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世界史の目

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ギャラリー

第77話


神聖ローマ帝国・後編~ドイツ分裂の時代~

神聖ローマ帝国・前編はこちら→

 オットー1世の戴冠によって、962年に誕生した神聖ローマ帝国は、ザクセン朝(919-1024)、ザリエル朝(1024-1125)と続いた。ザリエル朝はハインリヒ5世(ドイツ王位1098-1125,神聖ローマ皇帝位1106-25)で断絶、かつてオットー1世が苦心してつくりあげた帝国教会政策も王朝時代に最盛期を現出したものの、聖職叙任権闘争が皇帝と教皇との間で激化したため、ハインリヒ5世とローマ教皇カリクストゥス2世(位1119-24)間によるヴォルムス協約(1122)で、皇帝と教皇間の争いは一応妥結したことにより終幕した。帝国教会政策が終わっても依然としてイタリア政策だけが根強く残り、結果としてドイツ国内での統治は怠慢になっていた。実質はドイツ王にすぎないにもかかわらず、ローマ教皇による戴冠で神聖ローマ皇帝に任じられたことで、ローマ教会を媒介にヨーロッパを支配しようとする妄想にかられた結果がイタリア政策によって、新たな歴史展開を迎えていく。

 ザリエル家断絶後、マインツ(ライン川中流。大司教座所在地)で次王を決める選挙が行われ、ザクセン公で、ズップリンブルク伯ゲープハルト(?-1075)を父に持つロタール(1075-1137)が選ばれた(ロタール3世。王位1125-37,帝位1133-37)。ロタール3世は第2のザクセン朝であるズップリンブルク朝(1125-37)を創始したが、彼の死によってズップリンブルク家はたった1代で断絶し、瞬く間に次王選出選挙が行われた。晩年、ロタール3世は次王としてヴェルフェン家バイエルンザクセンから支持がある諸侯家)のハインリヒ獅子公(1129-95)を推薦していたが、投票の結果、ロタール3世が避けていたシュタウフェン家(ホーエンシュタウフェン家。シュヴァーベンから支持がある諸侯家)からコンラート(1093-1152)が選ばれ、コンラート3世(王位・帝位1138-52)となり、シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)が創始された。コンラート3世は、第2回十字軍を指揮したことで知られる。

 コンラート3世の没後、選ばれたのは甥のフリードリヒ=バルバロッサ(1122-1190)で、シュヴァーベン公フリードリヒ3世(公位1147-1152)として動いていた人物である。フリードリヒはドイツ王フリードリヒ1世赤髭王。あかひげおう。王位1152-1190)として即位した。シュヴァーベン公時代から内政面で手腕を発揮していた彼は英雄視されており、国内統一の第一人者としても期待されていた。彼の時代にドイツにおける封建制度は確立したと言っていい。即位後、5次にわたるイタリア遠征を行い(1154-55,58-62,63-64,66-68,74-77)、1155年、遠征先のローマで帝冠を与えられ、神聖ローマ皇帝となった(帝位1155-90)。しかし過度の遠征でローマ教皇と折り合いが悪く、教皇アレクサンデル3世(位1159-81)に対して3人の対立教皇(ウィクトル4世。位1159-64。パスカリス3世。位1164-68。カリクストゥス3世。位1168-78)を擁立させるなど、帝権を大いに活用した。また1189年第3回十字軍にも加わった。

 元来ヴェルフェン家とシュタウフェン家は対立が激しく、ヴェルフェン家のハインリヒ獅子公もフリードリヒがシュヴァーベン公時代から敵対視していた。ハインリヒ獅子公はフリードリヒの従弟にあたるが、フリードリヒはシュタウフェン家に属しており、長く抗争を展開していた。しかし、フリードリヒが帝位についた1152年でもって、両家はいったん和解、ハインリヒ獅子公もイタリア遠征(2次)に従軍、功績をあげた。"獅子公"の異名はこのとき付けられた。
 フリードリヒ1世はハインリヒ獅子公を侮っていた。ハインリヒはヴェルフェン家領拡大に動き、ドイツ北方のメクレンブルク・フォアポンメルンの一部を征服し、1158年にはリューベックミュンヘンを建設し、東ドイツ地方の開拓をすすめていたのである。それは、エルベ川以東の地へ西方のドイツ農民がなだれ込む現象をつくる、いわゆる東方植民の促進となった。また同地はスラヴ系が多く、植民の影響でキリスト教化が進んでいった。またビザンツ帝国コムニノス朝(1081-1185)皇帝マヌイル1世(位1143-80)に接近したり(1164)、イギリス・プランタジネット朝(1154-1399)初代王ヘンリ2世(位1154-89)の娘と1168年に結婚するなど、フリードリヒ1世にとってハインリヒ獅子公は危険な存在になっていった。
 1170年、両者の仲は遂に破綻し、1180年、フリードリヒ1世はハインリヒ獅子公を大逆罪に着せて、彼からザクセンとバイエルンの大公領を取り上げ、1182年、彼を追放処分にした。これにより、ヴェルフェン家は勢力が衰退し、宿命的だった両家の対立は一応解消された。

 イタリア政策面でのフリードリヒ1世は、苦戦を強いられた。1168年の第4次イタリア遠征の際、北イタリアの諸都市が皇帝に対抗し、自治権・自衛権を求めてロンバルディア同盟という都市同盟を組織した。教皇アレクサンデル3世(位1159-81)や封建領主も同盟支援に駆けつけた。そして1176年、同盟軍と皇帝軍は遂に激突し(レニャーノの戦い)、皇帝軍は大敗を喫した。結局1183年講和し、神聖ローマ皇帝の宗主権を形式的に認めるとし、一方で皇帝は諸都市の自主権を承認した。

 皇帝のイタリア遠征による皇帝と教皇の争いは、イタリア諸都市においても支持が分かれ、結果皇帝党ギベリン)と教皇党ゲルフ)という党争にまで発展していった。大商人などの上層階級はギベリン党を支持し、中産系や下層労働者ら小市民はゲルフ党を支持していく。ロンバルディア同盟は、当然ゲルフ党の支持があった。諸都市ではピサがギベリン党を、ジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェらはゲルフ党をそれぞれ支持した。

 外政で失敗したものの、ドイツの国内統一に尽力したフリードリヒ1世の治世は神聖ローマ帝国の黄金時代であるといわれる。フリードリヒ1世は1190年、第3回十字軍指揮者として遠征中、脳卒中を発して急没し、英雄とされた彼の治世は終わった。

 フリードリヒの死後、1169年から共同統治者としてドイツ王になっていたハインリヒ6世(王位1169-97)が神聖ローマ皇帝となった(帝位1190-97)。彼はイタリア政策をシチリアにもうつして、同島を征服してシチリア王にもなっている(1194-97位)。しかしハインリヒ6世が1197年急逝、その後弟フィリップがドイツ王に就くが(王位1198-1208)、当時のローマ教皇は即位したばかりのインノケンティウス3世(位1198-1216)であり、イタリア政策を推進するシュタウフェン朝を良く思わず、ヴェルフェン家オットー4世(ハインリヒ獅子公の子)を対立ドイツ王として支持していた(王位1198-1215)。このためフィリップは帝冠を授けられず、名目上の神聖ローマ皇帝であった。教皇がドイツ諸侯間に介入する有り様は、皇帝権をねじ伏せるほどの圧力を持つ教皇権の絶頂期を築く姿を見せつけたのである。

 フィリップはその後ヴェルフェン家のオットー4世と対立、シュタウフェン家との激突は再燃した。1208年、フィリップが没、シュタウフェン朝は一時断絶して、ヴェルフェン家オットー4世によるヴェルフェン朝(1198-1215)が正式に開かれた。オットー4世は教皇インノケンティウス3世から帝冠を授かり、神聖ローマ皇帝となった(帝位1209-15)。

 しかしオットー4世はイタリア政策を大胆に行ったことがもとでインノケンティウス3世に嫌われ、遂に教皇から破門を言い渡された。ヴェルフェン家を見限ったインノケンティウス3世は、今度はシュタウフェン家に接近、実質ハインリヒ6世の後継者であったが、当時幼少のため即位できなかった子フリードリヒ2世(1194-1250)をオットー4世の対立ドイツ王として即位させた(王位1212-50)。これによりヴェルフェン朝は閉ざされると同時に、シュタウフェン朝が再興され(1215)、インノケンティウス3世はオットー4世を神聖ローマ皇帝の座から退かせ、フリードリヒ2世に帝冠を授けた(帝位1215-50)。

 こうして、神聖ローマ皇帝を意のままに操った教皇インノケンティウス3世の権威は、キリスト教国全土に広まった。1215年のキリスト教権を確立させたラテラン公会議では、"教皇は太陽、皇帝は月"の名演説を残し、教皇権の絶頂期を導いたのである。

 フリードリヒ2世は、ローマ教皇グレゴリウス9世(位1227-41)の提唱で結成された第5回十字軍を指揮し、聖地イェルサレムは一時的に返還され、またイェルサレム王国(1099-1291)の国王(位1229)になるなど活躍したが、彼も過去の神聖ローマ皇帝と同様、ドイツ国内の統一には手抜かりがあり、ドイツの部族大公勢力は相変わらず鎮まることを知らなかった。

 1250年、フリードリヒ2世没後、共同統治者として王位に就いていた子コンラート4世(王位1237-54,帝位1250-54)が神聖ローマ皇帝となった。しかし即位して4年後に急没し、シュタウフェン家が断絶、シュタウフェン朝は終焉を迎えた。対立ドイツ王として王位に就いていたオランダ伯ウィレム(ホラント家。王位1247-56)が暫定的に神聖ローマ皇帝として即位したともいわれているが(帝位1254-56)、異説もあり疑わしい。ウィレムは1256年に没したため、神聖ローマ帝国は20年近く皇帝が不在となり、未曾有の大空位時代が訪れた(1254/56-73)。またドイツ王もイギリス王家やスペインのカスティリャ王家が狙ったが、お互い対立ドイツ王としてたてられた(1257)。こうした不安定な情勢下で、ドイツ諸侯が事実上の国家的主権を行使する傾向が目立ち始めた。これがのちに顕著化される領邦国家体制の先駆で、ドイツ国家は地方の諸侯が形成した多くの国家に取って代わっていった。ドイツ分裂により、神聖ローマ帝国は精神的な存在となっていくのである。

 大空位時代を終わらせたのは、ルドルフ1世(ルードルフ1世,帝位・王位1273-91)だった。しかしローマ教皇グレゴリウス10世(位1272-76)は、大空位時代を終わらせる新しい君主が、有力大公からの選出ではなかったためか、ルドルフ1世を気に入らず、結果帝冠を授与しなかったため、名目的な神聖ローマ皇帝ではあった。

 ルドルフ1世を輩出したのはハプスブルク家という、10世紀半ばライン川上流に位置するスイス・アールガウ地方におこった、当時はあまり知られていない弱小貴族だった。このため選帝侯からは、大空位時代を終わらせる君主を、ドイツでも勢力の強いボヘミア(ベーメン)王・プシェミスル=オタカル2世(位1228-78)を推す声もあがったが、ローマ教皇にとっては皇帝が強力すぎるのも嫌悪感があり、他のドイツ諸侯も同様、どちらかといえば、弱小でロボット的に扱える君主を欲したためこの家系から選出したようである。またルドルフ1世の祖父はハプスブルク伯だったが、妻がシュタウフェン家出身もあって、シュタウフェン家と関係があり、ルドルフ1世も、その名付け親が神聖ローマ皇帝だったフリードリヒ2世だったため選出されたともいわれる。

 ハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)を創始したルドルフ1世は1278年、対立していたプシェミスル=オタカル2世と戦ってこれを破り敗死させた。これを機に皇帝権が次第に伸長しはじめた。ただルドルフ1世の胸の内は、神聖ローマ帝国の領域拡大というよりも、ハプスブルク家領の拡大を目指すことにあった。即位後のルドルフ1世の勢いは凄まじく、オーストリア公に就き(公位1276-1282)、1278年オーストリアを家領とし、これまで辺境伯バーベンベルク家の宮廷都市だったウィーンを首都に遷した。またボヘミアも支配下に入れたハプスブルク家は、獲得した家領を子に分封し、神聖ローマ帝国の東方であるオーストリアを中心に勢力を伸ばしはじめ、この段階でドイツ全体の国家形態である神聖ローマ帝国は有名無実と化しつつあった。

 ルドルフ1世は、過去の教皇との因縁や、皇帝の権力を低下させるイタリア政策は行わず、教皇の正式な戴冠と、今後のハプスブルク家から世襲によって君主を送り出すことに専念したが、教皇からの戴冠は最後まで行われず、また大規模化するハプスブルク家を嫌うドイツ諸侯の反発などがあり、ハプスブルク朝はルドルフの1代で挫折し、ルドルフ没後、ヴァイルブルク家系ナッサウ伯から神聖ローマ皇帝アドルフが誕生(王位・帝位1292-98)、ナッサウ朝(1292-98)が開かれた。しかしこれも1代で挫折、ルドルフ1世の子アルブレヒト1世(王位・帝位1298-1308)が即位してハプスブルク家を再興、しかしアルブレヒト1世が暗殺され、ハプスブルク家はまたしても1代で挫折、今度はルクセンブルク家が勢力を上げ、ハインリヒ7世(王位1308-1313,帝位1312-1313)が即位してルクセンブルク朝(1308-1313,1346-1400,1411-37)を開基、しかしこれも1代で挫折、その後はヴィッテルスバハ家(バイエルン公国)のルートヴィヒ4世(王位1314-1347,帝位1328-1347)のバイエルン朝(1314-47,1742-45)、ハプスブルク朝のフリードリヒ3世(美王。オーストリア公フリードリヒ1世。王位・帝位1314-1330)と、諸王がめまぐるしく替わっていった。しかし、この結果は、帝権以上に選帝侯の地位と権限が固定して、厳正なる選挙王制が築かれたことにあった。

 1346年、ベーメンでは、ルクセンブルク家のカレル1世(ハインリヒ7世の孫。ベーメン王位1346-78)が即位したが、同年彼は選挙で、ドイツ王並びに神聖ローマ皇帝カール4世(王位1346-78。帝位1355-78。"ベーメンの父"。即位時はルートヴィヒ4世の対立王)となり、再びルクセンブルク朝が開かれた。カール4世は青年時代、パリで教養を積み、ペトラルカ(1304-74。著書『叙情詩集(『カンツォニエーレ』)』)らイタリア人文主義者と交遊もあった。1348年にはプラハ(現チェコ共和国の首都)にドイツ最初の大学(プラハ大学)を設立し、文芸保護に努めた。

 カール4世は、大空位時代以降、帝位継承をはじめとする神聖ローマ帝国の混乱に不快感を示したため、君主を選ぶ選帝侯の権限強化に着手した。即位直後はまだ帝冠を授与されておらず、名目上の神聖ローマ皇帝だったカール4世は、1355年、正式に帝冠を戴いて名実ともに神聖ローマ皇帝になったところで、翌1356年1月のニュルンベルク(現バイエルン州)と12月のメッツ(メス。現ロレーヌ地方の都市)における帝国議会で、帝国最大の法案を議決、発布したのである。これが金印勅書(きんいんちょくしょ。黄金文書)である。
 金印勅書は、文書の印章は黄金が用いられているため、このような呼称になっている。神聖ローマ皇帝を選出する選帝侯を7人と限定しており(7選帝侯)、内訳はマインツトリアー(トリーア。トリール。ラインラント・プファルツ州)・ケルン(ノルトライン・ヴェストファーレン州)の3大司教ベーメン王ザクセン公ファルツ伯(プファルツ伯。ライン宮中伯。ラインラント・プファルツ州)・ブランデンブルク辺境伯(エルベ川とオーデル川間の地域)の4大諸侯であった。フランクフルトで会議をおこない、多数決と教皇の承認で決定し、決定後はアーヘンで戴冠式が行われることを規定した。
 また、金印勅書において7選帝侯は多くの特権を認められ(裁判権・貨幣鋳造権・関税徴収権など)、またフェーデ(家と家の戦闘状態)を禁止し、長子への単独相続の義務なども決められた。その一方で、事実上ドイツ諸侯の上位に立った選帝侯は、近代帝国にふさわしい支配権力を持つことになり、実質的に独立国家の地位を得たことにもなり、かえって神聖ローマ帝国の皇帝権弱体化にもつながった。

 こうして金印勅書が発布されたものの、依然として国家は分裂状態であるのも事実であった。特にこの頃の領邦は300にも達し、大小の諸侯・自治権を持った自由都市などの地方分権化は避けられない状況にあった。また東方植民の活発化は凄まじく、多くの諸侯国がつくられていた。前述の7選帝侯の1つブランデンブルク辺境伯が投じた伯領(ブランデンブルク辺境伯領)やオーストリア(元々は10Cに東方の辺境伯オストマルクが起源。13C後半からハプスブルク家領)などが代表であるが、中でも1190年の第3回十字軍時代に創設された宗教騎士団・ドイツ騎士団が、東方植民を促してつくられたドイツ騎士団領(バルト海西南岸)は、極めて強い勢力を誇り、当時ポーランドの強力王朝であったヤゲウォ朝(1386-1572)と戦える軍事力を兼ね備えていたほどであり、大規模な国家の誕生を予感させた。

 カール4世は、こうした状況をふまえ、神聖ローマ皇帝の地位と名誉を固定させるには、西欧キリスト教世界におけるローマ教皇権の支配権力を再認識させるしかないと考えた。アナーニ事件(1303)以降、フランス王権伸長による教皇権の衰退が著しかったことで、1577年、カール4世は、教皇のバビロン捕囚(1309-77)によってアヴィニョンに幽囚されていた教皇グレゴリウス11世(位1371-1378)をローマに帰還させることに力を注いだ。ローマ帰還は実現されたが、教皇捕囚の当事国フランスはこれに不快感を示し、ローマ教皇に対するアヴィニョン側にも新教皇(アヴィニョン教皇)が擁立され、15C初頭にはピサ教会会議で選出された教皇も含め3教皇が鼎立(ていりつ)するという異常事態(教会大分裂大シスマ。1378-1417)となっていく。

 カール4世は1378年に没し、ルクセンブルク朝はカール4世と共同統治を行っていたヴェンツェル2世(王位1376-78)が神聖ローマ皇帝ヴェンツェルとして即位した(帝位1378-1400)。しかしヴェンツェル退位後、ヴィッテルスバハ家が輩出したプファルツ選帝侯ループレヒト3世(侯位1398-1410)が神聖ローマ皇帝ループレヒトとして帝位に就き(帝位1400-10)、プファルツ朝(ファルツ朝。1400-10)をおこしたため、ルクセンブルク朝は一時中断したが、ヴェンツェルの弟で、ブランデンブルク選帝侯、さらにハンガリー王のジギスムント(1368-1437。侯位1378-88,1411-1415。ハンガリー王位1387-1437)が父カール4世、兄ヴェンツェルを継いで神聖ローマ皇帝になり(帝位1410-1437)、ルクセンブルク朝が復活した。しかし教会大分裂時代のため、正式な戴冠は1433年を待たねばならなかった。帝冠を戴いた時、ジギスムントは神聖ローマ皇帝の紋章を双頭の鷲(ロシア皇帝の紋章でも有名)にしている。

 皇帝即位前のジギスムントはハンガリー王として、オスマン帝国(1299-1922)と戦っていた。1396年ニコポリスの戦い(ブルガリア北境)である。バルカン進出を狙うオスマン第4代皇帝バヤジット1世(位1389-1402)の率いるオスマン軍と、これを阻止しようとする、ジギスムントを中心とするドイツ・イギリス・フランス、さらにバルカン諸国も含めた連合十字軍との大戦争であったが、ジギスムント軍は敢えなく敗れた。領邦国家体制になり下がっているドイツを含めた、西欧キリスト教国の支配権を復活するためには、父カール4世も掲げた、まずローマ教会における教皇の支配権を復活させることが第一とジギスムントは考えた。こうして、皇帝即位後、教会大分裂の修復に目を向けるようになる。

 教皇権の失墜により、14世紀後半から各地で教会革新運動が展開されていたが、中でもオックスフォード大学教授であるイギリス神学者ウィクリフ(1320?-84)の聖書英訳運動、またプラハ大学教授であるベーメンの思想家フス(1370/71?-1415)の教会批判運動(フス改革)が激しかった。とりわけフスの改革は、プラハ大学におけるドイツ人排斥(1409)によって、原住の西スラヴ系チェック人(チェコ人)による国づくりを目指し、彼を信奉するフス派(フシッテン。フシーテン)も増加していたため、神聖ローマ帝国にとっては脅威であった。

 教会大分裂と教会革新運動を鎮めるため、ジギスムントは立ち上がり、1414年コンスタンツ公会議を開催した(1414-18)。5万人参加したこの会議で、3教皇鼎立を廃して、統一教皇マルティヌス5世(位1417-31)を選び、即位させることに成功、教会大分裂は終わった(1417)。さらにすでに故人となっていたウィクリフを異端として、遺体を掘り出し、著書とともに焼いてテムズ川に投じた(1415)。そして召喚したフスも異端者として火刑に処した(フスの火刑)。このためフス派には、ジギスムントに強い反感が生まれ、公会議の判決は不当であるとして、プラハの市庁舎などを襲撃して、市長をはじめ、職員を窓から投げ落とす(プラハ役人投げ捨て事件)など、多くの暴動が発生した。
 ベーメンでは、帝位から退いたヴェンツェルがベーメン王に就いていたが(位1378-1419)、1419年没し、ジギスムントがベーメン王を兼ねることとなった(位1419-37)。この結果、チェック人のナショナリズムが高揚し、フス派農民による大規模な武装蜂起が勃発(フス戦争。1419-36)、ジギスムントも苦戦を強いられ、結局晩年まで苦しめられることになり、戦争が終結した年の翌1437年、没し、彼の娘と結婚したハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト5世(公位1404-1439)がドイツ王アルブレヒト2世となり(王位1438-39)、ハンガリー王とベーメン王を兼ねて即位した。これで、ルクセンブルク家は衰退、神聖ローマ帝国を顧みることもなく、本格的にハプスブルク家によるハプスブルク朝ハプスブルク帝国)の黄金時代を迎えることになり、中心はオーストリアに移る。


 これまで76作品を作成して参りましたが、これほど複雑難解な歴史はなかったように思います。今回はおよそ300年という歴史が動きましたが、舞台となったドイツ・神聖ローマ帝国は諸侯家間の争い、皇帝と教皇間の争い、国と国との争い、国家分裂と、超高速の激動時代を現出していたのですね。話の最後の方になると神聖ローマ帝国は形骸化してしまい、ハプスブルク家領の帝国という意味合いが濃くなっています。

 何が複雑かというと、ドイツ王と神聖ローマ皇帝の違いはどうなのかということです。要するに、選挙で選ばれたドイツ国家の君主がドイツ王で、そのドイツ王がキリスト教世界の覇者になるためには、同じく宗教的権力でキリスト教世界を握っているローマ教皇から帝冠を戴いて、ローマ帝国の君主になることが第一条件でした。戴冠を受けるとドイツ王は神聖ローマ皇帝になるのです。でも、ローマ教皇に嫌われていると帝冠を与えられなかったり、戴冠を受けなくてもやむなく自称・神聖ローマ皇帝とされていたドイツ王も当然いました。本編では、在位期間を"王位"・"帝位"と表しましたが、例えばコンラート3世フィリップなど、実際は戴冠を受けていない名目上の神聖ローマ皇帝で、最後に登場したアルブレヒト2世などは帝冠を戴く前に没しています。
 複雑な部分はもう1つ、王家・王朝の変遷にあります。これはもう神聖ローマ帝国の象徴ともいうべき内容です。おさらいしますと、
東フランク王国のカロリング朝断絶(911)でスタート!!
フランケン家のフランケン朝
ザクセン家のザクセン朝
→フランケン家のザリエル朝(フランケン朝)
→ザクセン家のズップリンブルク朝
シュタウフェン家(ホーエンシュタウフェン家)のシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝)
ヴェルフェン家のヴェルフェン朝
→シュタウフェン家の第2次シュタウフェン朝
大空位時代(1254/56-73)
ハプスブルク家のハプスブルク朝
ヴァイルブルク家のナッサウ朝
→ハプスブルク家の第2次ハプスブルク朝
ルクセンブルク家のルクセンブルク朝
ヴィッテルスバハ家のバイエルン朝
→ハプスブルク家の第3次ハプスブルク朝
→ルクセンブルク家の第2次ルクセンブルク朝
→ヴィッテルスバハ家のプファルツ朝
→ルクセンブルク家の第3次ルクセンブルク朝
→ハプスブルク家の第4次ハプスブルク朝(1438年時点)
 、という経過をたどります。ざっと列挙してもややこしいですね。ドイツ王と皇帝の違いも含め、王朝の変遷は受験世界史においてはここまで覚える必要は当然にしてありません。これを覚えるのなら中国王朝の変遷を覚えた方がはるかに入試に有利です。

 でも、受験生にとって、一番複雑に思えたのは、ひょっとしたら登場人物の名前が似すぎているってことですかね?地位の変更や別地で君主となると、"~世"の数字が変わりますしね。特にドイツはフリードリヒやらヴィルヘルムやらカールやらアルブレヒトやらコンラートやらハインリヒやらで、似た名前がたくさん登場しますので、在位年間や時代背景に注意してくださいね。

 さて、今回の学習ポイントですが、かなりございますのでご覚悟を。何せ神聖ローマ帝国が国家としてヨーロッパに君臨した時代ですので、歴史を塗り替える多くの事件がありました。ザリエル朝時代のカノッサの屈辱(ハインリヒ4世とグレゴリウス7世)とヴォルムス協約(ハインリヒ5世。教皇カリクストゥス2世に関しては覚える必要はありません)、シュタウフェン朝時代の十字軍参加(第2回コンラート3世、第3回フリードリヒ1世、第5回フリードリヒ2世)、大空位時代が13世紀半ばから始まったこと、そしてこれを終わらせたのはハプスブルク家のルドルフ1世であること、ここまでよろしいでしょうかね?
 さらには領邦国家体制と東方植民によるドイツ東部の勃興も重要ですね。領邦は、日本で言えば江戸時代の"藩"みたいなものです。ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領は16世紀に飛躍的に成長するプロイセンホーエンツォレルン家)の誕生へとつながっていきます。
 神聖ローマ帝国といえばイタリア政策ですが、ロンバルディア同盟が登場しました。こうした都市同盟は重要でして、これにあわせてもう1つ、ハンザ同盟も覚えてください。盟主はリューベック市です。ロンバルディア同盟は12Cに、ハンザ同盟は13Cに成立しています。またゲルフ(教皇党)とギベリン(皇帝党)の争いも重要で、名前だけでも知っておいて下さい。

 そして、今回のハイライトはルクセンブルク朝時代の治世です。特にカール4世とジギスムント帝の治世は結構重要です。カール4世時代では、1356年の金印勅書は重要です。私は"瞳ゴロゴロ金印勅書"という覚え方で覚えました。7選帝侯の内訳(3大司教と4大諸侯)も知っておくと便利です、願わくば3大司教と4大諸侯の詳しい内訳(マインツ・トリアー・ケルンの3司教とベーメン・ファルツ・ザクセン・ブランデンブルクの4諸侯。そのうちベーメンは君主であるベーメン王)も知っておくと完璧です。
 ジギスムントの治世では、まずニコポリスの戦いでオスマン帝国皇帝・バヤジット1世に敗れたことを知っておきましょう。ちなみにバヤジット1世は、"ユルドゥルム(稲妻)"という異名を持っていて、勇敢な軍人である反面、父や弟を虐殺する残忍なスルタンとしても知られています。バヤジット1世がティムール(1336-1405)率いるティムール帝国(1370-1507)軍に敗れたアンカラ(アンゴラ)の戦い1402)も有名ですので、ニコポリスの戦いとあわせて覚えておきましょう。
 ジギスムントの政策はもう1つ、コンスタンツ公会議です。開催された1414年は、"いよいよ始まるコンスタンツ"と覚えました。アナーニ事件→教皇のバビロン捕囚→教会大分裂といった教会の威信回復にむけてジギスムントが開いた宗教会議です。これにより、教会分裂は解消されました。また教会の失墜にむけて革新運動をおこした2人、ウィクリフとフスも登場しました。この2人は出題されます。ウィクリフはイギリス人で、オックスフォード大学教授であること、聖書を英訳したことなどが重要、フスはベーメン出身でプラハ大学教授であること、1415年に火刑に処せられて、フス派のフス戦争が起こったことなどが重要です。

 さて、2作に渡ってご紹介して参りました神聖ローマ帝国のお話ですが、いちおう帝国の国家的統一が果たせず、ハプスブルク王朝が完全に実権掌握した時点で完結とさせていただきました。実は、帝国が滅ぶまでお話ししたいと思っておりまして、次回、この続きをご紹介したいと思います(メインではありませんが)。実はもシリーズ物だったりして....