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古代北インド統一王朝の終焉
~ヒンドゥー教の成立~
4世紀のインド半島北部(北インド)では、クシャーナ朝(A.D.1-3C)が退いた後、当時北インドで最も強力だった国家・マガダ国(B.C.6C-B.C.1C)の復活がはかられ、A.D.320年、パータリプトラ(現ビハール州パトナ)を都として復活、グプタ朝(320-550?)がおこされた。初代王のチャンドラグプタ1世(位320-330?。"大王たちの王")、第2代のサムドラグプタ王(位330?-380?)で基礎固めが施されて、領域を拡大していった。そして、第3代、"超日王(ちょうにちおう)"と称えられたチャンドラグプタ2世(位380?-414?)でグプタ朝の全盛期を迎えた。
グプタ朝では、文学の分野において、チャンドラグプタ2世に仕えた詩聖カーリダーサ(生没年不明。5Cの人)の名作『シャクンタラー』・『メーガドゥータ』といったサンスクリット文学が王室の保護下で広く読まれた。4世紀頃に原型があったとされる『マハーバーラタ』・『ラーマーヤナ』の二大叙事詩も完成され国民文学として愛読された。またクシャーナ朝時代のガンダーラ芸術のような、ギリシア的要素を含む文化は影を潜め、インド古典文化が開花し、グプタ様式と呼ばれた。インド西部、アジャンターやエローラの石窟寺院は有名で、そこで描かれた多くの壁画は、日本にも伝播して、法隆寺の壁画にも影響を与えた。また中国東晋(とうしん。317-420)の僧・法顕(ほっけん。337?-422?)が訪れたり、5世紀に大乗仏教教学の拠点たるナーランダー僧院が建設されたのもこの王朝時代であった。
一方、ヴェーダ信仰を基礎とするバラモン教もこれまで仏教やジャイナ教に圧倒されていたが、グプタ文化の波に後押しされて復興の道へと進んでいった。バラモンが進展するにつれて、ヴェーダ聖典ならびに、ヴァルナ(四種姓)におけるバラモンの権威が再認知された。やがて、バラモン教に先住民の民間信仰が融合していき、これが王室にも認められ、民衆に普及していった。これが、後にヒンドゥー教(ヒンズー教)と呼ばれるインドの民俗宗教であり、仏教の対抗宗教として誕生した。
"ヒンドゥー"は、"インダス川"を意味するサンスクリットの"Sindhu"に由来するペルシア語である。イスラム教徒がインド侵入の際にインド人のことを"ヒンドゥー"と呼んでいたようである。イギリスがインドを植民地にして以来、英語圏において"Hinduism(=ヒンドゥー教)"の語が用いられ、広く普及した。
民俗宗教であるために、時代や地域によってその多種多様な要素をもっているが(混合宗教)、多神教だったヴェーダ時代の信仰、またヴァルナやそれに属するジャーティ(いわゆるカースト制度)など、バラモン教の共通要素を多く持つ。また"崇高な神の歌"を意味する『バガヴァッド・ギーター』という聖典的詩編も重要な意義を持つ。
多神教であるヒンドゥー教は、ヴェーダ時代から崇拝されている雷の神インドラや火の神アグニ以上に中心となる3つの神が存在した。すなわち、ヴィシュヌ神、シヴァ神、ブラフマー神の3神である。ヴェーダ時代では太陽神だったヴィシュヌは、ヒンドゥー界では世界を維持する立場となり、暴風神ルドラを前身にもつシヴァは世界を破壊して新たに創造する立場をとる。シヴァは破壊・創造以外にも舞踏(ナタラージャ)・芸術・苦行・家畜(パシュパティ)といった多面的な立場をとり、多くの親族を増やしていく。ブラフマー神は創造の神だが、前2神と比べると影が薄く、民間からの信仰もあまり集められなかった。
グプタ朝はチャンドラグプタ2世のとき北インド統一を果たしたが、第4代クマーラグプタ1世(位414?-455?)の晩期に遊牧民エフタル(イラン系?トルコ系?)が来襲し、国力は衰え、全盛期は終わった。しかし第5代スカンダグプタ(位455?-470?)がこれを撃退させ、王朝再興に一役買った。
スカンダグプタ王没後は、急速に規模が縮小、エフタルの再来も招いて王朝は再び衰退期へ向かった。結果版図はビハール地方(ガンジス中流)とベンガル地方(ガンジス下流)に限られ、550年頃に滅亡した。その後7世紀になって、ハルシャ=ヴァルダナ(590-647。位606-647。戒日王)がカナウジ(カーニャクブジャ。曲女城)を都にヴァルダナ朝を開いて北インド統一を果たし、唐の僧である玄奘(げんじょう。602-664)や義浄(ぎじょう。635-713)をナーランダー僧院に招くなどして繁栄を極めたが、ハルシャ王の死後、王朝はほどなく分裂、北インドでの統一は終わった。その後の北インドでは仏教は衰退、13世紀にイスラム勢力(デリー=スルタン)が政権を獲得するまで、小王国が乱立する不安定な時代が続いた。ハルシャ王の没年である647年でもって、インドの古代史は終末とされた。
"高校歴史のお勉強"、再始動いたしました。長らくお休みさせていただき申し訳ございませんでした。またどうぞ宜しくお願いいたします。さて、「vol.9 アーリア人」・「vol.72 仏教と古代インド王朝の興亡」と続いた北インド古代史も今回が完結編です。外来王朝だったクシャーナ朝に代わって、土着王朝であるグプタ朝が誕生してからのお話です。この時代はこれまでのガンダーラ芸術のようなギリシア/ヘレニズムの要素を含んだ文化・芸術とは異なり、純インド産の文化が発展しました。またこうしたことから、ヒンドゥー教が生まれ、カースト制度が定着していきます。
さて、今回の学習ポイントです。まずはグプタ朝ですが、首都はパータリプトラ(マウリヤ朝の首都としても覚えましょう)、創始者のチャンドラグプタ1世、全盛期のチャンドラグプタ2世(超日王)は入試必須用語です。大事ですよ。滅亡はエフタルの侵入が原因です。
グプタ文化では、サンスクリット文学が重要です。代表はカーリダーサの『シャクンタラー』ですね。また美術ではアジャンターとエローラの窟院が有名。雲崗の石窟や、法隆寺の壁画などに影響を与えます。またナーランダー僧院も登場しました。のちに玄奘や義浄がここで学びます。ナーランダー僧院ができる前には法顕もグプタ朝に来ています。ちなみに、玄奘はインド訪問の際、往路復路ともに陸を選び、義浄は海を選んでいます。玄奘作『大唐西域記(だいとうせいいきき)』、義浄作『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』のタイトルから推察できます。ちなみに法顕は往路は陸、復路は海を選んでいます(旅行記に『仏国記』があります)。この往復に選んだのは陸か海かという問題がかつて関西の難関私大で出されたことがあります。
ヒンドゥー教に関しては、バラモン教を基礎にした混交宗教であることを知っておきましょう。また3最高神(ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマー)も重要で、ヴィシュヌが維持、シヴァが破壊、ブラフマーが創造を司っていることを覚えて下さい。
あと、紀元前後に南インドのデカン地方でおこったサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝。1-2C頃が中心)のもとで成立したダルマ・シャーストラも大事です。ダルマ・シャーストラとは"法典"のことで、生活習慣・道徳・宗教・カースト社会などの規範を法典として大系化したものです。その代表である『マヌ法典』は有名で、インド法典の集大成です。このマヌ法典も重要です。