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オーストリアとプロイセン・その1~三十年戦争とスペイン継承戦争~はこちら→●
オーストリア・ハプスブルク家のマリア=テレジア(1717-80)は父カール6世(位1711-40。ベーメン王カレル2世として在位1711-40。ハンガリー王カール3世として在位1711-40)の死去(1740)にともない、皇帝が生前発布した国事詔書に基づき、ハプスブルク家の全領土を相続、そして、王位継承法(プラグマティッシェ=ザンクツィオン)における2回目の国事詔書で、女子の帝位継承も可能となったことで、血縁者であるバイエルン選帝侯(バイエルン公)のカール=アルブレヒト(侯位1726-45)やザクセン選帝侯フリードリヒ=アウグスト2世(侯位1733-1763)をはじめ、親フランス・反ハプスブルク家のプロイセン王国・国王フリードリヒ2世("大王"。位1740-86)、フランス・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ15世(最愛王。位1715-74)、スペイン・ブルボン朝(1700-1931)のフェリペ5世(位1700-24,24-46)らが反発、オーストリアは、フランスと植民地戦争を展開しているイギリス・ハノーヴァー朝(1714-1917)のジョージ2世(位1727-60)やオランダと組んでマリアの皇位継承を阻止しようとする敵国と戦うことを決め、同1740年、オーストリア継承戦争が始まった(1740-48)。
この戦争は、英仏間の因縁の対決でもあり、台頭してきたハプスブルク家のオーストリアとホーエンツォレルン家のプロイセン王国とのヨーロッパ覇権争い、またウェストファリア条約(1648)の結果によって有名無実と化した神聖ローマ帝国(ドイツ。962-1806)内でうごめくドイツ諸侯(領邦)による権力奪取などが混じり合った戦争であった。
もともとフリードリヒ大王は、豊かな鉱産資源と工業が発達しているドイツ東部のオーストリア・ハプスブルク家領・シュレジエン州(シレジア。ポーランド南西部のオーデル川上流)を狙っていた。シュレジエン州は神聖ローマ帝国とプロイセン王国との国境にあるため、フリードリヒ大王はシュレジエン州の領有権を主張した。さらに大王はマリア=テレジアに対して、相続を強行する代わりにシュレジエン州の割譲を強要したが、マリアはこの交換条件を拒否したため、1740年12月、プロイセン軍によるシュレジエン侵攻を行った(第1次シュレジエン戦争。1740-42)。オーストリア軍はプロイセン軍と激突したが敗れた。ハプスブルク家の敗北により、反ハプスブルク派の諸国・諸侯も進軍を開始した。そして1742年7月、ベルリンの講和によってオーストリアはシュレジエン州の全土の割譲を認め、シュレジエン州はプロイセンの領土となった。この2年間、神聖ローマ帝国は空位時代が続き、マリア=テレジアはハンガリー女王として即位したにとどまった(王位1740-80)。
ハプスブルク家の敗戦を知ったザクセン公フリードリヒ=アウグスト2世やバイエルン公カール=アルブレヒトは、すぐさまオーストリアに対して宣戦した。ザクセンは撤退したが、バイエルン公カール=アルブレヒトは必死に攻めて、まずベーメン王カール=アルベルトとしてカール6世(ベーメン王カレル2世)没後1年間空位だったベーメン王位に就き(位1741-43)、その後ケルン大司教で戴冠、神聖ローマ皇帝カール7世(位1742-45)としてバイエルン朝を復活させた(1742-45)。これにより、1438年から継続してきたハプスブルク朝(1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)は一時断絶した。しかしオーストリア軍がすぐさま奮起し、カール=アルベルトをベーメン王から退位させ、マリア=テレジアがベーメン女王(1743-80)として即位した。その後バイエルンを占領すると、カール7世は遂に神聖ローマ皇帝を退位(1745)、マリア=テレジアの夫で、ヴォーデモン家出身のロートリンゲン公だったフランツ3世シュテファン(公位1729-1737)がフランツ1世として神聖ローマ皇帝についた(位1745-65)。ハプスブルク朝の復活だが、正式にはハプスブルク=ロートリンゲン朝(1745-1806)と呼び、ハプスブルク家もハプスブルク=ロートリンゲン家と称された。フランツ1世は皇帝だが、彼は政治力に欠け、実際はマリア=テレジアが共同統治でもってリードしていった。マリアは戴冠こそしていないものの、高度な頭脳と巧みな求心力によって帝国を背負う、まさに"女帝マリア=テレジア"の存在感があったのである。この頃の神聖ローマ帝国はすでに名のみの存在だったため、マリア=テレジアを"オーストリア皇帝"と呼ばれることもあった。
諸侯軍との戦いでは、オーストリア軍は優位に動いた。プロイセンのフリードリヒ大王は、マリアのシュレジエン州の奪回に危機感を募らせたため、ちょうどバイエルン朝となっていた1744年に再び侵攻を開始したが(第2次シュレジエン戦争。1744-45)、翌1745年12月にドレスデン(ザクセン地方)で講和を開き、第一次戦争におけるベルリンでの講和をオーストリアに確認させ、シュレジエン州のプロイセン領有を確約させた。
またフランスは1744年、オーストリア領である南ネーデルラント(ベルギー)の奪還を目指して同地に侵攻、イギリスとオランダがオーストリアを援助したが、フランス軍に南ネーデルラントを占領され、またスペインも同年ミラノ奪還を目指し侵攻した。またオーストリア継承戦争と連動して、新大陸では英仏間における北米植民地の争奪が、ハノーヴァー朝・ジョージ2世の名に因んだジョージ王戦争(1744-48)の名称で展開され、イギリス植民地である南インド東岸でも第一次カルナータカ(カーナティック)戦争がフランスと行われたが(1744-48。イギリス勝利)、結局1748年のアーヘンの和約により、シュレジエン州を除く占領地は相互返還によって開戦直前状態に戻すとされ、参加国は調印、戦争は終わった。
父カール6世の努力によって広大で強力になったオーストリアが、財源にしていたシュレジエン州をプロイセンに奪われ、マリア=テレジアは、プロイセンのフリードリヒ大王に強い怨恨を持つようになった。フランスやプロテスタント貴族以上の嫌悪感が、フリードリヒ大王に凝固した。当時のオーストリアはイギリスと手を組んでいたが、南インドでは、英仏間における第2次カルナータカ(カーナティック)戦争(1750-54)が勃発し、1754年またもやイギリスが勝利を収め、オーストリアにとっては有利に動く状況であった。オーストリアに君臨するハプスブルク=ロートリンゲン家にとっては、プロイセンの数倍以上人口を抱え、支持者も多く、中でも背後にはジョージ2世率いるイギリスがいる。しかし、オーストリア継承戦争の結果でも明らかなように敵国や敵侯も多く、不利な面も多かった。
そもそもプロイセン王国は父フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713-40)時代にはイギリスと接近して国王娘と結婚しており、同じプロテスタント国として、もともと親イギリス派ではあったが、子フリードリヒ大王の時代になるとフランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778)を招いた影響もあって(1750-53)"親フランス・反ハプスブルク"の姿勢があり、"反フランス"であるイギリスとは正反対の姿勢だった。またイギリスはオーストリア継承戦争において、植民地争奪で戦っている相手国・フランスにおける"反ハプスブルク"精神を利用するため、ハプスブルク家であるオーストリアとの表面上の友好策を取っていた。"反ハプスブルク"・"親フランス"のプロイセンは、当時ハプスブルク家の領有する"シュレジエン州"の奪取という主目的があり、オーストリアと敵対するフランスと手を結んだ。イギリスは、オーストリア継承戦争以上に植民地戦争が重要なため、とにかくフランスが弱体すれば良く、フランスを敵とする国に支援する動きがあった。プロイセンはハプスブルク家オーストリアの弱体化、フランスはイギリスとハプスブルク家オーストリア双方の弱体化を狙っていたという外交関係であった。ただウェストファリア条約(1648)やアーヘンの和約と、すべてが有利に動いていくプロイセンには、頭脳派君主が歴代にわたって君臨していると、周辺諸国は警戒していた。
オーストリア継承戦争後、プロイセンに目をつけたのがイギリスである。ハノーヴァー王家はドイツ北部のニーダーザクセン州にあってプロイセンと隣接しており、17世紀にバイエルン公らと共に選帝侯として昇格していた(ハノーファー公)。ジョージ2世は、継承戦争で戦い合ったプロイセンからの攻撃に脅威を感じ、父ジョージ1世(位1714-27)で始まったハノーヴァー朝を守る策を考えた。そうした中、1755年、英仏植民地戦争が再発、新大陸でフレンチ=インディアン戦争が勃発した(1755-63)。
プロイセンを警戒していた国はもう1つあった。プロイセン王国の東隣の大国ロシア・ロマノフ朝(1613-1917)である。当時前帝エカチェリーナ1世(位1725-27)と前々帝ピョートル1世(大帝。位1682-1725)との間にできた子エリザヴェータが女帝として帝位に就いていたが(位1741-62)、彼女はフリードリヒ大王に脅威を感じていた。エリザヴェータ女帝は、イギリス・ジョージ2世と話し合い、プロイセンに対する英露相互不可侵とプロイセンへの攻撃と防衛を話し合った。
プロイセンはロシアとイギリスの大国同士がプロイセンを牽制していると知り、今はイギリスと手を結んだ方が得策と考えたと思われる。これには、フリードリヒ大王がヴォルテールの影響でフランス文化に心酔したことも関係するとも考えられ、ヴォルテールが著書『哲学書簡』で語っていた、フランスの後進性やカトリックへの批判といったマイナス的真髄と、当時の情勢がフリードリヒ大王の心の中で重なり合ったのかもしれない。フランスを捨て、イギリスに接近するようになったフリードリヒ大王をみて、イギリスはこれを好機と判断して、イギリスとプロイセンは急速に手を結ぶようになった(1756年1月)。ロシアは当然イギリス・プロイセンの同盟に遺憾を示し、オーストリアに接近することになる。
この状況を知ったオーストリアのマリア=テレジアは絶好の機会と察し、ヨーロッパ大陸におけるプロイセンの孤立化を考えた。しかしどうしても避けて通れない道があった。ハプスブルク=ロートリンゲン家の宿敵フランスをどうするかである。16世紀以降表面化し、多くの諸国や諸侯を巻き込んで常に争ってきたわけだが、当時フランス・ブルボン朝は気弱な国王ルイ15世の治世で、勢威低下気味であった。しかし、国王の愛妾であるポンパドール公爵夫人(1721-64)はルイ15世の無能な政治力に付け入り、政治に介入したことで、同じ女性であるオーストリアのマリア=テレジアと接触する機会が多くなり、フランスを裏切ったプロイセンに対して、制裁を下すべく大陸におけるプロイセンの孤立化に賛同した。またマリアはロシアのエリザヴェータ女帝にも同策を示したところ、彼女も賛同する。
よって、長年続いていたハプスブルク家とフランス王家の対立関係が打倒プロイセンを目指す意向が一致したことにより解消され、両国は手を組むことになった。これにロシアやザクセン選帝侯、またスウェーデンも加わり、プロイセンの大陸内での孤立化に成功することとなった。この国際関係の大変動は、マリア=テレジアの「外交革命」と呼ばれ(1756年5月)、これまで「ハプスブルク家対ブルボン家」の基軸で支えられた全ヨーロッパ諸国・諸侯が驚倒した。マリア=テレジアの復讐の第一歩が踏みきられたのである。
マリア=テレジアがシュレジエン州奪回戦争をおこそうとする企ては、フリードリヒ大王には分かっていた。プロイセンには植民地戦争でフランスを倒しているイギリスが背後にいることを誇りに、1756年8月29日、先手を打ってプロイセン側からザクセン方面に向けて攻撃を開始した。プロイセンが大陸の諸国・諸侯すべてを敵に回して戦う、第3次シュレジエン戦争の勃発である(1756-63。七年戦争)。これはマリア=テレジアにとってみれば、シュレジエン州を取り戻すための復讐戦であった。
オーストリア軍の攻撃に加え、西からはフランスも攻撃を始め、東からはロシアも攻撃を開始した。軍力の圧倒的に格差を付けるマリア軍が優位であり、戦闘で徐々に兵士を失っていくプロイセンは当然の如く劣勢に立たされた。プロイセンを支援するイギリスは新大陸でのフレンチ=インディアン戦争に加え、インドでは1757年6月カルカッタ北方でプラッシーの戦いが(1757)、南インドでは1758年から第3次カルナータカ(カーナティック)戦争(1758-63)が、フランスを相手にそれぞれ開戦された。プラッシーでは、イギリス東インド会社に従事していたベンガル知事クライヴ(1725-74)の活躍で早速とイギリスの戦勝が決まり、イギリスは新大陸でのフレンチ=インディアン戦争でも1759年、フランスの北米植民地経営の中心であるケベック(現カナダ。セント=ローレンス川中流)を占領し、英仏戦ではイギリスが優勢に動いた。
フランス・オーストリア・ロシアに包囲され、剣が峰に立たされたプロイセン・フリードリヒ大王は、イギリスの上限支援も尽き果て、苦戦が続く戦況を見つめ、一時は自殺も考えたという。しかし、転機が訪れた。1762年、ロシアで帝位交替が行われ、同年没したエリザヴェータの後継にピョートル3世(位1762)として即位したのである。ピョートル3世は、北ドイツのホルシュタイン=ゴットルプ家の血を引いており、フリードリヒ大王の心酔者であったため、即位後プロイセンとの戦争を中止し、講和を結んだ。これにより、滅亡寸前にまで追いやられていたプロイセンは、東方からの攻撃がなくなったことで、最大の危機を乗り越えた。
一方、フランスはインドのプラッシー敗北で疲弊し、カルナータカ戦争も劣勢に立たされた。ロシア離脱、フランス戦力低下によってマリア=テレジア率いるオーストリアが結局単独で戦う状況となったが、オーストリアも開戦6年目にして戦費負担は避けられず、もはや続行不可能であった。
フリードリヒ大王は運が良かった。ロシア離脱はもちろんだが、1759年には胸を撃たれ絶望感が漂うも、胸ポケットに入れてあったタバコケースに当たったため絶命を免れている。また窮地に立った時期にベルリン進軍が行われなかったなど、絶体絶命のピンチの連発だったプロイセンは、天に助けられて難を逃れた。
結局停戦交渉となり、まず英仏間においては、1763年2月10日、パリ条約が結ばれた(スペインも参加)。新大陸、インド大陸ではイギリスが勝利を収め、植民地戦争はイギリスが優位に立った。結果、フランス領だったカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナをはじめ、アフリカでのフランス領だったセネガルはすべてイギリス領となった(セネガルは1783年フランス領に戻る。ミシシッピ以東のルイジアナも1783年のパリ条約で、アメリカへ割譲された)。またフランス領ミシシッピ以西のルイジアナはスペイン領となり、スペイン領フロリダはイギリス領となった。インドでは、フランス領は若干の商業都市を除いて、すべての植民地を放棄した。優位に立ったイギリスは、その後植民地経営を本格化していくが、植民地には高圧的な政策を強行し、インドのムガル帝国(1526-1858)ではシパーヒーの反乱(1857)、新大陸ではアメリカ独立革命(1775-83)を招くことになる。
そして、プロイセンとオーストリア間では、1763年2月15日、ライプチヒ近郊のフベルトゥスブルクにおいて、講和がすすめられた(フベルトゥスブルク条約)。開戦前の領土関係の回復を前提に調印した。ということは、アーヘンの和約の結果に従うと言うことであり、シュレジエン州に対するプロイセンの主権が再確認されたことになる。シュレジエン奪回に失敗したマリア=テレジアにとって、再度に渡る屈辱であった。
これにより、プロイセン王国は、シュレジエン州の鉱産資源をふんだんに利用し、勢力を回復した。フリードリヒ大王はその後は対外戦争に介入することはなく、サンスーシ宮殿で『わが時代の歴史』を著して余生を送り、国民からは"老フリッツ"との愛称で親しまれるようになる。しかし、晩年の彼は親しい仲間にも先立たれ、凡庸な甥フリードリヒ=ヴィルヘルム2世(1744-97)に後事を任せ、1786年8月、サンスーシ宮殿で没し、その後は甥フリードリヒ=ヴィルヘルム2世がプロイセン王として即位した(位1786-97)。なお、フリードリヒ大王を崇拝していたロシアのピョートル3世は、内政でもプロイセン式を導入するなど強行な策を指揮していたため、即位した1762年の7月、エカチェリーナ皇后が愛人の近衛士官と共謀してクーデタをおこし、ピョートルを廃位させ(在位6ヶ月)、皇后はエカチェリーナ2世としてロマノフ朝皇帝に就いた(位1762-96)。エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ大王、オーストリアのマリア=テレジアと第1回のポーランド分割を行っている(1772)。ポーランド分割によって、プロイセンでは、国土を拡大、この年、フリードリヒ大王は、これまでの"プロイセンにおける王"ではなく、"プロイセン国王"として認められた。プロイセンという実質的な王国が、フリードリヒ大王の時、正式に誕生したのである。
一方マリア=テレジアは1765年に没した神聖ローマ皇帝フランツ1世の後を、長子であるヨーゼフ2世(位1765-90)に継がせたが、なおも実権をヨーゼフ2世には渡さず、ハプスブルク=ロートリンゲン家の発展を願って、国内政策に奔走した。彼女もフリードリヒ大王同様、啓蒙専制君主として絶対主義を推進していき、オーストリアを警察国家化していった。夫フランツ1世を愛し16人の子宝にも恵まれたが、外交革命の余光は、1770年末娘マリ=アントワネット(1755-93)をフランス皇太子妃(のちのルイ16世。位1774-92)として嫁がせたことで継続した。しかしルイ15世のブルボン朝は、すでにおこっていた財政難に対する打開策もみられず、次第に王権を打倒しようとする市民勢力が台頭していく状況にあり、後の大革命勃発を案じていた。激動のオーストリア情勢に力を捧げたマリア=テレジアは、1780年没し、ヨーゼフ2世の親政が始まった。
ヨーゼフ2世は、青年時代に衝撃を受けたフランス啓蒙思想の影響で、母に倣って啓蒙専制君主として名をあげることを心に決めた。それは"ヨゼフィニスムス(ヨーゼフ主義)"と呼ばれる政治で、母没後1年目(1781)から様々な絶対主義政策を行った。農奴解放令(1781)を発して農民保護を行い、商工業を育成した。また、宗教面では寛容令(宗教寛容令。1781)を発し、非カトリック教徒にも信仰の自由を許容し、ローマ教会の支配力を排除して教会の国家支配を強化した。そもそも神聖ローマ皇帝はカトリックを守るべき立場にあるにもかかわらず、このような勅令を発することに、保守派官僚が黙視できるわけがなく、結果国内で反抗運動が起こりこの2つの発令は撤回せざるを得なかった。ヨーゼフ2世はマリア没後にともなってハンガリー王(位1780-90)・ベーメン王(位1780-90)に即位したが、カトリックの多いハンガリーで暴動がおこり(1788-90)またオーストリア領であるネーデルラントでも反乱が勃発した(1789)。結局すべての政策で失敗したヨーゼフ2世は失意のうちに没し、弟でトスカナ大公をつとめていたレオポルト1世(公位1765-1790)がレオポルト2世として兄ヨーゼフ2世のあとを受けて即位した(位1790-92)。ヨーゼフ2世は墓碑銘を"善良な意志であるにもかかわらず何事にも成功しなかった人ここに眠る"と自ら選び、ウィーンのザンクト=シュテファン大聖堂に葬られた。
レオポルト2世が即位した時は、すでに隣国フランスで革命が勃発しており(フランス革命。1789)、実妹マリ=アントワネットに対する危惧もあったため、結果外政に追われて兄の啓蒙絶対主義的改革は骨抜きになった。あろう事かかつての敵プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム2世と手を結び、市民力によって王政を廃止しようとしているフランスに対して、共同警告(ピルニッツ宣言。1791.8)を発し、これが革命戦争へとつながることになろうとは、マリア=テレジア、フリードリヒ大王も生前には考えもしないことだったであろう。
前回ラストでお話しした、"あり得もしなかった"事件とは、マリア=テレジアの外交革命のことです。ハプスブルク家とブルボン朝という宿敵同士が手を結ぶという、予想外の展開になりました。もし、外交革命がなかったなら、マリ=アントワネットはフランスに嫁ぐことなく、またフランス革命で悲惨な結末を迎えることもなかったでしょう。
マリア=テレジアはベーメンやハンガリーでは国王の経歴がありますが、神聖ローマ皇帝としての戴冠は受けておらず、実際は"女帝"としての帝位はないと解釈される場合がありますが、オーストリア継承戦争が勃発した1740年から夫のフランツ1世が即位する45年までの間、神聖ローマ皇帝ととる場合があったり、帝位につかなくても、1740年以降、あるいはフランツ1世即位以降、没するまで"女帝"として見られる場合があります。実際当時のドイツ国民から見た目には、影の薄かったフランツ1世や、即位時のヨーゼフ2世よりも大いに目立って実力を発揮したマリアの存在が大きかったのでしょうね。"女帝"と言われるのも頷けます。また少女時代のマリア=テレジアの肖像画があるのですが、これを見ると、その頃から周囲を惹き付けるような、知的かつ魅力的な女性だった印象を受けますね。
さて、今回はオーストリアとプロイセンが初めて面と向かって戦うことになった、オーストリア継承戦争と七年戦争についてご紹介しました。大学受験でも頻繁に登場する分野です。係争の舞台となったシュレジエン州は、現在ポーランド共和国のシロンスクのことで、ポーランドの大工業中心地として栄えています。オーストリア継承戦争は、マリア=テレジアのハプスブルク家領相続と次期皇帝即位に反対して、プロイセンのフリードリヒ大王(受験生は"フリードリヒ2世"と覚えてください。前回も申しましたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とは別の人です)がシュレジエン州を占領した戦いです。これを取り返そうと、オーストリアのマリア=テレジアが外交革命でフランスと手を結んでまでして、プロイセンを倒そうとしたのが七年戦争です。結果はシュレジエン州はプロイセンの領有となり、マリア=テレジアの努力も報われませんでした。
では、今回の学習ポイントです。まずはオーストリア継承戦争から。勃発の1740年、終戦の1748年は覚えておきましょう。プロイセンについた国はフランス・スペイン・そしてザクセンとバイエルンの選帝侯たちです。一方オーストリアはイギリスと組んでいました。講和はアーヘンの和約です。これも大事です。続く七年戦争も勃発の1756年、終戦の1763年(7年後だから勃発年にプラス7したらいいです)はオーストリア継承戦争以上に重要です。オーストリアは外交革命によりフランスとロシアと手を組み、プロイセンはイギリスと組みましたが、実際ヨーロッパ大陸ではプロイセンは孤軍奮闘でした。講和はフベルトゥスブルク条約です。
そして、英仏植民地戦争も連動しました。今回は新大陸に加えて、インド大陸においても戦争が展開されたことに注目です。オーストリア継承戦争期には新大陸でジョージ王戦争、インド大陸で第1次カルナータカ戦争が起こりました。七年戦争期には新大陸でフレンチ=インディアン戦争、インド大陸では北方にはプラッシーの戦い、南方では第3次カルナータカ戦争がありました。結局イギリスが勝利を収めたかたちとなり、フランスは植民地経営から一歩後退しました。講和は1763年のパリ条約です。本編でもあったとおり、カナダやミシシッピ以東のルイジアナがイギリス領になり、ミシシッピ以西のルイジアナはスペイン領になります。セネガル、ドミニカの行く先も知っておきましょう。なお、イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認した1783年のパリ条約も大事です。探検家がルイ14世に捧げ、彼の名に因んで命名したルイジアナがイギリスやスペイン、果てはアメリカへと渡っていくのですね。
あと、啓蒙専制君主という名は重要です。フリードリヒ2世、マリア=テレジア、ヨーゼフ2世、エカチェリーナ2世の4人が挙げられます。特にヴォルテールの影響を受けたフリードリヒ2世の"君主は国家第一の僕"という言葉や、上からの改革を行って、すべて失敗したヨーゼフ2世など、君主によって覚えるところはたくさんあります。彼らの政策内容は入試出題率が高いのでお気を付け下さい。
さて、次回のシリーズ3話目は、遂にハプスブルク=ロートリンゲン家の本当の正念場がやって来ます。神聖ローマ帝国も絶体絶命の危機に瀕します。プロイセンからは、鉄血宰相ビスマルクも登場します。詳細は次のシリーズ最終回にて。