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黄土(こうど。loess)は、珪酸(けいさん)・アルミ・アルカリ分を含み、空気を通し水はけも良い土壌のため、農耕に適している。中国黄河(こうが)流域(華北。かほく)に広がる黄土地帯は、主に内陸砂漠の灰黄色の微粒子が風によって運ばれ堆積したと言われ、B.C.5000~B.C.4000年頃から、この地帯の住民(漢民族の祖先。"原中国人")は、竪穴住居を建てて集落を形成し、初期農耕として粟や黍(きび)などの穀物を栽培し、豚や犬、鶏などの家畜を飼って生活をしていた。陝西省(せんせいしょう)の西安(シーアン)東部にある半坡遺跡(はんぱ)はその集落址(あと)として有名である。
この頃の民族は、新石器文明をおこし、磨製石斧や彩陶(さいとう)を用いた。彩陶は彩文土器(さいもんどき)で、淡紅色に赤・白・黒の文様をほどこしたものであり、西方の新石器文化(オリエント文明)の影響があったと考えられている。スウェーデン人地質学者アンダーソン(1874-1960)が1921年に中国河南省の仰韶(ぎょうしょう。ヤンシャオ)で初めて彩文土器を発見した。これが中国文明の1つ、黄河文明である。
他にも、薄手で光沢のある黒色磨研土器・黒陶(こくとう)もあり、1930年、中国山東省の竜山(りゅうざん。ロンシャン)にある城子崖(じょうしがい)で初めて発見された。黄河文明は、出土される土器の種類・特色によって、時代が区分され、彩陶を特色とする前期を彩陶文化(仰韶文化。B.C.4000-B.C.3000頃)といい、黒陶を特色とする後期を黒陶文化(竜山文化。B.C.2000-B.C.1500頃)と呼ぶ。また時代区分されていないが、黒陶とならび、厚手で粗製の青灰色の灰陶(かいとう)も多く出土された。黒陶や灰陶には、鬲(れき)や鼎(てい)など、中国の新石器文化を特徴づける三本足の土器(三足土器。さんそくどき)があり、これで食物を煮たり蒸したりしたという。
一方、黄河とともに中国の代表的大河である中国の長江(ちょうこう。揚子江。ようすこう)流域の華中(かちゅう)でもB.C.5000~B.C.4000年頃に水稲耕作にもとづく新石器文化があったとされ、特に1973~74年に発掘された浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡で彩陶や黒陶のほか、高床の住居跡や稲籾が出土している。
黒陶文化の後期になると、集落の規模が大きくなる。祭祀(獣骨による占いなど)と軍事を重視し、血縁関係によって結ばれた氏族制的な共同体(邑。ゆう)の誕生である。形成当初は土壁で囲んだ程度のものであったが、やがて城壁で囲まれた都市国家の性格を持つようになり、多くの邑が形成された。大邑は小邑を服属させ、大邑の首長は、数々の小邑を支配する王となっていく。
戦国~秦漢時代(B.C.5C-A.D.220)、中国文明・国家誕生・民族誕生の起源を為し得たのが神話・伝説上の三皇五帝(さんこうごてい)と呼ばれる聖王たちであると理想づけられた。三皇とはふつう、漁猟の発明者・伏羲(ふくぎ)、農耕の発明者・神農(しんのう)、火と食の発明者・燧人(すいじん)をさし(他説では、天皇・人皇・地皇など)、五帝とは医学の発明者・黄帝(こうてい)、黄帝の孫で暦法の発明者・顓頊(せんぎょく)、黄帝の曾孫で殷王朝の始祖神・帝嚳(ていこく)、そして堯(ぎょう)、舜(しゅん)とされ、前漢の史家・司馬遷(しばせん。B.C.145?-B.C.86?)の歴史書『史記(しき。紀伝体)』などに記された。
つまり中国人は、人間には為し得ない優れた技術と才能をもった神や聖人が皇帝となり、さまざまな発明を行って文明・文化を創造したという伝説をもっていたのである。たとえば、生で肉類を食すると胃腸を害し、病人が増えることを嘆いた者が、火打ち石などを使って発火の発明を伝え、煮炊きして食することを人民に教えると、胃病はすっかり癒えて、その恩を讃えるため、人民はその者を燧人と呼び、王の位につかしたというものである。
また三皇五帝の姿は、人間の形を為さなかったとされている。新疆(しんきょう。アジア史でいうところの西域。東トルキスタン)のウイグル自治区の都市トゥルファン(トルファン)付近で発見された唐代の絵画に伏羲と、皇后の女媧(じょか)の姿があり、2人は上半身は人間であるが、下半身には鱗がはえ、蛇あるいは竜の形をして、互いに螺旋状に絡み合っているというものである。興味深いのは、その絵には太陽や月、さまざまな星が描かれ、2聖人が天地創造の象徴を伝えているのである。
五帝の中、堯と舜は最も有名で、のちの儒家によって理想化され、中国の歴史は、堯帝の時代から始まっているとされた。堯は、太陽や月を利用して暦をつくり、老齢になると、子に帝位を継がせず、民間の賢者である舜に帝位を譲った。天子となった舜もまた、自身の子に継がせず、黄河の治水に功のあった禹(う)に帝位を譲ったとされる。堯から舜、舜から禹への帝位交替は、賢者から賢者へ位を譲る形式で、これを禅譲(ぜんじょう)という。
禹も半人半竜の姿であったとされており、伝説要素を強く含むものであるが、禹が没すると、諸侯は禹の子である啓(けい)に帝位を継がせた。これが、最初の世襲で、ここに、中国最古の王朝が開始されたとしている。これが夏王朝(か。B.C.2070?-B.C.1600?)であるが、実在の証明が完全ではなく、文字も未発見であるため、伝説上の王朝とされているが、近年の懸命な研究によると、河南省の王城崗(おうじょうこう)遺跡に代表されるように、夏王朝が栄えた頃とされる建築物、青銅器、城壁などが各地に発見されていることから、夏の実在した可能性は高いものとされてきている。
夏王朝は470年ほど続き、帝も17代続いたとされている。最後の王である桀(けつ)は武力政治を実施した暴君であった。このため、人心が離れ、遂には臣下だった天乙(てんいつ。B.C.1600頃の人)に滅ぼされてしまう。天乙は夏王朝から与えられた地である商(しょう)の諸侯の出身である。商の始祖・契(せつ)は、舜の時代に、禹の治水を助けた功績があるといわれ、商に封ぜられたとされている。商は夏王朝の配下となり、侯位にあがった子孫は代々夏王朝に仕えてきた。天乙のときに武力で帝位を奪取し、天乙は湯王(とうおう)となった。のち商は大邑商(だいゆうしょう)として王都となり、ここに実在できる最古の王朝・殷(いん。B.C.1600?-B.C.1046?。中国では"商"と呼ばれる)が誕生した。以前の禅譲とはちがい、王朝交替において武力で簒奪することを放伐(ほうばつ)という。禅譲や放伐は、有徳者が天命を受けて天子になる、つまり、"王朝の姓名が易わり(替わり)、天の命が革る(改まる)"とされ、これを「易姓革命(えきせいかくめい)」といい、のちの儒家・孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289?)によって政治学説とされた。
大邑商は現在の河南省安陽(あんよう)県小屯(しょうとん)村にあたる。大邑商はB.C.1300年頃、盤庚(ばんこう。19代王)が定めた都で、それ以降滅亡までの300年間、遷都を行わなかったため、後世の調査によって、多くの遺物が発見された。1899年に発見された亀甲や獣骨には、占いの内容が記された文字が刻まれている。これが甲骨文字(こうこつもじ。卜辞。ぼくじ)で、漢字の原型とされるものである。また、1928年より発掘調査が大規模に行われ、人畜を殉葬した王墓、住居跡、青銅器、白陶などが次々と発見された。小屯村で発見された大邑商の遺跡を殷墟(いんきょ)と呼ばれるが、殷墟には城壁が発見されなかったため、大邑商は都と言うよりも王の墓陵ではないかという見方もある。
殷王朝は、王が主宰した占卜(せんぼく)を絶対的な神意として政治がおこされた。農事・国事が占いによって決められていく祭政一致の形態は神権政治と呼ばれた。強い王権によって、数々の青銅器を祭器や武器として製造し、高度な青銅器時代を現出した。
殷の最後の王は帝辛(ていしん。第30代紂王。ちゅうおう。位?-B.C.1027?)で、青銅器や甲骨文字による文化を盛んにした、才力優れた君主である一方、夏の桀王とともに悪逆無道の暴君ともされている。紂王は美女妲己(だっき)の愛に溺れて以降、虐政をつくし、残忍な刑罰を施したため人心が離れていった。また、日々庭の池に酒を満たし、森林には焼き肉をぶらさげるなど豪奢を極めた酒宴を欠かさず行い("酒池肉林"の由来)、王室の財政を窮乏化させたといわれている。
殷に仕えた諸侯に西伯(せいはく。?-B.C.11C頃)がいた。西伯は紂王の暴政を批判し、仁徳ある政治を封地で行ったが、紂王の怒りに触れて軟禁された。その後財宝と領地を献ずると、許しを得て釈放となり、豊邑(ほうゆう)に都を遷し、諸侯の信頼を得た。また放伐の心を持たず、依然として殷に仕えたという。この西伯こそ、次王朝・周(しゅう)の基盤をつくった文王(ぶんおう)であり、その人物像や為政者の模範として多くの儒家から語られた。また文王は渭水(いすい。陝西省。渭水盆地がある。甘粛に発して陝西に入り、黄河に合流)で、真っ直ぐな釣り針で釣りをしていた呂尚(りょしょう。生没年不明)と出会い、この人物こそ、文王の祖父、太公(たいこう)が待ち望んでいた人物だと言い、名を太公望(たいこうぼう)と呼んで仕えさせた(この故事から、釣り人を「太公望」と呼ぶ)。太公望は優れた軍師・兵法家として周を支えていく。
文王没後、その長子である発(はつ。?-B.C.1021?)が文王を継承し、弟の周公旦(しゅうこうたん。生没年不明)と、師と仰ぐ太公望が補佐し、紂王を倒すために兵力を集めた。300の戦車と、3000の勇士、4万5000の武装兵を率いて盟津(めいしん)で黄河を渡り、800人の諸侯と合流、牧野(ぼくや)で殷軍(70万)と衝突した(牧野の戦い。B.C.1027?)。大軍を率いた殷軍だったが、大半を奴隷で占めた軍は、たちまち戦意を喪失して投降し、紂王は帰都して焼身自殺した。殷王朝は滅び(B.C.1045?/B.C.1027?/B.C.1024?)、天子になった発は武王(ぶおう。位?-B.C.1021?)と称して鎬京(こうけい。現・西安)を都に周王朝(B.C.11C-B.C.256)を開いた。
武王は周公旦に魯(ろ。孔子の出身国として有名)を、太公望に斉(せい)を、それぞれ侯国として封じた。武王の帝位は短期間であり、没後は、幼帝(成王)が擁立され、諸侯の反乱や異民族の侵入をふせぐべく、周公旦が摂政を任じた。周公旦は東方統治のため第2の都・洛邑(らくゆう。現・洛陽。らくよう)を建設し、王室の権限を高めていった。
殷の王政は祭政一致の神権政治であったが、周では新しく配下に入った地方に王族、功臣、土豪を諸侯として、邑となる封土が与えられ、各地の諸侯は諸邑の盟主として華北一帯に君臨した。諸侯は血縁を中心とする氏族的関係を重要とするため、世襲制度に基づいて諸邑を支配し、また封じられた邑の大きさ、周王室との血縁関係の濃淡、家柄などによって公・侯・伯・子・男の5階級の称号(爵。しゃく)が与えられた。封土を与えられた諸侯はその見返りに、王室に対し貢納と軍事援助の義務を負った。
諸侯の下には直属の家臣団(卿・大夫・士。けい・たいふ・し。世襲制)がいて、王・諸侯間と同様、諸侯から領地である采邑(さいゆう)を与えられ、その見返りに、諸侯に対し貢納と軍事援助の義務を負った。このように、直接の主人から恩恵を授かった臣下は、忠誠をつくして主人に付き従うという義務関係が成立した。これが、周王朝の封建制度である。西洋の封建制度(Vol.33参照)のような"契約"という概念はここではみられず、あくまで血縁関係を重視した氏族社会を構築するために適した制度であった。このため、こうした血縁や身分関係を支えるために同族結合制度がつくられた。姓を同じくする父系の親族集団を宗族(そうぞく)といい、長子相続と同姓不婚の原則をもとに、本家嫡流を大宗(たいそう)、次男以下の分家を小宗(しょうそう)とし、これらの秩序や規範をさだめた宗法(そうほう)と、宗法に基づく道徳的規範である礼(れい)を守ることを義務づけた。
周の農村社会でも氏族的な共同社会が形成された。孟子の記によると、開墾した一里四方900畝(ほ)の田地を"井"の字形に9等分に区画し、周囲の8地は私田として8家に与え、中央の公田を8家が共同で耕し、その収穫を租税として国に納める井田制(せいでんせい。井田法)を行っていたとされているが、詳細は不明である。
周が揺れ動いたのは、12代目幽王(ゆうおう。位B.C.782-B.C.771)の時で、幽王は、諸侯・申から迎えられた娘を妃としたにもかかわらず、他の女性を愛したため、これを皇后とし、諸侯の妃を廃した。このため申侯は激怒して西北辺境の異民族・犬戎(けんじゅう。チベット系か?)の軍を味方につけ、王室を襲撃、幽王は殺された(B.C.771)。幽王の子・平王(へいおう。13代目。位B.C.771-B.C.720)が即位したが、B.C.770年、鎬京は犬戎軍により陥落、平王は東方にある第2の都、洛邑に都を遷した(周の東遷)。このB.C.770年を境として、それ以前の周王朝を西周(せいしゅう)、B.C.770年以後、つまり東遷後の周王朝を東周(とうしゅう)といい、B.C.256年まで続く。
周の東遷によって、王権は失墜し、封建社会が完全に崩壊した。各地の諸侯は自立化の傾向を強めていき、黄河中下流域の中原(ちゅうげん)に割拠して、互いに争うようになっていった。有力諸侯は、かすかに残る周の王室の権限を維持させて大陸制覇を狙い、"尊王攘夷(周王を尊び、夷狄を討ち払う。夷狄は異民族。いてき)"を叫ぶ覇者(はしゃ)として猛威をふるっていった。およそ550年に及ぶ統一のない戦乱時代が古代中国におとずれるのである。その前半を春秋時代(B.C.770-B.C.403)、後半を戦国時代と呼ぶ。戦国時代になると、東周の王室はすでに有名無実化しており、東西分裂などの内紛が起き、結局は諸侯国以下の規模に成り下がっていた。
結局B.C.256年、赧王(たんおう。たんのう。第37代周王。位B.C.314-B.C.256)は、かつての周の諸侯・秦(しん。B.C.8C-B.C.206)に諸邑と人民を献上し、遂に東周は滅亡(一説B.C.249年)、殷から続いた青銅器文化は終焉を迎え、農具を中心に鉄文化が始まった。そして秦はB.C.221年に中国を統一し、これ以降、統一王朝の時代が訪れる。
「Vol.9アーリア人」で紹介したインダス文明、「Vol.24エジプト文明」で紹介したエジプト文明、「Vol.31メソポタミア文明」で紹介したメソポタミア文明と続いた四大文明シリーズも、連載74作目にして、ようやく完結しました。黄河文明は他の三文明に負けないくらいのミステリアスな部分がたくさんあり、数々の伝説・神話・逸話が残されています。また王朝が誕生してからは有名な故事成語や伝統も生まれ、その一部はわが日本にも流入されて生活に浸透し、慣用化されていきました。
さて、今回の学習ポイントですが、黄河文明の代表である彩陶文化と黒陶文化はそれぞれ特徴を知る必要があります。彩陶文化は黒陶文化より先におこっており、だいたいB.C.3000年頃に発生したという目安をつけてください(実際はB.C.4000年頃が発生年。ちなみに黒陶文化の発生はB.C.2000頃)。彩陶文化の別称・仰韶文化、黒陶文化の別称・竜山文化も重要です。
王朝の出現になると、登場する用語もグッと増えますが、まずは人名から。三皇五帝時代で覚えた方が良いのは堯と舜、夏王朝では禹、殷では紂王、周では武王ぐらいでいいと思います。余裕があれば、殷の湯王、周の文王、周公旦、太公望も知っておいて損はないでしょう。
年代では、殷のおこった年代は大事です。本編ではB.C.1600年頃と紹介しましたが、B.C.1500年でもOKです。そして滅んだ時期はB.C.11C末とみておいていいでしょう。周では周の東遷が行われたB.C.770年、東周が滅んだB.C.256年が大事です。
殷墟がある河南省安陽県小屯(大邑商)、周の発展地である渭水盆地はよく出されますし、中国史が難しく出題される大学では地図を使って場所を問うてきます。他にも中原や戦国時代の諸侯国の位置、とりわけ周の都となった鎬京や洛邑の場所は大事ですよ。当然の事ながら、黄河と長江の位置は知るべきです。
また、中学の地理分野でも学習しますが、黄河流域は畑作、長江流域は稲作が盛んです。神戸校の授業では"黄色い畑と長い稲"という覚え方で指導しています。
最後に周の封建制度についても覚える箇所がいっぱいです。まず、血縁を重視した氏族的制度であることが大事でしょう。これは西洋や日本の封建制度と異なっている点ですね。諸侯は世襲で継承され、家臣団として卿・大夫・士があるということ、宗法と礼を重んじた宗族(大宗・小宗)集団であるということも覚えましょう。
あと、農民の生活についても触れておきます。井田法はマイナーですが、難関私大では出題される場合があります。この時代の農民は、村落共同体を社(土地神)を中心に形成されていたことも、余裕があれば知っておきましょう。
(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。顓頊(せんぎょく);せん→"端"のつくりの部分がへんで、つくりは"頁"。ぎょく→へんは"王"でつくりは"頁"。帝嚳(ていこく);こく→上は"學"のかんむり、下は"告"。女媧(じょか);か→おんなへんに"過"のしんにょうを除いた部分。