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南米大陸の西岸に連なるアンデス山脈は、チリの首都サンティアゴ北東の最高峰アコンカグア山(6960m)、ボリビア西部にアルティプラノ(ボリビア高原)、ボリビアとペルーとの国境に淡水のチチカカ湖があり、大自然に囲まれながら、現在多くの高山都市がある。この山脈一帯には、古代には多くの文明が存在し、高地に適した家畜(リャマ、アルパカなど)が飼育され、トウモロコシやジャガイモ、サツマイモを産出していた。
1万5千~2万年前、モンゴロイド(黄色人種)の一部が、ベーリング海峡が地続きのときに移住し、その後南北に拡散、これがインディオ(インディアン。インディヘナ。コロンブスが航海到達地をインドと信じたことに由来)であるといわれている。彼らは、前述のトウモロコシやジャガイモなどを基盤とする農業社会を形成し、灌漑農耕や段々畑を建設、また漁業でもペルー海流の豊富な資源を活用した。こうした多様な食料生産を発展させていきながら、チャビン文化(B.C.1000頃。ペルー北部。代表遺跡チャビン=デ=ワンタル。神人像や巨石建造物)・モチカ文化(モチェ文化。1-8C。ペルー北部。モチェ河流域)・ナスカ文化(1-8C。ペルー南部。カワチ遺跡、彩文土器、地上絵が有名)・ティアワナコ文明(1-12C。ボリビア)・ワリ文明(7-10C)といった文化・文明が紀元前後におこった。
これらの古代文化・文明は、総称してアンデス文明と呼ばれるが、旧大陸の四大文明とは違い、文字の発明がなかった。ただ、文字に近い用途を持つ文化があり、これはキープ(結縄。けつじょう)と呼ばれる。縄の結び目の数と位置によって数字を表記し、また色分けして対象の種類を示すとされている。家畜を数えて記録するためのものであったらしい。
さらにアンデス文明は、車(車輪)や鉄の製造も知らず、金・銀・青銅器の製造にとどまったことも特徴である。道具の発展においては、例えば農耕では土を掘る棒、武器では棍棒など、あまり発達していない。
その後モチカ文化を継承したチムー王国が、モチェ河流域の都市トルヒーヨの辺りにおこった(12-15C)。チャンチャン遺跡を残したこの王国は、周辺の小国家を併合して織物や金属工芸など高度な文化を残したが、このチムー王国を屈させ、最後にして最大、最強のアンデス文明を築いたのが、ケチュア族(インカ族)と呼ばれるインディオによって建設されたインカ帝国(1200頃-1533。首都はペルー高原のクスコ)である。
15世紀後半に強大化したインカ帝国は、アンデスの小国家を次々と支配下に入れ、北はエクアドル、南はチリに至るという2000kmの大領域であった。太陽神の化身であるインカ(王)を頂点として世襲化された君主制国家で、称号は"サパン(神聖王)"を用い、13代続いた(初代王はマンコ=カパック)。ティアワナコ文明から石造技術の知識を得て高度な宮殿や神殿を建造し、また青銅器の製造や、チムー王国から受け継いだ金属工芸も発達させた。さらにキープも発展して、人口統計(毎年)など有効に利用された。道路(王の道)も整備され、各地に宿場が設置され(駅伝制)、あわせて飛脚などの通信制度もおこされた。
農業技術も受け継がれ、段々畑や灌漑施設などが整備された。代表遺跡として、クスコ北方にある、1983年に世界遺産に指定された都市マチュ=ピチュがある。標高約2,500mの急峻な尾根にあり、じゃがいもなどが栽培された数十段の段々畑や、巧みに積まれた多くの石による建造物が整然と並んでいる(敷地面積は10平方キロメートル以上)。
ただ、この高度なインカ文明を現出したインカ帝国も、地域主義を克服することができなかった。第11代皇帝ワイナ=カパック(位1493?-1525?)の時に分割統治となり、子ワスカル(?-1532)はクスコに拠点を置き、ワスカルの弟アタワルパ(1502?-33)はエクアドル地方のキト(現エクアドル共和国の首都。赤道を通る)に自身の拠点を置いた。1525年頃ワイナ=カパックの死去に伴いワスカルが第12代インカ皇帝として即位すると、クスコ軍率いるワスカルとキト軍率いるアタワルパとの間で内戦となったが、結局1532年にアタワルパのキト軍がクスコ軍を撃破、アタワルパは第13代インカ皇帝となった(位1532-33)。
ワイナ=カパック帝の頃から、ヨーロッパ人航海者による大航海時代が全盛を極めたが、特にスペインでは、1513年にパナマ地峡を横断して太平洋("南の海")に到達した探検家バルボア(1475頃-1517)が、南の海に黄金帝国(インカ帝国)があるとの噂を聞きつけ、その探検を志したが、バルボアの名声に嫉妬したパナマ総督によって、ありもしない反逆罪の疑いをかけられ処刑された。このバルボアの探検に同行していた士官フランシスコ=ピサロ(1470/75/78-1541)は、バルボアの達成できなかった黄金のインカ帝国を探るため、1524年と26年、同僚のアルマグロとともに、コロンビアなど本格的に南米西海岸を探検した。そして1531年、ようやくインカ帝国を発見、180人の兵士と27頭の馬を引き連れてアンデス越えを果たしたピサロ軍は、カハマルカ(ペルー北部)でアタワルパ帝と会見、キリスト教改宗を強要したが帝に拒否されたため、遂に帝国内に侵攻した。
インカ帝国では、内戦が終わり政情も安定したかに見えたのもつかの間の出来事であった。2万に及ぶインカ帝国軍は瞬く間に撃破され、アタワルパ帝はカハマルカで捕らえられ、廃位させられた(1532)。廃位後アタワルパは、釈放を条件にピサロ・スペイン軍に大量の金銀や財宝を供出したものの、1533年7月、絞首刑となった。同1533年ピサロはクスコに進軍して同都を陥落、広大なアンデス一帯に多くの文化と歴史を残したインカ帝国は、一瞬にして滅亡した(ペルー征服)。こうして、スペイン人のアンデス入植が始まった。
ピサロはその後、「諸王の都」と称したリマ(現ペルー共和国首都)を建設(1535)、これらの功績によりスペイン王カルロス1世(位1516-56。神聖ローマ皇帝カール5世。位1519-56)から侯爵を授かった。しかしアンデスの征服地では、多くのインディオを殺害し、略奪を行った非道ぶりから、残忍・貪欲・無慈悲が揃ったコンキスタードレス(征服者)として、悪名高き存在として脳裏に刻まれた(のちピサロはアルマグロと支配地をめぐり対立、アルマグロを殺害するが、アルマグロの子によって、1541年、リマで暗殺された)。
インカ帝国征服後のスペインでは、大量の金銀が持ち込まれ、その5分の1は国王に献上された。特に銀鉱においては、1545年に発見されたボリビアのポトシ銀山で、インディオの強制労働により大量に採掘された。持ち込まれたこの銀は非常に安価なため、スペインでは通貨価値が低下し、物価が2~3倍にまで高騰する現象がみられた。しかもこの物価高騰の波が、当時の貿易の中心地アムステルダム(オランダ)に及ぶと、西欧諸国に影響した。これを価格革命と呼び、これにより、南ドイツなどヨーロッパ各地の銀山が衰退し、これまで、地中海やバルト海で行ってきた貿易活動は、舞台が大西洋へと移り、アメリカ大陸への入植は進展していくのである。
2006年最初の「高校歴史のお勉強」は、南米大陸の西海岸を中心に、前半はアンデスの古代文明を、後半はそのアンデス文明の代表であるインカ帝国の興亡、そしてスペインの進出をご紹介しました。文明開花の原点は中国・インド・メソポタミア・エジプトの、いわゆる四大文明にありますが、今回ご紹介したアンデス文明は、これら四大文明とは全く一線を画した文明であり、特徴や文化もまるで独特です。ですが、アンデス文明を含むアメリカ大陸に栄えた古代文明は、現在でもなお、世界各国において調査・研究が進められており、四大文明に負けず劣らずの神秘さを私たちに抱かせています。
さて、今年最初の学習ポイントですが、アンデス文明においては次の5項目が大事で、特に太字は要チェックです。
①住民はインディオが主体であること。
②農耕はとうもろこしを中心に、じゃがいも、さつまいも、タバコなどの栽培が主。
③家畜はリャマやアルパカなど小型が中心。
④金属器は金・銀・青銅器を使用し、鉄器の発明がなかった。
⑤車の発明がなかった。
さて、アンデス文明に登場した多くの文化・文明では、インカ帝国(インカ文明)はまず覚えなければいけませんが、それ以外で覚えるとしたらチャビン文化ですね。モチカ・ナスカ・ティアワナコ・チムー・ワリも用語集には出ていますので大事と言えば大事ですが、余裕があれば覚えてください。インカ帝国では、首都がクスコであること、キープを使用したこと(文字がなかった)、征服者ピサロのペルー征服でインカ帝国が滅んだことが重要ポイントです。インカ関係の重要項目は、3文字で片づきます(ピサロ・ペルー・インカ。さらにはクスコ・キープ)。
アメリカ大陸(新大陸)の古代文明を学習する際、今回ご紹介したアンデス文明と、もう1つ、メソアメリカ文明という中米とメキシコにておこった文明があります。メソアメリカ文明の詳細はまた別の機会でお話しさせていただきますが、簡単に内容をお話ししましょう。これはメキシコから中米一帯におこった文明で、メキシコ湾岸におこったオルメカ文明(B.C.1200?-紀元前後)が最初とされています。その後メキシコシティ北東にはテオティワカン文明(紀元前後-7C)が栄えて、太陽のピラミッドと呼ばれる有名な石造建築物を残しました。テオティワカン文明の後にはトルテカ文明(6-10C)という文明もありました。一方中米のユカタン半島にはマヤ文明(B.C.3C-A.D.16C。"マヤの都市国家")が栄えて、象形文字(マヤ文字)・ゼロの観念・二十進法による計算・独自の天文暦などを残しました。
アンデス文明の最高峰がインカ帝国なら、メソアメリカ文明の最高峰はアステカ帝国(14C頃-1521)でしょう。アステカ族が築いた文明(アステカ文明)で、テスココ湖の浮洲に首都テノチティトランを建設しました。これが現在のメキシコシティに位置しています。しかしこの帝国も、最後の王モンテスマ(位1502-20)の時、スペイン人征服者エルナン=コルテス(1485-1547)の侵攻を受けて、1521年、アステカ帝国は滅び、文明も崩壊しました(メキシコ征服)。その後メキシコ銀がスペインに持ち込まれて、スペインのアジア貿易に使われました。ポトシ銀山(<!>ボリビアにあります)と同様に知っておきましょう。そして、インカ関連は3文字で覚えますが、アステカ関連は、テノチティトランは別として、アステカ・メキシコ・コルテスと4文字で片づきます。インカとセットで覚えておきましょう。
征服後のスペインの中南米大陸の植民経営については、黒人奴隷、エンコミエンダ、プランテーションなど、重要語句がたくさん出てきますので、メソアメリカ文明と同様に、また別の機会でお話しするとします。と、いうわけで、新年最初の「高校歴史のお勉強」はこれにて。今年もよろしくお願いいたします。