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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第192話


反抗と孤立

 1854年10月20日、フランス東北部のシャルルヴィル(アルデンヌ県)で、陸軍大尉の家に一つの生命が誕生した。その生命こそ、後の世にその名を轟かせることになる天才詩人、ジャン=ニコラ=アルチュール=ランボー(1854-1891)である。父フレデリック=ランボー(1814-1878。軍人)、母マリー=カトリーヌ=ヴィタリー=キュイフ(1825-1907。小地主の娘)、兄ジャン=ニコラ=フレデリック(1853-1911)の家族だった。

 母キュイフは厳格で狂信的なカトリック教徒である一方、父フレデリックは外出が多く家を空けることが多かったとされる。結局ランボーが6歳の時、両親は性格不一致を理由に別居することになり、ランボーは母キュイフに引き取られ、非常に厳しく育てられた。学業においても、幼時から"早熟の天才"の異名にふさわしく優等ぶりを発揮した。

 ランボーの幼少期(1850年代後半から60年代前半)、ヨーロッパでは情勢の変化がめまぐるしく動いていた。1861年ではイタリア王国が誕生し(1861-1946)、ロシアでは同年農奴解放令が出された。1862年になると東方のプロイセンにおいて、オットー=フォン=ビスマルク(1815-98。プロイセン首相任1862-90)が首相に就任、いわゆる「"鉄"と"血"」を演説して国内における軍備拡張を訴えた(鉄血政策)。また翌1863年のポーランドでは、当時の分裂状態からの脱却と、支配下からの独立をはかった運動が活発と化した(ポーランド1月蜂起。対露独立運動。1863.1.22-64.4.11)。ランボーの母国フランスでは、ブルジョワ支配に対抗した小農民層やカトリック勢力に指示されたナポレオン3世(帝位1852-70)の第二帝政(1852-70)のまっただ中であり、皇帝による言論・労働の厳しい統制下であった。しかし1860年の英仏通商条約締結による自由貿易政策と、翌1861年に始まったメキシコ出兵後(結局失敗して撤退)は権威主義から自由主義への転換がをもたらされ、絶対的帝政の体制が少しずつ揺らぎ始めていた時期でもあった。
 このような国際情勢下で、ランボーの学業は1864年、10歳のランボーは自身の宿題帖において"金利生活者"の願望を記したが、それは勉強呪詛と労働拒否をあらわしたものであった。

 1869年1月、15歳のランボーはラテン語詩『生徒の夢想』、6月には『天使と子供』をそれぞれ発表、『ドゥエ=アカデミー会報』に掲載され、8月『ユグルタ』でドゥエ=アカデミーのコンクールで第一等を受賞し、ランボーの名が大いに知られることになる。
 翌1870年はランボーが初めて発表したフランス語詩『遺児たちのお年玉』を発表した年であったが、この頃に出会った、ランボーが履修する修辞学(レトリック。弁論術)に赴任した当時21歳のジョルジュ=イザンバール(1848-1931)という人物は、彼の才能に注目するようになり、彼を直接指導し、5月、高踏派詩人のテオドール=バンヴィル(1823-91)の詩集を貸し出させた。バンヴィルの詩に刺激を受けたランボーは、ステファヌ=マラルメ(1842-98)、ポール=ヴェルレーヌ(1844-96)ら、当時高踏派で知られる作家たちの作品が掲載された『現代高踏派詩集』への掲載を夢見て、パリにいるバンヴィル宛に自作の詩(「感覚」「オフェリヤ」など数編)を収めた手紙を送ったが、掲載されなかった。

 その後に普仏戦争(プロイセン-フランス戦争。1870.7-1871.2)が勃発した。翌8月、ランボーはバンヴィルに会うべく、家出同然でパリへと向かった。ランボーの人生における初めての家出であった。しかし無賃乗車を犯したためパリ北駅で逮捕され、留置された。同年9月、ランボーは留置所でフランスの敗戦と帝政の崩壊を知った。
 同月、イザンバールの尽力で釈放され、家に帰されたランボーであったが、翌1871年3月まで母に反抗しながら三度の家出をおこし、パリやベルギーを放浪した。同年同月、パリ=コミューン(1871.3)がおこり、コミューン軍と、プロイセンの支援を受けた政府軍との激しい戦闘が行われた。この間ランボーは地元シャルルヴィルにいたが、コミューンの誕生に興奮した17歳のランボーは学校復学を拒絶して、4月に四度目の家出を起こし、混乱するパリへ向かった。
 パリ=コミューンはその後"血の一週間"と呼ばれる政府軍の大虐殺によって陥落し(1871.5.28)、抵抗は終わった。ランボーはコミューンの数百万人の支持者が次々と殺され、コミューン政府が陥落していく有様を見て、大いに落胆したとされる。

 "血の一週間"がおこる前、ランボーは友人であり詩人であるポール=ドメニー(1844-1917)や恩師イザンバール宛に書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」を送った。見者とは"予言・予見する者"あるいは"未知を占う者"の意味であるが、ランボーによれば、詩人は"見者"たらしめねばならないとし、"詩人は自分自身を全的に認識し、あらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理に適った壊乱を通じて見者となる"と力説した。この世の最初の"見者"をシャルル=ボードレール(1821-67)であるとし、詩人たちの最高峰に立つ、本当の神的存在であると主張した。

 1871年9月、ランボーはパリにいる高踏派詩人ヴェルレーヌに自身の作品と書簡を送った。ヴェルレーヌはランボーの作品に感激し、パリへ彼を招くことを決め、直後にその内容を返信した。この時ヴェルレーヌは結婚1年目で、翌10月には長男が誕生した。
 ランボーはパリに入った時、完成したばかりの作品『酔いどれ船(酩酊船)』を携え、ヴェルレーヌと対面した。ヴェルレーヌはパリの文学界でランボーを紹介、激励と賞賛を周囲に示したが、肝心のランボーは周囲の前でも粗暴・傲慢・無礼・猥褻な言動を繰り返していたため、周囲からは完全に孤立し、ヴェルレーヌだけに認められている状況であった。しかもヴェルレーヌの家族は、ランボーをここまで入れ込むヴェルレーヌに覚醒させようとするも、ヴェルレーヌはこれを解せず、妻に暴力をふるうなど家庭崩壊につながっていった。1872年2月になると離婚問題に発展したため、ランボーはパリを離れ、シャルルヴィルに戻った。

 家族を捨てたヴェルレーヌはランボーに手紙を送り、再度彼をパリに招いた。そして今度は2人で家出をおこない、1872年後半はブリュッセルやロンドンを放浪した。年末、母の命令によりランボーのみシャルルヴィルに帰郷したが、翌1873年1月、ロンドンでヴェルレーヌがインフルエンザにかかり、自身の妻とランボーに"瀕死"とつづった電報を打ったが、これを見てロンドンに駆けつけたのは妻ではなくランボーであった。5月、ランボーは自身の代表作となる『地獄の季節(地獄の一季節)』を書き始める。
 同月にロンドンに行ったランボーとヴェルレーヌであったが、ヴェルレーヌは妻との離婚問題で憔悴し、しかも両者の経済状態は悪化していたことで、両者間に少しずつ亀裂が生まれた。7月にランボーと激しい喧嘩をしたヴェルレーヌは、その後彼を置いてブリュッセルへ逃げ、妻との復縁を望むようになった。のちにブリュッセルに入ったランボーはヴェルレーヌと再会したが、ヴェルレーヌは妻との和解を邪魔させまいとランボーのパリ行きを止めようとしていた。しかしこれがまたしても両者間の激しい喧嘩となり、遂に事件は起こってしまった。

 1873年7月10日ヴェルレーヌは拳銃を取り出し、ランボーに向けて発砲した。弾丸は二発、うち一発はランボーの左手首に命中した。ランボーは身の危険を感じて警察に保護を求めたため、ヴェルレーヌは逮捕され、懲役2年の判決が下された。ヴェルレーヌは翌1874年4月に妻とも離婚の結末を迎えた。

 この事件後、ランボーは代表作『地獄の季節』を完成した。1874年3月には、ランボーは、自身のもう1つの代表作『イリュミナシオン(彩飾)』も手掛け、1875年1月に出所したヴェルレーヌとその後再会して、書き上げた『イリュミナシオン』の草稿をヴェルレーヌに手渡したとされている。しかし、破綻した二人の関係は修復されることはなく、二人は訣別した。ヴェルレーヌはその後足を患って病院を転々とし、また経済状態も改善されることはなく、1896年パリで没した。

 一方、ヴェルレーヌと別れたランボーは、21歳になった1875年を最後に詩作活動から退いた(友人宛て書簡の中に添えられた詩が、彼の最後の作品とされている)。文学界から退いたランボーは放浪を拡大し、その規模はジャワ島やアラビアにまで及んだ。その間オランダ植民地軍に入隊したり(その後脱走)、石切場の監督、通訳、貿易商など、さまざまな分野で活動を行った。『イリュミナシオン』がヴェルレーヌの手で発表された1886年、ランボーはエチオピア帝国(1270-1975)のシェワ王侯メネリク(後のメネリク2世。王位1889-1993)に接近して武器取引を行ったとされる。

 1891年2月、ランボーは右脚の骨肉腫が悪化したため、マルセイユのコンセプシオン病院で右脚を切断するも(5月)、癌は全身転移が進行、ランボーの体は次第に悪化の傾向をたどり、同年11月10日、妹に看取られながら同病院で37歳の若さで没した(ランボー死去)。

 内面の精神は"象徴"によって具象化された描写・表現でおこなわれる象徴主義の継承者として後世に知られたランボーは、自身の詩法の中で、言葉をするどく探求している様子がうかがえる。それは前述の友人ポール=ドメニー宛に送った書簡「見者(ヴォワイヤン)の手紙」の中で、言葉は匂い、音、色彩といったすべてを要約し、魂から魂へと進み、思考を掴んで引き寄せては引き出すものであり、それが可能な詩人は進歩を倍増させる乗数となると述べている。
 また同書簡にはランボーの有名な言葉である"Je suis un autre(私とは一つの他者である)"が添えられている。自身を"私"ととらえるのではなく、他者であることに重点を置き、詩に表したのである。反抗と孤立を携えた、当時17歳が放った独特の思想は、現代においてもなお、多くの人々に深い理解を与えている。

 詩作活動はきわめて短期間ながら、象徴派の代表的詩人として、文学界のみならず、多種多様の文化にも多大な影響を与えたという意味で、彼の存在は極めて重要であり、残した功績はあまりにも大きかったと言えるだろう。

参考文献:思潮社『ランボー詩集』鈴村和成訳編


 日本においても詩人中原中也(なかはらちゅうや。1907-37)らに強い影響を与えた、早熟の天才詩人、ランボーをご紹介しました。反抗と孤立、そして先輩詩人からの同性愛そして破綻、そして若すぎる死....波乱の人生を歩んだその文学活動歴はまさにドラマティックですが、一方で大いにカリスマ性を秘めた存在でもあります。

 前回でもお話しいたしましたが、19世紀の象徴主義文学は残念ながら受験世界史ではマイナー扱いで、あまり出題されない状況です。ですので今回の主人公であるランボーやヴェルレーヌはまず覚えなくてもいいと思います。ただランボーは用語集に記載されていますし、文化的に有名な人物ですので、名前だけでも知っておいた方が良いと思います。

 さて、今回の学習ポイントは、前回のお約束通り、19世紀のヨーロッパ美術を見てまいりましょう。

 まず美術部門です。18世紀末から19世紀初めにかけて、古代ギリシア・古代ローマを模範に、調和された形式的な美と格調の高さを重要視された絵画が発達します。おもに宮廷で描かれます。これが文学同様、古典主義とよばれるものです(古典主義絵画)。ナポレオン1世(帝位1804-14,15)の首席宮廷画家だったフランスのダヴィド(1748-1825)や、その弟子アングル(1780-1867)が有名です。受験ではダヴィドを知っておきましょう。
 文学同様、古典主義の反発でおこるのがロマン主義です(ロマン主義絵画)。幻想的で劇的な絵画が多いのがロマン派で、非常に有名なのが、ギリシア独立戦争(1821-29)を描いた『シオ(キオス島)の虐殺』や七月革命(1830)を描いた『民衆をみちびく自由の女神』を残したドラクロワ(1798ー1863)です。これはよく出題されます。
 ロマン派の反動で、理想よりも現実を重視し、ありのままの素朴な自然や生活風景が描かれます。自然主義絵画です。有名な画家は農民生活をテーマに『落穂拾い』・『晩鐘』を描いたミレー(1814-75)と、『マドリード 1808年5月3日』を描いたスペインの宮廷画家ゴヤ(1746-1828)の2人は覚えておいておきましょう(ゴヤは他に『巨人』や『我が子を食らうサトゥルヌス』など、カテゴライズしにくい作品もある)。
 自然主義絵画とともに現実性を重視したのが写実主義絵画です。七月王政(1830-48)、パリ=コミューン(1871.3)など、19世紀中頃における混乱のフランスでおこり、人間生活や自然が描かれます。代表的なのは、パリ=コミューンにも参加したクールベ(1819-77)です。他にはドーミエ(1808-79)など。

 19世紀後半には新しい流派、印象派絵画があらわれました。チューブ式絵の具が開発された時期と重なったこともあってか、戸外の太陽光線のもとで描かれたものが多くでましたので、色彩が鮮やかで光が強調された明るい絵画が多いです。写実主義絵画では人や物、風景などが正確に描かれますが、印象派にとなるとそこまで細かくは描かれてはおらず、絵のテーマを色や光で強調されるので、例えば光り物などでは、光る瞬間が描かれたり、光がやや大げさだったりします。ここではマネ(1832-83。「草上の昼食」)、モネ(1840-1926。「睡蓮」)、ルノワール(1841-1919。「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」などの女性画)の3人を覚えましょう。
 19世紀末になると、印象派が発達して画家それぞれの個性が発揮されます。これを後期印象派(ポスト印象派)と呼びます。セザンヌ(1839-1906)、ゴーギャン(ゴーガン。1848-1903。タヒチに移住したことで有名)、ゴッホ(1853-90。オランダ。「ひまわり」)の3者は覚えましょう。

 最後に、他の芸術も見ておきましょう。"近代彫刻の父"と呼ばれた彫刻家ロダン(1840-1917。「考える人」)、古典主義音楽(古典派音楽。18世紀後半~19世紀初)のハイドン(1732-1809。オーストリア)・モーツァルト(1756-91。オーストリア)・ベートーヴェン(1770-1827。ドイツ)ら3人、ロマン主義音楽(19世紀前半~中頃)のシューベルト(1797-1828。オーストリア)・ショパン(1810-49。ポーランド)・ベルリオーズ(1803-69)・シューマン(1810-56)・リスト(1811-86)・ムソルグスキー(1839-81)・チャイコフスキー(1840-93)・ワグナー(1813-83)、印象派音楽(19世紀後半以降)のドビュッシー(1862-1918)・ラヴェル(1875-1937。「ボレロ」)ら、太字の部分は覚えましょう。日本でもよく知られた人たちばかりですね。