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光輝と知恵・その1
激動の4世紀
ライン川以東、ドナウ川以北の北ドイツ地方(ゲルマニア地方)、およびスカンディナヴィア半島やユトランド半島方面を原住としていたゲルマン民族は、言語により3つに大別される。北ゲルマンはノルマン人など、西ゲルマンはアングロ=サクソン人、フランク人などがいた。そして、東ゲルマンにはブルグント人、ヴァンダル人、ランゴバルド人(ロンバルド人。非ゲルマン系説も有り)、そしてゴート族がいた。特にゴート族は5世紀にイタリア、イベリア両半島などに王国を築き、強勢を誇った民族として知られる。
紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけ、ゴート族はポンメルン地方(ポメラニア。バルト海に面するドイツ・ポーランド国境付近)の東部にあるヴィスワ河口の港市グディニア(南方にグダニスク、つまりドイツ語名ダンツィヒがある)周辺で文化を築いたとされ、その後南下を始めて紀元後1世紀から3世紀にかけてヴィスワ川以東でウクライナ北部方面まで勢力を伸張させ、3世紀から4世紀にかけてはさらに南下して黒海北辺にまで活動領域が拡大した。
237年(238年?)、ゴート族はローマ帝国(B.C.27-A.D.395)と初めて接触している。時のローマは軍人皇帝時代(235-284)で、最初の本格的な軍人皇帝と呼ばれるマクシミヌス帝(位235-238)の軍に対して、ゴート族は一戦を交えている(この戦争では、ゴート族は撃退された)。その後、ダキア地方(ドナウ川下流北岸の地方。現ルーマニアの領域に相当)、モエシア地方(ドナウ川下流南岸の地方。セルビアとブルガリア北部の一部に相当)などローマ属州への侵攻行為を繰り返し、251年にはローマ帝国の軍人皇帝デキウス(位249-251)をモエシアのアブリットゥス(現ブルガリア北東部の都市ラズグラッドに相当)で戦死させるなど、勢力を強めていった。
しかし268(269?)年におけるナイスス(セルビア南部の都市ニシュに相当)ではローマ軍がゴート軍を撃退し、大きな打撃を与えたが、ゴート軍はそれでもなお小アジアやギリシア方面を侵攻した。彼らを脅威と感じたローマ帝国軍人皇帝ルキウス=ドミティウス=アウレリアヌス(位270-275)は、ダキアのローマ市民をモエシア地方に移住させ、ダキアをゴート族に割譲した(271)。
この270年代、ゴート族は定住した区域で二種類のゴート族の呼称が発生する。黒海北辺に南下した後、ダキアを含むドニエプル西岸からドナウ川中流域に住み着いたゴート族は西ゴート族(英語でVisigoth、ドイツ語でWestgoten)と呼ばれ、ドニエプル東岸のステップ地帯に定住したゴート族を東ゴート族(英語でOstrogoths、ドイツ語でOstrogoten)と呼んだが、このように至るまでは諸説あり、判然としない。参考文献によると、東ゴート族を"光輝のゴート"、西ゴート族を"知恵のゴート"と呼ぶようである。
東西のゴート誕生については、多くの著名な歴史家が諸説をたてて説明しているが、歴史家ヘルマン=シュライバー氏の著書によると、ドニエプル東岸のステップ地帯に定住したゴート族はグルトゥンギ=アウストロゴティ(Grutungi Austrogoti)と呼ばれ、ドニエプル西岸のカルパティア山脈とその山麓に住むゴート族はテルヴィンゲン(Terwingen)と呼ばれたとある。これらの名は住み着いた地域から来ているのであり、グルトゥンギ=アウストロゴティと呼ばれたゴート族は"砂の多い平野に住んでいた"からその名が付き、テルヴィンゲンは"森の住人"を意味した。しかしゴート族は定住しなかったため、グルトゥンギ=アウストロゴティは単にアウストロゴティと呼ばれ、後に"Ostrogoten"となったが、この一族が直接東ゴート族に結びつくものではないとの説もあり、真相は不明である。テルヴィンゲンにおいても同様で、西方にいたゴート族のグループであったとされ、やがてより西方に進んで以後の名をゴート語の接頭辞"wesu(='善良な'の意味)"を付けて他のゴート族と区別するようになったとあるが、これも直接西ゴート族には結びつくものではないとの説もあり、テルヴィンゲンとの関係は不明である。なおここでは便宜上、ドニエプル東岸に定住したゴートを東ゴート、同西岸に定住したゴートを西ゴートと呼ぶことにする。
4世紀になると、両ゴート族はアリウス派キリスト教に改宗した。布教のためゴート文字を発案し、ゴート語に翻訳した聖書翻訳家でゴート族の主教ウルフィラス(ウルフィラ。310?-383)の功績であった。ウルフィラスの布教は340年頃とされている。ただ4世紀というのはキリスト教布教の出来事だけでなく、ゴート族にとっては大きな激動の始まりであった。
それはフン族の到来であった。フン族は黒海北方に到来し、まず372年頃に東ゴートに接触、侵略した。376年には東ゴート王エルマナリック(位350?-376)を自殺に追い込むなど東ゴート一派を次々と支配下に入れた。東ゴート族を支配したフン族は、つづくアタナリック王(位365-381)の率いる西ゴート族をも圧迫したため、西ゴートは二手に分かれた。結果アタナリック王の陣営はフン軍につぶされ、西ゴート族のもう一方は族長フリティゲルン(?-380?)の率いるローマ帝国の庇護を求めてドナウ南岸のローマ属州であるトラキア地方(バルカン南東部)へ逃げ込んだ。
西ゴート族は、農耕社会を築いて傭兵隊(アウクシリア)をローマ帝国に差し出すことを条件に、10万人のトラキア定住を求めた。ローマ皇帝ヴァレンス(ウァレンス。位364-378)はドナウ河畔の発展を切望していたことと、軍人皇帝時代(235-284)におけるローマ軍の疲弊から未だ回復しなかったことを理由に、西ゴート族の申し出を承諾した。これにより、フリティゲルン族長率いる西ゴート族のドナウ渡河が始まった(375)。
しかし西ゴートのドナウ渡河は思わぬ展開を呼び込んだ。西ゴートの移民がドナウ渡河を果たした移民の規模は約束の10万ではなく、その3倍にのぼる30万であった。西ゴートの諸部族がフリティゲルン族長を頼り、多くが渡河を始めたのである。瞬く間にトラキアは西ゴート族で埋め尽くされた。このためトラキア総督は移民全員の生活保障ができず、西ゴート族は貧困を極め、帝国領内で略奪行為を始めた。これが4世紀における本格的なゴート戦争(376-382)の契機で、ローマ兵も倒される勢いであった。378年、西ゴート族は親征したウァレンス帝相手に大戦争を展開することとなる。ゴート戦争における主要な戦場となったハドリアノポリス(アドリアノープル。現トルコのエディルネ)で大激戦が展開され(378)、司令官をはじめ大多数のローマ軍人が殺され、戦傷を負ったウァレンス帝は臣下に抱えられながら小屋に避難したが、西ゴート族によって小屋に火を放たれ、帝は小屋ごと灰と化したといわれている。ゴート戦争におけるこのアドリアノープルの戦いによって、ローマ帝国はゴート族を蛮族ととらえるも、西ゴート族はローマ属州トラキアに定住し、蛮族とされたゲルマン諸族が次々と帝国領内に侵入した。375年の西ゴートのドナウ渡河によっておこされた、ゲルマン諸族における民族大移動は、ローマ帝国を脅威にさらす結果となった。
4世紀におけるゴート族の激動によって、新たなヨーロッパ世界が形成されていくのであった。
なにかと謎の多いゴート人が今回の主役です。今回は民族大移動の時代までをご紹介しました。ゴート族はその起源すらはっきりせず(スウェーデン起源などいろいろあるらしい)、本編であったように、東西分裂のきっかけなどもあまりクリアではなく、多くの歴史家によって現在においても探索が止まないという、本当に謎の民族です。彼らはローマ帝国からすれば野蛮な民族であり、この形容を、12世紀以降の新たな建築様式である大きな窓、細い柱、広い空間、尖頭アーチといった特徴を、外見重視だったこれまでの重厚・荘重のロマネスク様式に対して、ゴシック式と呼んだのは、ロマネスク芸術を表敬するイタリア人が、ゴート人に染められた芸術、つまり"野蛮な芸術"として侮蔑を込めて表現したことが発端です。"ゴシック"とは"ゴート"の形容詞表現で、その後さまざまな転用が為されて、現代においても使用されている言葉です。
さて、今回の受験世界史における学習ポイントですが、言うまでもなく375年の民族大移動は必ず知っておきましょう。"ゲルマン民族みなごろし"の覚え方があります。東ゴート族を従えたフン族が西ゴート族を圧迫し、結果西ゴート族がドナウ川を渡ったという内容も重要。この結果西ゴート族はローマ帝国領内に入っていき、ローマ帝国をかき回していきます。378年のアドリアノープルの戦いでウァレンス帝が戦死する内容は超マイナー事項ですが、時折難関私大入試でも見かけますので、余裕があれば知っておくと良いでしょう。
本編で登場した歴史上人物はほとんど入試には登場しません。ただ、ウルフィラス(ウルフィラ)は試験に出ませんが超重要な人物で、ゲルマン民族のアリウス派布教に多大に貢献しています。フランク族のクローヴィス(位481-511)が496年にローマ帝国の正統派キリスト教であるアタナシウス派に改宗するまでは、ゲルマン民族の宗教はアリウス派キリスト教です。
さて、4世紀の終わりから東西両ゴート族はあわただしくなります。その後の展開は?つづきは次回にて。