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マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝
パックス=ロマーナ(ローマの平和。B.C.27-A.D.180)と謳われた ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の黄金時代。その中のハドリアヌス帝(帝位117-138)が統治していた時代、イベリア半島に所領を持つ富裕な貴族、ウェルス家がでた。ウェルス家はローマ属州(プロウィンキア。イタリア半島以外でローマが征服した地)であったヒスパニアのバエティカ(現アンダルシア州)にあるコルドバを領有し、一族は国政に参加していた。121年、そのウェルス家からローマで生まれた1人の男児がいた。それが、マルクス=アンニウス=カティリウス=セウェルス(121-180)という人物で、後に"哲人皇帝"と評された第16代ローマ皇帝、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝(帝位161-180)である。ネルヴァ帝(ネルウァ。帝位96-98)、トラヤヌス帝(帝位98-117)、ハドリアヌス帝、アントニヌス=ピウス帝(138-161)と続く、世に言う五賢帝の最後の皇帝である。
アウレリウスが3歳の時、法務官(プラエトル)だった父マルクス=アンニウス=ウェルス3世(?-124)は没したが、母ドミティア=ルキッラ(カルヴィッラ。?-2C半ば)や祖父マルクス=アンニウス=ウェルス2世(生没年不詳)たちは懸命に貴族としての教養を育ませ、家庭教師や従者を投入してアウレリウスを育てた。家庭教師からは哲学や修辞学を学び、家族からは貴族の出として恥じない品格を教えられた。これをハドリアヌス帝が注目し、127年、彼をエクイテス(古代ローマの騎士階級。元老院を構成する貴族階級、パトリキの次階級)に叙任せられた。アウレリウスがまだ6歳の頃であった。
ハドリアヌス帝は同性愛者であったことで、後継できる嫡男がおらず、寵愛する重臣ルキウス=アエリウス=カエサル(101-138)を自身の帝位継承者としていた。アウレリウスはルキウス=アエリウスの配下となり、同様にハドリアヌス帝から寵愛を受けることとなる。その後アウレリウスは重職に任命されて人脈を拡げたが、その中でもストア派(禁欲主義を第一とし、理性に従うことで真の幸福を求められるという思想)の哲学者との出会いは彼の人生を方向付けた。
138年1月にルキウス=アエリウスが病気のため没し、彼を後継者とする構想はくずれた。ルキウス=アエリウスの子はルキウス=ウェルス(130-169)といい、彼もハドリアヌス帝より寵愛を受けていた。父アエリウスの生前、子ルキウス=ウェルスの妻にハドリアヌス帝の重臣であるティトゥス=アントニヌス(のちのアントニヌス=ピウス帝)の娘アンニア=ガレリア=ファウスティナ(ファウスティナ=ザ=ヤンガー。小ファウスティナ。125-175)を迎え入れることを考えていた。しかしルキウス=アエリウスの病没によって結婚は流れ、ハドリアヌス帝はティトゥス=アントニヌスを養子および帝位継承者とすることを決めた。ただしその条件として、ティトゥス=アントニヌスはハドリアヌスが寵愛するアウレリウスとルキウス=ウェルスを2人とも養子にすることを求められた。それは、ハドリアヌスが2人をのちの帝位後継者とするためであった。
小ファウスティナの母、つまりティトゥス=アントニヌスの妻はファウスティナ1世(ファウスティナ=ジ=エルダー。大ファウスティナ。100?-140)といい、ウェルス家の娘であり、アウレリウスの父で彼が3歳のときに病没したマルクス=アンニウス=ウェルス3世の妹(姉?)であった。つまり大ファウスティナはアウレリウスの叔母、娘の小ファウスティナはアウレリウスの従妹ということになる。ティトゥス=アントニヌスはルキウス=ウェルスとアウレリウスを養子にとり、正式にハドリアヌス帝の養子および帝位継承者となった。そして、ティトゥス=アントニヌスの娘である小ファウスティナはアウレリウスと婚約することとなった。いとこ同士の結婚であった(結婚は145年)。
同138年の7月、ハドリアヌス帝が62歳の生涯を閉じた。元老院との対立が多かったハドリアヌス帝であったが、後を継いだティトゥス=アントニヌスは元老院との協調路線を歩み、穏健な政策を打ち立てて、慈悲深さをアピールした。このため、元老院から"ピウス(=慈悲深い、敬虔な人)"と呼ばれ、アントニヌス=ピウス帝としてその名が残ることとなった。140年、アウレリウスはアントニヌス=ピウスとともに執政官(コンスル)に就任し、次期帝位継承者となった。アウレリウスは小ファウスティナと結婚した145年に、ピウス帝とともに2度目の執政官に再任した。一方ルキウス=ウェルスも153年に財務官(クアエストル)を務め、翌154年には執政官に就任した。
150年代半ばになると、晩期にさしかかったアントニヌス=ピウス帝の健康状態が徐々に悪化、161年には帝の補佐を務めていたアウレリウスとルキウス=ウェルスはともに再度の執政官に再任するが、同年アントニヌス=ピウス帝が病没、ハドリアヌス前帝の遺志をふまえ、アウレリウスとルキウス=ウェルスは共同統治者として即位した。アウレリウスは皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(帝位161-180)、ルキウス=ウェルスは皇帝ルキウス=アウレリウス=ウェルス(帝位161-169)として帝位についた。
マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は小ファウスティナとの間には170年までに6男7女を授かったが、彼の即位時には、ルキウス=アウレリウス=ウェルス帝と結婚した次女のアンニア=アウレリア=ルキッラ(148?/150?-182)をはじめとする4女を除いて、すでに5子(4男1女)が夭折していた。しかし即位してまもなく誕生した双子の男児は、一方は夭折したが、もう一人(ルキウス=アウレリウス=コンモドゥス=アントニヌス。161-192)は父マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝に招かれた専門医師団の尽力で、病弱ながらも順調に育ち、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の立派な帝位継承者として修養を積ませていった。この医師団に所属した侍医には、ギリシア出身で、ローマ帝国の名医として後世にその名が残るガレノス(129?-200?)がいた。
2人が共同統治者として即位するとまもなく、帝国の辺境における異民族の反乱に悩まされたが、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の治世の大半を、パルティア遠征(161-166)やゲルマン系異民族との戦闘に費やした(ゲルマニア遠征。この戦闘は異民族の名をとってマルコマンニ戦争の呼称がある。162-180間)。また165年から十数年間ほど天然痘(あるいはペストか?)の流行で国力が疲弊(アントニヌスの疫病。165-180)、さらには169年にルキウス=アウレリウス=ウェルス帝が没したことで(食中毒説、毒殺説など諸説あり)、五賢帝時代と呼ばれた平和な時代に危機感が漂いはじめた。
ルキウス=アウレリウス=ウェルス帝没後、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の単独統治がはじまった。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝はこれまで歴代の皇帝のように養子で継承をつないでいくやり方ではなく、自身の血のつながった子を帝位継承者とすることを理想とし、子コンモドゥスに対し、父であるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝自らが教育を施していた。172年には子コンモドゥスをマルコマンニ戦争に従軍させ、後世の名君となるにふさわしい経験と英知をたたき込ませた。しかし175年に、同じく軍に随行して、兵士たちを励まし続けてきた小ファウスティナ妃が没するという悲劇がおこり、しかもパルティア遠征で活躍したシリア属州の軍事総督ガイウス=アウディウス=カッシウス(130?-175)が次期帝位を望み、コンモドゥスを後継者とするマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝に対して反旗を翻すという暴挙に出るなど、混乱に巻き込まれた。
176年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は子コンモドゥスとともにローマへ帰還、凱旋式がとりおこなわれた。戦勝を記念してローマのコロンナ広場に"マルクス=アウレリウスの記念柱(【外部リンク】より引用)"を建造した(着竣工年月は不詳)。そして177年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は子コンモドゥスを即位させ、父との共同統治者としてローマ皇帝となった(帝位177-192。同時に執政官も就任)。ティトゥス帝(帝位79-81)以来、父から実子への、直系の帝位継承が実現したのであった。五賢帝時代ではもちろん初めてであった。直後、ローマ帝国軍は再度のゲルマニア遠征を決行したが、178年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は遠征中に倒れ、病床に伏した。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は子コンモドゥスに、もと執政官の娘ブルッティア=クリスピナ(164-182/187)と結婚させて、やがて単独統治をとることになる子に対して、帝国民の代表として威厳あるローマ皇帝の位を維持させようとした。
180年、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は遠征先のウィンドボナ(現ウィーン)で没し(マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝死去。58歳)、ついにパックス=ロマーナと謳われた五賢帝時代は終わりを迎えた。その後は子コンモドゥス帝が単独統治者となった。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は生前、帝位に就いた治世の後半から、戦場にて自分自身宛ての文章を書き綴っていた。これが全12巻に渡る『自省録(じせいろく)』で、ローマ人でありながらラテン語ではなく哲学の原点であるギリシア語で書かれており、断片的な内容ではあるものの、ストア学派の立場から、自分自身に対する欲深さを戒め、ゲルマンの危機にさらされているローマ帝国の平和を守るために自分自身を激励し、逆境に耐えることが記され、神々や両親をはじめとする周囲の人たちに感謝の意を述べていた。こうしたことから、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は"哲人皇帝"の異名を残すことになった。
マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の後を継いで即位した子コンモドゥス帝は、180年にゲルマン系異民族との戦闘に一応の決着をつけ、対外戦争のない時代を現出したものの、その後は姉でルキウス=アウレリウス=ウェルス帝の妻だったアンニア=アウレリア=ルキッラの内紛(帝位簒奪による暗殺未遂事件)とこれに続く関係者の粛清、コンモドゥス帝の妻ブルッティア=クリスピナの流刑、奸臣マルクス=アウレリウス=クレアンデル(?-190)の専横など不運が続き、人間的理性を失って有力な重臣を追放し、自身も職務を放棄して剣術に没頭する日々を送った結果、元老院議員を敵に回してしまい、192年末に暗殺された。これにて、ネルヴァ帝に始まるローマ帝国ネルヴァ=アントニヌス王朝(96-192)はついに断絶し、193年から4年間、帝位をめぐって貴族、騎士、軍人らがそろって即位するという激しい内戦(ローマ内戦。五皇帝時代。193-197。コンモドゥス帝暗殺を内戦に含むと192-197)に突入、政情不安の時代が到来することになる。
久々にローマ帝政をご紹介しました。五賢帝時代を構成するネルヴァ=アントニヌス王朝は、いわばアウグストゥス(オクタヴィアヌス。オクタウィアヌス。帝位B.C.27-A.D.14)で始まるプリンキパトゥス(元首政)の時代になります。元首政は、皇帝という位ではありますが、元老院、執政官、護民官などを中心とする伝統的な共和政治を行ってきたこれまでの政体を尊重する国家元首という意味合いがあります。ローマ帝政の政体は大きく分けると、このプリンキパトゥス(元首政)と、ディオクレティアヌス帝(位284-305)で始まる絶対的な皇帝中心の支配体制であるドミナートゥス(専制君主政)の2つがあります。ローマ帝政でまだご紹介していない時代に、本編のその後となるセウェルス王朝(193-235。なかでも212年にアントニヌス勅令という、ローマ帝国領内の全自由民に市民権付与を命じたカラカラ帝が有名。帝位211-217)や、世に言う「3世紀の危機」となった、元首政の末期症状である軍人皇帝時代(235-284)がありますが、これらは機会あらば後日ご紹介いたします。
さて、今回の大学受験世界史の学習ポイントを見て参りましょう。まずは家系についてこれましたか?似た名前ばっかりが登場しましたが、本編の詳しい家系は受験には滅多に出ませんのでご安心ください。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝はこの名前で知っておきましょう。本編以外の五賢帝関連では、"寝る虎ハッピーまるくなる"、つまり「ネルウァ」「トラヤヌス」「ハドリアヌス」「アントニヌス=ピウス」「マルクス=アウレリウス=アントニヌス」の順番と、帝国領域最大を誇ったトラヤヌス帝、ブリタニアで長城を築いたハドリアヌス帝(ハドリアヌスの長城は世界遺産)を知っておきましょう。
マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝関連では、パルティア遠征とゲルマン討伐は非情にマイナー事項とされていますので、出題頻度は低いです。彼で著名なのは、まずストア哲学研究者であることでしょう。
"ストイック(=禁欲)"の語源を作ったストア派哲学は、禁欲主義に則り、感情や欲望を抑制し、理性に従うことが重要であるとゼノン(bc336-bc264)が説いた思想です。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は、ストア哲学の禁欲主義の立場から、自身が帝位後継者となり、即位して権力を持つことを非常に嫌ったと言われておりますが、マルクス=アウレリウス=アントニヌスが究めたストア哲学は後期ストア学派の流れを汲むとされます。ネロ帝(帝位54-68)の師セネカ(B.C.1?-65)も後期ストア学派です。ここでは、帝はストア哲学者であること、『自省録』を著したことが重要ですね。本編に登場した医師ガレノスは頻度数は少ないものの、用語集にはしっかりと掲載されています。
最後に、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝関連で大事な事項を1つ。1世紀中頃にギリシア人航海者によって著された、当時のインド洋貿易の事情がわかる航海ガイドブック『エリュトゥラー海案内記』には、初期のローマ帝国が南インドのサータヴァーハナ朝(B.C.230?/B.C.211?/B.C.1C-A.D.3C初?/A.D.3C半ば?/A.D.249?)と季節風貿易(季節風の風向きを利用して行われる貿易)が行われていたとの記述があります。そして中国・後漢王朝(ごかん。25-220)について書かれた歴史書『後漢書(ごかんじょ)』によると、97年に西域都護の軍人、甘英(かんえい。生没年不詳)が、"大秦国(だいしん。たいしん)"にむけて派遣された(結局断念した)とあり、この大秦がローマ帝国とされています。さらに『後漢書』では、この大秦国が後漢・桓帝(かんてい。位146-167)時代の166年、大秦国王の安敦(あんとん)が使節を遣わし、日南郡(にちなん。じつなん。ベトナム中部)に入貢、象牙などの南海の物産を献上したとの記述があり、166年という年を推定してこの大秦国王安敦こそ、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝ではないかとする見方がありますが、ローマ帝国側からこうした文献が見つからず、しかも献上物がアジア産であり、ローマ帝国の産品ではなかったので、これが史実かどうかは確定はされていないそうです。ただし入試では、漢王朝の出題で登場することがありますので、注意が必要です。
さて、次回の第248話でこの「世界史の目(旧・高校歴史のお勉強)」が第1話公開からまる10年を迎えます。次回もお楽しみに。
【外部リンク】・・・wikipediaより
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
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