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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第94話


ノルマン=コンクェスト(1066)

 7~8世紀、北欧のスカンディナヴィア半島並びにユトランド半島はでは、ゲルマン民族の一派で、北ゲルマンのノルマン人("Normans=北方人"の意)が住んでいた。ノルマン人は、ノルウェー原住のノール人、デンマーク原住のデーン人スウェーデン地方原住のスウェード人といった部族から成り立っていた。また同世紀頃、スカンディナヴィア出身の海賊が、ヨーロッパ各地を荒らし回ったが、彼らはヴァイキングと呼ばれたが、同時代の史料では、彼らを"ノルマンヌス"と記されており、ノルマン人のことを指しているとされている。ヴァイキングの語源は、「入江(ヴィク,vik)の民」が有力だが、諸説もあり明らかではない。その後ヴァイキングは"海賊"を意味するようになっていった。

 ノルマン人(ヴァイキング)の現住地は高緯度による寒冷な気候のため農業には適せず、むしろ漁業や、海上交易による商業活動が積極的に行われた。8世紀後半になると、その交易活動は顕著となり、商業を中心としながらも、略奪・征服・植民熱が上がっていき、9世紀から11世紀、ゲルマン民族における2度目の民族大移動が始まった(第2次民族大移動。大移動の原因は人口増加による土地不足や首長からの離脱説などもある)。ノール人はアイルランドやブリテン島をはじめ、9世紀後半にはアイスランドにも移住、定着し、また"赤毛のエイリーク"なるノール人入植者(950-1003)らによって、"緑の島(=グリーンランド)"と命名(982)、植民を開始した。また、1000年頃には、"赤毛のエイリーク"の子が、コロンブス(1446/51-1506)より5世紀早く、北アメリカ北東部の島、ニューファンドランドへ到達し、"ヴィンランド"として植民を試みたとされている。しかし、ノール人によるこれらの植民活動は失敗に終わっている。スウェード人は北西ロシアに進出していき、リューリク(?-879)らによってロシア国家形成に大きく関わっていくことになる(「Vol.64 リューリク朝の興亡」参照)。

 またデーン人などは、首長ロロ(860?-933)に率いられ、セーヌ川河口(フランス北西部)のノルマンディー地方に陣を築き、北フランスへの進撃を開始、同地を領有している西フランク王国(843-987)を脅かして略奪行為を行い、やがて定住、やがてパリにも進出、西フランク王国のパリ伯は必死に防衛した。

 西フランク王国のシャルル3世(単純王。位893-922)は、ノルマン軍の侵入に悩んでいたが、結局ノルマンディー地方をデーン人に明け渡し、911年、ロロは同地でノルマンディー公となり(公位911-925/927/931/933?)、ロベールと改称、キリスト教に改宗した。ノルマンディー公国の誕生であった。
 ノルマンディー公国では、フランス貴族との結婚を通じて、次第に海賊的性質から騎士的・貴族的性質に変貌を遂げていった。彼らは、ヨーロッパ各地に遠征を行うと同時に、ビザンツ帝国(395-1453)やイスラム勢力、その他地方豪族勢力の争いに乗じ、傭兵としてその勢力も増大した。中でもイタリア地方において、ビザンツ帝国の支配下にあった政情不安な半島南部(ナポリ地方)は、ノルマン人貴族ロベルト=グイスカルド(ギスカール。1015?-1085)によって攻められ、同地はアプーリア公国となって隣接地域を吸収、南イタリアにノルマン勢力を増大させた。またイスラムに支配されていたシチリア島も積極的に攻め、結果シチリア伯領となり、グイスカルドの弟ルッジェーロ1世(1031?-1101)は初代シチリア伯(伯位1072-1101)となる。これらの統合と王国化は教皇の許可を得ることになり、ルッジェーロ1世の子ルッジェーロ2世(1095-1154)により1130年統合され、結果両シチリア王国として誕生(南イタリア王国。1130-1860。狭義の"両シチリア王国"はアラゴン家に統治された1442-58間と、スペイン=ブルボン家に統治された1816-60間とされる)、ルッジェーロ2世は初代国王となった(位1130-54)。同国はビザンツ、イスラム、ノルマンの3文化が融合され、首都パレルモは繁栄した。

 デーン人はイングランドにも進出したが、西ゲルマンに属していたアングロ=サクソン人がイングランドにいた。アングロ=サクソン人は、アングル族・サクソン族・ジュート族から構成され、北西ドイツからユトランド半島に原住していた民族で、5世紀中頃にブリタニア南部へ波状的に海渡進出、先住のケルト人を圧し多くの小国家群を形成した。南ブリタニアは"アングルの地"という意味でイングランドと呼ばれるようになる。その後のイングランドでは、北からノーサンブリア、マーシア、イースト=アングリア、エセックス、ウェセックス、サセックス、ケントの七王国ヘプターキー。449?-829?。年代の特定には諸説あり)としてまとまっていった。その後ウェセックス王エグバートエグベルト。ウェセックス王位802-939)が829年に七王国を統一してイングランド王国を形成、エグバートは初代イングランド王となった(位829-839)。
 デーン人は837年にイングランド進出をみせたが、エグバート王に撃退された。しかしその後も侵入を続け、次第にイングランドに定着する姿勢をみせると共に侵略規模も激化した。エグバートの孫アルフレッド(848/849-899)が兄の後を継いでウェセックス王に就くと(位871-899。アルフレッド大王)、デーン人撃退のことだけに集中した。9世紀中頃になるとウェセックス以外の諸王国がデーンに屈服しており、アルフレッドがウェセックス王即位時には、すでにデーン人の支配地域がウェセックス東部にまで広がり、ウェセックスは絶体絶命にまで陥っていた。デーン人のイングランド征服は間近であった。

 アルフレッド大王はこの事態に、諸勢力を結集させ、ウェセックスの要地に城塞を築かせた。また海渡進出するデーン人から防衛するため、海軍を再度訓練させてその強化をはかった。その後はねばり強くデーン軍の攻撃をかわし、そして反撃を始めた。878年、エディントンの戦いでアルフレッド王は勝利し、886年、デーン人と協定を締結、デーン人が支配したイングランド東北部を"デーンロウ"と名付けて境界線を定め、ロンドンを含む南西部を死守し、デーンロウ以外の全イングランドをおさえた。デーン人からイングランド王国を守っただけではなく、フランク王国のカール大帝(カール1世。王位768-814。帝位800-814)に倣い、宮廷学校を創設し、軍政改革(騎士軍・海軍の編成)・行政と司法の整備、アングロ=サクソン法の集大成、『アングロ=サクソン年代記』の編纂、ラテン古典文学の英訳など、あらゆる面において優れた、"最大の王"であった。これが"大王"と呼ばれるゆえんであり、死後は伝説化された。 

 しかし、デーン人は怠らず、10世紀末に侵入は再開された。デーン人の拠点デンマークは、ユトランド半島を中心にデンマーク王国が8世紀ごろから築かれており、イングランド侵入再開期となる10世紀末には、王国の統一気運も高まっていた。このため、国を挙げてのイングランド侵入であり、大規模に行われた。イングランド王国はデーン人に対し、宥和策として多額の貢納を行った。なお、9世紀末にはスカンディナヴィア半島西部にノルウェー王国が、10世紀頃には半島東部にスウェーデン王国がそれぞれ統一王国として形成され、ノルマンの活動は原住とした北欧においてもますます活発になっていく。

 しかし11世紀初め、父王をイングランドに殺されたデーン人のクヌート王子(カヌート。クヌーズ。995?-1035)が遂にイングランド征服を達成し(1016)、同年イングランド王に即位した(位1016-35)。これがデーン朝(1016-42)である。兄王の死でデンマーク王位をも継承したクヌートは(位1018-35)、ノルウェーやスウェーデンの一部も支配して、イングランド、スコットランドの一部、そして本拠デンマークを併せた"北海帝国"を建設、クヌート王も、デーン人における"大王"であった。しかし、この栄光も相続争いから3代で終わり、"北海帝国"はあっけなく崩壊、デーン朝も終わった。これにより、イングランドは、エドワード・ザ・コンフェッサー(懺悔王。証聖王。位1042-66)が王位に就き、旧来のアングロ=サクソン王家が復活した。

 エドワード懺悔王は、ノルマンディーで養育を受け、ノルマンディー公の宮廷から帰国して即位した人物で、修道院のあとにウェストミンスター大聖堂(ウェストミンスター・アビィ)をロマネスク様式で建て替えるなどして篤い信仰心を示し、後に聖人として列せられることから、"証聖王"とも呼ばれる。しかし、政治的には無能であり、ウェセックスのゴドウィン伯(987?-1053)の娘エディス(1020?-1075)を妃としたものの、ノルマンディー出身の貴族を重用したため、ゴドウィンから非難を浴びた。この内紛は、国内を動揺させ、ノルマンディー公国も関心を寄せた。この時のノルマンディー公はギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム。公位1035-1087)という人物で、エドワード懺悔王の又従兄弟にあたり、ノルマンディーを優先するエドワードから、王位継承の約束を受けていた。

 1053年、ゴドウィン没後は子ハロルド(1022?-1066)がウェセックス伯を継承した。1066年、"証聖王"が没し、義弟にあたるハロルドが異母兄でノーサンブリア伯のトスティーグ(1026?-66)をはねのけ、イングランド王ハロルド2世として王位に就いた(位1066)。このことに強い恨みを持った兄トスティーグはノルウェー王国に支援を要請した。ノルウェー王ハーラル(位1046-66)は、エドワード懺悔王統治下のイングランド情勢を見て、王没後にイングランド侵攻を決めていたようで、トスティーグからの支援を口実に、同1066年、イングランド北部の要衝ヨークに大軍を送り込んだ。
 一方ノルマンディー公国においても、ノルマンディー公ウィリアムにより、エドワードの生前に交わした王位継承の約束を口実に、イングランド侵攻を計画していたが、同年、遂に1万の兵を率い、イングランド南部のドーヴァー海峡にあるヘースティングズに上陸を開始した。ノルマン人による大征服活動が遂に動き出したのである。

 ハロルド軍は、まずスタンフォード=ブリッジの戦でトスティーグとハーラル王を戦死させ、これを撃破した。ハロルド軍はそのまま南下して、次の相手、ノルマンディー公ウィリアムの軍とヘースティングズで激突した(ヘースティングズの戦い1066)。アングロ=サクソン歩兵軍対ノルマン騎士軍の、歴史を変えた戦いが始まった。
 ノルマンディー公ウィリアムの騎士軍は、ハロルドの歩兵軍の猛攻で苦戦を強いられた。そして、ウィリアム軍が撤退する動きを見せたので、ハロルド軍は戦局決定とみなし、軍は散開した。ところが、これを見届けたウィリアム騎士軍が、撤退から一転、反撃に出、勝利を酔いしれてすでに戦意を失っているハロルド軍を次々と撃破、遂にハロルドを戦死させることに成功した。この戦争は、タペストリー(つづれ織り)として描かれ、現在のフランス・ノルマンディーにあるバイユー市立美術館に保存されている。

 1066年末(クリスマス)、ウィリアムはウェストミンスター・アビィにて、イングランド王ウィリアム1世として戴冠(位1066-87)、ノルマン朝が創始された(1066-1154)。これにて、アングロ=サクソンのイングランドは異民族であるノルマン人により支配され、ノルマンの征服ノルマン=コンクェスト)が実現した。
 ウィリアム1世は、ヘースティングズで敗退した諸侯の領土を没収して配下に与え、アングロ=サクソン貴族の反乱を鎮圧、フランスで行われている封建制・荘園制を導入、また税制では検地を行ってドゥームズディ・ブック(土地調査簿)を編集させた(1085-86)。そして、カンタベリ大司教を王自ら任命、1086年、全領主をソールズベリに集めて忠誠を誓わせた(「ソールズベリ誓約」)。ウィリアム1世は、落馬がもとで翌1087年没し、彼を含めてノルマン朝は4代続いた。なお、4代目国王スティーヴン(位1135-54)は、母がウィリアム1世の娘であるが、父エティエンヌ(1046-1102)がフランスのブロワ伯の子であるため、これをブロワ朝(1135-54)とし、ノルマン朝は3代目国王ヘンリ1世(位1100-1135)を最後とする見方もある。

 ノルマン=コンクェスト以降でのノルマン朝は、イングランドでは国王であり、ノルマンディーではフランス王の臣下という立場であった。ノルマンディー公は西フランク王国の封建臣下であったが、ほとんど形式のみで、実質は自立傾向にあった。西フランク王国も987年、カロリング王統が絶え、パリ伯ユーグ=カペー(位987-996)によってカペー朝(987-1328)がおこされ、パリを首都にフランスが誕生した頃には、その臣下のノルマンディー公国は、フランス王権の弱さにつけ込み、フランス王の統制を無視することも多くなった。その後、ノルマン朝のヘンリ1世は、内政改革によって諸侯の支持を獲得、王権を強化し、イングランドにおけるノルマンディー公国併合を実現させている。

 その後、ヘンリ1世の娘マティルダ(1105-1167)は、フランス西部のアンジュー家から出たジョフロワ(アンジュー伯位1129-1151。ノルマンディー公位1144-1150)と結婚、さらに子アンリ(1133-89)は、母マティルダからイングランドとノルマンディーを、父ジョフロワから大陸のアンジュー伯領を相続、そして1150年にノルマンディー公となり(位1150-1189)、スティーヴン王のあとイングランド王を継ぎ(王位1154-1189)、ヘンリ2世としてプランタジネット朝を開いた(1154-1399)。イギリス国内ではフランス国王と対等の王としつつ、フランス臣下のアンジュー伯という複雑な立場であった。

 その後プランタジネット朝のヘンリ2世は、フランスの西半分に相当する広大な所領を持ち、アンジュー帝国とも呼ばれる大国を実現した。このため、カペー朝に始まり、その後ヴァロワ朝(1328-1589)、ブルボン朝(1589-1792,1814-30)へと続くフランス王国と、ノルマン朝に始まり、その後プランタジネット朝、テューダー朝(1485-1603)と続くイングランド王国との関係は次第に深くもつれていき、領土や王位などの継承抗争に巻き込まれ、これが百年戦争(1339-1453)や植民地戦争といった発展形を出現させていくのである。ノルマン=コンクェストによって変化した西欧世界は、これから長く続く英仏対立を中心として、新たな国際関係の歴史が繰り広げられることになる。


 第二の民族大移動と呼ばれるノルマン人のヨーロッパ進出をご紹介しました。現ノルマンディーにあるバイユー市立美術館には、ノルマン=コンクェストについて織り出されたタペストリー(つづれ織り)が多く保管されており、ヘースティングズの戦いの場面などが細やかに描出されています。なお、ノルマン=コンクェストが実現してノルマン朝がおこされた1066年は、ハレー彗星が地球に接近した年でもあって、これもタペストリーで見ることができます。

 エドワード懺悔王のとき、ノルマンディー公国の貴族を大量にイングランドに移住させたことが原因で、イギリス国内で、フランス文化が流入され、これが社会や日常生活に大きな影響を与えています。これは、現在でも多くの名残となっており、例えば、言語においても、当時ノルマンディー公国の方言がイングランドで使われていましたので(ノルマン=フレンチといいます)、被征服地イングランドで育てられたcow(牛)・pig(豚)などは、食用する征服地ノルマンディーでは豚の肉をpork、牛の肉をbeefと、別語として表現しています。動物とその食用とする肉の言葉が派生せずに生まれているのはこうした歴史があるからなのですね。

 さて、今回の学習ポイントです。"北方の人"ノルマン人はスカンディナヴィアとユトランドの両半島が原住です。ヴァイキング活動を行いながら生計を立てていました。その後大移動を行うのですが、だいたい800年頃から約2世紀間の移動があったと言われています。ノルマン人の活動はイングランドの古代王国史と重ねて出題されることが多いので注意が必要です。また、ロシア方面に移ったルス族も合わせて出題されます。ルス族関連については、「Vol.64 リューリク朝の興亡」参照しましょう。

 まずロロの登場です。彼は西フランク王国の諸侯としてノルマンディー公国が911年に建設されました。そしてクヌートのデーン朝(1016-42)、リューリクのノヴゴロド王国(862頃建設)と、9C末にできたキエフ公国、ノルマンディー公国の騎士たちがイタリア方面に南下してナポリを領有後、ルッジェーロ2世によるナポリとシチリア合邦・建設された両シチリア王国、そしてデンマーク、ノルウェー、スウェーデンといった北欧3国が、受験で覚えるべきノルマン諸国でしょう。ちなみに、北欧3国は、1397年にデンマーク女王マルグレーテ(位1387-1412)による3国の同君連合、カルマル同盟(デンマーク連合王国。カルマルはスウェーデンの都市)としてデンマーク中心になりますが、1523年にスウェーデンが独立し、同盟も解消されました。マイナー事項ですが、教科書にも出ていますので、重要だと思います。

 イングランド関係では、6C末におこっていたヘプターキー七王国から始まります。グレゴリオ聖歌を作曲したとされているローマ教皇・グレゴリウス1世(位590-604)のカトリック布教もあり、アングロ=サクソン国家はキリスト教を信仰しました。七王国は7国すべてを覚える必要はありませんが、ウェセックスは知っておいたほうが良さそうです。イングランド王国を統一したエグベルト(エグバート)はウェセックス王ですからね。そしてアルフレッド大王のデーン人との戦いも知っておく必要があります(結局クヌートにデーン朝をおこされますが)。このエグバートとアルフレッド大王の名は重要です。
 そして、ノルマン=コンクェストの年(1066年)がやってきます。1066年は必ず覚えましょう。私は無理から"とろろノルマン"ってな具合で強引に覚えました。エドワード懺悔王やハロルドは試験で書かす問題には登場しませんが、たまにノルマンディー公ウィリアムを書かす問題のヒントとして、文章に登場することがあります。ノルマンディー公ウィリアムがハロルドと戦ったヘースティングズの戦いも知っておきましょう。彼はノルマン朝を創始してウィリアム1世となります。実際ノルマン朝はこのウィリアム1世だけ知っておけば良くて、イギリス王朝史において細かい暗記が必要になるのは、次のプランタジネット朝になってからです(詳しくは「Vol.32 英国議会の誕生」を参照して下さい)。