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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第134話


見果てぬ夢

 14~16世紀、領主の過酷な収奪から逃れて、現在のウクライナやロシア南方に移住を求めた隷属農民たちは、移住地にて仲間と自治共同体を形成していった。16世紀になると、彼らは国境防備のため、兵力を身につけ、軍事的な精神が培われていった。この軍事的自治共同体を構成する彼らのことをコサック(カザーク。カザック。コザック)と呼び、トルコ語で"群を離れた人"を意味した(民族的集団、軍事組織の両方の意味で用いられる)。コサックは南ロシアやウクライナを流れるドン川ドニエプル川流域を拠点とするため、漁業を中心として営む一方、略奪などの海賊行為も営んだ。中でもドン川流域に形成されたコサックはドン=コサックと呼ばれ、南ロシアからウクライナ東部にかけて、その勢力を強めていた。

 やがてロシアではいわゆるリューリク朝(862-1598)時代の終焉を迎え、コサック農民の大反乱(1595-96)が起こった動乱時代に突入したが、その後ミハイル=ロマノフ(1596-1645)がツァーリ(ロシア皇帝称号。この時期ではまだ"モスクワ大公"の意味合いが強い)に選ばれ(位1613-45)、ロマノフ朝(1613-1917)が開かれ、ロシアに安定をもたらした。
 しかしその安定というのは帝室の専制体制に限られたことであった。貴族階級中心の身分制議会と農奴制の強化、これがロシアのツァーリズムであった。コサック農民や農奴にとっては、何ら変わったことはなかった。

 王朝創始者ミハイル=ロマノフは、16歳で帝位についたわけだが、生来病弱・気弱のため、父母や親戚らが政権をふるった(父はモスクワ総主教)。この間に勃発した農民反乱はことごとく鎮圧され、農奴制はいっそう強化された。またこれにより地主貴族の支配体制も確立した。ミハイル帝没後、子のアレクセイがツァーリとなったが(位1645-76)、彼には西洋趣味が幼児期からあり、彼も行政に西洋的近代化を取り込もうと考えてはいたが、当時の保守派の権力は衰え知らずであり、結局はミハイル帝時代の体制が維持された(西洋的近代化は、彼の子であり、5代目ツァーリとなるピョートル1世によってその後具現化された。位1682-1725)。

 アレクセイの治世では、ポーランドやスウェーデンなどを相手に、東欧や北欧の覇権をめぐる戦いの連続であった。しかし、戦いは何も対外だけではなかった。対外戦軍事費捻出による増税、農民反乱への武力弾圧、さらなる農奴制強化といったさまざまな重圧に憤慨した貧農たちは、帝政に対し不支持をあらわし、各地のコサックに拠り所を求めた。そしてロマノフ王朝に対する農民の怒りはたびたび反乱を招くことになり、ここにも軍隊投入を余儀なくされたのである。

 コサックの台頭はめざましく、なかでもドン川流域に勢力をはるドン=コサックのアタマン("頭領"の意味)であったステンカ=ラージン(本名スチェパン=ラージン。1630-1671)のもとには、コサック化した貧農たちが次々と依存し始めた。これによりコサック内での貧富の差が拡大、ステンカ=ラージンは略奪にむけた大遠征を計画することになる。

 ラージンは富裕コサックの出身ではあったが、貧農出身のコサックに共感していた。ラージンを頼った貧農コサックたちを救うため、2000人の水軍、35隻のガレー船とともにヴォルガ川を下り、ロシア政府軍と激戦を展開した。その後、当時ロシア帝政と協力姿勢だったシーア派のサファヴィー朝ペルシア(1501-1736)とも一戦を交え(1668-69)、敵艦隊をカスピ海にて撃退させた。これによりロシア政府はドン=コサックに対してますます警戒色を強めた。
 かねてからステンカ=ラージンは、社会主義思想を背景に、コサックの主権を築いて、自由で平等な社会を築きあげ、コサックの共和国を建設することを大きな夢として抱いていた。そのためには、貧農の発生を防ぐため、身分・階級の消滅によるロシア政府・ロシア貴族の壊滅させる必要があった。そして、夢を実現化させるため、ラージンの帝政ロシアへの反発はますます過激さを増していく。

 1670年、カフカス方面のチェルケスク(ロシア連邦所属のカラチャイ・チェルケス共和国の現首都)やヴォルガ川に位置するツァリーツィン(現ヴォルゴグラード。第二次世界大戦中の呼称"スターリングラード"としても有名)を攻め落としたラージンは、ヴォルガ川を遡行、かつてアストラハン=ハン国(1446-1557。キプチャク=ハン国(1243-1502)の衰退に乗じて自立したトルコ系国家。ロシアの雷帝と呼ばれたイヴァン4世(位1533-84)によって併合されていた)の首都として栄えていたアストラハン市を襲撃、同市長官やその2子をはじめとする反抗者を次々と虐殺していき、遂に同市は陥落、ドン=コサックによって占領された。彼は最後の砦であるモスクワ遠征を前に、北へ向けてサラトフ市やサマーラ市といった重要都市を次から次へと攻略した。また彼の兄(弟?)であるフロル=ラージン(?-1676)もステンカを助けて懸命に戦った。
 戦法としてはステンカ=ラージンの発するコサックのプロパガンダ的宣伝があった。「魅惑の書」なるビラをまき、かならず解放と自由の保障を約束し、貴族達を倒して自由平等な社会を作るため、ともに力を合わせて戦おうという、まさにラージンが唱えた偉大なる夢を実現に向けようと、帝政ロシア圧政に苦しむ地方の貧民たちを大いに扇動した。ラージン自身はドン=コサックのアタマンであることを告げず、当時国民に人気のあった皇太子を自称するなどして、仲間を次々と増やしていったのである。

 しかし、最大の激戦地となったシンビルスク(現ウリヤノフスクレーニン(1870-1924)の生地で有名。彼の本名はウラジーミル=イリイチ=ウリヤノフ)の戦いで状況は一変、ロシア政府軍の猛攻に遭い、ステンカ=ラージンの味方の多くは同地で虐殺されたり、捕らえられて処刑されたのであった。貧民により結成されていったコサック軍は、打倒帝政に燃えた、メンタルな面では強力であったが、戦力としては弱体であり、日を追うごとにその力が衰えていき、16世紀頃の、元来の国境を防備する強力なコサック軍とは内容が異なってしまっていた。これによりラージンおよび彼が率いるコサック軍の威力は徐々に翳りが見え始めた。これに対して、戦術には資金を惜しまず、次々と名将が送り込まれ、アレクセイ帝が好む西ヨーロッパ式戦術が効果を発揮し始めたこともあって、完全にロシア政府軍が攻勢に転じ、戦勝を連ねた。同時に、ラージンの威力も弱まり、サラトフやサマーラなど、かつて攻め落とした都市からは協力が得られず、逆に寝返って優勢に転じたロシア政府につきはじめた。こうしてラージンの分隊は各地でロシア政府軍に撃退されていった。さらに悲劇は重なり、ついにラージンはモスクワ総主教により破門をうけ、ドン=コサックの軍も彼から離反していった。

 ラージン兄弟はドン川に引き返した。そして翌1671年、最後の砦カガンリク(カガリニク?)で再起を図っている途中、兄弟ともに捕らえられ、モスクワへ連行された。首謀者の逮捕により、各地の反乱は徐々に鎮静化していった。ツァーリズムの名の下に結成された軍隊の強さは、辺境で成長した軍隊とは比べものにならなかったのである。アレクセイ帝の勝利であった。
 1671年、ステンカ=ラージンは激しい拷問を受けた後、赤の広場(モスクワの都心部にある広場)にて、四つ裂き刑に処された(ステンカ=ラージン刑死)。5年後の1676年には兄(弟?)のフロル=ラージンも処刑が執行された。これにて彼らの掲げた夢なるコサック国家の構想は、すべて潰えた。アレクセイ帝はこの1670年から71年にかけて起こったステンカ=ラージンの反乱の鎮圧、首謀者ステンカ=ラージンの処刑を見届けて、1676年、47歳で没した。ステンカ=ラージンの反乱以降もトルコ軍との戦闘があったが、彼の帝政は、戦争に始まり、戦争で終わった治世であった。

 あと一歩のところで、偉大な夢を潰されたドン=コサックのアタマンは、その後も民衆の間では"ラージンは死なず"の信仰が生まれ、その後「ステンカ=ラージン」を代表とするロシア民謡や伝説の主役となって語り継がれていったのであった。


 民謡では、ステンカ=ラージンがペルシアの美姫をヴォルガ川に投げ込む歌詞があることで知られています。今回はこのステンカ=ラージンがおこした抵抗運動をご紹介しましたが、最後は"長いものに巻かれろ"、"寄らば大樹の陰"を見せつけられた形となって終焉を迎えました。ラージンの最期は四つ裂きの刑(生きたまま両腕両足切断後、頭部切断)という悲惨な処刑でしたが、その処刑場は"赤の広場"と呼ばれる所で、世界遺産の1つです。

 さて、学習ポイントに参りましょう。今回のキーワードはコサック(カザークとも)で、日本でも腰を下げて踊るコサック=ダンスなどで知られています。ドン=コサックは、ドン川のコサックという意味で、コサックの首領という意味ではありません。受験世界史では、ドン=コサック関係はラージン以外にも登場します。受験生において知っておく必要があるのは、イヴァン4世時代、ウラル山脈を超えてシビル=ハン国(1556-1600。"シベリア"の語源か?)を占領したイェルマーク(?-1584/85)、またエカチェリーナ2世時代(位1762-96)には、ラージンと同郷で、貧しいドン=コサックの農民からでたプガチョフ(1740/42-75)という人物がおり、彼が農奴制廃止を目的におこした反乱(プガチョフの乱1773-75)によって、これまでアメリカ独立の支援や、ロシアの西洋式体制を促進していたエカチェリーナ2世が反動化に転じます。ラージンと合わせて、三大コサックは要注意です。

 そのラージンですが、反乱はロマノフ朝初期に起こりました。アレクセイ帝は覚えなくても良いのですが、プガチョフの乱より古いこと、ピョートル大帝(1世)より前の話であること、ヴォルガ川中心に戦闘が行われたことを知っておくと良いでしょう。途中、アストラハン=ハン国も登場しましたが、キプチャク=ハン国から独立した国です。新課程の用語集では頻度数は1ですが、余裕があればその国名を知っておきましょう("アストラ=ハン国"と表記している場合もある)。

 さて、次回は大長編大作ですよ!!5話連続のシリーズ物です。お楽しみに!!