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カロリング家の分裂
481年にクローヴィス1世(王位481-511)がメロヴィング朝(481-751)を興して始まったフランク王国(481-887)。751年からはカロリング家がフランク王を継承、カロリング朝(751-987)を興し、フランク王国の黄金期を現出した。とりわけカール大帝(カール1世。王位768-814)の時代には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)に対抗して西ローマ帝国(395-476)の復興を狙うローマ教皇との関係がより密接となり、800年のいわゆる"カールの戴冠"によってカール大帝はローマ皇帝となり(帝位800-814)、フランク王国は帝政を合わせ持つ強力な国家となった。
カール大帝は814年1月に没した。カールは生前、フランク王国の分割相続の慣習により、3人の嫡男に領土を3分割して相続した。しかしそのうち2人はカールが死去するまでに亡くなり、結局ただ1人残った嫡男であるルートヴィヒ(ルイ。778-840)がカロリング家を継承し、敬虔王ルートヴィヒ1世(ルイ1世。王位814-840。帝位814-840)としてカロリング朝を維持した。
ルートヴィヒ1世は最初の妃であるエルマンガルド妃(780?-818)との間にロタール(795-855)、ピピン(797-838)、ルートヴィヒ(804-876)という3人の男児がいた。817年、ルートヴィヒ1世は領土3分割を定めた法令(Ordinatio imperii)を発表し、3人の子どもたちに分割されることになった。ピピンはフランス南西部のアキテーヌ方面、ルートヴィヒはバイエルン方面を、長男ロタールは残りのイタリアを含む広範囲をそれぞれ任された。さらにロタールはルートヴィヒと共同統治者としてローマ皇帝に即位し(ロタール1世。帝位817-855)、ピピンとルートヴィヒを副帝とした。
しかしエルマンガルド妃が818年に没し、翌年ユーディト妃(795?/807?-840)と結婚したルートヴィヒ1世は、2人の間に子シャルル(カール。823-877)をもうけた。皇帝ルートヴィヒ1世はこのシャルルを誰よりも溺愛したため、先の領土3分割の法令を改正してシャルルにも王領を分け与えようとしたが、最も多く領土を受け継いだロタールをはじめ、ピピン、ルートヴィヒら3兄弟は自身の領土が削られることを不安視し、832年に反乱を起こして、翌833年に父である皇帝ルートヴィヒ1世は一時的に退位させられ、ユーディト妃も国外へ出された(834年に復位。妃も帰国)。その後ピピンが早世し(838)、2年後の840年に父ルートヴィヒ1世も領土継承を解決できないまま没した。
父帝没後、ロタール1世、ルートヴィヒ、シャルルの異母兄弟は本格的な領土継承戦争を引き起こした(841年6月。フォントノワの戦い)。最も多くの領土を継承した長男ロタールは弟たちに継承した領土までも奪おうと考えたため、ルートヴィヒはロタールを敵としてシャルルと同盟を結び(842年。"ストラスブールの宣誓"にて)、大規模な内戦となり、数万人の死者を出した。結果はルートヴィヒとシャルルの勝利となり、フランク王国の領土分割が話し合われることになった。これにより、フランク王国は分裂へと向かった。
843年8月10日、フランス北東部のヴェルダンにて、王国の3分割が決まった。
まず、長男ロタールはロレーヌ地域以北(ロタリンギア)、プロヴァンス地方、ブルゴーニュ地方など現在のフランス東部・ドイツ西部の区域、そしてイタリア北部の領土を継承し(中部フランク)、ローマ皇帝の帝位を分与された。ロタール1世の名をとり、獲得したロタリンギア("ロタールの領土"の意)という名はのちにドイツ語のロートリンゲンやフランス語のロレーヌの名で残された。中部フランク王国(843-855)は初代中部フランク王ロタール1世の統治で始まった(中部フランク王位843-855)。
続くルートヴィヒについては、ほぼライン川以東のフランク王国東部(東フランク)を獲得して東フランク王国(843-962)となり、ルートヴィヒは初代東フランク王ルートヴィヒ2世(東フランク王位843-876)となった。
そして、異母弟のシャルルについては、ガリア地方を中心とするフランク王国西部(西フランク)を獲得して西フランク王国(843-987)となり、初代西フランク王シャルル2世(西フランク王位843-877。禿頭王)として即位した。
こうしてカロリング家は分裂、3つのフランク王国にそれぞれカロリング朝が鼎立する形で決着した。この843年の条約をヴェルダン条約と呼ぶ。フランク族の慣習だった分割相続が、王国解体を招く結果となった。
条約締結後、しばらくは安定していたが、855年、中部フランク国王のロタール1世が没した。ロタール1世は生前に王領をロドヴィコ(ルートヴィヒ。822?-875)、ロタール(826?-869)、シャルル(845?-863)の3子に分割相続することを決め、長子ロドヴィコにはローマ皇帝位およびイタリアが、次男ロタールにはロタリンギアが、三男シャルルにはプロヴァンス方面が、それぞれ分与された。これは結果的に中部フランク王国の消滅を意味し、帝位を継いだロドヴィコがイタリア王およびローマ皇帝ロドヴィコ2世(帝位855-875。イタリア王位855-875)としてイタリア王国(855-875。広義には855-963)を統治することになり、次男ロタールはロタリンギア王国(855-870。広義には855-922)を始めてロタール2世となった(ロタリンギア王位855-869)。末子シャルルはプロヴァンス王国(855-870。広義には855-933)の王(シャルル王。プロヴァンス王位855-863)となった。これでフランク王国から端を発した分国は、東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国、ロタリンギア王国、プロヴァンス王国の5つとなった。カロリング家の大分裂であった。
869年、ロタリンギア王国のロタール2世が王位継承者を残さぬまま没した。ここで、東フランク王国のルートヴィヒ2世と西フランク王国のシャルル2世は、バラバラになった中部フランク王国の再分割を協議することになった。その結果、イタリアとローマ皇帝号はロドヴィコ2世がそのまま受け継ぐが、後継者が途絶えたロタリンギア王国は東西フランク両王国に再分割して組み込まれることになった。その後のロタリンギア王国はロレーヌ地方を中心に存続するが、ロタリンギアの王位は西フランクのシャルル2世が受け継いだ(ロタリンギア王位869-877)。なおプロヴァンス王国は翌870年に西フランクが継承し、シャルル2世がプロヴァンス王を受け継いだ(プロヴァンス王位870-877)。こうして、843年にヴェルダン条約で決着したフランク王族の領土分割は、870年、舞台を現オランダのメルセンに移して領土画定の最終決着を取り交わした。これがメルセン条約で、ルートヴィヒ2世の東フランク王国、シャルル2世の西フランク王国、そしてロドヴィコ2世のイタリア王国の形成が整った。このメルセン条約の結果、東フランク王国はドイツ、西フランク王国はフランス、そしてイタリア王国はイタリアと、その後のヨーロッパの歴史を彩ることになる主要三国の原型がつくられたことになる。
その後、イタリア王国はロドヴィコ2世没後にカロリング家の血統が途絶えた。東フランク王国では911年の6代目王のルートヴィヒ4世(位899-911)が17歳で夭逝したことで同家は断絶した。その後の東フランク王国ではドイツ王国とも呼ばれるようになり、フランケン地方(マイン川流域)のコンラディン家がフランケン朝(911-918。国王コンラート1世。位911-918)をおこして東フランク王国は存続、その後ザクセン家によるザクセン朝(919-1024)がおこるが、962年に神聖ローマ帝国(962-1806)が誕生して、東フランク王国の名称はドイツ王国に取って代わっていった。そして西フランク王国のカロリング家は12代目王のルイ5世(位986-987)の死でもって血統が断絶、西フランク王国に代わってパリ伯・ユーグ=カペー(伯位956-996。王位987-996)によるフランス王国(987-1792,1830-48)のカペー朝(987-1328)が開かれることになる。
こうして多くの分国を形成していったカロリング家の治世は終わりを迎え、新しいヨーロッパの時代が始まったのであった。
久しぶりにカロリング朝の登場です。「世界史の目」が「高校歴史のお勉強」と題していた2005年2月にフランク王国をメインにご紹介しましたが、それ以来だと思います。あの頃と比べてずいぶんと内容が細かくなりましたが、今回の内容はヴェルダン条約とメルセン条約というヨーロッパの背骨である仏独伊の3国を形成した二大条約が交わされた時代が中心となりました。この辺りも非常に重要な分野です。
実は、メルセン条約後、フランク王国は完全にバラバラになったと思ったら、実は東フランク王国の初代国王だったルートヴィヒ2世の息子のカール3世(肥満王。東フランク王位876-887)が、879年にイタリア王について(イタリア王位879-887)、884年には西フランク王国の王位についたので(西フランク王位884-887)、短期間ではありますがフランク王国は統一したことがあります。ただしカール3世が没した後は再び分裂しています。
それでは、本日の受験世界史の学習ポイントを見てまいりましょう。言うまでもなく843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約は必ず理解しておきましょう。私自身、年代は"はよ見てヴェルダン、はなれてメルセン"で覚えています。ヴェルダンでフランク王国は東西中に分裂し、メルセンで中部フランクが分割・併合されるといった内容も知っておきましょう。
人物も見てまいりましょう。まずカール大帝の息子のルートヴィヒ1世ですが、この時期は仏独伊の区分けがないため、フランスのエリアではルイ1世と呼ばれます。フランス王に"ルイ"の名が多いですが、この人物こそ最初の"ルイ"の登場です。用語集でもルートヴィヒ1世はだいたいヴェルダン条約の説明の中に出てくるに留まっていて、メインに紹介されるのは少ないので、出題率は高くありません。
またルートヴィヒ1世の息子たち、中フランク王のロタール1世、東フランク王のルートヴィヒ2世、異母弟の西フランク王シャルル2世、そしてロタール1世の子、ロタール2世も用語集にはメルセン条約の中で説明があるのみです。ただ、ヴェルダン条約で東西中フランクを答えさせるのに、キーワードとして前述の3王を問題文に出してくる場合も難関私大ではあり得ますので、各国王の名は知っておく方が無難でしょう。
ちなみに条約が交わされた都市ヴェルダンは第一次世界大戦(1914-18)でも激戦場となり、ヴェルダン要塞として登場します。要注意です。