本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第179話


翠玉の聖島・その3

~残酷な征服~

  1. -Vol.177- その1~ある伝道師の布教~はこちら
  2. -Vol.178- その2~イギリスの侵略~はこちら

 イングランド王政を廃止して共和政(コモンウェルス)を実現させ、初代護国卿(ロード・プロテクター)に就任したオリヴァー=クロムウェル(任1653-58)は、新型軍(New Model Army)を率いて、アイルランド・カトリック同盟へ攻撃の準備を整えた。
 アイルランド・カトリック同盟は前国王チャールズ1世(位1625-49)の頃、何度もカトリック緩和の交渉を進めており、戦争で国王軍に勝利を収めたことから交渉がまとまり(アイルランド・カトリック同盟戦争)、カトリック受容の許しを得ていた。これを機に同盟は、ピューリタン革命期から王党派(国王派。カヴァリエ。革命を起こした議会派(ラウンドヘッズ)と敵対)と協力体制にあった。このため同盟は王党派と共に、議会派、中でもクロムウェルが率いた独立派(インデペンデンツ)から大いなる敵とみなされていた。その独立派は1641年のアルスター蜂起の際、アイルランド農民が起こした非カトリック・イングランド入植者への大量虐殺事件への報復も考えていた。
 かくしてクロムウェルは新型軍を引き連れてアイルランドへ侵攻を決め、共和政発足の1649年にダブリン上陸を果たした(クロムウェルのアイルランド侵略1649-53)。

 王党派においてもアイルランドを通じて独立派の共和政を倒し、ステュアート王政の再建を望んでいるのは確かなことで、クロムウェルの新型軍と戦うため、アイルランド・カトリック同盟に派兵していた。このためクロムウェルのアイルランド侵略はピューリタン革命の革命戦争の様相を呈する展開でもあった。同1649年ダブリンに上陸したクロムウェル新型軍は、同市郊外のラスマインズで激しい奇襲戦を展開し、王党軍を撃破、王党軍に従軍していたアイルランド・カトリック同盟の部隊を敗走させた。この戦績はクロムウェルに "an astonishing mercy(驚くほどの慈悲)"と言わしめたほどであったという。
 また、クロムウェル新型軍はラスマインズ戦後も、アイルランド島東岸のレンスター地方で激しい攻城・包囲・略奪・虐殺を繰り返し、王党軍の壊滅的打撃に加え、アイルランド・カトリック同盟の軍、カトリック聖職者、カトリック信者もその残忍な弾圧によって命を落としていった。特にドロヘダで行われた攻城戦では2000人にも及ぶカトリック兵や聖職者、信者の大殺戮が行われたが、虐殺後の惨状に対して、ここにおいてもクロムウェルは以下のような言葉を発したとされている。
 「野蛮な憐れむべき人たちの上にくだされた神の正義の裁きである。なぜなら、彼等はあまりにも清浄な血の中で手を汚したからである。」

 逃げまどうケルト系農民は容赦なく殺害され、海上へ逃げ込む住民は船と一緒に海に沈められた。カトリック教会に至っては中に避難していた信者ごと焼き払われたという。疫病も蔓延し、餓死者も発生した。しかも王党派は翌1650年、形勢不利と見て遂にアイルランド・カトリック同盟ととの協力体制を断ったため、この結果クロムウェル新型軍の思うがままとなり、その後アイルランド島北部・西部も優位な展開で制圧した。こうしてアイルランド人は虐殺や捕虜、亡命などで人口がほぼ半減(あるいは人口の1/3減)したとされ、約1100万エーカー(約 44,500平方キロメートル)におよぶ彼等の土地の大半は1641年のアルスター蜂起時の非カトリック・イングランド入植者への大量虐殺事件の報復として没収、イングランド入植者へ与えられた。地を追われたカトリック地主は見つかり次第逮捕・殺害された(失地カトリック信者を捕まえた人に懸賞金を支給したといわれる)。捕虜となったカトリック地主はイングランド不在地主の小作農に下がり、極貧農民として搾取されていった。さらに土地収奪だけでなく、小作農と化した農民にカトリック信仰を禁止させ、プロテスタントの強制を命じた。

 クロムウェルは1658年に病没し、子のリチャード=クロムウェル(1626-1712)が護国卿に就いたが(任1658-59)、失政で護国卿は廃止され、共和政は崩壊、議会は、大陸で亡命生活を余儀なくされていたステュアート家を呼び戻し、王権を返還することを決めたので、王政復古が実現した(1660。チャールズ1世の子チャールズ2世。英(イギリス)・愛(アイルランド)・蘇(スコットランド)王位とも位1660-85)。ステュアート朝の再興であるが(第二次ステュアート朝。1660-1714)、アイルランドにおいても、王国(第一次アイルランド王国。1541-1649)の復活であった(第二次アイルランド王国。1660-1800)。
 アイルランド人は護国卿体制崩壊による王政復古の期待があった。しかしすでに王党派とは関係を解消していたため、収奪された土地の返還は少なく、イングランド人の植民活動も依然として続けられた。
 チャールズ2世は崩御の際、カトリックに改宗した。王妃や次期王位継承者であった弟ヨーク公ジェームズ(公位1644-85)がカトリック信者であったためであるが、プロテスタントの多い議会は、王室がカトリック色を濃くさせるとともに対立を深めていった。議会はヨーク公即位を阻もうとし、カトリック王位継承排除法案を提出したが実らず、結局ヨーク公はジェームズ2世として即位した(英・愛・蘇王位とも1685-88。蘇王はジェームズ7世として)。イングランド・スコットランド・アイルランド三国における、歴史上最後のカトリック王の誕生であった。

 これが名誉革命(1688)の原因となった。革命の結果、ジェームズ2世は議会で廃位が決まり、国教徒である娘メアリー(1662-94)と夫でオランダ総督のウィレム(任1672-1702)を共同で即位することになった。メアリはメアリ2世として(位1689-94)、ウィレムはウィリアム3世として(位1689-1702)、イングランド・スコットランド・アイルランド3国の王となった。
 アイルランドではカトリック王が廃位となったことで衝撃が走った。アイルランドのカトリック勢力はジェームズ2世を復位させることを企て、ジェームズ2世を支援するジャコバイト勢力(ジェームズ2世支持勢力)と結びついた。しかしウィリアマイト(ウィリアム3世支持勢力)がアイルランドのプロテスタント勢力と結びついてこれを阻もうとし、両勢力に緊張が激化した。この緊張は1689年、ウィレムとメアリが即位した直後に戦闘と化した(ウィリアマイト戦争。1689-91)。両勢力の争いだが、アイルランドではカトリック勢力とプロテスタント勢力が争う宗教戦争の様相を呈した。ダブリン近郊におけるボイン川では激戦が展開され(ボインの戦い。1690.7)、ジャコバイト軍はフランスに亡命していたジェームズ2世が差し向けた軍隊とともに粉砕され、ダブリンは完全に占領され、ジャコバイトに期待して各地で頻発していた抵抗運動も鎮圧された(1691.10)。

 これにより、ジェームズ2世は王位復権をあきらめ、アイルランドを見捨てて亡命先のフランスに戻り、アイルランドのカトリック勢力は減退した。アイルランドのカトリック信者はカトリック儀式を完全に禁じられ、公職も完全追放の身となった。農地では、プロテスタント地主とカトリック小作農の関係が定着した。これにて、イングランドによるアイルランド征服は完成をみた。

 征服の完成によって、アイルランドのカトリック教徒に対する差別は激化し、特に刑罰の厳格化がはかられた(1695。カトリック刑罰法)。例えば、政界・官界・財界・医療界・法曹界・教育界・軍隊への参入は許されず、企業や不動産の経営の規制、結婚・居住・職業の規制、重税といった高圧的政策が強化され、彼等は隷属民同様の扱いを受けることになる。

 カトリックの地で、少数のプロテスタントに支配され、宗教的・文化的・社会的差別を余儀なくされたアイルランドは、その後イングランドとの対立を繰り広げ、19世紀に至るまで、長くプロテスタントに支配され続けることになるのである。


 いわゆるアイルランド問題の原点となったのが、今回ご紹介する内容です。イングランドにおけるアイルランドの本格的な征服活動が今回のお話です。ピューリタン革命(1642-49)を成功させて実権を手に入れたクロムウェルがアイルランド・スコットランドの本格的な征服活動に乗り出していきます。クロムウェルはアイルランドにとっては非常に悪名高き人物となっていますね。

 本編、また前話にあったように、アイルランド国内でのイングランドに対する大きな抵抗運動は1641年に起こったアルスター地方の農民蜂起から始まります。この抵抗運動でイングランド入植者が多数虐殺されるのですが、アイルランドはカトリックを、イングランドはプロテスタントをそれぞれ信仰していることから、カトリック対プロテスタントといった宗教的対立も背景にありました。

 ここで本編でもややこしいと思われたと思うプロテスタントについてお話しします。イングランド国教会はカトリックではないので、形の上ではプロテスタントですが、そもそもプロテスタントはカトリックの教義・教皇権・教会法を否定し、聖書・福音信仰が重要だと説く新しいキリスト教を総称して言います。主に16世紀、ドイツ宗教改革から生まれたルター派スイス宗教改革から生まれたカルヴァン派などが受験世界史では登場し、特にカルヴァン派ではフランスではユグノー、スコットランドでは長老派プレスビテリアン)、ネーデルラントではゴイセン、そしてイングランドではピューリタンとして発展していきます。イングランド国教会も16世紀、国王ヘンリ8世(位1509-47)がカトリックと決別したことが発端となって宗教改革が起こされ、誕生するのですが、最初はにわか作りのキリスト教だったため、教会のトップが教皇から国王に変化しただけで、カトリック要素はしっかり残りました。その後エドワード6世時代(1547-53)に一般祈祷書(1549)が作られてカトリック要素が抜けていき、エリザベス1世(位1558-1603)の統一法(1559)で完全に独立したイングランド独自のキリスト教として安定します。その独自の制度とは主教制(監督制)といい、カトリックのローマ教皇にあたる聖職最高位を、イングランド国教会では「大主教」という地位が置かれ、これをもとにいくつかの主教(カトリックでは司教にあたる)が置かれて、教会管理を行います。ですのでイングランド国教会は、教皇権は認めないが主教制度は行うという、なかば中道主義的な要素があります。
 イングランド国教会は同じプロテスタントでもカルヴァン諸派とは全く異なります。このためカルヴァン諸派からしてみればカトリックっぽく映るイングランド国教会に関して否定的であり、政治的存在に関しても対立します(イングランドにスコットランドのステュアート朝が成立した時、イングランド国教会がスコットランド国教会と統合ができなかったのも、スコットランド国教会はカルヴァン主義だったからである)。よって、その後のピューリタンの猛攻撃を食らうわけで、国教会を信仰する王室もまた、妃がカトリック信者であることを理由に、一時的にカトリックのアイルランドと手を結ぼうとするわけです。
 プロテスタントが増えた議会派は、イングランド国教会を信仰する王室とイングランド国教会に残存したカトリック要素を除去しようとして(ピューリタンを日本語で"清教徒"と呼ぶのは、カトリックを除いた"純粋な教会"の意味があります。英語のpureでお分かりいただけるでしょう)、ピューリタン革命を起こすのですが、クロムウェルは、議会派の中でも熱心なピューリタンで、宗教だけでなく、軍事・政治にも割って入った独立派のリーダーです。国教会を信仰する国王からしてみればまさに大敵であります。
 ただ、カトリックを信仰するアイルランドの民からしてみれば、カトリック以外はすべてプロテスタントということになります。国教会も、ピューリタンも、スコットの長老派も、みんなプロテスタントです。

 さて、そんなクロムウェルのアイルランド侵略を中心に、今回の学習ポイントを見てまいりましょう。17世紀当時の国内カトリック信者の人口がほぼ半減するほどの、未曾有の大混乱に陥ったアイルランドですが、この時クロムウェルが引き連れたのは"新型軍"と言います。これは用語集には"鉄騎隊"の項で説明の中に登場します(旧課程の用語集では単独に登場したことがあります)。鉄騎隊と同様に覚えておきましょう。またこの軍隊の上陸地ダブリンは、かつて難関私大でも問われたことがありますので注意ですね。言うまでもなく、現在のアイルランドの首都です。

 クロムウェルは、アイルランドの征服を残酷に行いましたが(死者約60万人)、ここでは土地収奪が主に出題されるでしょう。アイルランドのカトリック農民は、征服時に大半の土地を没収され、プロテスタントのイングランド人に分配されてしまいます。イングランド人は不在地主(所有する農地所在地に居住していない地主)であり、アイルランドの農民は彼等の小作人となって搾取されていきます。ここではアイルランドの農民が小作農化することが重要で、出題頻度も高いです。
 クロムウェルのアイルランド侵略は以上を覚えておけばよろしいでしょう。余談ですが、クロムウェルはアイルランドだけでなくスコットランドもこの直後征服します(どちらも1649年開始)。しかしスコットランドはクロムウェルの嫌うカトリック教会ではなかったため、アイルランドよりは残酷さは薄いものでした。この内容は遥か大昔にとある私大で出題されたことがありますが、現在ではあまりお目にかかることはありません。

 住む場所を失ったアイルランド人の中には"ならず者・ごろつき"となって各地でさまよう人たちもでてきますが、こうした人たちはアイルランド語では"toraidhe"と言われて、これがのちのイギリス政党で、イギリス保守党の前身である「トーリ("アイルランドのならず者")」の由来となります。これは本編に出た、カトリック信者ヨーク公ジェームズ(のちのジェームズ2世)に関する王位継承排除法案に反対、つまりカトリック王位継承を支持したグループを、支持しないグループが皮肉を込めて"トーリ"と呼んだのが始まりとされています。

 さて今後、宗教の自由と自治権の復活を求める動きは民族主義運動によって表現されていきます。舞台は1800年代に飛びます。この話、まだ続きます。次回は年明けを予定しております。今年も最後までお読みいただきまして、本当にありがとうございました。第4話をお楽しみに。そして、よいお年をお迎えください。