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843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約により、フランク王国は西フランク王国(フランス地方。843~987)・東フランク王国(ドイツ地方。843~911)・イタリア王国(843~875)と分割された。そのうちの1つ東フランク王国は、ルートヴィヒ4世(幼童王。ルートヴィヒ2世の曾孫。位899~911)の死をもって断絶し(911)、東フランク王国のカロリング王朝は途絶えた。すると国内で、ザクセン(北)・バイエルン(東)・シュヴァーベン(南)・フランケン(中部)など、部族を基盤とする諸侯(大諸侯。部族大公)たちが勢力を増大させていった。その中で、諸侯の選挙王制により、東フランクの中核であったフランケン公領(マイン川流域)の大公コンラート1世(?-918)が東フランク王(ドイツ王)に選ばれ、東フランク王国におけるフランケン朝を創始し王位に就いたが(位911-918。ザリエル朝の異称とは別)、部族大公勢力は留まることを知らず、ザクセン公ハインリヒ(876-936)やバイエルン公と争う羽目になる。また、全盛期時代から悩まされたマジャール人(現ハンガリー人)の侵寇にも苦しんだ。このフランケン朝は、"東フランク王国"としての政体は踏襲していたもののその機能を果たせず、国家統一どころか、実際は東フランク王国は名目的で、王国の旧諸侯が新国家建設を目指して争っていたにすぎなかった。
コンラート1世は臨終の際、次王に、敵ながら適任と認めたザクセン公ハインリヒを推薦し、ザクセンの王朝を創始して国家統一を頼むと遺言し、他の諸侯もこれに賛同した。919年、ハインリヒはザクセン朝(919-1024)を創始し、ハインリヒ1世(捕鳥王。都市建設王。位919-936)として即位した。ハインリヒ1世は、デーン人などのノルマン民族や、スラヴ人、マジャール人の侵入を防ぐべく、辺境領(マルク)を設置、辺境の地方長官職をつかさどる辺境伯(マルク=グラーフ)をおいて城塞を築き、辺境をかためた。西フランク王国と交渉してロートリンゲン(中部フランク。ロレーヌ)をドイツ地方に編入、またドイツ内部のキリスト教会を保護下において、積極的に教皇との接触をはかり、国家の統一をすすめた。
751年にフランク王国カロリング朝が誕生した時、創始者ピピン3世(位751-768)が即位にあたって、教皇により塗油の儀式を受けた。その後カール大帝(フランク王位768-814。西ローマ皇位800-814)をはじめ、フランク国王は即位時、塗油の儀式を受けることが慣習化され、塗油によって代々フランク王の遺志を継ぐ者であることを知らしめ、これにより国王の権威が確立された。しかしハインリヒ1世は、マインツ大司教の塗油の礼を拒否し、フランク王国の継承者としての国王ではなく、新しい国家の王として登場したのである。その国家が"ドイツ"で、ドイツ王ハインリヒ1世の即位をもって、一般にドイツ国家の成立となる。またフランク王国は分割相続であったが、ハインリヒ1世はこの面でも一線を画し、王権強化を誇って単独相続を決め、ザクセン王家によるザクセン朝存続維持に努めた。しかし、部族大公勢力はいっこうにおさまらなかった。
936年、ハインリヒ1世が没し、子のオットーがザクセン朝ドイツ王として、アーヘンで即位した(オットー1世。位936-973)。ザクセン王家から2代ドイツ王に選ばれたため、部族大公勢力は不満であった。このため、オットー1世は、まず第一に、その部族大公勢力を抑える政策を行い、フランケンやバイエルンなどの大公領にオットー1世の血族を配して、ドイツ統一を図った。しかし一族が部族大公らと結んで謀反を起こすと、次の統一策として、ドイツの司教に王領地を寄進し、伯職と同等の権利を与えて、教会や修道院領を王領として扱う帝国教会政策を行った。これにより、教会制度は国家の組織に組み込まれ、オットー1世は聖職叙任権を獲得し、王権拡大に努めた。
外交策では、イタリア政策が挙げられる。ドイツの帝国教会政策で、教皇権との結び付きが緊密化したことにより、イタリアへの極度の接触が可能になったのである。当時イタリアは、マジャール人をはじめ、シチリア島などに潜伏するイスラム勢力の侵入が著しかった。また、カロリング家断絶後、王権も弱く、イタリア諸侯の王位争いも激化していた。
王位継承問題で揺れていたイタリアで、オットー1世は951年、イヴレア辺境伯など他のイタリア諸侯からの王位継承の大候補が数多くある中、もう1人候補であるブルグント家からイタリア王女アーデルハイト(931?-999)と結婚して(951)、イタリア王を自称した。オットー1世はイタリアには居座らず、イヴレア辺境伯にイタリア統治を委ねた。これによりイタリア諸侯らを抑える目的で第1次イタリア遠征を行った(951-952)。
オットー1世には嫡子リウドルフ(930-957)がいたが、父王との反目があり、父とアーデルハイトとの間に1子をもうけると、王位継承に危機感を募らせ、親族や諸大公らと反乱をおこした(953)。翌954年からはマジャール人のドイツ侵寇も激化し、王室は苦悩すると思われたが、オットー1世はリウドルフの反乱を巧みに利用し、リウドルフの味方に付いている諸侯に対し、マジャール人の襲来をリウドルフがおこしたものだと呼びかけたのである。これによりリウドルフの味方であった諸侯たちは、リウドルフの加担をやめてマジャール人の撃退に向かった。リウドルフは捕まり、幽閉された。大公軍の結束によって955年、遂にマジャール人は完全撤退し(レヒフェルトの戦い)、これ以降のマジャール人の西方侵入はなくなった。オットー1世は、スラヴ人、ノルマン系デーン人をも撃退、彼はヨーロッパ全域の"キリスト教国"を異教民族から守った英雄として評価され、彼の地位は不動化された。特に、この年ローマ教皇に就いたヨハネス12世(位955-964)をはじめ、教会組織からは手篤く称えられた。
ヨハネス12世は教皇即位時は18歳と年少で、権威は低かったため、教皇領の拡張を図ろうとした。しかしイタリア諸侯イヴレア辺境伯はこれを抑えようとして、ヨハネス12世に対して激しい攻撃を行った。ヨハネス12世は961年、オットー1世に救援を依頼した。オットー1世はアーデルハイトとの子オットー(955-983)をドイツ王オットー2世(位961-983)として共同統治させ、そして第2次イタリア遠征を行い(961-964)、その後イヴレア伯を抑えつけた。
イヴレア伯の制圧後、オットー1世はローマに赴き、ヨハネス12世に身柄の安全を保障することにより、帝冠を授かることを約束し、ヨハネス12世もこれに応じた。こうして、962年2月、オットー1世は教皇ヨハネス12世より、ローマ皇帝の帝冠を授かり(オットーの戴冠)、"ローマ・東フランク皇帝"となった(オットー大帝。位962-973)。かつてカール大帝が800年に行ったときと同様(カールの戴冠)、ローマ帝国の復活であり、またカロリング朝フランク王国の復活をも意味する戴冠であった。オットー大帝は"尊厳なる皇帝"として、ローマ教会が及ぶヨーロッパ世界に君臨する地位を得たのである。これにより、事実上イタリアとドイツは、オットー大帝によって統治された。これが、後になって"神聖ローマ帝国"と呼ばれる、ドイツ帝国誕生の瞬間である。原理上ではカールの戴冠(800)が神聖ローマ帝国の誕生としているが、事実上ではオットーの戴冠でもって誕生としている。
ヨハネス12世は、オットー大帝に戴冠したものの、オットーの脅威に絶えかね、オットーの政敵と手を結ぶようになった。このためヨハネス12世は、オットー大帝により皇位を廃される(963)。その後レオ8世(位963-965)、ベネディクトゥス5世(位964-966)とローマ教皇は短期交替が相次ぎ、教皇権が失墜した。ヨハネス12世の行為によって、教会はローマ・東フランク皇帝(神聖ローマ皇帝)の思うままに操られることになり、ヨハネス廃位後に即位したレオ8世から、教皇即位にあたってローマ皇帝に忠誠を誓う宣言を行う規定が盛り込まれ、教会の「鉄世紀」と呼ばれる暗黒時代を招くことなった。教皇と皇帝との対立はここから始まっていく。
その後オットー大帝は、966年から第3次イタリア遠征を行い(966-972)、以降イタリア政策を推進し、同地に滞在した。イタリア経営は、ドイツ国内統治以上に努力が強いられ、結果としてドイツ統一が遅れていく状況を為した。晩年に差し掛かったオットー大帝は、973年、すでに神聖ローマ皇帝の帝位継承者として決定していたオットー2世に譲位し(位973-983)、973年没した。オットー2世の後、オットー3世(ドイツ王位983-1002。神聖ローマ皇帝位983-1002)・ハインリヒ2世(王位1002-24,帝位1002-24)と続き、オットー朝の異名を兼ね備えたザクセン朝は、1024年、ハインリヒ2世でもってザクセン王家断絶となり、フランケン公コンラート1世の血を引くフランケン公シュパイエル伯ハインリヒ(オットー1世の曾孫の子)の子コンラート(990?-1039)が選ばれ、コンラート2世として即位し(王位1024-39,帝位1027-39)、第2のフランケン朝であるザリエル朝(1024-1125)を創始、ザクセン朝を継承して帝国教会政策とイタリア政策は続けられていく。
過去、何度となく登場した神聖ローマ帝国ですが、ようやくその誕生の瞬間をご紹介することができました。この帝国の呼称は、オットー1世の戴冠直後には使用していません。その頃は単に"帝国"とかそのまま"ドイツ王国"とか呼ばれていたそうですが、ひょっとしたら"フランク帝国"とか、"オットー帝国"とか、"ローマ・フランク帝国"とか、"ドイツ帝国"とか、一部ではそう呼ばれていたかもしれません。12C半ばに"神聖帝国"と呼ばれるようになり、13C後半になって"神聖ローマ帝国"の呼称が正式に登場しています。また15C半ば以降は"ドイツ国民の神聖ローマ帝国"と呼ばれました。
本編の内容からお分かりのように、この帝国は"ローマ"と名の付くものの基本は現在のドイツにあった国です。ですから世界史を学習する際には、神聖ローマ帝国の分野はドイツ史として理解していかなければなりません。ヒトラーが"永遠に輝く第三帝国"と発したのは有名ですが、第二帝国は皇帝ヴィルヘルム1世(位1861-88)と宰相ビスマルク(任1871-90)が築いたドイツ帝国(1871-1918)を、第一帝国が今回の神聖ローマ帝国をそれぞれ指します。
さて、今回の学習ポイントです。フランク王国が分裂した頃のポイントは「Vol.23フランク王国」を参照していただくとして、カロリング家が断絶した東フランク王国は、まずフランケン朝というコンラート1世が創始した王朝が始まりますが、これは覚えなくても大丈夫です。大事なのは、次のザクセン朝で、大諸侯の1つであるザクセン公がつくった王朝です。ザクセン朝の王はオットー1世だけ覚えておけば大丈夫ですが、余裕があれば、ザクセン朝をおこしたオットーの父ハインリヒ1世も知っておけば万全です。
オットー1世の政策はよく出題されます。帝国教会政策、イタリア政策、マジャール人と戦ったレヒフェルトの戦いはどれも大事です。マジャール人はハンガリー人の祖であることも知っておきましょう。そしてオットーの戴冠式は962年です。"オットーの苦労人"と覚えましょう。また、ドイツ王並びに神聖ローマ皇帝は諸侯による選挙で選ばれることも重要です。選挙に関与する諸侯を選帝侯(選挙侯)と呼びますので知っておきましょう。。
最後にザリエル朝が登場しましたが、治世前半は、帝国教会政策を維持した、神聖ローマ帝国にふさわしい王権が伸張していくのですが、1073年に即位したローマ教皇グレゴリウス7世(位1073-85)の登場で、教皇権の復活をかけて、教皇と神聖ローマ皇帝との争いがおこります。この対決は、聖職叙任権闘争に集中して、結果1077年のカノッサの屈辱事件によって、時の皇帝ハインリヒ4世(王位1054-1106,帝位1056-1106)は苦戦を強いられます。そして次のハインリヒ5世(王位1098-1125,帝位1106-25)とローマ教皇カリクストゥス2世(位1119-24)間にヴォルムス協約(1122)が結ばれて帝国教会政策は終わりを迎えます。これによって教皇権は復活を遂げるとともに、皇帝権を中心とする王権は衰えていきます。ザリエル朝を知らずとも、カノッサの屈辱事件は歴史的に有名な事件ですね。このお話は「Vol.10神聖ローマ皇帝、雪中での屈辱」に詳細がありますのでここもご参照下さい。
さて、次回も神聖ローマ帝国関連のお話です。過度のイタリア政策でドイツ国内が揺れ動きます。皇帝のいない時代もおとずれます。オーストリアも誕生します。続きは次回をお楽しみに!