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世界史の目

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ギャラリー

第241話


儒教の世界・その7
龍場の大悟

  1. その1・孔子の誕生はこちら
  2. その2・孟子の思想はこちら
  3. その3・性悪説と法治主義はこちら
  4. その4・漢王朝の儒教はこちら
  5. その5・科挙と儒学はこちら
  6. その6・宋学の発展はこちら

 南宋(なんそう。1127-1279)の朱熹(しゅき。朱子。しゅし。1130-1200)が打ち立てた朱子学(しゅしがく)。1175年、朱熹は現・江西省(長江南岸の内陸部)の鵝湖山(がこ)において、初めて対面した学者と、激しい論戦を交わした。その論戦は"鵝湖の会"と呼ばれ、3日間に及んだ。朱熹と激論した相手とは、朱熹よりも9歳若い、陸九淵(りくきゅうえん。陸象山。りくしょうざん。1139-1192)という儒学者であった。
 陸九淵は江西省の名門の出で、6人兄弟の末子であった。少年期、九淵は中原(黄河中流域の重要平原)を含む華北一帯を奪った女真族(じょしん。ツングース系)の王朝(きん。1115-1234)に対する祖国の国辱に憤慨していた。祖国が文治主義のため、官僚の士大夫(したいふ。文人と地主を併せ持つ官人)は有事態勢には疎く、爪を伸ばしたまま弓矢や剣、馬を使うなどの軍事の腐敗化が進行しており、宋の弱体化を深く嘆いた。九淵はその意思表示として、爪を切って弓を引き、馬術を学んだとされている。
 兄の陸九韶(りくきゅうしょう。1128-1205)、陸九齢(りくきゅうれい。1132-80)も有名な儒学者で、九淵は九齢と"二陸"、三兄弟で"三陸"と呼ばれた。1172年、34歳の九淵は科挙に合格し、官職の道を歩み始めた。陸九淵は朱熹の学説に真っ向から非難し、独自の思想を貫いた。それは、"心即理(しんそくり)"という考え方であった。

 "心即理"は、朱熹の"性即理(せいそくり)"に対する陸九淵の思想である。朱熹は理気二元論に基づいて、人間の心を分析する際、"(り)"を"(せい。本性)"、"(き)"を"(じょう)"にあてはめた。しかし九淵の"心即理"は心が"理"そのものであるというのである。二程の兄側、程顥(ていこう。明道先生。めいどう。1032-1085)は「みな天理」の言葉にあるように、"理"を直観して把握すべきと説いたが、九淵はまさしく程顥の流れを汲み、「六経、みな我が心の注釈にすぎず」として、心の重要性を窮理(きゅうり)に必要な読書以上に高め、読むだけでなく道徳の実践を重んじた。こうした陸九淵の主観的な唯心論は"心学(しんがく)"と呼ばれて、心の修練によって得た能力と主体性を重視した。しかし九淵は朱熹より9歳年下ながら、肺結核のため8年早く没し、鵝湖の論戦相手だった朱熹は彼の死を深く嘆いたという。これにより陸九淵の"心即理"は江西省や浙江省(江西省の東接。海岸沿い)に一部の支持を得たものの、朱子学を圧倒するまではいかなかった。

 朱子学は科挙の中心学科として採用されていたが、南宋が滅亡し、モンゴル民族の朝(げん。1271-1368)が中国征服を果たすと、漢民族の体制は廃れ、科挙も廃止された。朱子学界における"華夷(かい)の区別"・"大義名分"は見事に打ち砕かれた。南宋の遺民(南人。蛮子。マンジ)はモンゴル民族に民族階層の最下位に貶まれた。しかし許衡(きょこう。1209-81)、呉澄(ごちょう。1249-1333)、劉因(りゅういん。1249-93)ら儒学者の尽力で朱子学が完全に廃れることはなかった。1314(1313?)年には科挙が復活し、朱子学の重要性が高まって四書を出題科目として採用し、注釈に朱熹の『四書集注(ししょしゅうちゅう)』が使われた。五経についても、朱熹や弟子の注釈書が指定され、朱子学を究めない限り、官吏に任用されないほどに権威ある学問となっていた。王朝(みん。1368-1644)がおこり、モンゴル民族の退いた中国大陸に漢民族の統一王朝がもたらされると、初代皇帝・洪武帝(こうぶてい。太祖。帝位1368-98)は儒学重視の政策をおこし、科挙を完全復活させて朱子学を官学化し、民衆教化のために六諭(りくゆ)を公布した。永楽帝(えいらくてい。帝位1402-24)の時代においても、帝の命で1415年に『四書大全(ししょたいぜん)』・『五経大全(ごきょうたいぜん)』『性理大全(せいりたいぜん)』という注釈書が編纂された。さらには類書である『永楽大典(えいらくたいてん。1408年成立)』の編纂も同時に行われた。こうして国家の運営には朱子学の修学が必須条件となっていた。しかし裏を返せば、朱子学の教えを実感しながら純粋に学ぶという修学法は色褪せていき、官吏任用を目指すための丸暗記の材料として形式化していった。朱子学による支配力が増大化したと同時に、道徳倫理の欠如も目立つようになっていく。

 朱子学が官学となった明代、道徳性を失った官人も次々と任用されるようになり、第6代正統帝(せいとうてい。帝位1435-49)の治世以降は、宦官勢力の専横により政治が乱れていった。16世紀に弘治帝(こうちてい。帝位1487-1505)が国勢を盛り返したものの、次の暗愚な正徳帝(せいとくてい。帝位1505-21)の即位で再び乱れ、国勢は衰退していった。この正徳帝の治世において、帝の腹心で権力を振るっていた宦官・劉瑾(りゅうきん。?-1510)の収賄や反対派弾圧に批判し、帝に上奏した35歳の官人がいた。しかし正徳帝は劉瑾を寵愛していたため、その官人は上奏を受け入れられず、1508年、貴州省の小さな宿駅(龍場駅。りゅうじょう)の役人に左遷されてしまい、僻地での苦しい生活を強いられながら、長く思索瞑想を続け、ついに"龍場の大悟(だいご。大きな悟り)"といわれる新しい儒学を生み出した。それは、"聖人の道はわが性自ら足る。向(さき)に'理'を事物に求めしは誤りなり"という悟りであった。この官人こそ王陽明(おうようめい。王守仁。おうしゅじん。1472-1529)であり、この"龍場の大悟"こそ陽明学である。

 陽明学は近代日本で呼ばれた名で、それ以前は"王学"や"明学"と呼ばれた。王陽明は青年期、五溺(ごでき)と呼ばれた任侠、武道、詩文、仏教、道教の5つの領域に耽溺したのち、朱子学に没頭した。理気二元論を学んでいたとき、果たして万物に"理"があるかという追究を行い、「植物の一木一草に"理"がある」という朱子学の教えから、庭の竹を使って、"格物致知(かくぶつちち)"、つまり竹の"理"を見つけようとした(格物の"物"が竹である)。一週間絶えず竹の前に座り続け、竹の"理"を窮めようとしたが、遂に"理"を発見できず、精神が消耗して倒れてしまったとされている1499年、28歳になった王陽明は3度目の科挙に挑戦して合格を得、進士(しんし。科挙合格者をさす)となり、朱子学を身につけた官吏になった。しかし有徳の統治者であるべき当の正徳帝は放蕩に浸り、行政をないがしろにして宦官・劉瑾の専横を招いている状態は朱子学に則った政治とは言えず、しかも自身は窮理居敬を続け、"性即理"の倫理観で政務をとるはずが、前述の左遷という結末を迎えることで、王陽明は朱子学を断つことになり、結果、この"龍場の大悟"に至るわけである。

 秩序や根本原理、法則あってのこれまでの朱子学では、人が生まれながらに持っている本性("")が""に相当し("性即理")、これに""、つまり""を素材としてさまざまな感情や欲求を生み出して以外の心に変質するため、本来備わっている善の心に矯正するために窮理居敬の修養を行わなければならないとした。心の本質(善の"性")である"理"を窮めるために本を読み、静坐して聖人になることを理想とした。これができないと悪人になるというのが朱子学の"性即理"で、"理"と"気"がないと人間が生み出されないという理気二元論の発展思想であった。また朱子学における格物致知は"物に格いた=至って知を致す"とし、事物の"理"を一つ一つきわめて極致にたどりつけば、知恵を完成(知を致す)させて事物の"理"を体得し、事物の是非を判断することができるという教えであった。知を致そうと思うならば事物の"理"を窮めなければならない。ただ、人間の心は知を致す作用があり、すべての事物に"理"が備わってるとしても、それぞれ不十分な場合もある。だから物に即して知を致す手がかりとして窮めていき、最終的には極致までいくように努め、達成すれば、事物のすべてが把握され、本来完全たる心の本体およびその作用はすべて明らかになる、というものである。だから"理"は人間の「なる"理"(=心)」であると同時に、人間の「なる"理"(=事物)」でもある、ということになる。格物致知を果たすためには、内なる"理"だけでなく、外なる"理"をも窮める必要があった。これが朱熹の考え方である。

 一方、王陽明は、朱子学の格物致知を果たすために竹を題材にとった。竹一本でも"理"を発見できなかったうえ、すべての事物の"理"を窮め、自己の"理"を明らかにすることは無理があると解釈した。そして、この"龍場の大悟"の名文句"聖人の道はわが性自ら足る。向(さき)に"理"を事物に求めしは誤りなり(=聖人の道はわが"性"として充分である。先に"理"を事物に求めたのは誤りであった)"に至り、かつて陸九淵がおこした心学を源流に陽明学を創出した。つまり人の心は"理"そのものであるという陸九淵の"心即理"の命題がここにきて大きく打ち立てられたのであった。「外なる"理"(=事物)」を求めるのではなく、「内なる"理"(=心)」、つまりの在るところを実践に移して行動すれば、"理"が窮められるのである。意の在るところは心であり、すなわち"理"である。
 朱熹の格物致知を追求した結果の"心即理"であった。格物致知について、朱熹が"物に格いた=至って知を致す"としたのを、王陽明は"物を格ただ=正して知を致す"と解釈したのである。ここでの"物"は""をあらわし、意の在るところになる。事とは、なにかを意識することで、意は、その意識するなにかに在る。事を"正す"ことによって心の不正がなくなり、本来の心の正しさを完全に果たし、あらゆる時と状況において"理"を実現するべきとした。

 言い換えれば、陽明学の"心即理"は、理気二元論ならぬ"理一元論"であり、本来備わった善の"性"が"理"であると客観的にとらえる朱子学に対し、本来備わった善の性だけでなく、感情や欲望などの素材や動作で善にも悪にもなる"情"もすべて"理"に含まれるという発想である。"理"と"気"つまり"性"と"情"の区別はなく、心の善悪はあって当然であり、"心即理"、つまり心そのものが"理"である。いたずらに読書や静坐をしても"理"を見つけようとするのではなく、心そのものが主体的に動くことによって"理"が実現されるのであり、"理"を窮めるには直観的に働いた心そのものを重要視する。すべて人々は本来聖人であり、本来備わっている善悪を分別する心の正しい本体(良知。良知良能)を実践することで聖人と認められるのである。良知を発揮すれば朱子学のように"気"を抑えなくても良いわけである。つまり理一元論である。
 このように、正しい心を発動して社会的に実践を行えば理想の社会が実現でき、格物致知が達成されることを"致良知(ちりょうち)"と呼ぶ。王陽明は心の良知を正しく実践することで、万物の"理"は本来備わった正しい心の"理"と一致する(=良知を致す)とした。さらに日常的な行動の際には心を磨いて良知を正しく働かし、善悪分別を明らかにし、正しく行動をとらなければならないともしている。これを"事上磨錬(じじょうまれん)"という。また王陽明の晩年には、良知に基づいた行動であるが故に、もともと心の善悪を道徳的に区別するものではないという発展思想"無善無悪"の概念も生まれ、王陽明は、"無善無悪は是れ心の体なり"、"有善有悪は是れ意の動なり"、"知善知悪は是れ良知なり"、"為善去悪は是れ格物なり"の四句(四言教)を説いた。

 朱子学の格物致知の場合、外なる"理"を窮めてから実践に移さなければならなかったが、外なる"理"を窮める、つまり知を致してから社会的に実践することは、知って行わない状況であり、"知っていても行わない"ことは"知らない"のと同じである。これに対し陽明学では"心即理"の立場から、知ることと行うことは良知たる正しい心の本体からのあらわれであり、"知ることは行為の始まり、行為は知ることの完成"である。これが王陽明の"知行合一(ちこうごういつ)"で、実践性が大いに強調され、知識に従って行動することは、誰にでもできることであると説いた。これを"満街聖人(まんがいせいじん)"といい、街に満ちたるすべての人々は聖人になりうるとした。

 王陽明は1527年に勃発した広西(中国南西部)での兵乱討伐からの帰途、結核がもとで2年後に江西省で没した(王陽明死去1529)。王陽明は著作活動をおこなっておらず、銭徳洪(せんとくこう。1496-1574。緒山先生。しょざん)ら弟子が彼の言行や手紙、記録をまとめ上げた作品『王文成公全書(おうぶんせいこうぜんしょ)』があり、その中の『伝習録(でんしゅうろく)』が特に知られる。陸九淵がもたらした"心即理"が、王陽明によって確立された陽明学は、その後も大きくその存在をあらわすのであった。


 理論の朱子学に対する実践の陽明学の登場です。陸九淵や王陽明がメインで登場するのもこれが初めてです。こんなに内容が難しくなるとは思ってもみませんでしたが、大学受験では世界史分野でも倫理分野でも存分に出題されやすい単元ですね。ではさっそく大学受験の学習ポイントを見て参りましょう。まず世界史から。

 南宋の時代、朱熹のライバルとして陸九淵が登場します。朱熹の"性即理(人の本性は"理"である)"に対し、九淵が"心即理(人の心は"理"そのものである)"を主張します。そしてこの"心即理"は明朝で王陽明によって大成します。王陽明の活動期は、全盛期の過ぎた明朝で、北虜南倭で苦しんでいる時期にあたります。ちなみに、本編では正統帝が登場しましたが、世界史では北虜に相当するオイラトのエセン=ハン(?-1454)の軍がおこした土木の変1449)という事件がありました。この事件で捕虜になった皇帝です。正統帝は"英宗(えいそう)"の名でも登場することがあります。本題に戻り王陽明の陽明学ですが、そんな明の王室が弱体化していた時期に、朱子学では国家が守れない、いい統治者が出てこないことを嘆きつつ、王陽明自身も左遷を経験し、そこで陽明学の悟りが開かれるのですが、受験世界史では、"心即理"、"致良知(善悪判断ができる心の正しい本体である良知をきわめ、正しく実践すること)"、そして"知行合一(知ることと行うことは一体である)"の3ワードは非常に重要です。なお、王陽明の別名として、王守仁の名も語群選択に出てきますので、名前は両方知っておきましょう。
 一方、明の官学となった朱子学は洪武帝時代には科挙の復活(実際は元朝後半の時代に復活するのですが、受験世界史では明代で復活することを覚えましょう)、六諭の実施などは頻出です。永楽帝時代は編纂事業で関わってきます。『永楽大典』をはじめ、『四書大全』と『五経大全』は重要です(余裕あれば『性理大全』も知っておきましょう)。『~大全』がつく書はその学問に関して集成・編集された書です。スコラ哲学者のトマス=アクィナス(1225?-74)の『神学大全』も高頻出用語です。ちなみに『永楽大典』は類書(中国での百科事典みたいなもの)です。あと、『四書大全』は、清朝(しん。1616-1912)の乾隆帝(けんりゅうてい。帝位1735-96)の勅命で編纂された叢書(そうしょ。 一度世に出た多くの単行の書物を集大成したもの)である『四庫全書(しこぜんしょ)』と混同しないようにしておきましょう。

 続いて倫理分野です。朱子学に対抗した陽明学ですが、まず朱子学における理気二元論(万物は本質である"理"と素材となる"気"でなりたつ)に対して、陽明学は理一元論と呼ばれます。良知という善悪を判断する心の本体が本来あるので、"気"を考える必要はなく、心そのものが"理"、つまり"心即理"です。そして良知を磨いて(事上磨錬)これを窮めていき、社会的実践を行えば善の社会が実現できるというもので、これを"致良知"といいます。さらに"心即理"の考えから、知ることと行うことは良知たる正しい心の本体からのあらわれであり、これらは一体となっているという"知行合一"によって、実践重視のすすめとなっていきます。今回は朱子学と陽明学の違いが本編のいろいろな場面で出てきましたが、"性即理"と"心即理"の違いや、余裕があれば格物致知の解釈など、しっかり確認しておきましょう。"五溺"、"龍場の大悟"、"満街聖人"を答えさせる問題の出題頻度は非常に稀だと思います。

 ちなみに"知行合一"といえば、ギリシャのソクラテス(B.C.469-B.C.399)もかかげています。倫理分野では"知徳合一"で登場します。何が善であるかを知れば(つまり徳についての正しい知識があれば)、その知識に導かれて必然的に善なる生き方ができるというものです。これと比べても陽明学はさらに実践的ですね。

 さて、陽明学が登場した中国では、その後あらたな展開へと向かいます。次回は"儒教の世界"の最終回!

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。程顥(ていコウ。へんは景、つくりは頁)。