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国際協調外交の幕開け
~ヴェルサイユとワシントン・その1~
第一次世界大戦(1914-18)という大規模な世界戦争が勃発し、世界が混乱していた時代。アメリカ民主党大統領ウッドロー=ウィルソン(1856-1924。任1913.3.4-21.3.4)は戦時中、欧州に干渉せず中立政策を掲げたことで大統領再選を果たしたが(1916)、再選前の国内ではルシタニア号撃沈事件(1915.5。アメリカ人乗客が多数乗るイギリス客船を、ドイツ潜水艦が撃沈、多数の死者を出した事件)による国民の反独感情があり、そんな中でのドイツの無制限潜水艦作戦の再実施(1917.2)、さらに英仏敗北の場合に発生する対米債権の支払難などの問題を抱えていたことにより、遂に参戦に踏み切った(1917.4。アメリカ参戦)。
しかし、ウィルソン大統領は元来、アメリカの道徳的優位を世界に広めて平和的解決を見出すという外交を目指していたため(特にラテン=アメリカ諸国に対して行われていた。"宣教師外交"と呼ばれる)、紛争によって解決を見出す外交は不適と考えていた。こうしたことから、ウィルソン大統領が決めた大戦への参戦決行は、勝敗に価値を求めるのではない、"勝利なき平和"をふまえた参戦であった。こうしたウィルソン大統領の理想の集大成ともとれるのが、1918年1月開催のアメリカ連邦議会において発表された"十四ヶ条の平和原則"であった。
この原則の主内容とは以下の通りである。
さらに民族自決の詳細は8ヶ条から成り、これで全十四ヶ条となる。その内容は、
というもので、当時としては画期的な平和的解決法であった。
ドイツはアメリカの十四ヶ条に期待して、同年11月、ドイツ休戦条約(パリ北東郊外のコンピエーニュの森で調印。1918.11.18)でドイツは降伏し、戦争は終結した。これにより、翌1919年1月18日、第一次世界大戦における講和会議がパリのフランス外務省内で開催された(パリ講和会議)。
アメリカのウィルソン大統領は、この会議を絶好の機会として"十四ヶ条の平和原則"を主張した。しかし欧米列強の主柱的存在である英仏側には冷たい態度で拒絶される、予想外の展開となった。英仏側が徹底したドイツの回復阻止(報復する怖れがあるため)にむけて、大規模な賠償を考えていることからすでに十四ヶ条の内容とは異なり、また海洋帝国イギリスにとって、海洋の自由権は受け入れられるはずもなかった。フランスのジョルジュ=クレマンソー首相(1841-1929。任1906-09,17-20)にとっても秘密外交を廃止することに難色を示し、結果的にはそれらをふまえた上で十四ヶ条の平和原則をパリ講和会議の基本精神として認めることとなった。
さらに、十四ヶ条の中においてもロシア人の政治選択の自由を促す条文があったことで、現実的に社会主義の巨大化に警戒する英仏にとっては、同じ連合国側にいたにもかかわらず、ロシア革命(1917)によって革命政権と化したロシアを安易にパリに呼べない状況であった。
よって資本主義の欧米列強は、ドイツの回復阻止・反露(反ソ)・反共を基本精神とした独自の国際協調主義を掲げて国際秩序安定に向けた対策を急いだのである。
パリ講和会議では五大国、つまりアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本といった戦勝国(一国につき2人の代表が参加したため"10人会議"と呼ばれる)が主導、一方の敗戦国は完全に会議から除外され、反露(反ソ)・反共によってロシアの革命政権も招かれなかった。パリ講和会議に集まった五大国首脳の顔ぶれは、アメリカのウィルソン大統領、イギリスのデヴィッド=ロイド=ジョージ首相(1863-1945。任1916-22。彼は自由党だが、保守党も加わった挙国一致内閣)、フランスのクレマンソー首相、イタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ=オルランド首相(1860-1952。任1917-19)、日本の西園寺公望全権特使(さいおんじ きんもち。1840-1940。立憲政友会総裁任1903-13。首相任1906-08,11-12。当時は元老)らという錚々たる面々である。
しかしイタリアは自国の領土問題で一時脱退、日本は山東問題を中心とするアジア問題以外の発言はひかえられたことにより、会議はアメリカ・イギリス・フランスの三国によってすすめられた形となった。
敗戦した同盟国側に対しては、個別に講話条約案を作成した。中でも早急に講話条約成立にむけたのは対ドイツである。1919年5月7日、戦勝国はドイツに対独講話条約案をつきつけた。その内容とは、
これをドイツが承諾すれば、海外領土をすべて失い、本土においても13.5%領地削減、人口10%減、天然資源地の喪失に陥るだけでなく、、兵力弱体化、極端な財政危機を迎えることとなる。ドイツ政府は条約拒否を貫く姿勢であったが、異議を口頭で唱えることを許されず、文書での応酬のみに留められてしまい、国内の政局も政権交代劇に見舞われるなど、もはや国際的に身動きが取れない状況であった。よって条約を承認する方向となり、1919年6月28日、かつてドイツ帝国が1871年に帝国樹立の宣言を行った、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間において調印された。これがヴェルサイユ条約であり、翌1920年1月10日に発効した。
同様に、他の同盟国に対しても講和条約が結ばれた。その内訳は、
十四ヶ条の平和原則にある理想主義よりも、英仏の利権擁護と対独報復といった、恐ろしい現実主義が勝った講和会議となったが、十四ヶ条の1つ、民族自決に至っては、1920年になってオーストリアとハンガリーは二重帝国の解消でそれぞれ独立国家になり、そこからチェコスロヴァキアやセルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(ユーゴスラヴィアの前身。国王はセルビア王家から推戴)が独立、またロシアからはポーランド、フィンランド、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)といった新興国家が誕生したことで達成された。
そして、十四ヶ条の1つである国際平和機構の設立に対しては、資本主義列強の国際協調主義の集大成として、1920年1月20日、国際連盟(League of Nations)として具現化されるに至るのである。
連載159話目にして、ようやくヴェルサイユ体制をメインにご紹介することができました。これまで断片的にご紹介して参りましたが、今回のように国際協調主義の面からお話しするのはこれが初めてではなかろうかと思います。3話に渡って、ご紹介いたします。
帝国主義の性格とはおそろしいもので、世界平和を呼び戻す解決を導き出すにも、自国の既得権益は絶対擁護の姿勢であることを前提に動きます。ウィルソン大統領が掲げた理想、つまり十四ヶ条の平和原則は、一部は現実重視によって修正を余儀なくされたわけで、純粋に響かなかったのは実に複雑であります。よって、このあと組織される国際連盟も強固とはいかず、次なる大戦(第二次世界大戦)を招かざるを得なくなり、国際連合にとって代わっていくのであります。
実は、十四ヶ条の平和原則は当時、1917年のロシア革命の主導者であるウラジーミル=レーニン(1870-1924)の発した「平和に関する布告(無併合・無賠償・民族自決)」において、欧米帝国主義列強の秘密外交が暴露されたことで全欧米に衝撃が走っていたという状況下から、これらの動揺を抑え、欧米諸国を防衛するために発表されたものでもあるとされています(用語集に記載)。
とはいえ、当時の国際協調主義は実に全世界が期待を寄せたことではないでしょうかね。第一次世界大戦のすさまじい惨禍を目にした列強が、これに懲りて平和を取り戻そうとする動きは、このときが始めてではないでしょうか。ただ、帝国主義時代のど真ん中にいたので、利権には非常にこだわっていたと思いますが。
さて、今回の学習ポイントを見ていきましょう。たった2,3年しか動きはなかったのですが、大きく分けますと、十四ヶ条の平和原則、パリ講和会議、ヴェルサイユ条約の3点になりますかね。では、まず十四ヶ条関連から。
ウィルソン大統領の十四ヶ条の内容は用語集でも色刷りで登場します。主な内容は本編に戻って確かめましょう。ただし、民族自決の詳細までは詳しく知る必要はなく、"民族自決"でひとくくりしておきましょう。
パリ講和会議関連では、参加メンバーを知っておきましょう。といっても、米英仏の三巨頭のみで結構です。アメリカのウィルソン大統領、イギリスのロイド=ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相です。敗戦国ドイツは参加を認められませんでした。そして、前述にあるようにウィルソン大統領はこの会議の場でも十四ヶ条を唱えて、自己の理想を主張しましたが、結果的には対独報復色の濃い講話となっていきます。くどいようですが現実とは恐ろしいものです、
さて、ヴェルサイユ条約ですが、この条約で徹底してドイツは英仏にいじめられていきます。内容は本編ほど深く知る必要はないですが、アルザス・ロレーヌのフランス返還、ポーランド回廊のポーランド割譲、すべての海外植民地の放棄、軍備縮小、ラインラント非武装化、賠償金1320億金マルクあたりで良いかと思います。また本編であったザール返還が決定した時のドイツは、すでにナチス第三帝国となっております。
最後にドイツ以外の敗戦国にあてた講和条約(オーストリアのサン=ジェルマン条約、ブルガリアのヌイイ条約、ハンガリーのトリアノン条約、オスマンのセーブル条約)もしっかり覚えておきましょう。
さて、第2編、国際連盟が誕生し、ヴェルサイユ体制が確立していくとおもいきや、アメリカに異変が!!つづく!