本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第118話


鉄人、オトラルに死す

 モンゴル帝国皇帝チンギス=ハン(位1206-27)の第2子チャガタイ(?-1242)が、中央アジアのアルマリクを都に遊牧国家チャガタイ=ハン国(1227-1369?)を建設した。この国はイスラム系・トルコ系を受け容れながら東西貿易の要路を地盤として栄え、オアシス地域を支配していったが、1330年頃に東西分裂を起こし、天山地方中心に東チャガタイ=ハン国(モグーリスターン=ハン国)、西トルキスタン中心に西チャガタイ=ハン国として勢力を分けた。西チャガタイ=ハン国では内紛が絶えず、しばしば東チャガタイの攻撃を受けたため、その勢力は弱体化していった。

 中央アジア、ソグディアナ(シル、アム両ダリヤ川の間)のオアシス都市・サマルカンドの南方に、モンゴル人の分枝であるバルラス部という部族がいた。イスラム教を受容した貴族であり、先祖はチャガタイに仕えた将軍であったという。14世紀になると、この勢力も衰え、せいぜい2~3人の家臣を持つにすぎない小貴族となっていたが、1336年、ケシュ(現シャフリサブズ。サマルカンド南方)近郊でこの貴族の中からある男児が誕生した。これがティムール(1336-1405)である。

 ティムールとは"鉄"を意味する。チンギス=ハンの子孫説もあり、本人も自称したとされているが、事実とは考えにくく、出自は前述の通りチャガタイ=ハン国に仕えるバルラス部の出身である。しかしチンギスの征服事業を超える偉業を達成し、イスラムの世界帝国を築くことを理想としたことは、のちの彼の功績からも分かるように、疑いもないことである。
 若い頃のティムールは手下とともに家畜を略奪するなどの行為で名が知られていたらしいが、次第に頭角を現し、1369年に西チャガタイ=ハン国の混乱に乗じて自立、サマルカンドを獲得した。この戦闘で片足を負傷し、歩行が不自由となって"ティムーリ=ラング(ペルシア語。跛者(はしゃ)のティムール)"とあだ名され、この名は西洋で訛って"タメルラン"となった。

 ティムールは西チャガタイ=ハン国を滅ぼし、またイル=ハン国(1258-1353)やキプチャク=ハン国(1243-1502)といったかつてのモンゴル帝国(1206~1271)の分枝を次々と支配下においた。サマルカンドを都とするティムール朝ティムール帝国1370-1507)はこうして誕生し、中央アジアに轟く大帝国へのし上がった。
 1398年にはデリー=スルタン王朝(1206-1526)の1つ、トゥグルク朝(1320-1414)に侵攻、首都デリーを奪って王朝勢力を衰えさせた(北インド遠征)。さらに1402年にはバヤジット1世(スルタン位1389-1402)率いるオスマン帝国(1299-1922)とアンカラで死闘を繰り広げ、結果ティムールは強大なオスマン軍を打ち負かした(アンカラの戦い)。オスマン帝国に勝利した時、ティムール帝国の版図は中央アジアだけでなく西アジアにも及んだ。
 また外征だけでなく国内統治も徹底した。首都サマルカンドを整備、人口集中を行わせて大都市に仕立て上げ、同市は中央アジアにおいて政治経済や文化の中心地となっていった。"チンギスは破壊し、ティムールは建設した"という言葉に示されるように、彼は偉大な都市建設者でもあった。ティムール政権時代のティムール朝は、モンゴル帝国の伝統要素を取り入れたイスラム国家であり、チンギス=ハンの血を引く王家から、王女を君主の妻として迎え入れ、帝国の支配をより強固なものにした。鉄人チンギスの偉業を継承し、チンギス以上の業績を残そうとしたティムールは、その名が示すとおり、"鉄人"にほかならない。

 ティムールの次なる野望は東アジアである。そこにはできて間もない大帝国、中国の王朝(みん。1368-1644)があった。チンギスを超える征服事業を施そうとするティムールは、モンゴル帝国の旧領土すべてを獲得する目的があったことから、朝(げん。1271-1368)の領土をもとにできた明朝を、次なる占領の標的としたのである。
 1404年末、20万の軍隊を率いたティムールは、中国遠征に出発した。しかし、遠征途中にティムールは急病で倒れ、翌1405年2月、オトラルで没した。このため、明朝打倒はならなかった。

 オトラルはシル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近くに位置したオアシス都市である。オトラルは西遼(せいりょう。カラ=キタイ。1132-1211)の支配下にあったが、のちイスラム国家のホラズム朝(ホラズム=シャー朝。1077-1221/1231)に占領された(1220)。チンギスによる西遼の旧領併合にともない、オトラルはモンゴルとホラズムの国境線をなした。1218年、チンギスが派遣した450人の通商使節団がオトラルに着いた時、オトラルの総督は貿易品強奪を狙って使節団を虐殺、唯一生き残った団員が帰国後すぐチンギスに報告したことから、ホラズム打倒の命が下されることとなる。翌1219年、ホラズム侵攻を始めたモンゴル軍は、オトラル完全破壊を実行、城壁の破壊、婦女子問わず住民を大量に斬殺した。オトラル総督は溶かした銀を目に流し込まれて殺され、結局ホラズム朝を征服、滅亡に至らしめることとなる(ホラズム征服)。オトラルはその後モンゴル帝国のもとで再興し、やがてティムール朝の支配下に入った。

 オトラルで没したティムールは卓越した軍事技術を持っていたとされ、戦闘は全勝に近い功績であり、敗北を喫した時には天地がひっくり返ると言わしめたほどであった。結局は彼一代で中央アジアと西アジアという大版図を形成したティムール朝であったが、ティムール没後、帝国は彼の息子たちによって分割統治された。しかし内紛が絶えず、勢力は縮小を辿った。ティムールの第4子シャー=ルフ(1377-1447)がティムール朝3代目君主として即位してからは内紛は静まり(位1409-47)、ティムール朝の危機を乗り越えた。
 シャー=ルフは首都をサマルカンドからヘラート(アフガニスタン西部)に移して、長男ウルグ=ベク(1393/94-1449)にサマルカンドの管理を任せた。明朝と国交を開いて通商を活発化し、オスマン帝国とも講和してイスラム文化の最盛期を現出した。ウルグ=ベクもサマルカンドに天文台を建てるなどして文化・学問を発展させた。

 しかし、シャー=ルフの長期政権(38年)も、1447年の没後、帝国は再び混乱期に入った。同年ウルグ=ベクが即位するが(位1447-49)、2年後に長男によって殺害された。内乱に乗じ中央アジアのトルコ系遊牧民であるウズベク族が北方から乱入し、帝国の危機が訪れた。7代目君主アブー=サイード(位1451-69)、子であり8代目君主となるスルタン=アフマド(位1469-94)の時はサマルカンドを中心に勢力維持に努めるも、この時期は第2の都市ヘラートにおいてもティムール朝の分立政権がおこるなど安定しなかった。そして1500年、サマルカンド側のティムール朝は、スルタン=アリー政権の時(位1496,1498-1500)、ウズベク族のシャイバニ=ハン(1451-1510。位1500-10)率いるシャイバニ朝(シャイバーン朝。1500/01-99)によって征服された。残りのヘラート政権も1507年にシャイバニ=ハンの威力に圧し、ティムール朝は遂に消滅した(ティムール朝滅亡。1507)。鉄人ティムールが創り上げた大帝国は、こうして幕を閉じた。

 アブー=サイードの孫であったバーブル(1483-1530)はウズベク族からのサマルカンド奪還を何度も試みたが果たせず、結局断念した。バーブルはティムールの5代目の直系子孫、バーブルの母はチンギス家の子孫として、鉄人帝国の再来を当時の人々に予感させた。そして自身の国造りの場所をインドに求め、ムガル帝国(1526-1858)の始祖となるのであった。

 ティムールが没した場所、オトラルでは数百年にわたって栄えたが、その後オアシスが枯渇して衰亡した。現在もこの廃墟が残っている。


 連載118話目にして、ようやくティムールが主役として登場してきました。本編ではティムールの業績を中心に、彼が建設したティムール朝の栄枯盛衰をご紹介しました。
 またティムールが没した場所、オトラルもご紹介しました。オアシス都市だったオトラルは現在のカザフスタン南部に位置し、今は廃墟となっています。オトラルという用語は旧課程のみ登場していますが、難関私大の受験生はティムールが死んだ場所として覚えておいたほうがイイでしょう。

 ティムール朝はティムール抜きでは語れません。チンギスと同族の名家の子孫とも噂されたこともありますが、こうした噂が湧き起こるぐらい、最もチンギスに近かった男とされていたのでしょうね。本編では"チンギスを超える偉業"を成し遂げようとした男としてご紹介しましたが、実際そのような人物であったとされています。とくに軍事面ではすぐれた能力を発揮して、オスマン帝国を破るなど、次々と外征を成功させます。また国内でもあらゆる政策を成功に導いてサマルカンドを繁栄させ、人心を彼一人に集中させたことから、君主としてこれほど適性な人物はいなかったでしょう。鉄の人と言われるのも頷けます。

 さて、ティムール朝の学習ポイントです。モンゴル帝国の分身、チャガタイ=ハン国が母体であることに注目。同国が天山地方中心に東チャガタイ、西トルキスタン中心に西チャガタイと、東西分裂します。ティムールは西チャガタイから出ました。やがて東西統合をおこしたティムールは、サマルカンドを首都に大帝国を築きます。これがティムール朝です。この流れは知っておきましょう。首都サマルカンドは絶対覚えて欲しいですが、余裕が有れば第2の都ヘラートも知っておくと便利です。

 ティムールの外征で最も有名なのが、あのオスマンのバヤジット1世を倒したアンカラの戦いでしょう。1402年も重要です。あと、イル=ハン国やキプチャク=ハン国を服属して、トゥグルク朝があった北インドにも遠征しています。

 ティムール没後のティムール朝ですが、シャー=ルフとウルグ=ベク親子の治世も、ティムールほどではないものの名前はよく見かけます。特にウルグ=ベクは天文台建設が重要キーワードとなります。難関私大では登場することがあります。この時代はティムール朝文化も栄え、ミニアチュール(細密画)も登場します。

 そして滅亡ですが、侵入してきたウズベク族を覚えてください。ティムール朝を征服したシャイバニも余裕があったら覚えましょう。また本編では登場しなかったですが、ウズベク族の系統を持つ3つの3ハン国も重要です。ボハラ=ハン国(1505-1920)・ヒヴァ=ハン国(1512-1920)・コーカンド=ハン国(1710?-1876)の3つですが、本編に登場したシャイバニ朝はボハラ=ハン国の王朝です。