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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第211話


ヘレニズムの大国

 アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王。マケドニア王位B.C.336-B.C.323)の築いた大帝国(B.C.336-B.C.323)は、彼の死によって後継者(ディアドコイ)を争う配下の将軍たちの奪い合いとなり(ディアドコイ戦争。B.C.322-B.C.275)、結果、首都をペラに置いたアンティノゴス朝マケドニア王国(B.C.306-B.C.168)、首都をアレクサンドリアに置いたプトレマイオス朝エジプト王国(B.C.306-B.C.30)、そして首都をセレウキアに置いたセレウコス朝シリア王国(B.C.312?/B.C.305?-B.C.63)の3国が並立するようになった(ヘレニズム三国)。中でもセレウコス朝シリア王国はこの三国の中でも非常に広大な領域を誇った国家であった。

 セレウキアはセレウコス朝の開祖セレウコス1世(位B.C.312?/B.C.305?-B.C.281)が建設した(B.C.305頃)、ティグリス河畔の都市である。王朝を創建後もディアドコイ戦争は決着がつかず、B.C.301年に最大の激戦となったイプソスの戦いでセレウコス1世は当時最大の領域を継承しようとしていたアンティゴノス朝創始者アンティゴノス1世(位B.C.306-B.C.301)と会戦することとなった。セレウコス1世は自軍の兵力は少なかったが、臨戦前のB.C.305年頃にインドのマウリヤ朝マガダ国(B.C.317?-B.C.180?/B.C.321?-B.C.181?)のチャンドラグプタ王(位B.C.317-B.C.298)と同盟を組み、数百頭の戦象を得た。また同じくディアドコイの対象であったトラキア王リュシマコス(位B.C.306-B.C.281)もセレウコス1世側に加わり、小アジア中西部のイプソスは激戦場と化した。結果、セレウコス1世とリュシマコスの連合軍が勝利を収め、アンティゴノス1世は戦死(B.C.301)、マケドニアの領土はいっきに縮小して小アジアの一部とギリシアを領有するに留まり、一方のセレウコス朝はシリア地方と小アジア過半、そしてその以東のインダス川沿いにまでおよぶ広大な地域を領有し、まさにディアドコイの勝者となった。このためセレウコス1世はニカトル(勝利王。征服者)と言われた。

 セレウコス朝の首都セレウキアは人口が増加し、南方のバビロンにかわって繁盛したが、勝者となったセレウコス1世は首都移転を考え、B.C.300年、地中海東岸に流れるオロンテス川左岸に、新首都・アンティオキアを建設した。この名称はアレクサンドロス3世の家臣であったセレウコス1世の父アンティオコス(生没年不詳)に因むといわれている(セレウコス1世は、アンティオキア以外にも母や妻の名に因んだ都市を建設した)。セレウコス朝シリア王国の新しい首都となったアンティオキアは、セレウキア同様、目覚ましく発展していき、ヘレニズムを代表する都市となっていった。

 セレウコス1世は子のアンティオコス1世(位B.C.291共同統治。位B.C.281-B.C.261単独統治)と東西分割統治を行い、ギリシア人入植・移住、区画整理、通貨統一、その他の都市建設などを施し、一時はヨーロッパ遠征も考えていたと言われる。これにより東方へのギリシア化がすすみ、文化や慣習がより浸透していった。そして、B.C.280年にはトラキア王リュシマコスも討って(B.C.281)、文字通り東方の覇者となった。
 そして目指すは故国マケドニアの領有であったが、同じくこれを狙うプトレマイオス朝のプトレマイオス=ケラウノス(位B.C.281-B.C.279)に睨まれ、B.C.281年、彼によってセレウコス1世は暗殺された(セレウコス1世暗殺。B.C.281)。勝利の王とよばれたセレウコス朝創始者の最期であった。

 方マケドニア王国だが、アンティゴノス朝はB.C.288年にいったん断絶し、その間はリュシマコスやプトレマイオス=ケラウノスらの王朝がおこるも短命に終わり、B.C.277年にアンティゴノス2世(位B.C.277-B.C.274,B.C.272-B.C.239)が途中断絶するも生きながらえていた。同時期にセレウコス朝はガリア人の侵入に脅かされていたため、国王アンティオコス1世はマケドニアと同盟関係となって協調策をとり、ガリア人を敗退させて小アジアの民より"救済者(ソテル)"の尊称を得た。しかし一方で多くの領土を戦役でなくし、セレウコス朝の広大な領土は分裂状態となっていった。すでにセレウコス1世の晩期にもアッタロス朝ペルガモン王国(B.C.282-B.C.133)という国家が小アジア北西部におこっており、アンティオコス1世の後を継いだアンティオコス2世(B.C.286共同統治。B.C.261-B.C.246単独統治)の治世にはギリシア系バクトリア王国(グレコ=バクトリア。B.C.255?-B.C.130?)がアム川流域のバクトラ(現アフガニスタン北部のパルフ)を中心にて、またイラン系のアルサケス朝パルティア王国(安息国。B.C.248?-A.D.226?)がカスピ海南東とイラン北部方面にて、それぞれセレウコス朝から独立、セレウコス朝はエジプトからも戦争を仕掛けられて敗退、領土は縮小していった。

 B.C.223年にセレウコス朝シリア王に即位したアンティオコス3世(位B.C.223-B.C.187)は、かつてのセレウコス1世時代のシリアを再興するべく、小アジアの諸勢力を勢力下においたほか、東方遠征を実施してパルティアやバクトリアを支配、インダス川流域まで迫る勢力を得、シリア王国の復興が遂げられ、アンティオコス3世はアレクサンドロス大王の再来として、"大王"と称された。しかしこの政権は短命であった。ローマの波が押し寄せたのである。第2次ポエニ戦争(B.C.218-B.C.202)で勝利したローマが第2次マケドニア戦争(B.C.200-B.C.197)でマケドニアにも勝利し、マケドニアはローマの勢力範囲となった。数次にわたるローマとのマケドニア戦争でアンティゴノス朝マケドニア王国は荒廃し、B.C.168年に滅亡(アンティゴノス朝マケドニア王国滅亡B.C.168)、ヘレニズム三国の内の一国が姿を消した。

 ローマは、マケドニアにかわって拡大しつつあるセレウコス朝を脅威と感じ、マケドニア征服の勢いに乗ってシリアにも圧力をかけ、戦争に発展した(ローマ・シリア戦争。B.C.192-B.C.188)。この戦争に敗れたセレウコス朝は多額の賠償金、領土割譲、軍備縮小、多数の捕虜、戦象の殺処分などが決められ、遂にシリアもローマの圧力に屈した。これにより、せっかく支配下におさめたパルティアが離反するなど、東方の領域も次第に縮小していった。

 パルティアの反撃は凄まじく、セレウキアやスサが攻め落とされるなど、領土は極度に縮小していった、大王アンティオコス3世亡き後のセレウコス朝は、プトレマイオス朝やアンティゴノス朝とは関係を継続していくが、B.C.1世紀になるとその領域は首都アンティオキア周辺にまで抑えられてしまった。この頃のローマは内乱の1世紀ではあったが、その領土は計り知れないほど広大化していた。セレウコス朝はB.C.83年、アルタクシアス朝アルメニア王国(B.C.190-A.D.1C)の王ティグラネス2世(位B.C.95頃-B.C.55)によって攻められ屈服、ティグラネス2世はシリア王ティグラネス1世としてシリアの統治者となった(位B.C.83-B.C.69)。しかしアルメニアはローマとの対戦を控えており、結局ローマに屈して、アルメニア本土以外の征服地を放棄することとなった。この時のローマの軍指揮者はグナエウス=ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)であった。

 アルメニアの支配から解かれたセレウコス朝は、ポンペイウスによってアンティオコス13世(アジアティコス。位B.C.69-B.C.64)のシリア王即位が許され、セレウコス王家が復活、B.C.65年より次期後継者のフィリッポス2世(フィロロマエオス。位B.C.65-B.C.63)と共同統治させることにしたが、結局はポンペイウスにローマへの服属を押しつけられ、B.C.64年にまずアンティオコス13世を廃位、翌B.C.63年にはフィリッポス2世も廃位され、セレウコス朝シリア王国は滅亡、ローマの属州(プロウィンキア。イタリア半島以外でローマが征服した地)となり(シリア属州。B.C.63-A.D.637)、およそ700年間に渡って、ローマの支配下に置かれることになった(セレウコス朝シリア王国滅亡B.C.63)。

 アレクサンドロス3世没後のディアドコイで台頭したヘレニズム三国であったが、アンティゴノス朝マケドニア王国、セレウコス朝シリア王国が消滅し、残ったプトレマイオス朝エジプト王国(B.C.306-B.C.30)もローマのガイウス=ユリウス=カエサル=オクタヴィアヌス(B.C.63-A.D.14。アウグストゥスとしてB.C.27-A.D.14)によって征服され(アクティウムの海戦。B.C.31)、翌B.C.30年に滅亡、ローマに併合された(プトレマイオス朝エジプト王国滅亡B.C.30)。これによりヘレニズム3国は姿を消し、ヘレニズム時代は終わりを告げ、ローマ帝政時代が到来することとなる。

 セレウコス朝の首都として繁栄したアンティオキアは、アレクサンドリアとともにヘレニズムを代表する都市となった。同市はセレウコス滅亡後においても、ローマの下で初期キリスト教の重要な拠点の1つとなり、パウロ(?-A.D.64?)らによる異邦人への布教が行われ、アンティオキアの教会はローマアレクサンドリアコンスタンティノープルイェルサレムと並ぶ総大司教座教会(東西分裂後では西方教会(ローマ)では"教皇"、東方教会(ローマ以外)では"総主教"となる。各国にける教会の首長と聖職者の最高位)、すなわち五大本山(五本山)の1つとして挙げられた。アンティオキア総主教庁(アンティオキア正教会)における初代の総主教はペテロ(?-A.D.64?)である。その後アンティオキアは、アレクサンドリアやイェルサレムとともに7世紀以降はイスラム勢力に支配されていき、キリスト教は衰退していく。

  アンティオキアは現在、トルコの都市アンタキアに相当し、14万人の人口を擁する大都市である。


 久々のヘレニズム時代でしたが、その中でも今回はセレウコス朝シリア王国をメインとしてご紹介いたしました。シリアと言えば、シリア=アラブ共和国の現代における内紛状態などがニュースなどでよく取り沙汰されますが、現代のシリア=アラブ共和国はいわゆる歴史的に見たシリア地方の一部で、レバノンやイスラエル、ヨルダン、パレスチナなどもシリア地方と呼ばれます。今回のセレウコス朝シリア王国というのは、どちらかといえばそのシリア地方が含まれる西南アジア全体が領域範囲となりますので、昔のシリア王国はいかに広大であったかがわかります。

 西南アジアのギリシア化を促進させたセレウコス朝シリアですが、途中パルティアやバクトリアが独立します。特にギリシア人の色が濃いバクトリアの存在は、のちの北インドにおける仏像文化を普及させる遠因にもなります。

 では今回の受験世界史における学習ポイントを見ていきましょう。まずはアレクサンドロス3世没後のディアドコイ関連ですが、帝国分裂の結果を招いたイプソスの戦いは非常に重要です。なお、アレクサンドロス3世がアケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)を滅ぼすきっかけを作ったB.C.333年の戦争は"イッソスの戦い"です。名前が紛らわしいですので注意が必要です。個人的にヘレニズム三国のトレマイオス朝エジプトの"プ"がイソスにあるので、ディアドコイ関連がイプソスであると、無理矢理な覚え方で覚えましたが。
 そしてそのヘレニズム三国ですが、アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、そして、セレウコス朝シリアは言うまでもなく覚えておく必要があります。また、それぞれの勢力範囲も地図などで確かめておきましょう。これらはみな、ローマが帝政になる前に、すべてローマに吸収されます。中でもプトレマイオス朝エジプトを滅ぼしたB.C.31年のアクティウムの海戦は重要ですので、必ず知っておくことです。今回のメインでありますセレウコス朝シリアの滅亡はB.C.63年ですが、年代を問う問題は相当難関です。ただ、B.C.1世紀と知っておくと良いでしょう。

 さて、セレウコス朝シリア王国関連で見ていきましょう。最初の首都セレウキアはあまり出題されませんが、次の首都であるアンティオキアはよく出ます。特にキリスト教の教会五本山の1つであるアンティオキアは7世紀にイスラム圏に支配される(こちらに詳細)まではキリスト教を代表する都市として大いに繁栄します。そして人物ですが、セレウコス1世は創始者として名前は知っておくと良いでしょう。でも書かせるまでの重要度はなく、その後のシリア王においても名前を覚える必要はなさそうです。
 前述のパルティアやバクトリアが独立したことも重要。パルティアはイラン系、バクトリアはギリシア系であることに注目しましょう。あと、本編では登場しませんでしたが、セレウコス朝シリアから独立した、パルミラという強力なキャラヴァン都市が存在しました。用語集には登場しますが、出題はそんなに高くありません。
 あとセレウコス朝はユダヤ人とも戦争を行っています。B.C.160年代に行われたマカベア戦争(マカバイ戦争。B.C.167?/B.C.166?-B.C.160)というのですが、これに勝ったユダヤ勢力は、独立してハスモン朝という王朝を樹立するのですが(B.C.140?-B.C.37)、やがてポンペイウスに潰されてしまいます(B.C.64)。これも出題頻度は非常に低いですが、マカベア戦争、ハスモン朝は用語集にも記述があるので難関私立はいちおう知っておくと有利でしょう。

 さて、休校明けの当学院ですが、この「世界史の目」もしばしお休みを頂きます。しばらく間が空きますが、お見捨てなきよう、どうぞ気を長くしてお待ち下さいませ。