主権下の領国では、1875年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナ(スラヴ系住民が多い。バルカン西南部)、1876年ブルガリア(ブルガリア人はトルコ系遊牧民ブルガール人がスラヴ化した南スラヴ系民族)やセルビアらによる対オスマン帝国への武装蜂起が続発、パン=スラヴ運動が爆発したが、トルコ軍によって、多くのスラヴ民族が残酷に殺害された(特にブルガリアは甚だしく、激しい虐殺が行われた)。列強介入の危機にさらされたアブデュルアジズは同年退位、幽閉された。
直後、アブデュルメジト1世の長子ムラト5世(1840-1904)が即位した(位1876)。ムラト5世は新オスマン人を保護し、立憲制を強く訴えたとされるが、退位した前スルタンのアブデュルアジズに警戒され、精神の不安定化を避けられず、在位わずか3ヶ月余で退位したとされる。すると弟アブデュルハミト2世(位1876-1909)が即位し、アジズ帝のとき大宰相だったミドハト=パシャ(1822-84)を再度、大宰相として起用した(1876)。ミドハト=パシャはその名の通り、1860年にパシャの称号を与えられ、アジズ帝のとき大宰相に任命されたが(1872)、彼は元来自由主義路線と立憲制を強く求めて内政改革を行ったため、保守派官僚に嫌われ失脚していた。ミドハト=パシャは、同1876年、ハミト2世のもとで、二院制議会と責任内閣制を盛り込むミドハト憲法を起草し、同年発布した。これにより、アブデュルメジト1世のギュルハネ勅令によっておこされたタンジマートの時代は終焉となった。
アブデュルハミト2世は、もともと東方問題をめぐるヨーロッパの世論をかわすことが目的であり、憲法施行にはいささか難色を示していた。これはスルタンとしての専制化の希望があるにもかかわらず、新オスマン人への懐柔と列強介入の阻止のためにミドハト=パシャを起用した、やむを得ない処置であった。アブデュルハミト2世はイスラム統一主義(パン=イスラム)を掲げて専政支配の姿を次第に現していくのである。
ロシアでは、パリ条約の規定が納得がいかず(特に黒海の中立化に関して)、アレクサンドル2世の改革も不充分であったため、南下政策の達成を棄てきれずにいた。やがて、フランス・ナポレオン3世が普仏戦争(1870-71)でプロイセン首相のビスマルク(1815-98)に敗れ、1870年には第二帝政が倒れた。またオスマン帝国下でのバルカン半島や、オーストリア領内で、パン=スラヴ主義によるトルコ圧政からの解放運動がさかんになっていったことも幸いにして、好機と判断したロシアは、再び南下政策の発動をかけ、同1870年、黒海中立破棄の宣言を行って、パリ条約の改定を強行、翌1871年に黒海軍隊を再建した。そして1873年、ロシアのアレクサンドル2世は、ドイツ統一(1871)を成し遂げ、フランス孤立化を狙うビスマルク宰相と皇帝ヴィルヘルム1世(位1871-88)の建議によって、同様にフランス孤立化を狙うオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世(位1848-1916)とともに同盟を結成するに至った。これがドイツ・オーストリア・ロシアの三帝同盟である。
この間イギリスはヴィクトリア女王(位1837-1901)の時代であったが、ベンジャミン=ディズレーリ首相(任1868,1874-80。保守党)のとき、スエズ運河株買収を行い(1875)、また1877年にはインド帝国を成立させ、積極的に自国を拡張させていった。またフランスはパリ=コミューン(1871)といった市民の反撃もある中、ティエール(1797-1877)による第三共和政(1870.9-1940)が始まったが、普仏戦争の敗北によって、資源の豊富なアルザス・ロレーヌ州はドイツに奪われ、再興に遅れをとっていたが、1875年1月、マクマオン大統領(任1873-79。クリミア戦争にも従軍した元軍人)のもと、第三共和政憲法が制定された。
こうして列強は、国家拡大を目指す帝国主義時代に突入したが、オスマン帝国の東方問題は、バルカン半島のパン=スラヴ主義運動とも結び付きながら、エジプト事件、クリミア戦争に次ぐ大戦争によって、各国の帝国主義政策の好餌食となっていく。
東方問題の第2編をご紹介いたしました。ロシアの膨張政策、トルコのタンジマート、またトルコ初の憲法によって、東方問題は複雑になっていきます。
タンジマートは、俗に言う"上からの近代化(西欧化)"であり、こうした改革は、市民と上層部との格差によって挫折を強いられてしまいます。、スルタンは、"西欧化"の本質が分からず、また市民の現状を把握し得ない状況で専横の道を進もうとした結果、不安定な情勢を引きずってしまうのですね。
さて、今回の学習ポイントです。そのタンジマートは、オスマン帝国のスルタン、アブデュルメジト1世のギュルハネ勅令によって始まりました。これは重要です。タンジマートはアブデュルハミト2世の時代に終わり、ミドハト=パシャによるミドハト憲法が制定されます。この時代のオスマン帝国は、アブデュルメジト1世、アブデュルハミト2世、ミドハト=パシャの3名を知っておきましょう。ただ用語集には載っていませんが、時の宰相ムスタファ=レシト=パシャも問題文などで登場することがあります(旧課程には彼の名前がありました)。余裕があれば知っておいて下さい。
そして、今回の目玉でありますクリミア戦争ですが、勃発年の1853年は重要、日本では黒船来航の年と重なりますね。ロシアがオスマン帝国と戦った戦争ですが、オスマン帝国にはイギリス、フランス、そしてサルディーニャが支援しました。特にサルディーニャはクリミア戦争の参戦によって国際的地位を高め、これがイタリア統一運動へとつながっていきます。
クリミア戦争の激戦地となったセヴァストーポリ要塞は頻出用語です。覚えましょう。試験には出ないですが、セヴァストーポリ南東にあるパラクラヴァで戦ったイギリス軍人カーディガン7世伯爵(1797-1868)は、戦傷者に対し、前でボタンの止められる着やすい衣服を考案しました。これがカーディガンだそうです。
クリミア戦争はパリ条約で講和となりました。これは1856年の条約ですが、"パリ条約"はあらゆる時代に登場します。七年戦争後のパリ条約(1763)、アメリカ独立戦争後のパリ条約(1783)が有名です。あわせて覚えておきましょう。1856年のパリ条約は、本編でもあった黒海中立化とモルダヴィア・ワラキア両公国の自立、セルビアの自立が重要で、これは次の第3編で重要な事項となります。ワラキア公国は、かの"吸血鬼ドラキュラ"のモデルとなった残忍なワラキア公、ヴラド=ツェペシュ(位1447,56-62,76。別称"串刺し公")がいたことでも有名です。
さて、次回のシリーズ第3編は、東方問題のクライマックスです。ロシアの南下政策は達成するのかどうか、またトルコのアブデュルハミト2世の独裁政治は? "誠実な仲介人"であるビスマルク、ロシア皇帝アレクサンドル2世が再び登場、またまた賑やかになりそうです。