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世界史の目

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ギャラリー

第139話


改革と開放、六四の断行

戦後の中国・その5~

  1. 大躍進と中ソ対立 ~戦後の中国・その1~はこちら
  2. 下からの惨劇 ~戦後の中国・その2~はこちら
  3. No.2の死と米中接近 ~戦後の中国・その3~はこちら
  4. 激動1976 ~戦後の中国・その4~はこちら

 趙紫陽国務院総理(ちょうしよう。1919-2005。首相。任1980-87)、胡耀邦党主席(こようほう。1915-1989。主席任1981-82。のち総書記。総書記任1982-87)、そして鄧小平中央軍事委員会主席(とうしょうへい。1904-97。任1981-89)の3トップで80年代のスタートを切った中華人民共和国。改革と開放をスローガンに、新しい経済政策を施して文革路線からの完全脱却と社会安定化をはかった。また中華人民共和国の国家主席も儀礼的に復活させ(国家主席復活)、李先念(りせんねん。1909-1992)が就任した(任1983-88)。また中央軍事委員会主席も国家的組織を設立し(中華人民共和国中央軍事委員会主席)、鄧小平が中国中央軍事委員会主席に就いた(任1983.6-1990.3)。

 この改革・開放政策の内容とは、まず"改革"では人民公社解体、生産責任制(生産請負制)の実施、個人経営・郷鎮企業経営の許可といった、これまでの計画経済から市場経済(社会主義市場経済)へ移行する改革が実施された。また"開放"では外資や海外技術を導入して、地域的に発展させる経済政策が行われた。

 ただこの諸政策は反共的、資本主義的な政策が施されるということで、党内にかかわらず国内全体からの反発も予想されたため、鄧小平は1979年3月、北京で開かれた中央理論工作会議において、(1)社会主義の道を堅持し、(2)プロレタリア独裁(人民民主主義独裁)を堅持し、(3)中国共産党の指導を堅持し、(4)マルクス=レーニン主義と毛沢東思想を堅持するという、"四つの基本原則(四つの堅持)"を提起し、のち中華人民共和国憲法の前文に明記されることとなる(1982)。これにより、これまでさまざまな路線転換によって生じた党内・党外の混乱を鎮めるとともに、決して脱社会主義であってはならない、ブルジョアジーの完全な自由化を目指して民主化運動を起こすことも許されないことを強調したのである。

 よって打ち出された"改革・開放"はスタートした。"改革"面では、憲法が改定された1982年以降から人民公社の解体が進められ、1985年6月に完了した(1985人民公社解体)。これにより集団化された農業は終わりを迎え、農地私有化が促進され、個別農家に生産を請け負わせる生産責任制生産請負制農家経営請負制度)も伸長、国によって定められた分を納めた後は、すべて各農家の利益となった。生産責任制の普及により、年収入が1万元を超える裕福な農家も出現し(万元戸という。まんげんこ)、町村営、個人経営も発展して郷鎮企業化していった。
 この郷鎮企業は人民公社に所属していた農村の企業が解消されたもので、農村の余剰人口の半数を吸収し、彼らの市場参加によって資本主義的経営が大々的に進められていくようになっていった。農業だけでなく工業・技術産業などの経営に成功する農村が次々と各地に誕生していった。かつて趙紫陽首相が70年代の四川で省党委員会第一書記を務めていた頃、経済改革としていち早く生産責任制を導入しており、四川省における農業生産を着実に伸ばした功績があった。

 続いて"開放"面では、外資・海外技術を導入し、国内地域の発展を目指す政策が行われた。こうした発展地域は"経済特別区(経済特区)"と呼ばれる。1979年以降、深圳シェンチェン)、珠海(チューハイ)、汕頭(スワトウ)、厦門(アモイ)、海南(ハイナン)島の5カ所の沿岸地域に設定されていったが、1984年には経済特区に次ぐ新たな開放政策として、経済技術開発区(経済開放区)が設定され、天津・上海・青島(チンタオ)など14沿岸都市が指定された。各区とも経済自主権を持って、飛躍的に経済成長を遂げていく。

 外交においては、1979年の米中正常化の成功後、香港返還に関する中英交渉も進められた。また鄧小平は当時のイギリス首相、マーガレット=サッチャー(保守党。任1979-90)と会見(1982.9)、返還後50年間は香港の資本主義経済を維持する"一国二制度(一国両制)"を決め、1997年の返還に合意した(1984.12香港返還協定)。

 香港返還協定が調印された翌1985年3月、対立するソ連ではコンスタンティン=チェルネンコ・ソ連共産党書記長(任1984-85)が在任わずか13ヶ月で急逝、ミハイル=ゴルバチョフが書記長に就任した(任1985.3-1991.8)。ソ連の新しい指導者となったゴルバチョフは、"ペレストロイカ(改革、再建の意味)"を提唱して、ソ連の大規模な改革を実現する目標を立てた。ソ連では共産党の一党独裁政権を続けていくうちに、言論・思想・信条といった国民の精神的な部分が阻害されてきたことを見直し、ソ連の民主化・自由化をはかることを目指したのである。
 これは隣国である中国にも影響が及んだ。胡耀邦総書記は、改革開放政策の一環として、言論や思想の解放を進め、第二次百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)ともいうべき自由な言論合戦が繰り広げられ(1986.5)、知識人や学生など、胡耀邦を支持して民主化に賛成する勢力も増大化していった。しかしこの政策は保守派にとって嫌悪を抱き、同年9月に開かれた党12期第6回中央委員会全体会議(12期6中全会)で、保守派によって批判され、逆に保守派による玉虫色の"精神文明決議(鄧小平は、一方で思想の解放をうたいながら、バランスを重視して胡耀邦によるその行き過ぎにも言及・批判した。生産力をいう物質文明と言論・思想・信条をいう精神文明を正しく建設せよという意味)"が採択された。

 これは胡耀邦政策に期待をかけた知識人・学生は大いに失望させた結果となった。もともと胡耀邦政策は大学に適応せず、依然として党保守派の古株が学内組織を掌握していたため、教育内容も保守的であった。このため同1986年12月、安徽省(あんき)の数千もの大学生たちによるデモが行われた。この学生デモは北京、深圳、広州、南京、昆明、天津などにある150もの大学に波及、上海では7万人による大規模なデモが行われた。これにより胡耀邦は集団指導体制を違反したなどとして辞任を迫られ、1987年1月に開かれた政治局拡大会議で総書記辞任が決まった(1987.1。胡耀邦失脚)。直後に総書記代行を受けた趙紫陽首相は、同年11月の党13期第1回中央委員会全体会議(13期1中全会)で、正式に総書記就任となった(趙紫陽総書記誕生。任1987-89)。1988年3月には首相(国務院総理)の選出が行われ、李鵬(りほう。任1988-1998)就任が決まった(1988。李鵬首相誕生)。李鵬は趙紫陽が首相を務めていた時、1983年から副首相に就いていた。
 また李先念退任後の国家主席は鄧小平から支持のあった楊尚昆(ようしょうこん。任1988-93)が就任した。趙紫陽は穏健的改革派、楊尚昆や李鵬は保守派であり、胡耀邦政策の行き過ぎを是正するための、均整のとれた新たな党体制となった。

 胡耀邦は"五・四運動70周年記念"を控えた1989年4月15日に心臓発作で没した(1989.4。胡耀邦死去)。胡耀邦死去は民主化・自由化を熱望する学生たちに深い悲しみをもたらした。その後、学生たちによる胡耀邦の追悼集会が次々と行われていった。4月18日には北京において1万人の学生デモが行われ、その後北京市内における40に及ぶ大学で、6万人の学生が授業をボイコットした。

 この混乱状況を見た李鵬首相は、一連の学生運動の矛先は共産党中央に直接向けられたものであると判断し、鄧小平に報告した。4月26日、鄧小平は一連の学生運動を"動乱"と断定し、これを阻止すべきだと発表した。この"動乱"は"デモ"ではなく、当時のソ連のペレストロイカや東欧革命運動(ポーランド、ハンガリーらの自由主義化運動)の思想を受けた学生たちによっておこされたものであると主張したのである。そして、胡耀邦を槍玉に上げてその政策を"軟弱"と批判、彼が起こした言論思想解放の行き過ぎを指摘したのである。しかし趙紫陽はこの発表に疑問を感じ、動乱発言の取り消しを主張したが支持されなかった。そして"五・四運動70周年記念"となった1989年5月4日、北京の学生や市民10万人によるデモや集会が行われた。デモは日を重ねるごとに膨張化、さらにはハンストまで行われ、天安門広場は常に民主化・自由化を叫ぶ人たちで満ちあふれた。

 こうした中、中ソ対立の解消に向けて、ソ連のゴルバチョフ書記長の訪中が5月15日に行われ(ゴルバチョフ訪中。1989.5.15)、両国間の対立解消が確認されて中ソ対立は終結した。ゴルバチョフは17日に帰国したが、ソ連の民主化・自由化をはかるゴルバチョフに対して、民主化運動を進める中国人学生は歓迎したため、"民主化・自由化を掲げるソ連との対立は解消、依然として中国国内の学生の民主化・自由化運動は収まりをみせず"という、中国共産党中央部にしてみれば大きな恥辱を受けた形となった。この時点で、趙紫陽側の改革派は学生運動を利用して改革熱が入り、李鵬側の保守派と対立を見せ始めた。鄧小平も、趙紫陽を胡耀邦の二の舞になると考え、趙紫陽との対立を深めていった。

 そして、5月17日・18日両日のデモ・集会は遂に百万人を突破したことを受けて、鄧小平は戒厳令を提起する事態にまで展開した。趙紫陽は布告される20日の前日早朝、天安門広場に出向いてハンストを続行する学生を見舞うため対話を求め、涙を流しながら、悪化していく現状とハンストの中止をうったえた。結果20日に楊尚昆国家主席によって戒厳令が布告された。武力で学生たちを抑える意味を為す今回の布告、それは趙紫陽側である改革派の敗北が決定した瞬間だった。これにより、趙紫陽は一連の民主化運動の責任を負って総書記をはじめとするいっさいの役職から退くことになる(1989。趙紫陽失脚。事実上の解任であった。次期総書記は江沢民。こうたくみん。書記任1989-2003。13期4中全会で決定)。

 戒厳令発動後も民主化運動は止むことなく、北京市内だけで学生を中心とする100万人によるデモが引き続き行われた。5月30日には天安門広場では民主化の象徴ともいうべき"民主の女神"像が学生によってつくられるなど、混乱は収まるどころか拡大していく事態であった。このため6月にはいると、遂に人民解放軍が発動、天安門広場を包囲する動きを見せ始めた。

 そして1989年6月4日未明、解放軍の完全武装された正規部隊が、天安門広場で民主化運動を展開している市民・学生たちに対し、武力による鎮圧を断行した。流血の惨状と化した広場では、そのありのままの映像が各国メディアによって映し出され、世界規模の衝撃をもたらす結果となった(第2次天安門事件。六四天安門事件)。民主化を掲げた市民や学生の多くは広場から退去したが、その後中国共産党より、この武力鎮圧によって死亡した市民・学生は319名と発表され(諸説有り)、1976年におこった天安門事件をはるかに凌ぐ大惨事となった(北京市における戒厳令は1990年1月10日に解除)。第2次天安門事件の惨状が全世界にメディアを通じて知られ、中国共産党は各国から非難を受け、経済制裁も行われたが、その後も武力鎮圧の正当性に終始、その後も改革・開放政策が続けられた。

 鄧小平は1989年11月7日、党中央軍事委員会主席の座を江沢民に譲った(任1989-2004。江はその後、国中央軍事委員会主席も翌90年に引き継ぐ。任1990-2005)。しかし政界引退後も陰から共産党を支え、揺れ動く東欧社会主義圏が消滅にいたった1991年では、党内保守派を抑え付けて経済発展に努めた。天安門事件が勃発した1989年以降は、中国と同様の社会主義国も大きな変化を迎えていた。まず鄧小平が中央軍事委員会主席を降りた2日後、東西ドイツを遮断したベルリンの壁が開放され(1989.11.9)、ドイツ統一が進められていった(東西ドイツ統一。1990.8)。ルーマニアでは独裁者として誇っていたニコラエ=チャウシェスク大統領(任1974-89)の処刑が行われ(1989.12。チャウシェスク処刑)、1991年になると冷戦の終結と東欧革命の勢いは加速、6月には東陣営における経済機構、COMECON経済相互援助会議の解消が行われ、ソ連では8月、反ゴルバチョフ=クーデタ1991.8保守派クーデタ)が起こってソ連共産党解散にいたり、12月にソ連は解体(1991.12ソ連消滅)、そして東の軍事機構であるワルシャワ条約機構が解体された(7月解散)。ソ連の強い支配によって維持された東欧社会主義圏は完全消滅に至ったのである。

 鄧小平は、1997年2月19日、没した(1997.2。鄧小平死去)。7月の香港返還が迫っていた矢先のことであった(享年93歳)。3月、彼の遺灰は空から海へ撒かれた。"白猫であっても黒猫であっても、ネズミを捕るのが良い猫だ"という有名な「白猫黒猫論」を残し、物事を固定観念にとらわれることなく実務的に対処してきた鄧小平の時代は終わった。

 第2次天安門事件以後、一党独裁体制はいっそう強固なものとなった。中華人民共和国憲法における中国共産党とは、「中華人民共和国を指導する政党」と明記され、これを全うしながらも、鄧小平がつくりあげた改革開放路線を前進させていくこととなる。経済では、1992年から導入された社会主義市場経済が本格化(社会主義の目標を追求しながら、市場経済を導入)、また香港返還(1997.7前述)の後、マカオ(1999.12。ポルトガルより)の返還も実現した。

 江沢民は1993年国家主席にも就任(任1993-2003)、総書記、中央軍事委員会主席(党・国)、国家主席を兼任して、党・軍・国すべてを掌握しつつ、鄧小平路線を正統に受け継いでいった(一方、首相は李鵬に代わって朱鎔基が就任(しゅようき。任1998-2003)。続いて2003年、温家宝が就任(おんかほう。1942生))。鄧小平思想を現代中国思想とした江沢民政権では、2002年に"3つの代表"という思想を発表、つまり社会生産力発展の要求、先進的文化の前進の方向、最も広範な人民の根本的利益という3思想を代表すべきだと主張した。江沢民が退いた後は、胡錦涛(こきんとう。1942生)による一党独裁体制が誕生、現在に至っている(2003年国家主席就任、2002年党総書記任、2004年党中央軍事委員会主席任、2005年国中央軍事委員会主席任)。

 中国共産党は、現在、7000万人以上の党員を誇る世界最大の政党である。


 5話連続にてお送りいたしました中国現代史、いちおうこれで完結です。とにかく長かったですね。特に文革が終わってからが本当に長かったです。受験生の皆様はこの長々とした文章でご理解いただけたでしょうか?

 今回は現代社会、政治経済、世界史Aの内容が主でしたが、世界史B受験生も重要な項目でいっぱいです。さっそく学習ポイントを見てみましょう。
 改革開放という言葉は重要です。世界史Bよりも現代社会や政経などの公民系で登場することが多いです(政経の用語集の頻度数は10あります)。生産責任制、郷鎮企業、経済特区などは公民分野だけでなく地理分野にも登場します(これに加えて、"一人っ子政策"も重要)。
 世界史関連といえば、やっぱり人名。鄧小平は重要ですが、胡耀邦、趙紫陽、朱鎔基、温家宝、胡錦涛は世界史B用語集での頻度は1となっています。鄧小平の時代では人民公社の解体、香港返還協定(1984)、第2次天安門事件があり、江沢民には香港返還(イギリスから)、マカオ返還(ポルトガルから)が重要項目といったところです。なお、返還された香港は特別行政区となり、資本主義制度が保障された社会制度です。社会主義の中国国内に資本主義制度のエリアがある一国二制度という言葉も重要ですね。

 さて、1989年6月4日に起こった第2次天安門事件。第1次天安門事件はあまりにもマイナーなため、天安門事件といえばこの第2次を指すことが多いのですが、私が大学在学中に起こった事件でしたので、よく覚えています。私はすでに大学受験を終えた身であったため、受験用語ではありませんでしたが、その後の現代中国史には切っても切り外せない重要な事件として、どの用語集にもドーンと載っています。学生の味方だった胡耀邦が死去、その追悼集会が民主化運動へと発展していくわけですが、東欧やソ連といった社会主義圏が消滅してもなお生き残った中国共産党の威力は凄まじいものでありました。市民や学生への弾圧はテレビなどで生々しく見せつけられましたが、いまだにその記憶が残っています。東アジアの大国として君臨する中国は、今年もオリンピックが盛大に行われたものの、民族問題や衛生管理問題、大地震災害といった多くの問題が山積しております。隣国である日本は、同じアジア国同士としてもっと多く中国の知識を身につける必要があるのではないでしょうか。単に歴史の知識だけではなく、現在動いている中国情勢を知ることも大切だと思います。 

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。鄧小平(トウしょうへい。トウのへんは「登」、つくりはおおざと)。深圳(しんセン。センは「土」へんに「川」)