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B.C.7世紀、アーリア系民族はインドのガンジス川流域に小王国を建設し始め、B.C.6世紀ごろには16の王国(16大国)がおこされていた。その後、16大国の中でインド東部、現在のビハール州南部にあったマガダ国(B.C.6C-B.C.1C)が、シャイシュナーガ朝(B.C.6C-B.C.4C)のビンビサーラ王(位B.C.546?-B.C.494?)の時代に勢力を強め、ビハール州南部ラージギールにあるラージャグリハ(王舎城。おうしゃじょう)に都をおいて、当時マガダ国と共に強勢となっていた16大国の1つ、コーサラ国(B.C.6C-B.C.5C。現ウッタル=プラデーシュ州東部)と対立していった。
その後ビンビサーラ王は、子のアジャータシャトル(生没年不明)に暗殺され、アジャータシャトルが王位に就いた(位B.C.494?-B.C.462?。阿闍王。あじゃせおう)。アジャータシャトルはコーサラ国をはじめ北インド国家を支配下に入れ、ガンジス川中流域の覇権を掌握した(B.C.5C)。
アジャータシャトルはパータリプトラ(華子(氏)城。かしじょう。現ビハール州の州都パトナ)に要塞を築き、その後ラージャグリハから遷都された。そして、B.C.4世紀、隷属階級のシュードラ出身とされるマハーパドマ(生没年不明)によって創始されたナンダ朝(B.C.4C。治世約30年)がマガダ国を発展させ、ガンジス全流域を統一している。
ビンビサーラ王時代から、国内ガンジス川中流域・下流域などでおこった都市では、武士・貴族階級のクシャトリヤや、農耕・商工業を営む庶民階級ヴァイシャたちが、ヴァルナにとらわれない活動を望み、ヴェーダや司祭者階級バラモンによる祭式主義を否定することで、新宗教の誕生を強調していった。
このような状況から、多くの思想家が誕生した(六十二見。ろくじゅうにけん)。その中で、クシャトリヤ出身のヴァルダマーナ(B.C.549?-B.C.477?)が、独自のジャイナ教(耆那教)を創始した。王族の子として生まれたヴァルダマーナは、30歳になると出家して苦行生活に入った。そこで彼が説いた教えとは、禁欲・肉体的苦行・虫一匹も殺さない極端な不殺生(アヒンサー)を重視することによって、霊魂を、現世における輪廻(りんね。全ての霊魂は死ぬと他の衆生に生まれ変わり、これを永久に繰り返すという考え)の苦悩から解脱(げだつ。現世に束縛されて輪廻を繰り返す苦悩から解放されて、永遠の自由・幸福を得ること)させるというものであった。ジャイナ教はヴァイシャ層の支持を得、ヴァルダマーナは"マハーヴィーラ(偉大なる英雄)"と尊称され、カーストやヴェーダの権威を否定し、魂の救済につとめた。
ヴァルダマーナと同じく、ヴェーダやバラモン、カーストを否定し、魂の救済につとめたのが、インド仏教の開祖・ガウタマ=シッダールタ(B.C.463?-B.C.383?/B.C.563?-B.C.483?)である。ガウタマは、現在のネパール国にあたるヒマラヤ山麓のカピラヴァストゥ(ネパールのタライ地方)で釈迦族(シャカ族)の王子として生まれた。生後まもなく、7歩歩き、一手は天を指し、一手は地を指して"天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)"と発し、この世で自分自身が最も尊いことを示したと伝えられる。生後1週間にして母マーヤー夫人(摩耶。まや)を失い、叔母に育てられた。16(17?)歳で従妹のヤショーダラ(耶輸陀羅)と結婚して1男ラーフラをなし、何不自由ない環境の生活を送っていた。
王城には四方の門(四門)があり、ガウタマは外出の際、この四門を使用していた。そこで、彼が外出する時、3つの門で老人・病人・死者と出会い、人生の問題に苦悩を深めた。そして4つ目の門を出ようとした時、今度は修行者に出会い、出家する決意をしたという。これが四門出遊(しもんしゅつゆう)と呼ばれる伝説である。無常観にとらわれたガウタマは、29歳で出家して修行者の生活に入った。6(7?)年間断食生活に入るなど、あらゆる苦行を重ねたが、意識がもうろうとするだけで悟り(さとり。"覚り"とも。菩提。ぼだい。迷いから解放されて真理を体得すること)を開くことができなかった。35(36?)歳になったガウタマはガンジス川中流域にある一村・ブッダガヤ(仏陀伽耶。現インド東部ガヤ市南方)にある菩提樹の下で、7日間坐禅をして瞑想を行い、遂に悟りを開いた。その内容とは、この世のすべてのものは相互に寄り合って成立し、無条件にそれ自体で存在するものはなく(縁起。えんぎ)、すべてのものは生まれ、変化してやがて滅んでいくというものである。しかし、人間はそのような真理に対して、暗く考えてしまうので、自分や自分の所有物に執着する欲(我執。がしゅう)にとらわれて迷い(煩悩。ぼんのう)、すべてのものは永遠不変の固体ととってはならず(諸法無我。しょほうむが)、絶えず生成・消滅する(諸行無常。しょぎょうむじょう)という真理を悟れば、こうした我執の心から解放され(ガウタマのいう"解脱"である)、心の絶対的な静けさの境地、すなわち涅槃(ねはん。ニルヴァーナ)を実現することができる。この悟りの境地を見出すことが、人生の普遍的真理であるとガウタマは説いたのである。
ガウタマは真理を悟った人物として"ブッダ(仏陀)"、あるいは釈迦族出身の聖者として"シャーキャムニ(釈迦牟尼。しゃかむに)"と尊称された。その後鹿野苑(ろくやおん。現ウッタル=プラデーシュ州東部のベナレス市の北サールナートにあった園)で5人の修行者に初めて説法をおこない(初転法輪。しょてんぽうりん)、弟子たちとともにガンジス川中流域を旅してまわり教えを説き、特にクシャトリヤ層から支持を得た。80歳の時にクシナガラ(現ウッタル=プラデーシュ州カシア。ネパール国境付近)で病気になり、入滅(死去)した。クシナガラはブッダの涅槃の地であり、生誕地カピラヴァストゥ、悟りを開いた場所ブッダガヤ、初転法輪の地であるサールナートの鹿野苑、そしてこの入滅地クシナガラの4つの地こそが、ブッダの四大聖地となっている。
ブッダは、欲望のおもむくままにふける快楽主義と、みずから身体を痛める苦行主義をさけて、どちらにも偏らない中正な道("中道"。ちゅうどう)が正しい生き方であるとし、また煩悩を断ち切り、涅槃に至るために、誰もが守らなければならない普遍的な規範を八つの正しい修行方法、つまり八正道(はっしょうどう)の実践に努めた。八正道とは、①正見(しょうけん。正しく認識する)②正思(しょうし。正しく思考する)③正語(しょうご。正しい言葉を使い、嘘や悪口を言わない)④正業(しょうごう。正しい行為をする)⑤正命(しょうみょう。正しく生活をする)⑥正精進(しょうしょうじん。正しく努力する)⑦正念(しょうねん。正しい見解を正しく念じ、心にとどめておく)⑧正定(しょうじょう。正しく瞑想する)の8つである。実践修行を重んずるこの八正道は、解脱を求める出家者(比丘。びく)への教理として説かれ、都市のクシャトリヤ層や商工業者の間で普及した。さらに、魂の救済に必要な"愛"として、ブッダはマイトリー(慈)といういつくしみと、カルナー(悲)というあわれみを説き、生命を持つものすべてが平和で幸福であるよう慈悲を持つように修行する必要性を強調した。
ブッダ入滅後、その偉大さを讃えてジャータカ(本生話。ほんしょうわ。ブッダの過去世において修行者として善行を積んだ功績によってこの世で仏となられたという因縁話。のち3~4Cに編纂)が成立し、ブッダの遺骨(仏舎利。ぶっしゃり)を納めるストゥーパ(仏塔。卒塔婆。塔)がつくられた。また仏教の教理を固く守るため、弟子によって編纂会議を開催して仏教の正しい説を決め、仏教教団の統一維持に努めた。これを結集(けつじゅう。仏典結集)といい、第1回は仏滅直後、ラージャグリハで開催(B.C.486年頃か?)、統一が維持され、原始仏教時代と呼ばれた。第2回はヴァイシャリーで仏滅100年後(B.C.386?)に開催されたが、このとき分裂の方向を見せ始め、戒律の守り方をめぐって上座部(テーラヴァーダ)と大衆部(だいしゅぶ)の根本二部派に分裂し、さらに多数の部派がおこり(枝末十八部)、部派仏教時代とよばれる。この時代、それぞれの部派が自身の正統性を強調するため、ブッダの教えを集めた『経蔵』、ブッダの制定した仏教教団規則を定めた『律蔵』、ブッダの教えを解釈し、論議した『論蔵』を編集した。この経・律・論3点の経典を"三蔵(さんぞう)"といい、各部派で伝承された。また部派仏教は北インドの口語に起源するパーリ語で広められた。
ガンジス川流域ではマガダ国の統一事業が発展していったが、対するインダス川流域では、B.C.326年、マケドニアのアレクサンドロス大王(B.C.336-B.C.323)が進軍していたため、同国ナンダ朝では仏教によって多くの支持を集め、これによって強大な軍力をしいていたと伝えられる。しかしナンダ朝で内紛が起こり、当時の武将チャンドラグプタ(?-B.C.297?)が王位を簒奪してナンダ朝を滅ぼし、マウルヤ朝(マウリヤ朝。B.C.317?-B.C.180?/B.C.321?-B.C.181?)を創始、膨大な軍勢を集めて王都パータリプトラで絶大な権力を発揮していった(王位B.C.317?/B.C.321?-B.C.297?)。これにより、北インド統一にむけてインダス川流域におけるギリシア勢力の一掃につとめた。
アレクサンドロス大王没後のインダス川流域は混乱がおこり、チャンドラグプタはこれに乗じてインダス・ガンジス両川流域の統一をはかった。B.C.305年頃、チャンドラグプタ軍は、インダス川に侵攻したセレウコス朝シリア王国(B.C.312-B.C.63)の初代国王セレウコス1世(位B.C.312-B.C.280)の軍とパンジャーブ地方で戦い、講和の結果、戦象500頭と引換に、インダス川以西のアフガニスタン南部と、妃として公女を獲得してセレウコス朝と同盟を結んだ。B.C.304年にはセレウコス朝の使節メガステネース(生没年不明)がパータリプトラを訪問、数年滞在して帰国後、見聞録『インド誌』を残した。
チャンドラグプタの偉業により、マガダ国マウルヤ朝は、西はアフガニスタンから東はベンガル湾にいたる北インドの統一が完成し、インダス・ガンジス両川流域の統一が成し遂げられた。続いて南方にも目を向け、デカン高原征服もすすめ、結局インド半島最南端と、オリッサ州(インド半島東部の東ガーツ山脈付近)の海岸地方カリンガを除いた、インド全域を支配領域とした。チャンドラグプタは晩年ジャイナ教に帰依して退位後出家し、インド南部カルナータカ州のマイソール地方に移り、宗教的な餓死をとげたとされている。
チャンドラグプタが創始したマウルヤ朝は、彼の孫であるアショーカ(?-B.C.232?)がアショーカ王として3代目マウルヤ朝国王(阿育王。位B.C.268?-B.C.232?)の座に就いてから、全盛期を迎えた。アショーカ王は、青年時代には父である前国王ビンドゥサーラ(位B.C.297?-B.C.272?)とは不和であり、晩年まで家庭には恵まれなかったとされており、父没後の王位継承の際にも異母兄と争い、結局兄の暗殺によって即位したと伝えられている。アショーカ王は、即位後8年目にして、マウルヤ朝の開祖であり祖父であるチャンドラグプタにおいても成し遂げられなかった全インド半島統一にむけて、カリンガ制圧に焦点を絞った。カリンガは国家的社会を築いており、カリンガ国と呼ばれていたが、B.C.277年頃、ついにマガダ国とカリンガ国との間で激戦が始まった。
結局アショーカ王の軍によって、カリンガ国は制圧・占領され、マウルヤ朝は最南端以外の半島全域を支配する形となったが、今回の激戦は10万人の犠牲者や15万人の捕虜者を生み、アショーカ王はこの惨状を目の当たりにしたことで、ひどく後悔し、その懺悔の表れとして仏教への信仰をいっそう深めることとなった。アショーカ王は、万人の守るべき理法(ダルマ)に基づく政治を理想として掲げ、道路の整備、灌漑施設や病院、薬草園などの建設事業を推進、また教法大官を各地に派遣した。多くのストゥーパも寄進し、特にアショーカ王の王妃の出身地サーンチー(インド中部、マッディヤ=プラデーシュ州)にある大塔が名高い。また詔勅(しょうちょく。法勅)を発布してその内容を石に刻ませ、辺境には磨崖碑(まがいひ)を、中央(ガンジス川流域)には石柱碑(せきちゅうひ)をおいた。サールナートから出土された、四方を向くライオンと、仏教の象徴である法輪が刻まれていることで有名なアショーカ王石柱碑からは、当時の国王の権威の強さと、これを維持してこそ訪れる国の平和、さらに法輪の細やかなデザインから国王の厚い仏教信仰心などが理解でき、現インド国旗の中央の輪はこの石柱の法輪をモチーフにデザインされたとされている。
また、アショーカ王の仏教事業はインド大陸の支配全領域に拡げられ、B.C.244年、第3回仏典結集を行ったとされ、王子マヒンダをセイロン島(現スリランカ)に派遣して布教させたといわれる。セイロン島からは上座部の部派が生まれ、セイロンを起点に東南アジアに仏教が伝わる契機となった(南伝仏教)。
アショーカ王が没すると、その後のマウルヤ朝は、統一感が失われ、地方の統治者の独立を促し、王朝は徐々に崩壊の途を辿っていった。B.C.180年頃、マウルヤ朝の将軍プシュヤミトラがマウルヤ朝最後の国王ブリハドラタ(位?-B.C.180?)を殺害して王位を簒奪し、シュンガ朝(B.C.180?-B.C.68?)をおこした。しかし領域はガンジス川中流域から中央インドに至る地域に絞られ、続くカーンヴァ朝(B.C.68?-B.C.23?)はガンジス川中流域のみに絞られるなど、マガダ国は衰亡していった。その間インド西北部にはヘレニズム文化を持つギリシア系のバクトリア王国(B.C.255頃~B.C.139。中央アジアのアム川流域が拠点)、デカン高原にはローマとの海上貿易で栄えたドラヴィダ系のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝。B.C.1C-A.D.3C。首都はプラティシュターナで、現マハーラーシュトラ州のパイタン)が興亡した。
これにより、仏教の中心も当時勢力の強かったセイロン島と西北インドの都市プルシャプラ(現パキスタン西北部のペシャーワル)などに移った。特にプルシャプラを中心とする地方はガンダーラと呼ばれ、東西交易の要地でもあったため仏教が強く普及された。バクトリアはB.C.3C末に西北インドに侵入するも、B.C.2世紀、スキタイ系のトハラ族の侵入によって、バクトリアの拠点であるアム川流域は陥落し、その地にトハラ族は大夏(たいか)を建設(B.C.139)、バクトリアは滅亡した。しかしギリシア人の諸王がヘレニズム文化を保ったまま西北インドのガンダーラ地方の権力を維持した。時の諸王の一人メナンドロス(位B.C.155-B.C.130?。インド名ミリンダ王)がインドの比丘と仏教の教義について問答し(仏教文献『ミリンダパンハー』。"ミリンダ王の問い")、ギリシア的信仰を捨て出家し、仏教徒になった伝説はよく知られている。
B.C.2世紀前半、モンゴル高原南部や西部で活躍した系統不明の民族月氏(げつし)が、匈奴に追われて分裂し、一部は定着したイリ地方もトルコ系遊牧民族烏孫(うそん)に追われて、結果アム川上流地域に大月氏(だいげつし。B.C.140?-A.D.1C)として国家を建て、B.C.2C後半にトハラを支配していた。大月氏はヒンドゥークシュ南部のインドに関心を寄せていたが、B.C.2C後半からB.C.1C頃の西北インドでは、ギリシア勢力は衰え、中央アジアにいたサカ族など、イラン系民族の侵入が相次いでいた。A.D.1C中頃(A.D.45年?)には大月氏国の旧バクトリア地方においた5大諸侯(ヤブグ。五翕侯。ごきゅうこう)の1つであるイラン系のクシャーナ族(貴霜。きそう。クシャーン族)が西北インド征服の理想を掲げて独立をおこし、クジュラ=カドフィセス侯(生没年不明。丘就郤。きゅうしゅうきゃく)のとき、他の諸侯を併合して西北インドに進出、カドフィセス1世として国王を称し、クシャーナ朝(クシャーン朝)を創始した(A.D.1-3C)。1C後半の2代目国王ヴィマ=タクト(カドフィセス1世の子)、1C末から2C初の3代目ヴィマ=カドフィセス(カドフィセス2世。カドフィセス1世の孫)と王位が継承されるにつれて、西北インドは瞬く間にクシャーナ朝に征服されていった。
カドフィセス1世の曾孫で、4代目カニシカ王(カニシカ1世。位130-170/80-110/120-162。在位年代には諸説あり)のとき、プルシャプラをクシャーナ朝の首都とした。版図が最大となり、西北インドから東のガンジス中流域まで及び、クシャーナ朝の全盛期を現出し、古代インド王朝ではアショーカ王以来の大国王の再来として、歴史に刻まれた。
カニシカ王は、交易路であるシルクロードの拠点をおさえて、東西貿易による経済力を強め、また東西文化の共存と融合を行った。カニシカ王の立像を刻した貨幣には、周囲にギリシア文字の銘を、裏面にはギリシアやローマの諸神が刻まれていることから、カニシカ王は、複合に混在する民族・宗教・文化を巧みに統率し、王朝を繁栄させた主君として名高い。また仏教保護者としても知られ、第4回仏典結集は同王の治世時に行われたとされる。
仏教は、紀元前後に革新があり、部派仏教時代において発展した伝統的な上座部仏教(上座仏教。部派仏教)の独善性や形式性、守旧的な信仰の批判がおこったのである。これは解脱による自己の完成をひたすら求める(自利。じり)という上座仏教を、他人に対する無関心として批判したもので、革新運動の根本は、自分自身を犠牲にして他人のためにつくし(利他行。りたぎょう。菩薩行)、苦しみ悩む人々を救済する如来(にょらい)の強調にある。またすべての衆生(しゅじょう)が仏となる可能性を本来的に具備しているという如来蔵(にょらいぞう)の思想によって、諸仏・諸菩薩を拝する行為が強調され、この行為によって僧俗に関係なく救われると説いたのである。上座部仏教に対抗したこの菩薩信仰による仏教はマハーヤーナと呼ばれ、広く救済する"大きな乗り物"を意味することから"大乗仏教"と呼ばれた。このとき上座部仏教はヒーナヤーナと呼ばれ、また救済の道が狭い"劣った乗り物"を意味する"小乗仏教"と軽蔑的に呼ばれた。マウルヤ朝アショーカ王のとき、上座部仏教は南伝仏教として、パーリ語で書かれた経典でもってセイロン(スリランカ)布教から伝播してビルマ(現ミャンマー)・タイ・カンボジアといった東南アジア諸国に伝播し、修行による個人の解脱を説いていったが、大乗仏教は、俗語であるパーリ語ではなく、雅語であるサンスクリット語を使用した。サンスクリット語経典でもって北伝された北伝仏教であった。A.D.1Cに中国(漢時代。伝来当時は大きく流布せず)、4Cに朝鮮(三国時代)、6Cには日本に伝播した。そして、ヴェトナム・ジャワ・チベット(→ラマ教)・モンゴル・スマトラも大乗仏教が信仰された。『中論』を著したサータヴァーハナ朝出身の学者龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ。150?-250?)は、大乗仏教の教理の大成者として名高く、民族や階級にとらわれない、広く受け入れられる教理であるとして、大乗仏教を大きく広めるきっかけを作ったのである。
カニシカ王の治世下、仏教徒は次第にブッダを像(仏像)として表現することを考えるようになった。これは、ギリシアのヘレニズム文化の影響によるもので、神々に人間の姿をとらせる神像彫刻の技法とヘレニズム地方の造形崇拝思想が根付いたことにより、仏像制作がおこされたのである。大乗経典では、仏の造像の功徳が大いに讃えられ、同仏教が発展するきっかけともなった。仏像崇拝はガンダーラ地方を中心に広く伝播し、その造形美術はガンダーラ美術と呼ばれた。
カニシカ王が没すると、クシャーナ朝は衰退していった。241年、クシャーナ朝はササン朝ペルシア(226-651)の2代目国王シャープール1世(位241-272)の軍に圧迫されて衰亡し、ヒンドゥークシュ山脈の南北に分裂した。しかし380年から400年にかけてキダーラ(生没年不明)が南北統一をはかってクシャーナ朝を再興したが(キダーラ朝)、永続せず、5C末にイラン系(トルコ系?)の遊牧民族エフタルが侵入してクシャーナ朝(キダーラ朝)は完全に滅亡した。
クシャーナ朝が誕生させたガンダーラ美術は、大乗仏教が伝播した地域を中心に深く普及した。3世紀に生まれた敦煌(とんこう。中国甘粛省)の石窟院(366年頃に開鑿(かいさく)された莫高窟(ばっこうくつ)が有名)をはじめ、5世紀には中国の北魏(ほくぎ。386-534)の時代に雲崗(うんこう。山西省大同西郊)や竜門(りゅうもん。洛陽南方)の窟院が誕生した。そして7世紀、ガンダーラ美術は日本でも形を変えて取り入れられ、法隆寺を代表とする飛鳥美術(飛鳥文化)へと受け継がれていくこととなる。一方インド半島(北インド)では、4世紀になるとパータリプトラを都としてグプタ朝(320-550?)がおこり、マガダ国が復活した。古来のバラモン教の復活、またそれに刺激を得た民間信仰がヒンドゥー教へとつながっていき、対するインド仏教はかつての勢力に翳りが出始め、ゆるやかな信仰へと進んでいく。さらにヘレニズム文化の要素を払拭した純インド風古典文化(グプタ美術。グプタ様式)が繰り広げられ、現在継承しているインド文化の基盤もこの時代に創られていく。
「Vol.9 アーリア人」以来、久々の古代インド史でした。今回はマガダ国とクシャーナ朝の興亡もおりまぜながら、インドで誕生した仏教に関わる歴史をご紹介しましたが、およそ1200年の年代が動いた、長い作品となりました。実はクシャーナ朝滅亡後も、古代インド王朝史は重要で、最後に少しだけ触れたグプタ朝や、グプタ朝を継承したヴァルダナ朝(7C)、さらにデカン以南のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)以降の王朝(パッラヴァ朝、チャールキア朝、チョーラ朝など)もご紹介したかったのですが、スペースの関係上、後で軽く説明するとして、詳細は別の機会にさせていただきます。ゴメンナサイ!
今回は世界史だけでなく、一部倫理分野も取り上げましたが、両分野ともに避けては通れない重要な単元ですね。まずジャイナ教ですが、開祖ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)は重要。カーストを否定して、禁欲と苦行を重視します。そして、アヒンサーと呼ばれる徹底した不殺生主義を取り入れています。世界史分野では、ジャイナ教は、ヴァイシャ層の支持を得たことがよく出題されます。
一方、今回のメインであります仏教では、開祖ガウタマ=シッダールタはもちろん知っておくべきですね。釈迦、釈迦牟尼、仏陀(ブッダ)といろいろな呼称があります。こちらもカーストを否定しており、さらに極端な苦行と快楽をさけた"中道"の精神を持つというもの。また"愛のおしえ"として"慈悲"における魂の救済も強調しています。倫理分野では仏陀の四法印(しほういん。一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)・四諦(したい。苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦)・四苦(生・老・病・死)なども登場します。また八正道の実践は世界史・倫理両分野でも大事ですね。特に倫理では八正道の8つの修行方法(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)も知っておく必要があります。
仏教が発展する紀元前後以降は出題率が高く、特に世界史分野では大乗仏教や小乗仏教(上座部仏教・部派仏教)はそれぞれどの国で普及したかを知る必要があります。たとえば日本や朝鮮は大乗仏教が伝来しています。自身の利益(自利)だけを追求する小乗仏教と、菩薩信仰を行いながら、万人の平等な救済につとめる大乗仏教との違いを知るのも大事ですね。さらに相違点で出題されるケースとして、経典に使われる言語があります。大乗仏教はサンスクリット語を使用して、それまでの小乗仏教はパーリ語を使用しています。
さて、仏教史と共に登場したのが古代インドの王朝です。本編では、シャイシュナーガ朝・ナンダ朝・シュンガ朝・カーンヴァ朝といった超マイナーな王朝も出てきましたが(でもナンダ朝とシュンガ朝が登場する教科書もある)、ここではグプタ朝・ヴァルダナ朝を含めた、大事な4王朝を順番に見ていきましょう。