学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。
世祖フビライ=ハン(クビライ。中国皇帝位1271-94。モンゴル皇帝位1260-94)が興した征服王朝・元(げん。1271-1368。首都:大都。だいと。現・北京)では、中国大陸を征服したモンゴル民族によって統治が施され、要職をモンゴル人が独占した。モンゴル第一主義と呼ばれるこの形態は、最上位をモンゴル人とし、その下を、順に財政を司る西域の色目人(しきもくじん)、漢人(もと金王朝治下の漢民族。きん。1115-1234)、南人(蛮子。マンジ。南宋の遺民。なんそう。1127-1279)と位置づけた。
元朝の中央官制では、最高行政機関として中書省が、その省下に六部がそれぞれ置かれた。最高軍政機関には枢密院、最高監察機関には御史台(ぎょしだい)が置かれ、皇帝の中央集権化を進めた。地方では州県制がしかれ、行中書省(こうちゅうしょしょう。略称、行省。こうしょう。現在の中国の地方行政単位"省"の起源)という統治機関も置かれた。官吏任用については、これまで行われてきた科挙制度は廃止され、世襲制度や、蔭位の制(おんい。父祖の功績によりその子孫を任用。恩蔭。おんいん)がとられた。このため、宋(そう。北宋:960-1127。南宋:1127-1279)の時代から科挙官僚体制を独占していた中国人の士大夫階級(したいふ)は、次第に没落の傾向を辿っていった。
通商では、チンギス=ハン(モンゴル帝国皇帝。太祖。位1206-27)時代にモンゴル帝国内で始められていたジャムチ制(駅伝制)を採用した。駅には、牌符(はいふ。金牌・銀牌・銅牌・鉄牌など。牌子"パイザ"とも呼ぶ)という証明書を携行した公用の使臣や官命旅行者には宿泊や食料、駅馬が提供された。さらにフビライは、隋王朝(ずい。581-618)以来の大運河を補修・開削して海運を活発化させた。このため、広州(こうしゅう)・泉州(せんしゅう)・杭州(こうしゅう。もと臨安。りんあん)・明州(みんしゅう。現・寧波。ニンポー)・揚州(ようしゅう)といった海港都市も繁栄した。また金で使用された交鈔(こうしょう)が紙幣として発行された。
通商・交通の発展は、東西の文化交流をもたらした。かつてモンゴル帝国では、ローマ教皇インノケンティウス4世(位1243-1254)の指示でフランシスコ修道士のプラノ=カルピニ(1182?-1252)が派遣されたり、フランス国王・ルイ9世(位1226-70)の使節としてフランシスコ修道士ウィリアム=ルブルック(リュブリュキ。1220?-93?)が帝国首都カラコルムへ訪れたことがあったが、元代では、折しもヨーロッパが十字軍の影響を受けていた時代でもあり、これによって経済的に繁栄したヴェネツィアをはじめとするイタリア商人たちは、東方の産物を求めてアジア貿易に介入し始めた。イタリア商人として初めて東西貿易路を開拓したのは豪商のポーロ家で、当時未成年でフビライの宮廷がある大都に招かれたマルコ=ポーロ(1254-1324)は、その後イタリアと中国の往復を繰り返し、フビライの寵愛を受けながら、中国各地へ使節として派遣された。帰国後マルコ=ポーロはジェノヴァ軍の捕虜の身となるが、そこで、ポーロが同じ獄中にいた小説家に東方旅行の見聞淡を口述し、筆記されたのが『世界の記述(東方見聞録)』であり、西欧人はアジアへの関心を募らせた。日本を黄金に富んだ島"ジパング(="Japan"の語源)"として紹介されたことでも有名な作品である。
フビライ没後は皇位継承争いが勃発し、不安を招いた。もともとモンゴル民族は遊牧民であるため、常時定位置での体制は困難であり、モンゴル第一主義であるといえどもモンゴル人の絶対数は少なく、漢民族における社会を掌握できなかったのである。中国は宋代以降に根付いた小作経営、つまり佃戸制(でんこ)であり、大土地所有制度が主であったため、遊牧民出身のモンゴル民族には中国農業は不適であり、武力でしか中国を支配できなかったのである。チベット仏教の盲信による寺院増築や宮廷貴族の奢侈も災いして財政が破綻、この対応策として打ち出された交鈔乱発によって物価騰貴を招き、天災や飢饉と相まって、民衆、とくに農民は貧困に瀕して中央政府に対する反感が高揚した。
このような情勢下、弥勒教(みろくきょう)信仰から派生した白蓮教(びゃくれんきょう)信徒たちが立ち上がり、1351年、紅巾の乱(こうきんのらん。白蓮教徒の乱。1351-66)が勃発した。
大乗仏教における菩薩信仰の1つ、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、観音菩薩と並んで、民衆の菩薩信仰の対象となっている。南インドのバラモンであった弥勒は、菩薩行を終えて兜率天(とそつてん)という天上界で現在は住まい説法しているが、仏陀(ぶっだ。釈尊)が入滅して56億7千万年後にこの世に降臨し、弥勒仏(みろくぶつ)として、衆生(しゅじょう)を救済するとされる(弥勒下生説。みろくげしょうせつ)。白蓮教とは、こうした仏教的メシア思想を持つこの弥勒下生説をもとに結社されたわけだが、古くは江南の王朝である東晋(とうしん。317-420)の時代にでた慧遠(えおん。334-416/417。中国浄土教の祖)の白蓮社(びゃくれんしゃ)や、南宋時代における阿弥陀信仰から生まれた茅子元(ぼうしげん。(?-1166)の白蓮宗(びゃくれんしゅう)などが"白蓮"の由来であるといわれている。白蓮教は呪術的傾向が著しいため、邪教として宋・元の治下では弾圧の対象となった。しかし、元末におけるこれら紅巾の乱の展開は、社会不安が続く中、反体制の性格をもった革命結社であった白蓮教に民衆の期待が集中した結果であり、たちまち全国規模となっていったのである。
これら白蓮教徒は、教主韓山童(かんざんどう。?-1351)によって指導された。彼は紅巾の乱勃発時に殺害されたが、子の韓林児(かんりんじ。?-1366)が勢いをさらに上げ、結果元朝打倒を目指す群雄が黄河・長江各流域で割拠した。江南の穀倉地帯も奪われ、首都の大都は食料補給の道が断ち切られた。こうした中で、貧民・僧侶出身であった紅巾軍の部将朱元璋(しゅげんしょう。1328-98)が白蓮教の手を使わずして自立するべく、白蓮教を率いる韓林児を殺して江南地方をまとめ上げ、金陵(きんりょう。現・南京)を都に明王朝(みん。1368-1644)を建国、自身は皇帝となって洪武帝(こうぶてい。太祖。位1368-98)を称した。明軍はその後北進して元朝をモンゴル高原へ追放(北元。ほくげん。狭義1368-88。広義1368-1634?/35?)、元朝を滅亡させ(1368)、1381年中国大陸を統一させた。漢民族による最後の中国王朝であり、江南を根拠地として中国全土を統一した唯一の王朝である。
朱元璋洪武帝は、年号を"洪武"と定めてから1皇帝1年号とし(一世一元の制)、年号をもってその皇帝を呼ぶならわしとなった。そして、漢民族としての地位を確立するために君主独裁化をはかり、中書省を廃止して六部を皇帝直属とし、宰相も廃止して殿閣大学士(でんがくだいがくし)を名目的に置いた。軍事機関に五軍都督府(ごぐんととくふ)、監察機関に都察院(とさついん)、さらに明律(みんりつ。大明律。刑法典)、明令(みんれい。大明令。法典)、里甲制(りこうせい。村落行政制度で、民官の家、つまり民戸"みんこ"を定め、里長と甲首を設置して徴税責任)、賦役黄冊(ふえきこうさつ。租税台帳)、魚鱗図冊(ぎょりんずさつ。土地台帳)、衛所制(えいしょせい。兵農一致の軍制。軍籍に入った家、つまり軍戸"ぐんこ"を定めて衛所を設定し、屯田を設置する)、科挙の復活(朱子学を官学化)と、中国の伝統を回復させるための諸改革を行った。さらに中国人の海外渡航を禁じ、海上活動を制限させ、民間の貿易を抑えて朝貢貿易を重視するなど、対外的規制は厳しくした(海禁。かいきん)。このため、海禁を犯して秘密裏に東南アジアなど海外移住を行う者や(華僑。かきょう)、のちの倭寇(わこう)を引き起こす原因となった。
一方の白蓮教徒は、明朝になっても邪教徒として徹底的に弾圧された。洪武帝は儒教主義を徹底していたため、弥勒下生説は、皇帝権に対する悪の思想とみなされたのである(しかし紅巾の乱が勃発した頃は、洪武帝も白蓮教を信仰していた)。白蓮教徒は、秘密結社として地下に潜伏して活動を続け、貧民を助けるべく反体制運動を続発させていった。儒教主義を徹底する洪武帝は、民衆教化のため、6ヵ条からなる儒教的教訓(六諭。りくゆ)を公布し、毎月6回、任命された里甲内の有徳の年長者(里老人。りろうじん)が巡回して六諭を唱えていった。
洪武帝には26人の子がいたが、彼らをそれぞれ要地に分封・配置させて諸王とし、皇族の権力を浸透させた。洪武帝没後、孫の建文帝(けんぶんてい。恵帝。けいてい。位1398-1402)が即位したが、建文帝は側近を使って、皇族である諸王たちに対して権力弱体化を行い、中央集権の強化に努めた。それは、諸王の屈辱ともいえる手段であり、平民降格、流刑、謀殺など、皇族らしからぬ抑圧策であった。
しかし、この抑圧策に反抗した諸王もいた。洪武帝に分封された諸王は彼ら自身の実権を持っていなかったが、北平(ほくへい。現・北京)など数ヵ所の諸王には軍事権があった。これを楯に建文帝の抑圧策に反抗した北平の燕王朱棣(えんおう・しゅてい。1360-1424)は機先を制して、「君側(くんそく)の奸(かん)をのぞいて帝室の難を安んず」を叫び、宦官・鄭和(ていわ。1371-1434?。雲南出身のイスラム教徒)らと軍事行動を起こした。君側の奸は建文帝の側近を意味する。この言葉がスローガンとなって首都金陵を攻略、建文帝は行方を眩ました(自殺説と僧侶姿で雲南へ逃亡した説がある)。金陵を攻略した燕王朱棣は帝位に就き、永楽帝となった(えいらくてい。成祖。せいそ。位1402-24)。この一連の内紛を靖難の変という(せいなん。靖難の役。1399-1402)。
永楽帝は1402年、洪武帝時代から職務参与させていた中央政治機関の内閣(ないかく)を再編して、殿閣大学士に代わる内閣大学士を天子補佐の任とした。殿閣大学士よりも重んじられ、実質的には宰相の役割であった。また鄭和に代表されるように宦官を重用して、宦官を長官(太監。たいかん)とする秘密警察"東廠(とうしょう)"を設けた。その後は北方民族の来襲に備えるため外征にも集中し、モンゴル親征(5回)、ヴェトナムの陳朝遠征(ちん。1225-1400)、北方のオイラート(モンゴル系遊牧民。モンゴル西部方面)やタタール(韃靼。だったん。もと北元系モンゴル人。モンゴル東部方面)へといった遠征を行った。北辺防衛のため万里の長城も修築し、1421年には北平を北京と改称、ここに遷都した。最も有名な遠征は、燕王時代の永楽帝に見出され、太監にまで昇りつめた鄭和による南海遠征である。1405年に第1回目の遠征が始められ、1433年までに計7回行われた。これにより、南海諸国の朝貢が促進された。その間、日本においても1404年から朝貢の一環とする勘合貿易を開始、日本へは銅銭、生糸、綿糸、陶磁器などを輸出した。
永楽帝没後、宦官勢力が強大化し、内紛も頻発して、永楽帝時代に形成された対外関係も衰退をみせ始めた。この衰運が著しくなった不安定な情勢のため、北方のオイラートやタタールといったモンゴル系部族が領内に侵入、南方の海岸では倭寇が激化した。これを北虜南倭(ほくりょなんわ)といい、"北虜"の名の如く、オイラート部のエセン=ハン(?-1454)の軍は第6代正統帝(せいとうてい。英宗。えいそう。位1435-49。復位後天順帝。てんじゅんてい。位1457-64)の軍を土木堡(どぼくほ。河北省北部)で全滅させ、正統帝を捕虜とした(土木の変。1449)。その後、正統帝は釈放の身となったが、オイラート衰退後、ダヤン=ハン(位1487-1517/19/24/33?)率いるタタール(韃靼)が勢力を上げた。ダヤン=ハンは、元朝の北走後、分裂していた内モンゴル(南部)を統一してハンの権威を回復、16世紀には、ダヤンの孫アルタン=ハン(位1551-82)による北京包囲(1550)などで明朝を脅かしたが、1570年に和睦した。
北虜南倭に伴う明の朝廷は慌ただしくなった。16世紀後半、時の皇帝、万暦帝(ばんれきてい。神宗。しんそう。位1572-1620)は、重要な政務を政治家張居正(ちょうきょせい。1525-82)に託し、一条鞭法(いちじょうべんぽう)を促進させるなどの税制改革をはじめとして、専横化する宦官の抑制や黄河の治水事業など、さまざまな改革を行った。しかし、張居正没後、これらの改革は一気に崩れ、江南では鉱山開発や増税による民衆の反乱(民変。みんぺん)や奴隷の反乱(奴変。ぬへん)、また15世紀半ばに福建でおこった農民鄧茂七(とうもしち。?-1449)の抗租運動(鄧茂七の乱。1448-49)に代表されるように、佃戸における農民反乱が頻発するようになっていった。また、東北地方よりヌルハチ(アイシンギョロ。愛新覚羅。1559-1626)率いるツングース系女真族(じょしん。女直。じょちょく)の南下がおこり、さらには日本の豊臣秀吉(とよとみひでよし。1537-98)の朝鮮出兵(1592,1597。壬辰・丁酉の倭乱。じんしん・ていゆう。文禄・慶長の役。ぶんろく。けいちょう)に対する李氏朝鮮(りし。1392-1910)への援軍派遣などによる多額軍事費の捻出、万暦帝の後継者問題と、内外に問題が山積した。官僚内でも、政府に批判的な政治家顧憲成(こけんせい。1550-1612)を中心とする東林派(とうりん。顧憲成が江蘇省の無錫"むしゃく"に再建した東林書院の人々から成る)と、これらの弾圧をはかる宦官魏忠賢(ぎちゅうけん。?-1627)からなる非東林派との間に党争が激化、社会不安はますます高まった。やがて、崇禎帝(すうていてい。毅宗。きそう。位1627-44)が即位して党争を鎮め、徐光啓(じょこうけい。1562-1633)らと財政再建に努めた。しかし、ヌルハチによる女真の来襲も慌ただしくなり始め(後述)、軍事費捻出による新税の付加をやむを得ない状況となり、また飢饉も発生するなどで、各地で暴動が起こった。中でも農民李自成(りじせい。1606?-45)が率いた反乱(李自成の乱。1631-45)は、1641年に洛陽、43年に西安(シーアン)を占領、翌1644年には北京に入城して朝廷に迫った。
包囲された紫禁城(しきんじょう)では、崇禎帝は皇子を逃して、皇女を斬り、皇后を自殺させた後、帝自らも首を吊って自殺した。北京を落とした李自成の乱は、とうとう明王朝を滅ぼす結果となった(明の滅亡。1644)。
ヌルハチの部族は建州女真(けんしゅうじょしん)であったが、1583年、ヌルハチは瀋陽(しんよう)を中心として、女真統一をはかって自立、女真の他部族を破って東北地方全域を統一することに成功した。1616年、ヌルハチは推されてハン位につき(太祖。位1616-26)、統一国を後金(こうきん。1616-36)とした。軍事面でのヌルハチは、八旗(はっき。軍事・行政・社会組織)を編成、その構成は、黄・白・紅・藍の4色と、そのそれぞれに縁(へり)をつけた旗をもつ計8個の軍団となっており、八旗に属する旗人(きじん)は、多くの特権と土地(旗地。きち)支給が約束された。ヌルハチの八旗制度は満州八旗と呼ばれる。満州(まんしゅう。マンジュ)は、女真の改称である。またヌルハチは、モンゴル文字を借りて満州文字をつくり、衰運著しい明朝を脅かした。そして1619年のサルホ(サルフ)の戦いで、ヌルハチの第8子ホンタイジ(1592-1643)が従軍する満州八旗軍は明朝の大軍を破り、遼東進出を決定的なものにして、1625年、遂に瀋陽を首都に置いた。
ヌルハチ没後はサルホで軍功をあげたホンタイジが即位し、太宗となった(位1626-43)。太宗は内モンゴルの部族チャハル部を征服したとき、そこで元朝の皇室に伝えられた玉璽(ぎょくじ。天子の印のこと)を得ることができたため、1636年、国号を後金から中国風に清(しん。1616-1912)と改め、太宗は清朝皇帝となった。
太宗は、翌1637年、李氏朝鮮を属国化させ、また内モンゴルを平定した。そしてモンゴル兵や明の投降兵は八旗に編入され、これまでの満州八旗に加え、蒙古八旗と漢人八旗が編成された。また六部、都察院の設置も行い、さらには内モンゴル平定後に設置した蒙古衙問(もうこがもん)を1638年、理藩院(りはんいん)と改めた。内モンゴルは清王朝の「藩部」といい、清王朝に藩属し、中央政府に置かれた理藩院から要地に将軍・大臣を派遣させる以外は、藩部に自治を行わせるという間接統治であった。
太宗没後即位した子の順治帝(じゅんちてい。世祖。せいそ。位1643-61)は幼帝であるため、叔父の摂政ドルゴン(1612-50。睿親王。えいしんおう、ヌルハチの第14子)のもとで政務が行われた。1644年、李自成の乱によって明朝が滅亡した時、明の武将・呉三桂(ごさんけい。1612-78)は、李自成に奪われた北京を取り返すため、あえて清軍に投降し、山海関(さんかいかん。河北省。東北地方に通じる要地。万里長城の起点で、"天下第一関"を記す)から清軍を先導したため、清軍は中国侵略を容易なものとした。結局李自成は南下してきた清軍に討たれてわずか40日で北京を追われ、湖北で自殺した。北京は清軍に占領され、ここに北京遷都が現実化した(1644。清朝の中国支配)。女真族は、金朝(きん。1115-1234)以来の征服王朝を清朝で実現させたのである。中国本土進出後、順治帝は、漢人に辮髪(べんばつ。弁髪。頭髪を剃り上げ、一部を残して長く編んで垂らす髪形)を強制させ(辮髪令。1645)、儒教を教化、軍制では八旗以外に、漢人だけで編成した緑営(りょくえい。旗色は緑なので、緑旗兵とも)も加えられた。基本的には、北京における官制は、明朝を引き継ぎ、当初、都察院や六部など、主な官職は満州人が独占していくが、次第に満漢併用制となっていった。
清朝の黄金時代は"康煕・乾隆時代(こうき・けんりゅうじだい。1661-1795)"といわれる。この時代は康煕帝(こうきてい。順治帝の第3子。聖祖。せいそ。位1661-1722)・雍正帝(ようせいてい。康煕帝第4子。世宗。せいそう。位1722-35)・乾隆帝(けんりゅうてい。雍正帝第4子。高宗。こうそう。位1735-95)の3皇帝の時代で、政治・経済・文化・社会すべてにおいて繁栄した。しかしこの時代を現出するまでには、多くの抵抗勢力を討ち払わねばならなかった。康煕帝即位時、明の残党勢力を討つため、呉三桂をはじめ、尚可喜(しょうかき。1604-1676)、耿継茂(こうけいも。生没年不明)ら、清に投降した明の武将を利用し、残党勢力を次々と討伐していく。明朝滅亡を知った遺臣たちは、滅亡当時、漢民族としての王朝を残すべく万暦帝の孫を擁立して(弘光帝。こうこうてい。福王。ふくおう。位1644-45)、かつての明の都南京(旧・金陵)に朝廷をおいて清に抵抗した。この勢力は南明(なんみん。1644-61)と呼ばれる。しかしこの南明勢力も、呉三桂らの活躍ですべて闇に葬り去られ、江南地方もすべて清の支配下となってしまった(1661)。その後、明の皇統を断絶した代償として、呉三桂は雲南、また尚可喜は広東、さらに耿継茂は福建のそれぞれ藩王として封じられ、同地を軍事的に支配することを許された。彼らを三藩(さんぱん)という。こうして中国全土は、ほぼ満州族による清王朝によって支配されていった。
康煕帝が親政を始めると(1667)、帝は中国全土を専制君主的に支配するため、三藩の勢力を疎み始めた。帝室は三藩に藩王引退を迫ったが拒否され、呉三桂は尚之信(しょうししん。?-1680。尚可喜の子)・耿精忠(こうせいちゅう。?-1682。耿継茂の子)の藩王らとともに、三藩の乱を引き起こした(1673-81)。結局、呉三桂の病没で、反乱は8年後に鎮圧された。
三藩の乱の後、大陸南岸の海上では、鄭氏による反乱が起こっていた。鄭氏とは、明の滅亡時、清に投降した遺臣鄭芝竜(ていしりゅう。1604-61。妻は日本人田川氏)の一族で、その子鄭成功(ていせいこう。国姓爺。こくせんや。1624-62)は、父の海上権を受け継いで反清復明(はんしんふくみん。清朝排斥と明朝復興)運動を展開していた。1661年、中国沿海の住民に内陸奥地へ強制移住させる遷界令(せんかいれい)が、鄭氏孤立化を狙った中央政府から発令されたため、鄭成功はオランダ人が占拠する台湾のゼーランディア城を攻めて、全島を支配し(1662)、ここを基地とした(鄭氏台湾)。鄭成功没後は子の鄭経(ていけい。1642-81)が三藩の乱の救援も行いながら必死に抵抗したが、あえなく屈し、1683年、鄭氏は滅亡、中国史上初めて台湾を中国の直轄地とした。
これにより外政は積極化、中国史上初の対外領土条約であるネルチンスク条約(1689)をロシア・ピョートル1世(位1682-1725。大帝)と締結、アルグン川と外興安嶺(がいこうあんれい。スタノヴォイ山脈)を国境に決めた。清はこの条約で満州全域を確保してロシアの南下を阻止した。
一方、タタールに討たれ低迷していたオイラートでは、17世紀前半に再発展した。現在の新疆(しんきょう)ウイグル自治区に位置する地域に、その部族であるジュンガル部が台頭した。ジュンガル部は首長ガルダン=ハン(位1671-97)のもと、チベット高原北東部の青海(せいかい)を併合、チベット・東トルキスタンの回部(かいぶ。天山南路一帯。ウイグル人居住区)・外モンゴルを支配下に入れて貢納させた。こうしてジュンガル部はオイラート統一を実現し、清朝を脅かした(ジュンガル=ハン国。?-1758)。康煕帝は大軍を率いて3度に渡るジュンガル部と対戦(1690,96,97)、ガルダン=ハンを討伐、外モンゴルと青海地方を藩部とした。清朝は内外モンゴルを収めたことになる。またチベットも1720年に清朝の藩部となった。
雍正帝の時代になると、軍機処(ぐんきしょ)が宮廷内に設置された(1729)。満漢の内閣大学士や六部の尚書(長官)などから選ばれた数人の軍機大臣によって構成される。最高軍政機関であり、これまで行政上の重要機関だった内閣などの権限は弱まった。また、地丁銀制度(ちていぎん)を導入して人頭税である丁銀(ていぎん)を地租(地銀。ちぎん)に繰り入れ、歳入安定化をはかった。さらに苗族(ミャオ族。少数民族。民族系統不明)の定住地域である雲南・貴州地方では、中央政府から官吏(流官)を派遣して統治に帰する政策(改土帰流。かいどきりゅう)もとられた。外政では、ロシアとキャフタ条約を締結(1727)、モンゴルの国境画定や通商の取り決めなどを約した。また青海・チベットの完全支配のため、チベットのラサに駐蔵大臣をおいて、ジュンガル部の反乱を抑えた(1733)。また、キリスト教の伝道禁止も雍正帝時代に決められた。
乾隆帝の時代では、外政にさらなる力を尽くした。1758年にはジュンガル部を滅ぼし、同部の支配下にあった回部を完全服属させた。そして回部を含む崑崙(クンルン。こんろん)山脈とアルタイ山脈に挟まれた一帯を新疆(しんきょう。シンチャン。"新しき土地"の意味)と名付けて設置し、ここを藩部とした。帝は台湾・ミャンマー・ヴェトナムなどにも遠征を行い、数えること10回の出兵は、すべて成功し、これを"十全の功"として讃えられた。こうして"満・漢・蒙(モンゴル)・回(ウイグル)・蔵(チベット)"の五族支配を成立させた清朝は、直轄地に満州(中国東北地方)・中国本土・台湾、間接統治の藩部に内外モンゴル・青海・回部(のち新疆)・チベット、朝貢対象である属国に李氏朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマーといった大版図となった。
内政では、これまで以上に漢人統治のための思想統一を徹底的に行った。反体制的表現のある文字を記した者は容赦なく処罰し(文字の獄。もんじのごく)、同類の書物を処分した(禁書。きんしょ)。雍正帝時代、江西省での科挙試験で、試験官は、出題内容に五経の1つ、『詩経』の抜粋を出題したが、その中に"維"や"止"の文字が強調され、"雍正"の"かんむり"にあたる、いわば頭を切り落とした文字を出題したとして、帝に対する反感を受け止め、この試験官を処刑したという極端な事件も起こっている。
貿易関連では、康煕帝時代の、海禁解除後の1685年、開港場に税関(海関)が上海や廈門(アモイ)、広州など4箇所設置されていたが、乾隆帝の時代になって、貿易制限を行い、1757年、貿易を広州1港に限定、公行(コホン)という公認の特許商人組合がこれを取締り、独占した。
しかし、おりからの外征による出費や官僚の腐敗が進み、乾隆帝の晩年期には王朝の衰運も見え始めた。反清復明・滅満興漢を目的とする秘密結社・天地会(三合会とも。さんごうかい)の反乱が台湾で勃発(1786)、また苗族の反乱(1795-98)や抗租・抗糧運動(租税・徭役の減免要求)などが起こった。乾隆帝は祖父康煕帝の在位年数(61年)を超えないことを理由に子の嘉慶帝(かけいてい。仁宗。じんそう。位1796-1820)に譲位し、在位60年で退いた後は3年間、太上皇帝として政務を執った。
嘉慶帝は政治の腐敗の中心だった奸臣の和珅(わしん。1750?-90。横領や賄賂などで国庫収入の約半分に相当する私財を蓄える)を弾劾して自殺させ、財産を没収して綱紀粛正をはかったが、財政の打開はいっこうにはかどらず、これをよそに雲南の苗族の反乱や海賊の横行(艇盗の乱。ていとう)などが相次ぎ、出費は重なるばかりであった。
こうした中で、地下に潜伏して細々と活動をしていた白蓮教徒も、清水教(せいすいきょう)・天理教(てんりきょう)・混元教(こんげんきょう)・八卦教(はっけきょう)・聞香教(もんこうきょう)・西天大乗教(さいてんだいじょうきょう)などというように、本来の名前を隠して新しい教団を次々と作り、活動を活発化し始めた。乾隆帝時代の1774年、山東省で王倫(おうりん。?-1774)が清水教の乱を起こした。しかしこれはあえなく敗れ、1794年には白蓮教の教主を捕らえ、事態は沈静化するものと思われた。しかし嘉慶帝が即位すると、白蓮教団は、高弟の劉之協(りゅうしきょう。?-1800)を新たな指導者として、湖北を中心に反体制運動を展開した。
1796年1月、遂に湖北において、白蓮教徒の長期的な大乱が勃発した。白蓮教徒の乱の中でも最大規模にわたるもので、嘉慶白蓮教の乱と呼ばれる(1796-1804)。戦域は湖北から四川、陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)、河南各省にまで及んだ。弥勒下生を唱える教徒は、弥勒降臨の直前に起こる「天下の大乱」によって滅んでいく秩序・権力を目の当たりにすることを信じて戦い、終戦を迎えた時に弥勒が降臨し、新世が始まることを期待した。死ぬことを怖れない、闘争心が旺盛な教徒に対して、八旗軍、緑営軍といった清朝正規軍は苦戦を強いられた。
官僚の腐敗が進む中で、こうした正規軍は、すでに戦力ではなかった。反乱規模はますます増大化していくが、彼ら以上に効力を発揮したのが、地方社会における実力者、いわゆる郷紳(きょうしん)や地方官僚らの募集によって結集された義勇軍・郷勇(きょうゆう)であった。また団練(だんれん)という郷村の武装自衛集団も各地でつくられ、郷紳や地主によって指揮された。郷勇や団練といった漢民族勢力の活躍で、白蓮教の指導者である劉之協をようやく捕らえて処刑し(1800)、戦乱は鎮静に向かった。
戦乱により国土は荒廃し、また巨額の軍事費は国家財政を強烈に逼迫させた。またこうした事態に折り重なるように、黄河の氾濫にかかる治水費も発生した。こうした中、嘉慶白蓮教徒の乱が鎮まっても、教徒の地下活動は相変わらず続き、1813年には、宦官と通謀した天理教徒が宮城である紫禁城に乱入した(天理教徒の乱)。結局は指導者の逮捕・処刑で事態は収まり、一連の白蓮教徒の蜂起は少なくなっていった。
満州民族によって中国全土を統一した清朝政府は、これまでにない壮絶な危機感が漂った。財政逼迫に伴う増税は、乱後に残された民衆をさらに不安にさせ、天地会や哥老会(かろうかい)など、"反清復明"を唱える非宗教的秘密結社(会党という。かいとう)の結成につながっていった。八旗軍の没落により登場した郷勇の存在は、満州民族に征服された漢民族の拠り所となり、政府の威信に翳りが見え始めていったのである。そして、アヘン戦争(1840-42)、太平天国の乱(1851-64)、アロー戦争(1856-60)、清仏戦争(1884-85)、日清戦争(1894-95)、変法運動(1898)、中国分割(1897-99)、義和団事件(1900-01)といった、その後の内外での大規模な混乱によって、弱り果てていく清朝政府にさらなる打撃を与えたのが、孫文(そんぶん。1866-1925)らのブルジョワ革命運動であった。この革命は共和主義革命であり、清朝最後の皇帝・宣統帝(せんとうてい。溥儀。ふぎ。位1908-12)を退位させた(1912.2.12)。1912年の清朝滅亡に至る辛亥革命(しんがいかくめい。1911-12)の勃発であった。中国大陸において、長きにわたった北方民族と漢民族の攻防は、中国王朝史の終幕という形で、この時、終わりを告げた。
今回は中国の元・明・清の、各王朝の激動ぶりをお送りしました。特にモンゴル系民族、満州民族(女真族)といった北方民族と、中国国内で起こった宗教結社・白蓮教の騒動に巻き込まれていく中国王朝を中心に、王朝の移り変わりも含めてご紹介させていただきました。さすがに3王朝を一度にご紹介すると文字数も長くなります。
さて、今回の学習ポイントは本編に登場していない、文化面もあわせて確認して参りましょう。まず元朝から。元の皇帝は世祖フビライだけ覚えればいいと思います。フビライは何と言ってもアジア遠征です。まず、雲南の大理を併合(1253)、そして南宋(1127-1279)を征服して中国が統一されます。モンゴル民族の中国王朝ですので、もう立派な征服王朝ですね。そしてチベットと高麗の属国化、日本・ジャワのシンガサリ朝(1222-92)、ヴェトナムの大越国・陳朝(1225-1400)、ミャンマーのパガン朝(1044-1287)への侵略ですが、成功したのはミャンマー遠征だけで、パガン朝がこの時滅んでいます。
体制では、モンゴル第一主義(モンゴル人→色目人→漢人→南人。モンシキカンナンで覚えよう)、科挙の一時廃止、中書省・行中書省、ジャムチ制(駅伝制)など。王朝滅亡の原因としては、ラマ教(チベット仏教)盲信、交鈔乱発、紅巾の乱(1351。"いざ来い紅巾"の覚え方があります)などを覚えましょう。
元代の特徴としては、東西文化の交流があります。これは、モンゴル帝国時代も合わせて覚える必要があるのですが、まず、アジアにやってきた使節や旅行家を覚えましょう。ローマ教皇の指示で派遣されたプラノ=カルピニ、ルイ9世の使節としてモンゴル帝国の首都カラコルムに来たルブルック、ヴェネツィアの商人で、フビライ時代に来て、その後泉州をヨーロッパに紹介したマルコ=ポーロ、モロッコの旅行家で、『三大陸周遊記』を記したイブン=バットゥータ(1304-68/69/77)、大都で初めてカトリックを布教した大司教モンテ=コルヴィノ(1247-1328)などです。イスラム文化の流入もあり、郭守敬(かくしゅけい。1231-1316)の授時暦(じゅじれき)は日本の貞享暦(じょうきょうれき)に影響しました。
雑劇(元曲)では「西廂記(せいそうき)」・「漢宮秋(かんきゅうしゅう)」・「琵琶記(びわき)」の三部作があります。小説では「西遊記」・「三国志演義」・「水滸伝(すいこでん)」の"3S"の原型がこの時期に現れます。
続いて明朝です。明は北方ではなく江南の金陵(南京)に都を置いた王朝です。まず何と言っても洪武帝(朱元璋)でしょう。彼の行った政策は、科挙復活、明律・明令の制定、六諭、一世一元の制、中書省と宰相の廃止(つまり六部は皇帝直属)、都察院設置、軍戸に基づく衛所制、魚鱗図冊、賦役黄冊、里甲制(里長・甲首)...そんなところでしょう。洪武帝の次に大事なのが、長城修築と北京遷都がある成祖永楽帝時代です。靖難の変(1399-1402)・内閣大学士の設置・編纂事業(百科事典の『永楽大典』、朱子学の注釈書『性理大全』、他『四書大全』・『五経大全』など。ちなみに『~大全』とは注釈の意味があります。『神学大全』などがその例)も大事ですが、やはり彼の時代は外征の数々でしょう。5回のモンゴル遠征、ヴェトナム陳朝遠征、そして7回に及ぶ鄭和の南海遠征は出題頻出事項です。
明を脅かした北虜南倭も重要です。北虜では、モンゴル系オイラートのエセン=ハンによる土木の変で、英宗正統帝は捕虜となります。オイラートの後はタタールの登場、ダヤン=ハン、アルタン=ハンの名前は知っておきましょう。南倭は倭寇の襲撃ですが、前期と後期に分かれます。前期倭寇は、明が日本の室町幕府(1338-1573)と施した勘合貿易で下火になります。後期倭寇は、中国人が中心となって海を荒らしまくります。海禁の解除と豊臣秀吉の日本統一(1590)で下火になります。
滅亡にいたっては、秀吉の朝鮮出兵、東林派(顧憲成)と非東林派(魏忠賢)の党争、そして李自成の反乱における崇禎帝の自殺などが出題されるでしょう。
明代の社会も重要です。農業分野では、稲作の中心は"蘇湖(江浙)熟すれば天下足る"から、"湖広熟すれば天下足る"となります。商業分野では、塩の新安商人、金融の山西商人が登場しています。貿易業では、メキシコ銀や日本銀の流入も覚えておきましょう。租税の銀納化が可能となった一条鞭法も重要。
そして文化面も覚えるところが満載です。まず儒学分野では、王陽明(おうようめい。王守仁。おうしゅじん。1472-1528)がおこした陽明学が大事でしょう("心即理"・"知行合一"がキーワードとなります)。陽明学は南宋の陸九淵(りくきゅうえん。1139-92。陸象山。りくしょうざん)が祖であることにも注目。古典研究が代表の考証学分野では、黄宗羲(こうそうぎ。1610-95)と顧炎武(こえんぶ。1613-82)の2人が大事です。黄宗羲の"羲"は東晋時代の書家・王羲之(おうぎし。307?-365?)の"羲"と同じです。実学分野では、薬草や漢方について記された『本草綱目(ほんぞうこうもく)』の作者李時珍(りじちん。1523?-96?)、図解技術書『天工開物(てんこうかいぶつ)』を著した学者宋応星(そうおうせい。1590?-1650?)、そして本編にも登場した徐光啓の農業マニュアル『農政全書』の三部作を覚えましょう。
芸術面では、文学分野においては、口語体文学が一般化します。元代に原型ができあがった3Sに『金瓶梅(きんぺいばい)』を加えた3S1Kの四大奇書が流行します。戯曲部門では『牡丹亭還魂記(ぼたんていかんこんき)』が有名です。美術分野においては、文人画が様式化された南宗画が中心となり、董其昌(とうきしょう。1555-1636)や沈周(ちんしゅう。1427-1509)が出ました。特に董其昌は大事なので覚えておいて下さい。一方院体画から発展した北宗画は、仇英(きゅうえい。生没年不明)などが主流ですが、こちらは難関私大などで登場します。工芸部門では、陶磁器生産地である景徳鎮(けいとくちん)の発展で染付(そめつけ)や赤絵が誕生しました。明五彩(みんござい)は有名です。
さてさて、最後の清朝です。清朝は歴代皇帝の順番、特に太祖ヌルハチから仁宗嘉慶帝までは順に言えるようにしておきましょう。太祖ヌルハチ時代では、後金建国(首都瀋陽)、八旗と満州文字の制定が大事です。太宗ホンタイジ時代では、内モンゴルのチャハル部征服、清朝命名(1636)、李氏朝鮮属国化(1637)、藩部の管理機関である理藩院の設置などですね。世祖順治帝時代では、呉三桂の手引きで山海関入関を果たし、1644年に北京遷都が実現します。
聖宗康煕帝時代では、呉三桂の三藩の乱、鄭氏台湾の平定、ピョートル大帝とネルチンスク条約締結(1689)、編纂事業(漢和辞典の『康煕字典』、百科事典の『古今図書集成』)あたりが重要ですかね。世宗雍正帝時代では、軍機処が登場します。あと、キリスト教伝道禁止、青海・チベットの征服、キャフタ条約(1727)、地丁銀制度の開始、編纂事業(『古今図書集成』の完成)など。高宗乾隆帝時代ではジュンガル部とウイグルの回部の制圧により新疆が完成します。また貿易を広州1港に制限して、公行にそれを任せます。康煕帝から乾隆帝までが、清朝の黄金時代で、辮髪文化や、文字の獄や禁書などが行われた時代でもあります。満州民族、漢民族、モンゴル民族、ウイグル人、チベット系民族の五族を支配する大国家となります。直轄地に満州・中国本土・台湾、藩部に内外モンゴル・青海・回部・チベット、属国に李氏朝鮮・ヴェトナム・タイ・ミャンマーという内訳になります。この内訳は出題されやすいので要注意です。乾隆帝の編纂事業は今までの書物を全部まとめ上げた叢書『四庫全書(しこぜんしょ)』があります。仁宗嘉慶帝の時代は白蓮教徒の大乱を覚えましょう。この頃は黄金時代が既に過ぎ去り、財政問題で苦戦する時代です。その後は、一度も満州王朝の黄金時代が再来することなく辛亥革命まで続きます。
清朝の文化もかなりのボリュームです。明清の時代ではイエズス会の来訪・布教があり、この分野でも多くの宣教師が登場しますが、これは4作品後のVol.99で、現在制作中ですのでその時ご紹介致しましょう。ではまず考証学です。この学問は清朝時代に全盛期を迎え、銭大昕(せんたいきん。1728-1804)が中心人物です。他にも戴震(たいしん。1723-77)・段玉裁(だんぎょくさい。1735-1815)なども登場しますが、中国史を難しく出題させる超難関私大を除いては、あまり出題されません。文学分野では名作揃いで、中国版"源氏物語"ともいえる『紅楼夢(こうろうむ)』、科挙制度の不満、官吏の腐敗ぶりが暴かれた『儒林外史(じゅりんがいし)』、短編怪談話の『聊斎志異(りょうさいしい)』といった小説部門、唐の玄宗(げんそう。位712-756)と楊貴妃(ようきひ。719-756)の悲恋をテーマに掲げた『長生殿伝奇(ちょうせいでんでんき)』と、明朝滅亡を背景に描かれた悲恋物語『桃花扇伝奇(とうかせんでんき)』の2作の戯曲部門があります。玄宗皇帝の『長生殿伝奇』は『長恨歌(ちょうごんか。白居易作。はくきょい。772-846)』の"長"つながりがあります。
最後に、サブテーマの白蓮教徒についても学びましょう。白蓮教は仏教の一種としてみるのだと思いますが、白蓮教の思想である弥勒下生説は、仏教では珍しい救世主思想です。大学入試に出るのは紅巾の乱(1351)と嘉慶帝時代の白蓮教徒の乱(1796)ぐらいです。余裕があれば、紅巾の乱時の教徒指導者である韓山童・韓林児親子や、天理教徒の乱(1813)も知っておくと便利です。
今回は非常に長くなりました。最後まで読み切るには相当時間がかかると思いますので、更新は2週間後にさせていただこうかと思っております。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。和珅→王へんに申