学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。
高麗の興亡
10世紀の朝鮮半島。9世紀末期より半島の統一国家だった新羅(しらぎ。シルラ。356-935)も9世紀終わりには国内の地方豪族が台頭し、後百済(ごくだら。900-936)、後高句麗(ごこうくり。899-918)が新羅から独立し、三国を中心とする群雄割拠状態となった(後三国時代。892-936)。
高句麗(こうくり。コグリョ。B.C.37?-A.D.668)の復権を望んで後高句麗を建国した新羅王族出身の弓裔(きゅうえい。クンイェ。857?-918)は、北朝鮮南部に位置する都市松嶽(しょうがく)で強勢を誇っていた地方豪族・王氏(おう)を配下に入れ、松嶽を拠点として同国君主に立った(位901-918)。
905年弓裔は松嶽から鉄円(てつえん。現・北朝鮮中部の鉄原郡。てつげん)に遷都し、国号を"泰封"に改称したが、弓裔はこの頃から暴君の様相を呈し、自身を"弥勒菩薩"と配下に呼ばせ、自身に逆らう配下は容赦なく粛清した。このため部下のクーデタが秘密裏に計画され、918年、そのクーデタが勃発、弓裔は殺され、松嶽を改称した開城(かいじょう。ケソン)を都に、王氏の国家・高麗(こうらい。コリョ。918-1392)が誕生した。弓裔を失った後高句麗は滅亡した。
クーデタによって高麗の初代君主に立った王氏の王建(おうけん。ワンゴン。位918-943。太祖)は、935年、死に体と化していた新羅を吸収し、翌936年には後百済を滅ぼして、半島統一に成功し、後三国時代を終わらせた(高麗の半島統一。936)。
統一後、王建は3省・6官・9寺の中央官制を設置して中央集権体制を強化した。また地方においては、国内の混乱を抑えることに尽力し、新羅の王族や地方豪族を政権に参入させて、功績や貢献によって、府・州・郡・県に分けた各地方を彼らにそれぞれ治めさせた。そして王建は高句麗復活を理想としたことで、かつて高句麗の都であった平壌(へいじょう。ピョンヤン)の復興にも努め、ここを開城に次ぐ副都とし、領土を半島北西部方面へ拡張することに邁進した(王建の北進政策)。
対外関係では、モンゴル系民族・契丹(きったん)が、高麗誕生の2年前から国家・遼(りょう。916-1125)を建設し、北方を脅かしていた。926年、遼は渤海(ぼっかい。698-926)を滅ぼしたため、国をなくした渤海遺民を王建は優遇的に受け入れ、北西部の版図を拡げた。これにより北進政策は進展した。王建は、高句麗遺民によってつくられた渤海を滅ぼした契丹族に強い怨念を抱き、決して遼と外交を結ぼうとは思わなかった。王建の晩年、遼は高麗に遣使するが(942)、王建はこの使節30数名をに配流を下し、契丹から届けられた数十頭のラクダを橋にぶら下げて餓死させたのであった。こうして高麗と契丹・遼は激しい宿敵同士となった。
さらに高麗は中国(この時代は五代十国時代。907-960)から冊封(さくほう。中国皇帝に朝貢の使節を送り、中国からは王や諸侯といった官名を授与されることで中国と君臣関係を結ぶこと)を受けることにより関係を維持した。ただ日本とは2度の遣使もかなわず、国交は樹立されなかった。
王建は943年に死去、王建は近親婚を含め、実に30人以上の子に恵まれたとされる(そのうち25人が男子)。王建没後は子の王武(おうぶ。914-945)が第2代国王として継承した(恵宗。けいそう。位943-945)。しかし若くして没し、その後も王建の子が2代続いた。
この間、高麗の官僚制度も整い始め、中国の官制を参考に、現職官僚である文班(文官のこと)とその下の武班(武官のこと)の官僚機構が国家支配を担った。この2つの官僚を合わせたのが両班(ヤンバン)である。文班では第4代光宗(こうそう。位949-975)の時に導入された科挙制度によって採用され(958)、門閥貴族(上級官僚を世襲的に出す家柄)の体系を形成していった。武班も世襲されたが、軍団のなかから選ばれたりもした。しかし武班は文班よりも地位が低く、その後も文班支配の強権化がすすみ、武班に不満をもたらした。
1009年、クーデタで第7代高麗王穆宗(ぼくそう。位997-1009)が殺害され、宮廷が混乱したことに乗じて、契丹の侵攻を招いた(1010)。これ以来10年にわたり高麗は契丹との交戦が展開されたが、1020年に終戦、講和を結び和平が成立した。その後は中国東北地方を原住とするツングース系の女真族(じょしん)が契丹に代わって台頭した。高麗では北方に隣接する民族として警戒し、"刀伊(とい)"の呼称を使っていた。そして1019年に日本の対馬・壱岐に上陸して島内を荒らし、多くの人命が失われた事件は"刀伊の入寇(といのにゅうこう)"として知られた(しかし"刀伊"の中に高麗人がいたとされ、女真族のみの行為ではないとする説がある)。
高麗は1107年に女真族の襲撃を招いた。女真族はその後、強力な国家・金(きん。1115-1234)を建国するわけで、1125年には契丹の遼を滅ぼし(遼滅亡。1125)、1127年には北宋(ほくそう。960-1279)の皇帝を連行する靖康の変(せいこうのへん)を起こして中国王朝・北宋を滅ぼすなど、中国大陸を脅かす存在となっていった。その間高麗は1126年に女真への朝貢を始めている。
12世紀後半になると、両班における問題が浮上した。第18代高麗王・毅宗(きそう。位1146-70)の時、武班がかなり冷遇され、政治腐敗も進行したため、武班の反発は最高潮に達した。1170年、武班の有力者たちは首都開城(当時名称は開京)を占領して毅宗を廃位させ配流、多くの文官を殺害した。そして毅宗の弟が明宗(めいそう。位1170-97)として擁立され、武班の政権を樹立した。これを庚寅の乱(こういんのらん)と呼ぶ。これをきっかけに両班では文武逆転が生じ、以後100年近く武班政権が続いた(武臣政権時代。1170-1268)。12世紀末には武班内における勢力争いが激化し、その中から崔氏(さいし)が台頭した。権力闘争にうち勝ったのは崔忠献(さいちゅうけん。1149-1219)という人物で、1197年明宗を廃位させ、代わって弟の神宗(しんそう。20代。位1197-1204)を擁立させる強硬策に出、反対派を粛清して独裁支配体制を固めていった。崔忠献の私邸において政府"政房(都房)"が設けられ、武班・文班問わず私邸に仕えさせた。崔忠献没後も3代崔氏政権が続き、武臣政権の黄金時代を築いた(崔氏政権時代。1197-1258)。
1213年、第23代高麗王の高宗(こうそう。位1213-59)が即位した。依然として崔氏の武臣政権が続いた1218年、モンゴル高原に君臨するモンゴル帝国(1206-1271/1388。1271年は帝国分裂年。1388年はハン位が消滅した年)との接近があった。翌1219年、高麗はチンギス=ハン(位1206-27)が統治するモンゴル帝国とともに、契丹の、既に滅んだ西遼(せいりょう。カラ=キタイ。黒契丹。1132-1211)の残存勢力を討ち滅ぼした。これにより両国間の和平は保たれるはずであったが、1225年モンゴル帝国の使節が高麗領内の鴨緑江(おうりょくこう。現・中国と北朝鮮の国境を流れる河川)で殺害される事件がおこり、国交は断絶した。これにより、1231年以降、数度にわたって、モンゴル軍の高麗侵攻がたびたび引き起こされ、高麗軍は各地で苦戦を強いられた。
この際、高宗は1232年、開城から江華島(カンファド。こうかとう。現ソウル市北西の島)遷都を決断した。そして崔氏は自身の私兵団・三別抄(さんべつしょう。別抄とは臨時編成の精鋭部隊を意味する)を使用することを決め、モンゴル軍に対して徹底抗戦した。1258年、高宗が皇太子を人質として差し出すことによって決着が付き、翌1259年、高麗はモンゴルに降伏、モンゴルの属国となった。その後モンゴル帝国は1271年に帝国分裂するが、中国大陸は世祖フビライ=ハン(クビライ。中国皇帝位1271-94。モンゴル皇帝位1260-94)が握り、モンゴル帝国君主として征服王朝・元(げん。1271-1368)をおこし(後述)、依然として高麗を服属することになる。
高宗は1259年に没した。高宗の代まで、高麗の中では君主を"皇帝"の呼称で呼ばれていたが、モンゴルの服属となったことで、"皇帝"の呼称は禁止された(ただし服属前の高麗皇帝は冊封により、中国に対して"国王"の呼称で通していた。"高麗皇帝"はあくまでも国内においての呼称であった)。また1236年のモンゴルの侵攻時、版木(はんぎ)に刻まれた経典が大邱(テグ)の寺院に納められていたが戦災にあい焼失したため、高宗の命で大蔵経(経典の"経"、戒律の"律"、そして論書の"論"の"三蔵"とその文献を加えて編纂されたもの)の復刻に取りかかった。復刻には15年費やしたと言われ、白樺の材木を各地から運び込んでつくられた。こうして81,258枚の版木『高麗版大蔵経(八万大蔵経)』が完成したのである。
高宗没後、武班では親モンゴル派によって崔氏政権も没落、人質にされていた皇太子は高麗に戻り、元宗(げんそう。位1259-74)として即位した。その後は元宗によるモンゴル服従体制となった。中国が元朝としての形勢が固まり、高麗への支配力がより強まると、高麗では親モンゴル派と反モンゴル派の対立が激化し、反モンゴル派からは武臣・林衍(りんえん。?-1270)が出て、1268年から翌69年にかけて親モンゴル政権転覆と元宗廃位のクーデタをおこし、元宗の弟を擁立したが、モンゴルの干渉によって失敗した。これによって武臣政権時代は終焉を迎え、両班は文武逆転となって再び武班が文班の配下に置かれることになった。
1271年、元朝・フビライ=ハン政権が樹立されると、高麗の元宗は江華島から開城に戻り(実質的な首都復帰は1291年)、親モンゴル派による常備軍の編制に取り組んだ。しかし、軍を編制するにあたり、どうしても避けては通れぬ懸案事項があった。それは、反モンゴル派の軍隊である。それは、崔氏政権の私兵団に端を発し、その後正規の国家的軍事組織として発展、モンゴルの高麗侵攻で勇猛に戦った、三別抄の存在である。
三別抄は夜間の巡察用である夜別抄(やべつしょう)があり、左隊(左夜別抄)と右隊(右夜別抄)に分けられていた。この2部隊に加え、モンゴル軍と戦い敗れて捕虜となり、脱出に成功した兵士を中心に編成された神義別抄(しんぎべつしょう)を加えて三別抄と呼ばれた。崔氏政権の黄金時代と共に三別抄も発展を遂げ、国家の正規軍としても活躍した軍事組織である。しかし彼らも出陣した前述の林衍のクーデタも失敗に終わり、武班は文班の配下に再び置かれ、かつての栄光も消え失せていた。彼らにとって最後の手段は、三別抄による軍閥政権を樹立することであった。
しかし高麗王・元宗は三別抄が存在する限り反モンゴル派は消えないと考え、1270年、三別抄の解散を命じた。三別抄はこれを拒否して高宗の又従兄弟(王温。おうおん。?-1271)を擁立して江華島へ逃げ込み、さらに西南の珍島(ちんとう。チンド)へ拠点を移して抵抗した。
この時、元朝のフビライ=ハンは日本遠征(いわゆる元寇。文永・弘安の役。1274・1281)を考えていた。しかし三別抄が日本への侵略路に立ちはだかる障害であり、日本にも救援を求めようとした経緯もあるために(1271。これは実現には至らなかった)、日本遠征よりもまず先に片付けなければならなかった。
元宗はモンゴルと連合軍を結成して珍島へ攻撃を開始した。珍島は瞬く間に陥落し、王温とその息子は捕らえられ殺害された(1271)。しかし三別抄のリーダーであった人物・金通精(きんつうせい。?-1273)は耽羅(たんら。現・済州島。さいしゅうとう。チェジュド)に再度拠点を移し、必死に抵抗したがついに力尽き、耽羅も陥落、金通精は自殺して三別抄は完全に壊滅した(1273)。この一連の反乱を"三別抄の乱"という。この乱はフビライによる日本遠征を大きく遅れさせる原因にもなったといわれた事件であった。
高麗はその後もモンゴルの属国として支配された。朝鮮本土に派遣されたモンゴル人監察官(これをダルガチという。達魯花赤)が各地にその目を光らせた。また元宗没後の宮中においても、王族は元朝の宮廷警護"ケシク"として、モンゴル皇帝側近として使えることになり、ケシクとして仕えた王族はその後高麗王となるのが通例となった。
14世紀、高麗王は第31代王として武宗(ぶそう。恭愍王。きょうびんおう。位1351-1374)が即位した。武宗が即位した1351年は、元朝が滅ぶ原因をつくった紅巾の乱(こうきん。1351-66)の勃発年でもあった(元は1368年に滅び、モンゴル高原に逃れ北元として残る。ほくげん。1368-88)。また倭寇(わこう)も頻発して大陸および朝鮮半島は混乱状態となった。また江南から明(みん。1368-1644)が台頭すると、高麗では元朝支持勢力と不支持勢力に分かれ、不支持側の武宗は1356年に元朝と国交を断った。これにより高麗はモンゴル支配から解放され、領土も一部回復した。さらに武宗は明朝成立とともに明朝支持を唱え、1370年から明朝へ朝貢を決めた。しかしこの決断によって元朝支持勢力から睨まれ、国内では明朝派と元朝派の抗争が展開された。武宗も元朝派の宦官に殺害されるなど、抗争の発展は国力を著しく衰退させていった。
武宗は元朝と断交した際、失地領土回復に向けて全州李氏(り)の協力を得た。全州(チョンジュ。ぜんしゅう。現韓国南西部の都市)を本貫地(祖先発祥地)とした豪族であり、咸鏡南道(ハムギョンなんどう。現・北朝鮮北東部)の南部に位置する永興郡(えいこう。ヨンフン。現・金野郡。クミャ)を出身としていた。李子春(りししゅん。イ・ジャチュン。1315-61)という人物、およびその子李成桂(りせいけい。イ・ソンゲ)である。1361年に父李子春を亡くし、全州李氏を背負う形となった李成桂は、高麗の武将として倭寇や紅巾軍の撃退に軍功を挙げ、たちまち注目を集めた。
武宗没後は親元政権が続くが、明朝が1381年に中国統一を果たし、1388年には北元のフビライの皇統が断絶したことで滅亡に至ったのを受けて、明朝は高麗に対して、以前元朝が支配した高麗の領土を返還するよう迫った。高麗王第32代荘宗(そうそう。王禑。おうう。位1374-1388)は明朝の遼東地方への進軍を決めて李成桂に指揮させた。
同1388年5月遼東討伐軍を引き連れた李成桂は鴨緑江下流の中州・威化島(いかとう。ウィファド)にたどり着くが、鴨緑江が雨で増水しており、渡河が難しい状態にあった。物資・食糧不足により逃亡兵も続出、討伐軍の戦意は薄れていった。もはや大国・明朝に向かって進軍するような状況ではなく、李成桂も出征前からこの遠征を無謀として批判していた。
さらに荘宗はもともと明相手に勝算のない無駄な討伐であることも熟知しており、ふくれすぎた軍の削減を目的としただけにすぎなかったのである。このため李成桂の遼東遠征反対の言い分など聞くはずもなく、端から無視していたのであった。李成桂は荘宗に撤兵を要求したが、家族を王宮に閉じこめられていたため(つまり人質)、これを条件に撤兵は認められなかった。
李成桂は王の言葉を無視し、威化島から軍を引き返し、開城を占領して家族を連れ出すことを決めた。これに同情した民衆や逃げた兵士が李成桂に集まり、6月1日に開城に到着した。そして荘宗を廃位、7歳になる子の原宗(げんそう。位1388-89)を擁立させてクーデタを成功させた(このクーデタを威化島回軍という)。翌1389年に原宗も王位継承を不当として李成桂によってこれを廃位させられ、原宗は父である荘宗とともに処刑された。直後、李成桂の推薦で神宗の末裔にあたる恭譲王(きょうじょうおう。純宗。じゅんそう。第34代。位1389-92)を擁立した。完全に李成桂の傀儡王であった。
1392年、純宗はその後禅譲によって王位を李成桂に譲り、その後李成桂によって家族もろとも処刑された。これにより王建に始まった王一族の国家・高麗は滅亡し(高麗滅亡。1392)、李成桂の国家・李氏朝鮮(りしちょうせん。1392-1910。1897より大韓帝国)が誕生することになる。朝鮮半島に栄えた高麗における474年の歴史は、李氏朝鮮へと受け継がれていくのであった。
前回のアイルランドから一転して、今回は高麗王朝です。王建の王朝創始から李成桂登場までいっきに紹介いたしました。韓流時代劇が日本のお茶の間でも広く知られるようになったせいで、高麗史が非常にドラマチックかつエキゾチックに展開していくような気がしました。特に李成桂の威化島回軍などは、全く状況は違えども、生まれ故郷に進撃する様はまさに高麗版"賽は投げられた"のような印象も合わせ持っている感じがしますが、どうでしょう?
さて、受験世界史における学習ポイントを見てまいりましょう。918年建国、936年統一(ややこしいのなら、10世紀前半に建てられたと思って下さい)、1392年滅亡(つまり李氏朝鮮の建国年でもあります)、創始者王建(太祖)、首都開城、両班体制、元朝の属国は非常によく出題される用語です。また用語集に載っておりますが、王建が目指した中央主権体制として、中国に倣って導入した三省六官(九寺)と地方郡県制はまれに登場することがありますので注意しましょう。また高宗の時代につくられたとされる「高麗版大蔵経」は資料集で現物を見てもらえれば分かると思いますが、8万枚の版木とは気の遠くなるような量です。制作者の血と汗が染みついている仏教界の大いなる財産です。これも覚えておきましょう。
人名は王建と李成桂、王朝の最初と最後に登場する2人だけで良いかと思います。崔氏政権に登場する崔忠献や(崔氏政権は用語集にも登場します)、本編に登場した王建以外の高麗王はあまり出題されません。
事件としてはあのモンゴルの日本遠征(元寇)を遅らせた事件として有名な三別抄の乱が高麗史では目玉ですかね。でもどちらかといえば受験世界史でもマイナー事項です。余裕があれば知っておきましょう。13世紀後半の出来事で、済州島が三別抄の最終拠点であることにも注目です。
文化では、高麗では活字印刷法が登場したことでも有名です。出題率が高く、非常に大事です。荘宗の時代に現存する世界最古の金属活字印刷が為されたらしいのですが、それよりも140年近く前、つまり高宗時代にも金属活字があったとされる説もあり、真偽はわかりませんが、高麗の金属活字は世界で最も古いといわれていることに注意しておきましょう。また"象嵌技法(ぞうがん。陶磁器に模様を刻み、他の材料をはめ込む技法)"を用いて12世紀に大いに盛り上がった陶磁器"高麗青磁"や、首都開城の名産物である薬用植物"高麗人参(オタネニンジン)"はある意味受験とは無関係に知っておいても良いと思います。
あと、用語集にも載っていないにもかかわらず、細かいアジア史を出題するような難関私大などでは、両班階級などに対して田地と柴地が国から支給される田柴科制度(でんさいか)なども出るかもしれません。ちなみに田地は田畑、柴地は燃料などに使う柴(しば)を栽培する農地をいいます。本編も出てきませんでしたが、ハイレベル入試には必要かも。
さて、「世界史の目」はしばらく更新をお休みいたします。かならず更新いたしますので、それまでしばらくお待ち下さい。受験生はもう一踏ん張りです。必ず栄光を勝ち取って下さい。ではまた!
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。王禑。(おうウ。ウのへんは「示」あるいは「ネ」、つくりは禺)。