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儒教の世界・その6
北宋(ほくそう。960-1127)時代の中国。隆盛期であった11世紀、湖南省の儒学者、周敦頤(しゅうとんい。周濂渓。しゅうれんけい。1017-73)という人物がいた。下級官吏の出身なだけに、生前はあまり名が知られることはなかった。これまでの聖人たち、つまり五帝の堯(ぎょう)と舜(しゅん)に始まり、禹(う。B.C.2070頃?。初代夏王。か。B.C.2070?-B.C.1600?)、湯王(とうおう。B.C.1600頃。初代殷王。いん。B.C.1600?-B.C.1046?)、武王(ぶおう。帝位B.C.11C-B.C.1021?。初代周王。しゅう。B.C.11C-B.C.256)、周公旦(しゅうこうたん。生没年不明)、孔子(こうし。B.C.552?/B.C.551?-B.C.479)、子思(しし。B.C.483?-B.C.402?)、孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289)らが伝授してきた道、およびその系統・系譜(道統。どうとう。道学。どうがく)は断絶されていたが、彼の登場によって道統が復活したとされている。周敦頤は学ぶことによって、誰でも聖人になりうると著書『通書』で主張している。
古代中国では、あらゆる物事を包み込む宇宙の根源、つまり天地が開けず、混沌としてあらゆる物事が混ざり合った不分明の世界を太極(たいきょく)と呼んだ。周敦頤は、五経の1つである『易経(えききょう)』に基づき、陰陽説や五行説、さらには道家思想を取り入れながら宇宙生成の根本原理を説明した。この説明を為すものに、右下にある太極図があり、周敦頤もこれを用いた解説を行っている(『太極図説』。太極図の作者は不明。周敦頤作とする説や道家の作とする説など一定しない)。その内容とは250字程度の文章であるが、無極(むきょく。太極の前段階。道教の思想。無の状態)から太極となり、陰と陽や、木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の五元素(いわゆる五行)が錯綜して形を作り、乾道(けんどう。男性)および坤道(こんどう、女性)をそれぞれ生成していき、乾と坤が交わって万物が化成されていく、というものである。万物化成までに、さまざまな現象をおこし、生命や精神他いろいろな物事を形成する物質的要素・材料・素材・質料といった概念が"気(き)"である。 周敦頤には二人の弟子、程顥(ていこう。明道先生。めいどう。1032-1085)と程頤(ていい。伊川先生。いせん。1033-1107)がいた。彼らは1歳違いの兄弟であり、"二程"と呼ばれた。程顥はこの世のあらゆる事物の根本原理を"理(り)"と説明し、この理を推理や考察によらず直観的に把握すべきだととらえた。これをさらに理論的に分析したのが程頤である。程頤は、この世のあらゆる万物は"理"に基づいて存在するとともに、陰陽や五行などの現象、つまりに"気"よって構成されているという理気二元論を説き、"理"と"気"それぞれ単独では存在することができないことを主張した。"気"によって構成されたすべての存在は、それらの原理・秩序・法則といった"理"がすべて内在しており、"理"は"気"を統制して人間も含む万物をすべて支配していることから、人間が生まれながらもっている性(せい。本性)をも"理"であると考える"性即理(せいそくり)"の思想が生まれた。
程頤は、人は万物に内在し支配する"理"を見窮める(=見極める)ことで善なる性にたどりつくことができ、適切な判断ができるという窮理(きゅうり)を説き、これは経書『大学(だいがく)』にあった"格物致知(かくぶつちち)"の"格物"にあたると説いた(格物致知の説明は後述)。周敦頤に始まり、程兄弟らによって発展された"理"の儒学は宋学(そうがく。宋明理学。そうみんりがく。他、理学、道学、性理学などの呼称がある)と呼ばれ、解釈中心であったこれまでの儒学とは異なった、全く新しい学問となった。理気二元論、性即理、そして格物といった程頤の発想は、南宋(なんそう。1127-1279)の時代になっても、宋学を大成させた人物によって受け継がれた。朱子学(しゅしがく)の祖、朱熹(しゅき。朱子。しゅし。1130-1200)である。
朱熹は現在の福建省に生まれ、父親も儒学者であった。朱熹による周敦頤の存在とその思想を世に知らしめ、周敦頤の儒学者としての重要度は高くなったのである。朱熹は、周敦頤が存在したことで、道統は絶えていないことを主張した。朱熹は、孟子のあと、周敦頤→程顥→程頤、そして気の哲学を展開した陝西省の張載(ちょうさい。1020-77。横渠先生。おうきょ。気が充満している宇宙空間を"太虚"とする"太虚即気"を展開)の系譜を掲げ、そして次に朱熹自身が受け継ぐという道統論を唱えた。
朱熹の朱子学は存在論として"理気二元論"を、倫理学として"性即理"、修養法として"窮理と居敬(きょけい。程頤は"持敬"とよんだ。じけい)"を説いた。
まず朱熹は著書『近思録(きんしろく)』において、周敦頤の太極について、無極は太極の前段階ではなく、太極の一状態と捉え(無極にして太極)、道教的な無極の概念を避けた。宇宙の中心を太極とし、太極は陰陽の気によって動と静を生じさせるというものである。そしてこの太極こそ"理"であり、万物の本性や本質であり(形而上。けいじじょう)、陰陽の気は実体・素材・質量を持った物質(形而下。けいじか)であるとし、陰陽によって生じた五行(木・火・土・金・水)の相互作用で万物が生成されると説いた。こうして朱熹は程頤の理気二元論を受け継ぎ、世に広めたのである。
朱熹は程頤の性即理説についても正統に継承するため、この理気二元論に基づいて説明した。万物の本質・本性が"理"であるなら、肉体である実体を持った"気"によって人間が生成される。"理"と"気"によってこの世に存在する人間の本質・本性は即ち"理"、つまり「"性"、即ち"理"」である。
さらに朱熹は、性即理説に基づいて孟子の説いた性善説(せいぜんせつ)の整合化につとめ、人間にとっての"理"である本質・本性、つまり天から受けた生まれながらにして持っている人の"善"という本来の心の本性を"本然(ほんねん)の性"、あるいは天命によって与えられた性という意味で"天命の性"という。そして理気二元論より、本来備わっている善の性("理")は、実体・素材・質料を持った物質である"気"によって"本然の性"が阻害され、"善"が発揮されないものである。つまり"気"は、人間に置き換えると肉体に身長・体重・形姿に個人差ができ、現実的に欲望や感情といった人間性があらわれる。これを"気質(きしつ)の性"といい、人間は善人にも悪人にもなり、凡人にも聖人にもなりうると説いた。これは人間の心の働きにおいて、人の心に"本然の性"、つまり"理"に相当する"性"と、”気質の性”、つまり"気"に相当する"情(じょう)"があり、善の"性"が"情"によって動され、悪などのあらゆる変化が入り込んでくるという考え方である。
"本然の性"とは先天的な道徳性であり、五常である仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・信(しん)としてあらわれるが、人間が悪人になっているときは"気質の性"が"本然の性"を上回り、欲望などに満ちた"悪"の人間性があらわれてしまう。このため、"情"である"気質の性"を変化・矯正させて本来あるべき"本然の性"に復帰させる(復初。ふくしょ。初めに復す)ことが人間の倫理的課題であり、ここで修養法である"窮理居敬"が必要となるのである。
復初の方法として、具体的には窮理は読書、居敬は静座(静坐。座って心身を鎮めること)である。静座は、禅宗の座禅(公案や只管打坐など)とは違い、感情や欲求を抑えて心を集中させ、心を安静の状態に保つことである。また"敬(感情や欲求を慎むこと)"を重視した朱熹は、日常において欲気が抜けずにいると、人間の善性が発揮されないため、どんな時と場合においても心を集中させ、感情や欲望を謹んで、あちらこちらに行き回るのではなく、立ち居振る舞いを厳粛にする居敬が必要であると説いた。世の中の"理"は五常となってあらわれるため、これに従うことによって"理"は窮められ、私利私欲が抑えられて適切な判断ができ、奉仕活動といった社会的善行ができるなど、物事が円滑に運ばれる。これこそ君子の姿であり、有徳者であり統治者の姿であり、窮理居敬によって"理"を体得した者は聖人になりうるのである。
また読書においても、朱熹は五経の入門書として四書(ししょ)を奨めた。四書とは五経の1つ、『礼記(らいき)』の中にあった『大学』と『中庸(ちゅうよう)』を単独の書物とし、これに『論語(ろんご)』と『孟子(もうし)』を総称したものである。朱熹は四書を五経よりも重要であると位置づけ、『四書集注(ししょしゅうちゅう)』という注釈を著して、四書を高く評価した。宋代は木版印刷が広く普及したこともあって、儒学関係の書物は多くの人に読まれた。
特に『大学』は四書の中でも儒学入門として最初に読む書であるとした。『大学』には前に述べた程頤の"格物致知"があり、朱熹はこの思想を"物に格(いた=至)って知を致す"とし、"理"をきわめて極致にたどりつけば、万物の"理"を体得する(つまり"理"を知る)ことができると説いた。統治者が善政をしくことができるのは、格物致知の成果である。
『大学』では"格物致知"以外でも「身を修め(修身。しゅうしん)、家を斉(ととの)え(斉家。せいか)、国を治め(治国。ちこく)、天下を平らにする(平天下。へいてんか)」という儒教の有徳政治の理念"修己治人(しゅうこちじん。己を修めて有徳者となり、人を治める)"の教えや、「己の意志を誠実にし(誠意。せいい)、心を正す(正心。せいしん)」など、聖人になるための自己修養法が説かれている。
また朱熹は北宋の司馬光(しばこう。1019-86)が著した編年体の歴史書『資治通鑑(しじつがん。294巻)』の再編を行い、59巻の歴史書『資治通鑑綱目(しじつがんこうもく)』を著した。これには、司馬光や同じく北宋の学者・欧陽脩(おうようしゅう。1007-1072。唐宋八大家の一人)らが唱えていた大義名分論(たいぎめいぶんろん)がさらに強調されている。北宋は建国当時、北方の契丹族(きったん。モンゴル系)が建国した遼(916-1125)によって燕雲十六州(えんうん)を占領され、その後女真族(じょしん。ツングース系)の金王朝(きん。1115-1234)によって、皇帝を初めとして宮中の皇族や重臣が連行され、首都開封(かいほう。河南省北部)が占領されて北宋が滅亡に追いやられた(靖康の変。せいこうのへん。1126-27。北宋滅亡。1127)ことは、朱熹の誕生前の出来事ではあったが、いち宋学者としては衝撃的な事件であった。こうした背景から、孔子の『春秋(しゅんじゅう)』に基づいた大義名分論によって、君臣父子長幼の道徳が叫ばれたのである。そもそも大義名分とは、"名"と"分"の組み合わせで、"名"は『論語』の「子路編第一」の"名(名目)を正さなければ、言葉は意味をなさないし、事は成功しない"の説明にあるように、物事の実質を認識できるために、持つべき必要な呼称(名目)の重要性を示し、"分"は社会を正しい秩序で維持していくために、人を含むあらゆる物がそれぞれどのように区分され、それぞれどういつ立場に立たされるかを示すものである。これが、"名"は君臣関係・父子関係等をあらわし、"分"は、上下の区分、役割分担と責任をあらわす。これらは人間が行うべき大切な意義や道義、つまり大義に基づくものであるとして打ち立てられたのが大義名分論であった。
当時の中国王朝は、中央の"中華"とその周囲を取り囲む"夷狄(いてき。四夷。しい。異民族のこと)"に区別し、中央に文化面での優越を認識すると同時に周囲は中国王朝に対して臣従すべきだとする中華思想(華夷思想。華夷の区別。かい)があり、宋代に中国本土を征服する遼や金が出現したことによって、歴代の中国王朝をきずいてきた漢民族が、宋代では夷狄に対して劣勢に転じたことで、"宋=中華、遼・金=夷狄"を強調した。つまり、大義名分の立場から攘夷を主張して歴史的王朝をきずいてきた漢民族の優位性を主張したのであった。朱熹は、遼や金の華北征服という事実から、天が天命を革(あらた)めて(革命)、有徳者が禅譲(ぜんじょう)や放伐(ほうばつ)によって交替する(易姓)、つまり易姓革命(えきせいかくめい)による王朝交替に限界があるとして、大義に基づいた行政と、儒教で養われつづけてきた漢民族としての誇りを併せ持つ人こそ統治者にふさわしく、またその統治者に臣従する臣下も節度を守り、本分をわきまえて統治者に尽くすことになるだろうと説き、異夷狄によって中国大陸を征服した王朝は成り立たないことを強調した。このようにして朱子学は漢民族の心の支えとなっていき、政治・社会・文化・民族の精神的基盤となった。朱子学を究めた人を官界に登用するため、朱子学は科挙の中心科目として採用された。
朱熹は1148年、19歳で科挙に合格したが、長く祭儀官や地方官職が中心であった(数度にわたる中央官職への打診をすべて断っている)。1194年、外戚の圧力で北宋4代皇帝である寧宗(ねいそう。帝位1194-1224)が即位すると、朱熹は寧宗の侍講となり、中央に進出した。しかし、外戚の専横が激化し、朱熹の理想主義と外戚の実力主義が大きくかけ離れていき、朱熹は"偽学(ぎがく)"のレッテルを貼られてしまい、50日足らずで侍講を罷免され、朱熹派も全員弾圧されて著書も発禁となった。朱子学の弾圧事件である(慶元偽学の禁。けいげんぎがくのきん。1195-99)。朱熹は不遇の晩年を送り、1200年、71歳の生涯を閉じたのであった(朱熹死去。1200)。朱子学弾圧は朱熹の没後次第に緩和され、罷免者も身分が回復して落ち着きを取り戻した。朱熹が残した朱子学は朝鮮半島、琉球、日本に伝播し、当時金王朝に支配されていた華北では、朱子学の影響を受けた道士・王重陽(おうじゅうよう。1112?/1113?-70。出身は咸陽。かんよう。陝西省)が、儒教・仏教・道教の3宗教の融和をはかり、全真教(ぜんしんきょう)を開いた。
こうして朱熹の打ち立てた朱子学は、宋学の集大成を為す重要な分野となり、後世にも大きな影響を及ぼすことになったのである。
朱熹のこれまでは91話で学習ポイントにちょこっと出ただけでしたが、今回は本編に初登場です。周敦頤、程顥、程頤に次ぐ宋学者4番手での登場です。儒教(儒学)は宋学の誕生であらたな展開を迎えました。
さっそく受験世界史および倫理の学習ポイントです。まず世界史分野。宋学では、周敦頤、程顥、程頤は北宋、朱熹は南宋の時期に活躍したことが重要です。なお、程顥、程頤は周敦頤よりは出題頻度は少ないです。あと四書の4つ(『大学』『中庸』『論語』と『孟子』)は五経と同様、しっかり言えるようにしておきましょう(倫理分野でも同様)。あと、性即理を説き、華夷の区別と大義名分論で皇帝の権威絶対を主張したことは問われやすいです。あと、日本や朝鮮半島にも影響を及ぼします。朝鮮は李氏朝鮮時代(1392-1910)、日本については、江戸時代(1603-1867)に普及します。本編最後に登場した王重陽の全真教は金王朝の宗教で問われることがありますので要注意。ちなみに道教系で、五斗米道から改称した正一教(せいいつきょう。大師道。たいしどう)が全真教のライバルだったことも、難関大などでたまに出てきます。
倫理分野では、万物は"理"と"気"によって成り立つという理気二元論、性善説を基盤に、本性にある"本然の性"と"気"の動きによってゆがめられた"気質の性"、"気質の性"を"本然の性"にかえすために行う方法である"居敬窮理(居敬は静坐、窮理は四書の読書)"などは重要。さらに"物に格(いた=至)って知を致す"の"格物致知"が出てきました。これも知っておく必要がありますが、次回以降で、この解釈に異論を唱える人物も登場します。周敦頤による太極のお話はマイナーですが、知っておくと後の流れが理解しやすいかもしれません。大義名分は倫理分野では朱子学の項では登場しませんが、朱熹が掲げた大義名分論や華夷の区別で、漢民族のナショナリズムが高揚するかと思いきや、その後モンゴル民族や女真(満州)族の支配がおこるという苦しい立場を強いられます。理想の現実化がいかに難しいかがよくわかりますね。
余談ですが、"少年老い易く学成り難し"という格言はこれまで朱熹の言葉とされてきましたが、朱熹の詩文集には見当たらず、日本人の作とする説もでているそうです。さて次回、朱子学に手強いライバルの登場です。「儒教の世界」はまだ続きます。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。程顥(ていコウ。へんは景、つくりは頁)。