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フランス革命(1789-99)、さらにはナポレオン時代(1799-1815)を経験したヨーロッパ諸国は、国際秩序の再建にむけて、ウィーン会議が開催された(1814.9-1815.6)。革命戦争、さらにはナポレオン戦争によってヨーロッパ大陸がフランスに支配され、西欧諸国の勢力均衡が崩壊していたため、平和的秩序を求めて新しい体制を打ち出そうとしたのである。1648年、ドイツで開かれたウェストファリア会議(ウェストファリア条約を締結した会議)以来の本格的な国際会議の開催であった。
フランス第一帝政下、皇帝ナポレオン1世(位1804-14,15)が諸国民戦争(1813.10)で敗北後、エルバ島(イタリア北西岸)へ流刑処分の身となり(1814.5)、直後ルイ18世(位1814-24)の王位就任宣言によって、かつて絶対王政で花開いたブルボン朝(1589-1792,1814-30)が復活した。しかし、フランス国民にとっては、国王がフランス革命で処刑されたルイ16世(位1774-92)の弟であり、かつての絶対王政が復興されるのではと不安がよぎった。
そんな中で開催されたウィーン会議は、オスマン=トルコを除く全ヨーロッパ諸国が参加した国際会議となった。フランスからはタレーラン=ペリゴール外相(任1814-15)が参加し、ロシアからは皇帝アレクサンドル1世(位1801-25)、プロイセンからはハルデンベルク首相(任1810-22)、イギリスからはキャッスルリー外相(カースルレー。カッスルレー。任1812-1822)と軍人経験者ウェリントン(1769-1852)らが参加した。議長は、開催国オーストリアの外相メッテルニヒ(任1809-48)がつとめることになった。
華々しく開催されたウィーン会議であったが、西欧諸国の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)を確立するにあたり、各国同士の利害対立はぬぐえず、一度も全体会議が行えなかった。しかも、こうした審議が難航する傍ら、会議を彩る舞踏会や宴会、催し物が連日のように開かれ、"会議は踊る、されど進まず"状態であり、浪費だけが目立つ悲惨な有り様であった。
そんな中、大事件が起こる。ナポレオンが、フランスの不安定な情勢と、まとまらないウィーン会議を知って、エルバ島を脱出し、フランス南部に上陸したのである(1815.3)。彼は北上し、パリへ入城、ルイ18世をベルギーへ亡命させた。3月20日、ナポレオンの帝政が復活し、皇帝ナポレオン1世が再び誕生した。ウィーン会議に出席しているタレーランはフランス全権代表の立場と、ナポレオン戦争批判によりナポレオン皇帝に罷免された怨念から、この事態を収拾する決心をつけた。フランスを、革命前の旧制度(アンシャン=レジーム)復活と、革命前の主権と領土を正統として、国益を擁護するという"正統主義(復古主義)"を提唱したのである。ただでさえ他国からは非難を受けるべき立場にありながら、この正統主義によって、"フランスは「革命」によって混乱に巻き込まれた被害国である"として、フランスがおこした革命侵略戦争の責任を揉み消し、なおかつ1789年以前のヨーロッパに戻ってバランス・オブ・パワーに努めるという理念を打ち立てた、タレーランの他国に対する巧妙な牽制であった。ナポレオン復位で列国が驚倒したことに乗じて、タレーランが行った"正統主義"の宣言は、絶妙のタイミングだったのである。
列国は対ナポレオン戦に備えて第5回対仏大同盟を即座に組織し、6月、ベルギーの小村ワーテルローで戦闘が開始された(1815.6。ワーテルローの戦い)。ウェリントンが連合軍総司令官として軍を指揮し、ナポレオン軍に立ち向かい、6月末これを敗ってナポレオンを皇帝の座から退けさせた。ナポレオンの帝政復活劇はわずか3ヶ月余で終わりをつげ("百日天下")、ナポレオン時代は完全に終止符を打った。タレーランは首相となるが、フランス革命時代の行き過ぎを過激王党派から非難され辞任した。
この間、ウィーン会議では、1815年6月9日に会議議定書121条が調印された。正統主義とバランス・オブ・パワーという二大原則に基づいて作成された、世に言うウィーン議定書であり、主な内容は以下のとおりである。
タレーランの思惑通りにフランス領は削られることなく議定書は調印された。以降は議長メッテルニヒによってヨーロッパ新秩序体制、すなわちウィーン体制の形成・維持が努められた。この保守反動体制は、ロシア皇帝アレクサンドル1世の力添えでますます強化された。1815年9月、アレクサンドル1世は、オーストリア皇帝フランツ1世(位1804-35。神聖ローマ皇帝では"フランツ2世"。位1792-1806)・プロイセン王フリードリヒ=ヴィルムヘルム3世(位1797-1840)と共に、キリスト教の正義と友愛精神に基づいた平和維持を君主間で連帯して協力し合うという盟約をもとに、神聖同盟を成立させ、多くの君主国が参加した。
しかし、ウィーン体制に賛同するすべての列国が参加したわけではなかった。宗教的に結成されたこの同盟に対して、イギリスのキャッスルリー外相は、単なる3君主同士における、この条文のない精神的盟約の非現実性を"けだかい神秘主義"、"ナンセンス"と批判して、同盟の参加を見送った。またイギリスと同様、イスラム教国のオスマン帝国や、新教国と同盟することを拒否したローマ教皇も参加しなかった。
こうした状況から、神聖同盟を実質的な機能にするため、神聖同盟の3国にイギリスが加わり、宗教性を除く、国家間として軍事的・政治的な平和維持を盟約とする四国同盟が11月に結成された(1818年9月にはフランスも加入、五国同盟となる)。
ウィーン体制のこうした保守反動は、諸国民には思いもよらぬ展開で跳ね返ってきた。フランス革命やナポレオンの征服によって目覚めた国民主義(ナショナリズム)や、絶対王政時代を批判し、民主化を呼びかける自由主義(リベラリズム)などによって反抗運動が引き起こされたのである。まるで時代を逆行するかのように保守反動をしくウィーン体制と、新しい流れを呼び出そうとする自由主義・国民主義との対立は激化した。
ドイツでは1817年、"名誉・自由・祖国"をスローガンに集まった学生同盟"ブルシェンシャフト"が、宗教改革者マルティン=ルター(1483~1546)のゆかりの地ヴァルトブルクで開催された宗教改革300年祭を政治的示威運動につなげて自由主義と国民主義を主張、ウィーン体制が容認する反動傾向の書物を焼いた。また1819年3月、ウィーン体制を擁護した著書や記事を書いていた通俗劇作家コッツェブー(1761-1819)がブルシェンシャフトの過激派に暗殺される事件も起こったため、8月、遂にメッテルニヒは立ち上がり、ドイツ連邦の構成するうちの主要10ヵ国の代表をボヘミアの温泉保養地カールスバート(現チェコ共和国のカルロヴィ=ヴァリ)に招集し、自由主義・国民主義運動を弾圧するための言論統制・大学監視・秘密結社禁止を決議し、9月20日ドイツ連邦議会で採択された(カールスバート決議)。
カールスバート決議によって反ウィーン体制派の大学は厳重に取り締まられ、多くの教授、職員が失職し、ブルシェンシャフトも強制的に解散を迫られた。また自由主義に走った政治家も標的となり、元来その傾向の強かったハルデンベルクも引退を余儀なくされた。ウィーン体制への最初の反抗であったブルシェンシャフトは、メッテルニヒの徹底した弾圧で、壊滅した。1821年メッテルニヒは皇帝フランツ1世の宰相に就任し(任1821-48)、次の皇帝フェルディナント1世(位1835-48)の退位まで外相も兼任した。
ウィーン体制に対する反抗運動はブルシェンシャフト鎮定後も各国各地で頻発した。スペインでは革命家リエゴ=イ=ヌニエス(1785-1823)がカディス(アンダルシア地方)で立憲革命をおこし(1820。スペイン立憲革命)、国王フェルナンド7世(位1808,14-33)に憲法を施行させた。イタリアでは立憲自由主義を掲げる秘密結社カルボナリ党(炭焼党)によるナポリ革命(1820)やピエモンテ立憲運動(1821)が勃発、ロシアでは革命団体デカブリスト(十二月党)による武装蜂起(1825.12)など、反体制派の革命・デモ・抵抗運動は大規模に行われたが、いずれも体制派軍の武力弾圧によって屈服、挫折した。
しかしこれらの動きは世界的規模からすれば、小さいものであった。ウィーン体制を動揺させる真の抵抗は、ヨーロッパの"外"にあった。かつてナポレオンが発令した大陸封鎖によって、ヨーロッパ本国、特にスペインやポルトガルとの連絡が絶えたことで、自立化が促進された支配地域がある。ラテン=アメリカ(メキシコ以南の中南米)である。ラテン=アメリカは、大陸の先住民であるインディオ、植民地生まれの白色人種クリオーリョ、先住民と白人の混血メスティーソ、白人と黒人の混血ムラート、奴隷貿易で大陸を渡ってきたアフリカ出身の黒人といった住民構成であった(スペイン語を話すアメリカの少数民族をヒスパニックといい、ラテン=アメリカから移住。1960年代から人口が爆発的に増加した)。
ブラジルはポルトガル領であったが、それ以外のほとんどのラテン=アメリカ諸国はスペインの海外領土であった。スペイン領植民地では、本国から派遣され特権を付与された特定の官僚や商人が(彼らをガチュピンと言う)、実権を掌握してクリオーリョらを搾取した。元来ラテン=アメリカ諸国は本国からの圧政に不満を持っており、1804年カリブ海エスパニョラ島にある、フランス領だったハイチが、強力化していくナポレオン支配を振り切って独立したことで、各ラテン=アメリカ諸国の独立熱は次第に高まり、また1808年にナポレオンがスペイン=ブルボン家を追放させて、兄ジョセフ(1768-1844)をスペイン王(位1808-13。ナポリ王と兼任)におき、スペインがナポレオンの支配下におかれたため、独立運動はさらに急加速し始めた。そして、フランシスコ=ミランダ(1756-1816)とシモン=ボリバル(1783-1830)による出身地ベネズエラでの独立宣言を皮切りに、各地で次々と独立国が誕生した。
ボリバルは、クリオーリョを支持基盤とし、奴隷解放宣言によってメスティーソやムラートらの支持を加え、運動規模を拡大し、ベネズエラ(1811)、コロンビア(1819)、ボリビア(1825。"ボリバル"に由来)を解放・独立させた。またアルゼンチン出身のクリオーリョ・サン=マルティン(1778-1850)は、ラテン=アメリカの南半諸国の独立に貢献、祖国アルゼンチン(1816。マルティンの命日は8月17日で、アルゼンチンの祝日)・チリ(1818)・ペルー(1821)を独立・解放させた。
メキシコでもクリオーリョ出身の神父イダルゴ=イ=コスティリャ(1753-1811)が、メスティーソやインディオ農民を指導して1810年9月に武装蜂起した。イダルゴは翌年スペイン軍に捕らえられ、銃殺刑に処されたが、メキシコはその後1813年共和国独立宣言、1822年には帝政になった。ラテン=アメリカで唯一ポルトガル領だったブラジルも、1822年ペドロ1世(位1822-31)を皇帝にたて、立憲君主国として独立した(ブラジル帝国)。
メッテルニヒは、こうしたラテン=アメリカの独立運動が、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動を触発させる恐れがあるとして干渉しようと企てたが、タレーランは辞職、自由主義化に走ったハルデンベルクも退けられ、1820年代に入るとウィーン体制を支える代表者は、議定書調印当時と顔ぶれが違っていった。キャッスルリー外相は過労による心身消耗により外相在任中に自身ののどを切って自殺を遂げ(1822)、そもそも東インド会社総督として任地に赴任するはずであったジョージ=カニング(1770-1827)が、キャッスルリーにかわって外相に急遽再就任した(任1807-09,22-27)。
カニングはキャッスルリーのライバルであった。カニングの最初の外相時代、キャッスルリー(当時陸相)と衝突して辞任し(1809)、しかもキャッスルリーとの決闘で負傷した(1810)。さらにキャッスルリーとは違い、カニングは典型的な自由主義推進者で、今回のラテン=アメリカ諸国の独立運動を擁護し、諸国の独立を承認した。それはイギリス本国が経済的利益を得るために、イギリス商品を解放されたラテン=アメリカ市場に進出させる目的のためであった。カニングの自由主義外交は、オーストリア・メッテルニヒを失望させ、結果メッテルニヒのラテン=アメリカ干渉は失敗、五国同盟も瓦解した(1822)。また1821年から続いていたギリシア独立戦争(1821-29。オスマン帝国からの独立)に対しては、カニングの支持でイギリス・フランス・ロシアが独立支援同盟を結成(1826)、メッテルニヒ側に対してはオスマン帝国が支援を求めてくるという有り様であり、平和維持のためのバランス・オブ・パワーを売り物にしていたウィーン体制は、もはや形骸化寸前であった。
メッテルニヒをここまで追い込んだのは、アメリカ合衆国の力が大きかった。1823年、アメリカ第5代ジェームズ=モンロー大統領(任1817-25。民主共和党)の声明である。当時のアメリカは西部開拓が進展しており、ヨーロッパ諸国が支配目的に大陸内へ進出することを是が非でも避けたかった。モンロー教書、あるいはモンロー宣言と呼ばれたこの声明は、"アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉"を軸に、ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に、今後新たな植民地を持つこと、またヨーロッパの保守的な社会・政治・経済をアメリカ大陸に持ち込むことを反対し、そのかわりアメリカもヨーロッパの諸問題には干渉しないと言明したものである。これはのちにモンロー主義と呼ばれ、孤立主義を貫いたアメリカ外交の基盤となった。
カニング外交によるイギリスの支援とアメリカのモンロー教書により、結果としてアメリカ大陸は、ヨーロッパの動向とは切り離され、北米は他方からの侵略に恐れることなく持地の開拓をすすめ、中南米は独自の国家を築いていった。一方でこれまで強い姿勢でヨーロッパの保守反動態勢を守ってきたメッテルニッヒは、逆に国民主義・自由主義の標的となり、政治的立場も弱小化して、徐々に孤立していった。
1825年には神聖同盟の提唱者であったロシアのアレクサンドル1世が病没、また1829年のアドリアノーブル条約で、ギリシアの独立が承認された。大規模な反動政治を展開したウィーン体制は、その後1830年の七月革命、1848年の二月革命という、フランスにおける大革命によって完全に闇に葬り去られていくことになる。
19世紀前半におけるヨーロッパ史の中核をなすウィーン体制が今回のお話です。フランス革命やナポレオン戦争でめちゃめちゃになったヨーロッパの秩序回復のために開催されたウィーン会議は、革命前の支配体制、つまり絶対主義時代の体制を正統と認める正統主義と、欧州諸国平等化をはかった勢力均衡(バランス・オブ・パワー)という2つの原則から、121条のウィーン議定書を作り上げました。この内容が、あまりにも保守的で、歴史の流れに逆らった、文字通り反動的な体制だったために、自由主義者(リベラリズム)や国民主義(ナショナリズム)を唱える人たちが抵抗していくという流れです。
さて、今回の学習ポイントは山ほどあるのでご覚悟を\(^ ^;)。まずウィーン会議が開催された1814年は絶対に覚える必要があります。第一次世界大戦勃発(1914年)の100年前です。議長はオーストリアのメッテルニヒ、参加者はフランスのタレーランが重要です。ハルデンベルクは、ナポレオン戦争期、シュタイン(1757-1831)と共に行ったプロイセン改革(1807以降。農民解放などの近代化)の方で出題されます。キャッスルリー(カスルレー)はマイナーですので、覚えなくても良いでしょう。タレーランの「正統主義」や、19世紀前半から半ばにかけて頻繁に登場する"保守反動"とか"反動化"という用語も重要です。
ウィーン議定書の内容は本編で紹介した①~⑫の内容のうち、⑨と⑫以外は覚える必要があります。なお、⑪のスイスで大事なのは、国際的に独立を承認されたのは1648年のウェストファリア条約によるもので、永世中立を勝ち取ったのはウィーン議定書によるものであることです。
反動体制を補強するものとして、ロシア皇帝アレクサンドル1世の神聖同盟や、四国同盟(五国同盟)も重要。神聖同盟は、イギリス・トルコ・ローマ教皇が不参加だったこと、四国同盟はイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアで結成されて("英墺普露"→"栄養風呂"という覚え方を予備校時代教わりました。)、のちに五国として加わったのがフランスであることが重要です。問題で、キリスト教関係に触れているものは神聖同盟です。
そして、自由主義や国民主義によるウィーン体制の抵抗運動もよく出されます。ドイツではブルシェンシャフト運動ですね。これの弾圧を決したメッテルニヒのカールスバート決議はマイナーですが、用語集にしっかりと出ておりますので、余裕があれば知っておいた方がイイかもしれません。ちなみに現在の黒・赤・金のドイツ国旗はブルシェンシャフトの旗印の配色に由来するそうです。あと、スペインの立憲革命(リエゴ)はフランスが干渉して挫折、ロシアのデカブリストの乱も重要です。とくにデカブリストの乱は、即位したロシア皇帝ニコライ1世(位1824-55。アレクサンドル1世の弟)が鎮圧したことを知っておきましょう。イタリアのカルボナリ党の反乱は、メッテルニヒとルイ18世が弾圧しました。とくにこのカルボナリ党(炭焼党)ですが、陣中食があの"カルボナーラ"だったという説があることで有名で、同党の名につながったとか。カルボナーラという語は"炭焼風"の意味があって、他にも、炭で汚れた炭焼職人の腕に似ているのが名の由来という説などもあります。
そしてウィーン体制を学習する上でこの上なく重要なのが、ラテン=アメリカの独立運動です。まずウィーン体制より前に独立したハイチは大事な事項です。フランス革命が勃発して2年後(1791)、元来フランス領だったカリブ海のエスパニョラ島のサンドマング(サントドミンゴ)で、1791年黒人奴隷の反乱がおこって独立運動が開始されました。そして1804年、ナポレオン軍を撃退してめでたくハイチは独立しました。1806年世界最初の黒人共和国ハイチ共和国が誕生するわけですが、独立が決定する1年前に捕らえられ獄死した独立運動の指導者トゥサン=ルーヴェルチュール(1743-1803。"黒いジャコバン"の異名を持つ)はたまにポツポツと私大一般入試などでみかけますので、余裕があれば知っておいた方が良いでしょう。
そして、シモン=ボリバルとサン=マルティンの活躍も忘れてはなりません。ボリバルはベネズエラ・コロンビア・ボリビア・エクアドルを、マルティンは主に南方のアルゼンチン・チリ・ペルーの独立にそれぞれ貢献した人たちです。スペインからの独立はあとメキシコがありますが、独立を指導したイダルゴも教科書によっては登場しますので、知る必要があります。
以上がスペインからの独立で、残るブラジルはポルトガルからの独立です。ハイチは元フランス領で、ブラジルは元ポルトガル領、それ以外は元スペイン領と覚えておいて下さい。それと、ラテン=アメリカ諸国の独立を助けたカニング外交とモンロー教書(モンロー宣言)はこの分野では絶対覚える用語です。宣言した1823年も覚えておきましょう。
ギリシア独立関係は詳細「Vol.26ギリシア独立戦争」を参照してください。完全承認した翌1830年(ロンドン会議)は激動の年となりました。フランス・ブルボン王家の反動政治に対する大革命(七月革命。1830.7.27)の勃発にともなって、ベルギー独立(1830)、ポーランド騒乱(1830-31)、ハンガリー独立運動(1830)、ドイツ騒乱(1830)、そして続く翌年はカルボナリ党によるイタリア騒乱(1831)の勃発.... ヨーロッパが大混乱し、そして、ウィーン体制崩壊にとどめを刺したのは、1848年2月におこった自由主義的革命・フランス二月革命勃発です。この影響で、翌3月13日にウィーン暴動(三月革命)がおこって、遂にメッテルニヒは失脚、イギリスに亡命となりました。1830年以降のヨーロッパはかなり複雑なので、また別の機会で書かせていただきます。