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ネジドの大国
18世紀中頃のアラビア半島中央部におけるネジド(ナジュド)地方。同地方のウヤイナという村の名家に生まれたムハンマド=ブン(イブン)=アブド=アルワッハーブ(イブン=アブドゥル=ワッハーブ。1703?-91)はメッカやメディナ、バグダードなどで学問遍歴を重ね、ネジドに帰郷後は信者を集めてイスラム改革運動に乗り出した。
アルワッハーブの思想とは、イスラム教の原点に戻り、厳格な一神教を認識し、スンナ(預言者ムハンマド(570?-632)の言行)及び聖典コーラン(クルアーン)に基づき、厳格なシャリーア(イスラム法)を適用したものが真の教義であるというもので、当時のネジドで流行していた聖者崇拝やスーフィ信仰(スーフィズム)を批判し、誕生して300年以内のイスラム教が最も純粋であると主張した。こうしてアルワッハーブと彼を信仰するワッハーブ派によるイスラム復古改革運動(ワッハーブ運動)が展開した。しかしアルワッハーブはウヤイナを追われ、同地から南西方面にある町、ディリーヤ(ダルイーヤ)に逃れた。
1740年代前半、アルワッハーブは、ダルイーヤを支配する豪族・サウード家のムハンマド=ブン(イブン)=サウード(?-1765)に保護された。ムハンマド=ブン=サウードはダルイーヤを拠点とする小国、ダルイーヤ王国(1726-1744)の君主であったが、彼はワッハーブ派に共鳴してアルワッハーブと盟約を結び、ダルイーヤにおけるワッハーブ派浸透に協力し、アラビア半島制圧という、ダルイーヤ王国の拡大を企図した。ワッハーブ派の布教も順調に進み、遂に1744年、ダルイーヤを首都とするサウード王国を樹立し(第一次サウード王国。1744-1818)、ムハンマド=ブン=サウードが初代国王に即位した(位1744-65)。ワッハーブ派によって樹立された国家で、ワッハーブ王国(第一次ワッハーブ王国)とも呼ばれる。
しかしムハンマド=ブン=サウードの治世では結局版図は拡げられず、ダルイーヤ周辺に留まったが、彼の子で2代目王のアブドゥル=アジズ=(イ)ブン=ムハンマド(位1765-1803)から徐々に領土拡大が積極化、19世紀初頭にはアラビア半島北西部(紅海寄り)のタブークから南東部はルブアルハリ砂漠南端、東端は現ドバイ市や現オマーン市に至り、アラビア半島の東半分一帯はサウード王国の領土となった。そして1810年代になると、メッカ、メディナといった紅海沿岸のヒジャーズ地方まで及び、ムハンマド=ブン=サウードの遺志を見事に引き継いで、アラビア半島の大部分を制圧することに成功、ネジドで生まれた小国家がワッハーブ派の大国に成長した。
しかし、この領土拡大が小アジアのオスマン帝国(1281-1922)の怒りに触れた。オスマン帝国は1517年にエジプトやシリア、ヒジャーズ地方を支配していたスンナ派のマムルーク朝(1250-1517)を滅ぼして以降、同地域を支配しており、メッカやメディナといった聖地を保護管理していた。しかしワッハーブ王国の侵攻でこれら聖地は占領され、聖像や廟などの破壊活動が行われたのである。ヒジャーズ地方の宗主国であったオスマン帝国は、エジプト総督であったムハンマド=アリー(1769-1849。エジプト総督任1805-48)にワッハーブ運動の鎮圧とワッハーブ派の殲滅を命じた。
ムハンマド=アリーは、長男のイブラーヒーム=パシャ(1789-1848)とともに、ただちにヒジャーズ遠征を行い、1813年にメッカを奪還して聖地を取り戻した。さらにサウード王国全土を掌握するため、軍隊はネジドに向かった。
1818年の冬、ムハンマド=アリーの軍隊がネジド地方に向かい、ただちにサウード王国の首都ダルイーヤに入城した。首都ダルイーヤは包囲され、同王国の4代目国王であるアブドゥッラー=(イ)ブン=サウード(位1814-18)は捕らえられ処刑された。これにより、ワッハーブ派による第一次サウード王国は滅亡し、サウード家は100年近く守ってきた拠点ダルイーヤを追われることとなった。
王国を失い、ダルイーヤを離れたサウード家は、アブドゥッラー=(イ)ブン=サウードの子であるトゥルキー=(イ)ブン=アブドゥッラー=(イ)ブン=ムハンマド(1755-1834)を当主に立てて生き残りをかけ(位1818-34)、拠点を南東のリヤドに移して活動を始め、ネジド地方の中南部を中心にワッハーブ派の支持を集めていった。こうして、第二次サウード王国が誕生したが(1824-91。第二次ワッハーブ王国)、ネジド(特に北部)を支配するもう1つの豪族、ラシード家との内紛が絶えず、1891年、ついにサウード家はリヤドを追われて第二次サウード王国は滅亡し(1891)、ネジドに猛威をふるったサウード家の王国は姿を消すことになった。
サウード家は、退位した最期の王(14代目)、アブドゥル=ラフマーン=(イ)ブン=ファイサル=(イ)ブン=トゥルキー(位1889-91)を中心にクウェートに落ち延びた。彼は1901年に隠退し、その後は子のアブドゥルアズィーズ=(イ)ブン=アブドゥルラフマーン=(イ)ブン=ファイサル=アル=サウード(1880-1953)を中心にサウード家の再興を託した。彼は"イブン=サウード"の名で知られる。
イブン=サウードはリヤドを拠点にネジドの大国を樹立することを野望に抱き、サウード王国の再興に尽力する。その結果、遂に宿敵ラシード家からリヤドを奪還することに成功(1902)、リヤドを首都にネジド王国(1902-26)を建国し、イブン=サウード(位1902-26)によるサウード王国の復興が実現した。1920年にイギリスの支援を取り付けたイブン=サウードは、翌年ラシード家を滅ぼしてネジド王国のスルタンを名乗った(位1921-26。このためネジド王国は、厳密には1921年までリヤド王国とも呼ばれて、イブン=サウードがスルタンを名乗った1921年以降からネジド王国と表記する文献もみられる。また広義には後述で詳説あるが、ネジド王国は1932年までとする場合もある)。
1925年にはかつての支配地ヒジャーズ地方にも乗り込み、過去にアラブ反乱(1916-18)をイギリス支援にて行っていたフセイン=(イ)ブン=アリー(位1916-24)のヒジャーズ王国(1916-25。首都メッカ)をも征服した(フセインはキプロスに落ち延び、その後アンマンに亡命)。ネジド王国はメッカ近郊のジッダを首都にヒジャーズ=ネジド王国(1926-32)として拡大、ネジド王イブン=サウードはヒジャーズ=ネジド王として即位した(位1926-32。ヒジャーズ=ネジド王国は連合体であるため、リヤドを拠点とするネジド王国はヒジャーズ=ネジド王国が滅亡する1932年までとする表記も見られる)。
1927年、イブン=サウードの外交政策が実り、ヒジャーズ=ネジド王国はネジドを中心とするアラビアの独立国家としてイギリスに承認された(ジッダ条約)。こうして、全盛期だった19世紀初頭におけるサウード家の領土にようやく近づいてきたのである。
翌1928年にはイブン=サウードの父がリヤドで没する悲運があったが、リヤドを拠点とするネジドの大国を樹立すべく動いてきたイブン=サウードの結実の日が遂に来た。4年後の1932年、ヒジャーズ=ネジド王国を完全に合体させ、リヤドを首都とするサウード家のアラビア王国が誕生した。これがサウジアラビア王国である(首都リヤド)。メッカもメディナもサウジアラビアの都市となり、ネジドを中心にアラビア半島の大部分を掌握する大国が誕生したのである。
イブン=サウードは初代サウジアラビア王として即位した(位1932-53)。ワッハーブ派を国教とし、対米協調策を行い、アラブ連盟にも加盟して油田開発にも尽力した。こうしてイブン=サウードは、没する1953年までに数々の功績を残して現在のサウジアラビアの基盤を築き上げ、首都リヤドは、ネジドの中心都市からアラビア半島の中心都市へと大きく成長するのであった。
"ムハンマドの教えに戻れ"とイスラム復古主義を主張してワッハーブ派をおこしたアルワッハーブの存在はアラビア半島の歴史を大きく塗りかえました。時が過ぎてイブン=サウードの時代になり、サウジアラビアを誕生させることになります。今回はワッハーブ派を開いたアルワッハーブの時代からのアラビア半島中央部のネジド地方("ナジュド"の表記もあります)の歴史をご紹介しました。西アジア史も久しぶりですね。
2mの長身、子孫を残すべく行った100回以上の結婚....話すところの多いイブン=サウードですが、サウジアラビアを大国にした初代王にふさわしく、サウジアラビアの紙幣で最も高い500リアル紙幣には彼の肖像が描かれています。まさしく西アジアの偉人であります。
さて、今回の受験世界史における学習ポイントを見てまいりましょう。まず、サウジアラビアの原動力となったワッハーブ派の名称は知っておきましょう。ワッハーブ王国誕生に尽力した、アルワッハーブやムハンマド=ブン=サウードなどは、前者の方が用語として登場しやすいですが、マイナー事項です(アルワッハーブはイブン=アブドゥル=ワッハーブの名で登場することもあります)。またワッハーブ王国はサウード家の王国なので、サウード王国という呼称での記述もあります。
そしてサウジアラビア王国ですが、高校受験では日本の原油輸入相手国であることで登場しますね。大学受験では、サウジアラビア王国はサウード家のアラビア王国であることは必ず知っておきましょう。建国者イブン=サウード、首都リヤド、国教ワッハーブ派も重要です。またマイナー系ですが、イブン=サウードが1902年に建設したネジド王国が、アラブのフセインが造ったヒジャーズ王国と連合王国としたヒジャーズ=ネジド王国(サウジアラビア王国の前身です)の名前も、難関私大で答えさせる場合もありますので、余裕があれば知っておきましょう。