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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第14話


フランス革命(PART.1 革命勃発)

 太陽王ルイ14世(位1643~1715)はオランダ侵略戦争(1672~78)やスペイン継承戦争(1701~13)などを起こすも、イギリスなどの干渉で失敗に終わり、結局多額の戦費を消費したに過ぎなかった。また絶対王政の強化によりナントの勅令の廃止(1685)を断行したため、約30万のユグノー商工業者が大量に国外へ亡命し、国内産業は大打撃となった(ナントの勅令やユグノーについてはVol.7 3人のアンリとヴァロワ朝の断絶を参照して下さい。)。財政は悪化の傾向をたどり、次のルイ15世(位1715~74)時代も愛人ポンパドール(1721~64)をはじめとする宮廷浪費は途絶えず、経済面・政治面・外交面において、絶対王政は末期的症状となっていった。

 この頃のフランスの市民社会はアンシャン=レジーム(旧制度)という身分制社会だった。絶対君主を初めとする僧侶(聖職者)を第一身分、貴族を第二身分、そして平民(農民・市民)を第三身分と呼び、第一身分と第二身分を総称して特権身分と呼んだ。特権身分の階級は全人口2500万の3%足らずだが、過半の領土・領民を支配し、免税特権があった。また農民に対して生産物地代・労働地代(賦役)などの封建的貢租(いわゆる年貢)を徴収する特権も持ち、まさに封建的特権であった。一方の第三身分は、ブルジョワジーと呼ばれる富裕市民もいたが、ブルジョワジー以外の多くは重税・重労働の毎日であり、しかも参政権を持たない下層市民で、彼らはサンキュロット(貴族・ブルジョワがはく半ズボンを穿かない者の意)とも呼ばれた。中でも全人口の大部分を占める農民は、領主支配下の隷属した貧農ばかりであった。

 おりしも、アメリカは独立戦争の最中で、フランスは資金を援助しなければならない事情から、財政はさらなる危機に瀕した。国王ルイ16世(位1774~92)は財政の建て直しとして、宮廷内の雑費節約をはかったが、妃マリ=アントワネット(1755~93。オーストリア大公ならびに神聖ローマ皇帝であるマリア=テレジアの娘)や貴族達に反対されたため、テュルゴー(1727~81。重農主義経済学者)やネッケル(1732~1804。銀行家。『デルフィーヌ』で知られる文学者スタール夫人は彼の娘。)らを財務総監に任命して財政改革を試みた。改革というのは、特権身分の免税特権をなくすことだったが、特権身分からあっさりと拒否された。さらに特権身分達は、国王の絶対権をおさえるため、1614年以来開かれていなかった身分制議会(三部会)の召集を要求し、第三身分も賛同した。国王は絶対王政を守るために三部会の要求を認め、ヴェルサイユで開催されることとなった。開催までに、議員の選出を行ったが、特に第三身分では、アベ=シェイエス(1748~1836。神父)の作成したパンフレット『第三身分とは何か』で、"第三身分がすべてだ"と主張するなど、激しい宣伝を行った。結果、第一身分300名、第二身分300名、第三身分は約600名、計1200名が選ばれた。第三身分には、聖職者出身でありながら第一身分を離脱して選出されたアベ=シェイエスや、伯爵出身でありながら第二身分を離脱して選出されたミラボー(1749~91)なども含まれた。そして、1789年5月5日に三部会は開催された。

 会議ははじめから身分別議決方法をめぐって対立し、進行しなかった。というのも、特権身分(つまり第一・第二身分)は従来通りの身分別の議決を主張し、第三身分は一人一票の個人票決を主張したためで、身分別だと、特権身分:第三身分=2:1になるが、個人票決では両方がほぼ同数となり、また特権身分のなかでは第三身分に同調する人もいたため、圧倒的に第三身分が有利だったのである。議会は約40日間も妥協策を探したがまとまらず、6月、第三身分は遂に思い切った行動に出ることになる。

 1789年6月17日、第三身分議員は、三部会より分離し、新議会結成を宣言した。19日には多くの第一身分議員と、一部の第二身分議員が合流を決め、第三身分は真に国民を代表するものであると主張し、「国民議会(1789.6.17~1791.9)」を称して、"憲法が制定されるまでは解散しない(=つまりのちの1791年憲法制定まで)"ことを誓った。議会場は国王に認められず、宮殿のテニスコートで誓ったため、この宣言は「球戯場(テニスコート)の誓い」と呼ばれる。6月27日、王は国民議会を認め、これにより7月9日、国民は国民議会を憲法制定国民議会憲法制定議会)と改称して憲法制定に着手した。

 これにより、国王ルイ16世は第二身分の中で国民議会に賛同しなかった保守派の貴族達ににらまれてしまった。国王は、側近の保守派貴族達に対する信用回復のため、ヴェルサイユに軍隊を集め、議会承認から武力で国民議会を弾圧することに転向し、さらに国民に人気のあったネッケルを罷免した(7月11日)。当時のパリでは、凶作でパンの物価高騰に苦しみ、さらにヴェルサイユに軍隊登場という圧力から威嚇を感じて騒動が起こり、パリの盛り場パレ=ロワイヤル界隈では、市民の武装化が呼びかけられた。こうして市民軍が組織され、7月14日、市民軍は暴動を起こして廃兵院で武器を略奪し、また武器・弾薬の確保を求めて、当時圧政の象徴と呼ばれて、武器・弾薬があると思われていたバスティーユ牢獄を襲撃した。革命の火蓋はきって落とされたのである(革命勃発。この7月14日は、現在のフランスの建国記念日、いわゆるパリ祭となった。)。バスティーユ牢獄は14世紀に建てられた城塞で、17世紀から監獄として使用された。囚人の数は少なく、主に貴族やブルジョワが投獄されて、監獄生活は快適だったという。経費節減からネッケルにより取り壊しも決定していたが、ネッケル罷免によって取り壊しはまだ行われていなかった。

 市民軍はバスティーユを占拠して、7人の囚人を解放し、パリ市長やバスティーユ司令官らを攻撃、殺害した。さらに事件の影響は農村にまで波及した。事件は貴族の陰謀であるとの噂もあったことから、農民は一揆を起こし、貴族領主の館などが襲撃され、保守派貴族の中には国外へ亡命する者も出はじめた。やがて農民一揆はフランス中に広まり(「大恐怖」)、国民議会は脅威に感じて事態収拾に着手した。暴動は熱狂的な過熱ぶりであったため、収拾にあせったが、8月4日、自由主義派貴族ノアイユ子爵らの提案「封建的特権廃止」を可決し、宣言したことで、農民暴動は徐々にしずまっていった。これは領主裁判権といった封建的人身支配や、教会の十分の一税などを無償で廃止したものであったが、封建地代などの封建的貢租の廃止は有償の条件だったため、農民が自立するためには多額の支払いが生じ、課題が残された。

 自由と平等の原理をかかげたアメリカ独立宣言やルソー(1712~78)の思想に刺激を受けた国民議会は、「人権宣言」の起草に取りかかった。独立戦争(サラトガの戦い)にも参加したことのある自由主義派貴族のラファイエット(1757~1834)らの起草で、同年8月26日、「人権宣言(「人間と市民の権利の宣言」。17条。)」が誕生、採択された。革命の基本原理となったこの宣言は、人間の自由と平等、国民主権、法の支配、権力分立、そして私有財産の不可侵などが挙げられた。

 しかし、国王ルイ16世は、この宣言を認めようとはせず、議会弾圧を企図した。重ねて凶作による食糧事情が悪化傾向をたどっていたパリでは、パンなどの食糧価格高騰は以前続いた。政情不安から穀物がパリに搬入されなくなり、市民の怒りは頂点に達した。遂に10月5日、婦人を先頭に数千人のパリ市民が雨の中20kmを行進し、ヴェルサイユ宮殿に乱入、翌6日、国王一家をパリへ連行した(ヴェルサイユ行進十月事件)。国民議会もヴェルサイユからパリへ移り、政局の中心はパリとなる。


 以前からフランス革命は行いたいと思っていたのですが、内容の長さや奥の深さをみると、これは大規模な作業になると予想したので、この場に登場させるのには少々控え気味でした。でも分割して出せばいいのだと思えば、一瞬に気が楽になりました。

 さて、本編からもわかるように、アメリカ独立戦争(1775)の影響を受けてフランス革命(1789)は起こりました。時代順の並び替えなどでよく出題されますので注意しましょう。ちなみにイギリスの市民革命としては清教徒革命(1642。ピューリタン革命)や名誉革命(1688)が有名ですが、これは17世紀の話。

 ポイントを幾つか紹介しておきましょう。フランス革命は数多くの人物が登場しますが、有名どころ(ルイ16世やマリ=アントワネットなど)は大丈夫かと思いますが、受験世界史となると、テュルゴーネッケルラファイエットミラボーアベ=シェイエスなども踏まえた方がいいかと思います(次編もたくさん登場します)。また、このメンバーの肩書き(例えばシェイエスは神父とか、ネッケルは財政家とか)も知っておくと便利です。

 1614年以来開かれなかった三部会が1789年に再び開かれたわけですが、1614年に召集したのはルイ13世(位1610~43)の時です。ちなみに召集停止(1615)を行ったのもルイ13世の時です。ちなみに初めて三部会を開催したのは1302年で、カペー朝時代(987~1328)のフィリップ4世(位1285~1314)の時です。一方イギリスの身分制議会はそれよりも早く、1295年にプランタジネット朝(1154~1399)のエドワード1世(位1272~1307)が開いた模範議会(Model Parliament)が最初です。身分制議会は、この模範議会が最初です。

 フランス革命はほぼ日記のごとく日単位で歴史がめまぐるしく変わっていきます。本編は革命の年1789年から時間は"月日"が動いて、"年"は動いていませんね。それだけ奥が深いのであります。まず、国民議会が結成された6月17日、バスティーユ牢獄を襲撃した7月14日、封建的特権の廃止宣言が出された8月4日、人権宣言が採択された8月26日、ヴェルサイユ行進が起こった10月5日は知っておいた方がいいですね。無理なら、月だけでも、それも無理なら事件の起こった順番だけでも覚えておきましょう。 あと、フランス人権宣言には私有財産の不可侵がかかげられていました。これはアメリカ独立宣言にはない項目なのですね。

 さて、この後、国王ルイ16世がある行動をとったことで、ブルボン王家はとてつもない運命を辿ることになります。また革命は他国との戦争をももたらし、だいぶ血生臭くなってまいります。続きは次回の「Vol.15 フランス革命(PART2)」でご紹介します。今回はこれにて。



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