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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第212話


世界の半分

 14世紀のイラン北西部のアゼルバイジャン地方。アルダビールという都市にとあるスーフィー(イスラム神秘主義者。スーフィーはスーフ(羊毛)に由来し、信仰者はスーフでできた粗衣を身につけていた。神への愛と神との合一を追求する)がいた。名をサフィー=アッディーン(サフィーユッディーン。1252-1334)という。彼は伝説的な人物であり、その生涯(特に前半)はあまりよく知られていないが、彼はスンナ派寄りの"サファヴィー教団("サフィーに従う人たち"の意味)"を創始し、アルダビールを勢力拠点とした活動を展開した。サフィーは1334年に没し、アルダビール市内で埋葬された。

 サファヴィー教団の教主はサフィーの子孫によって世襲化された。しかしサファヴィー教団のシャイフ=ハイダル教主(任1460-1488)の時に大きな転換が訪れた。ハイダルは、自身の夢に現れた第4代正統カリフ・アリー(位656-661)のお告げにより、赤いターバンを着用することを信徒に命じた。このターバンは12度巻かれたもので、このターバンを巻いた信徒たちは、教主への絶対服従を信念とするクズルバシュキジルバシュ。テュルク語で"赤い頭"の意)と呼ばれたテュルク系遊牧民であった。シーア派ではイスラムの指導者を意味する"イマーム"がアリーを筆頭に12人いて、巻かれたターバンには12の波打つ"ひだ"が作られた("十二イマーム"の由来)。こうしてサファヴィー教団は、クズルハシュによる組織としてシーア派寄りに変貌していき、なおも政治権や軍事権、国家的支配権も視野に入れるようになった。そして、拠点のアルダビールから約200km西方のタブリーズを支配圏にすべく、勢力を強化していった。

 当時このタブリーズはトルコ系の白羊朝(はくよう。1378-1508。トルコ語で"白い羊に属する者"を意味する部族名"アク=コユンル"に由来)というイスラム王朝に支配されていた。もともとサファヴィー教団と白羊朝とは同盟関係にあり、シャイフ=ハイダル教主は白羊朝君主ウズン=ハサン(位1423-78)の娘と結婚していた。ただ15世紀末期の白羊朝は衰退期であり、内紛も絶えない状態であった。対照的に著しく成長していくサファヴィー教団を脅威に感じた白羊朝は次第に教団との関係が冷却化、白羊朝と一戦を交え、ハイダルは北方のデルベントで殺された(1488)。
 シャイフ=ハイダル教主の子イスマーイール(1487-1524)は父を失ったときまだ1歳であった。ハイダル没後にサファヴィー教主をつとめたイスマーイールの兄シャイフ=アリー(位1488-94)であったが、白羊朝との戦いで捕らえられ獄死(1494)、7歳のイスマーイールがサファヴィー教主となり、1501年タブリーズを攻め落とし、母の故郷である白羊朝を滅亡に追い込み、イラン中西部を支配下に入れた(白羊朝の完全滅亡は7年後の1508年)。同年、イスマーイールはタブリーズを首都に、サファヴィー教団のクズルバシュで構成されたペルシアの王朝・サファヴィー朝を創始した(1501-1736)。ササン朝(サーサーン朝。226-651)以来のイラン民族国家の誕生である。

 このサファヴィー朝では、ササン朝滅亡後のペルシア語圏における有力者の称号、あるいは人名として使われていた"シャー"の称を、固有の君主号として採り入れた。イスマーイールは初代シャー・イスマーイール1世(位1501-24)として、同王朝をシーア派の十二イマーム派を国教とすることを宣言した。
 その十二イマーム派というのは、前に述べたアリーと、アリーの直系の11人子孫、計12人が絶対的指導者であり、12代目イマームにあたるムハンマド=ムンタザル(同派では868年生誕としている)を"ガイバ(隠れていること。"隠れイマーム"と呼ばれる)"とし、最後の審判にて再臨(ルジューウ)すると信じられている。

 スマーイール1世は、現ウズベキスタンにあるブハラを首都に置いていたウズベク人の国、シャイバーニー(シャイバーン)朝ブハラ=ハン国(1500/01-99。建国者ムハンマド=シャイバーニー=ハーン。位1500-10)を攻めてこれを破り(1510)、ホラーサーン地方をおさめて、イラン全土を手中に入れた。
 しかし1514年、小アジア東部のチャルディラーンにおいて繰り広げられたオスマン帝国(1281-1922)軍との対戦(チャルディラーンの戦い)は、戦力の差を見せつけられて大敗を喫した。親征したイスマーイール1世も負傷し、自身の続けてきた不敗神話も崩された。そして、1524年のイスマーイールの死とともに、教団をバックに築かれた勢力拡大事業はいったん終了した。首都もタブリーズからカスピ海南部のガズヴィーンへ遷都した(1548)。

 勢力が停滞したサファヴィー朝は、16世紀後半にオスマン帝国やシャイバーン朝と再び交戦したが敗戦を重ね、首都タブリーズを含むアゼルバイジャンを占領され、危機に瀕して国力は大きく衰えた。この頃のサファヴィー朝は軍事貴族と化したクズルハシュの権力が非常に強く、またクズルハシュ内の権力闘争もあり内乱状態に発展していた。
 しかし、好機が訪れる。1588年に即位した5代目シャーのアッバース1世(位1588-1629)は、クズルハシュを抑えるために所有土地を没収するなどして権力を弱体化させ、代わりに奴隷軍人を近衛軍として多く採用、権力をシャーに集中させた。地方においても、地方長官任用の奴隷軍人化がすすみ、近代兵器も採用されて、内政改革と兵制改革は成功、これにより王権は安定の方向に向かった。

 外交的には、イギリスやオランダなど西欧諸国と友好関係を結んで、オスマン帝国を牽制した。アッバース1世の治世においても他国との抗争は続いたが、ウズベク人の侵入を阻止してホラーサーン地方を奪還(16世紀末)、また対オスマン帝国戦においても優勢に進み、アゼルバイジャン地方の奪還に成功、同帝国とは和睦した(1618)。またポルトガルとも交戦しており、ホルムズ島を奪還した(1622)。

 数々の改革をうち立てたアッバース1世における最大の功績は、首都の大規模な造営事業計画であった。彼は1598年、首都ガズヴィーンから、イランの中央部にあたるイスファハーン(エスファハーン)へ遷都し、大がかりな都市改造を行った。新しい市街地をつくり、この地とこれまでの市街地との間に建設された広大な"イマーム広場(【外部リンク】から引用。旧称"王の広場")"を中心に、広場の西側にはアリカプ宮殿、東側にはシェイフ=ロトフォッラー=モスク、南側にはイマーム=モスクといった壮麗な建築物がアッバース1世の治世に造営された。また通商を活発化し、都内はバザールで盛り上がり、多くの人々が行き交った。ゆえに、サファヴィー朝はこのアッバース1世時代に全盛期を迎えることとなり、商業的にも文化的にも大いに盛況した首都イスファハーンは"世界の半分"と称賛された。

 王都イスファハーンの誕生によって華やかな時代を築いたアッバース1世は、サファヴィー朝における名君として、「大王」の称号を授かり、歴史にその名を残した。アッバース1世はこの盛時を長く維持させようと、後継者候補の息子たちに託すはずであったが無能であったため、結局孫がアッバース1世の没(1629)後、サフィー1世(位1629-42。アッバース1世の長男の子)としてシャーに即位することとなった。

 しかしアッバース1世の死は、サファヴィー朝の衰退をもたらした。サフィー1世はアッバース1世の次の王位後継者だった叔父たちをはじめ、後の後継者やアッバース1世時代の忠実な重臣や将軍たちを次々と殺害し、自身の地位を固めようとしたため人心を失った。サフィー1世没後も無能なシャーが並び、オスマン帝国やブハラ=ハン国ら隣接諸国からの反撃も激化して、領土もいちじるしく減少した。18世紀にはいると、アフガン人(パシュトゥーン人)の侵攻により、首都イスファハーンは占領(1722イスファハーン陥落)、第9代シャーのフサイン1世(位1694-1722)は退位し、サファヴィー朝は事実上滅亡した。しかしフサインの子がタフマースブ2世(位1722-32)として、旧都ガズヴィーンに政権を樹立すると、サファヴィー朝の名は残ったが、イスファハーンは奪還できなかった。タフマースブ2世に仕えたトルクメン系アフシャール族出身のナーディルクリー=ベグ(1688-1747)は、タフマースブ2世没後も子アッバース3世(位1732-36)の摂政として仕えたが、1736年、ナーディルクリー=ベグはこれを廃してアフシャール朝を樹立(1736-96)、サファヴィー朝は名実ともに滅亡した(1936年サファヴィー朝滅亡)。アフシャール朝もシャーを用い、初代シャーとなったナーディルクリー=ベグはナーディル=シャー(位1736-47)としてシャーの権威は維持した。その後イランではザンド朝(1750-94)、カージャール朝(1796-1925)、パフレヴィー朝(1925-79)と続いたが、ザンド朝の"ハーン"を除いたすべての王朝で、王号はシャーが用いられた。

 現在のイラン=イスラム共和国イラン革命で誕生した1979年、イスファハーンのイマーム広場がユネスコの世界遺産に登録された。そして、同市を首都として華やかに栄えたサファヴィー朝の原点を築いた人物、サフィー=アッディーンの霊廟(サフィー=アッディーン廟)は、2011年に世界遺産に登録され、サフィーの出発点であったアルダビールにてその存在感を大いに示している。 


 「世界史の目」、ついに再始動です。この度はかなり長期に充電させていただき、お待ちいただいた方々には多大なるおわびと感謝を申し上げます。また宜しくお願い申し上げます。今後はゆったりと更新していきますが、どうかお見捨てにならないよう、ご愛顧の程、よろしくお願いいたします。

 さて、今回はシーア派王朝のサファヴィー朝をご紹介しました。受験世界史においてもメジャー級に登場するイランの王朝が、第212話にて初めてメインでの登場です。現在のイランの大部分を占めるシーア派の十二イマーム派を初めて国教として採用したイラン王朝であり、イランの民族意識が芽生えた王朝であることで非常に重要な王朝です。サファヴィー朝のあとアフシャール朝、ザンド朝、カージャール朝、パフレヴィー朝と続き、そして1979年のイラン革命によってイラン=イスラム共和国が誕生します。

 サファヴィー朝の首都の1つで、西アジアを代表する重要都市イスファハーンは"世界の半分"と呼ばれ、華麗なタイル建築を施した多くの建造物が歴史に名を残しています。世界遺産関連の写真集でもイスファハーンに残る宮殿やモスクがよく掲載されますが、どれを見ても美しいものばかりです。

 さて、今回の大学受験の世界史における学習ポイントを見てまいりましょう。まず原点であるサファヴィー教団(用語集によって"神秘主義教団"の表記も)は、テュルク系(トルコ系)遊牧民のクズルバシュ(用語集によって"キジルバシュ"の表記も)によって支えられていきます。その指導者だったイスマーイール1世がシーア派の十二イマーム派の王朝・サファヴィー朝を建国して、王号シャーを用いて初代シャーに即位します。ここでは、神秘主義教団、クズルハシュ、建国者イスマーイール1世の名は重要です。サファヴィー朝の正確な建国年/滅亡年は知らなくても、16世紀から18世紀前半の王朝であることを知っておきましょう。イスマーイールは、ウズベク族のシャイバーニー朝(ブハラ=ハン国)と戦い、この建国者のシャイバーニー=ハーン(用語集では"シャイバニ"の表記もあり)を戦死させています。シャイバニはティムール朝(1370-1507)を滅ぼした人物として知られています。ちなみに戦争に負けたシャイバニはイスマーイールによって頭蓋骨に金箔を貼られ、杯にされたということです。

 そして、首都はアゼルバイジャンのタブリーズに始まり、途中ガズヴィーンを経て、イランのど真ん中にあるイスファハーンに遷都します。2番目のガズヴィーンは出題頻度は少ないですが、盛時のイスファハーンはもちろんのこと、最初のタブリーズも出やすいので注意しましょう。イスファハーンの文化であるイマームのモスクもイスラームの文化史で登場することがあります。当然、地名の異称となる"世界の半分"といった表現も重要で、受験世界史では他に、ペテルブルク("西欧への窓")やヴェネツィア("アドリア海の女王")などがありますね。合わせて覚えておきましょう。

 またイスファハーンを偉大にした全盛期のシャーであるアッバース1世は絶対覚えましょう。内政安定に尽力しただけでなく、外交においてもオスマン帝国からアゼルバイジャンを、またポルトガルからホルムズ島をそれぞれ奪還に成功した戦略家としても功績を残した名君です。

 最後に、サファヴィー朝から現在のイランまでの王朝の移り変わりも整理しておきましょう。まず、アフシャール朝、続いてザンド朝、あとカージャール朝、パフレヴィー朝と続きます。一応すべての王朝は用語集には記載されています。サファヴィー朝を滅ぼしたアフシャール朝やその後のザンド朝はマイナー系で、出題頻度も低いですが、これ以降の内容はよく出題されます。「Vol.68 西アジアの激動~イランの情勢~」に詳細がありますのでご参照下さい。

【外部リンク】・・・wikipediaより