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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第162話


デカンの曙

~南インドの文明~

 インド亜大陸(インド半島)のデカン高原一帯に、西から東へ流れ、ベンガル湾へ注がれる北方のゴーダーヴァリー(ゴダヴァリ)川と南方のクリシュナ川がある。紀元前3世紀頃、この両川に挟まれた地帯に、ある民族が王国を形成したという。かつて北インドに侵入したアーリア人ではない別の系統の民族であり、その民族とはドラヴィダ系のアーンドラ人と呼ばれている(アーリア系のマハーラーシュトリー族の説もある)。後のヒンドゥー聖典、「プラーナ文献(4-15C間に多種製作)」によると、アーンドラ人はゴーダーヴァリー川上流域にて、サ-タヴァーハナ家による国家を形成したとされている。この王国は、王家の名をとりサータヴァーハナ朝(B.C.230?/B.C.211?/B.C.1C-A.D.3C初?/A.D.3C半ば?/A.D.249?)と呼ばれ、「プラーナ文献」では族名からアーンドラ朝の名称で知られている("アーンドラ国サータヴァーハナ朝"の呼び方もある)。デカンに興った、非アーリア系民族王朝の誕生である。

 当時その北方にはガンジス川下流域にあったマガダ国マウルヤ朝マウリヤ朝。B.C.317?-B.C.180?/B.C.321?-B.C.181?)があり、サータヴァーハナ朝も幾度となく圧迫を受けたが、全盛期を現出したマウルヤ朝3代目アショーカ王(阿育王。位B.C.268?-B.C.232?)没後は衰退の一途をたどり、これに乗じてサータヴァーハナ朝はデカン一帯の中心国となっていく。

 サータヴァーハナ朝初代の王とされるシムカ王(生没年不詳。位B.C.230?-B.C.207?/B.C.271?-B.C.248?)は、首都をゴーダーヴァリー川上流にあるプラティシュターナ(現マハーラーシュトラ州のパイタン)に都を置き、版図を東方へ拡大していった。またシムカ王を継いだ2代目クリシュナ王(生没年不詳。B.C.207?-B.C.189?)も版図拡大に努め、西方と南方にその勢力を伸ばした。そして3代目シュリー=シャータカルニ王(生没年不詳。位B.C.180?-B.C.124?)の時にカリンガ国チェーティ朝(B.C.2C頃-B.C.1C頃)のカーラヴェーラ王(位B.C.2C?/B.C.1C?)との交戦を行ったとされている。シムカ王はマウルヤ朝滅亡後におこったマガダ国シュンガ朝(B.C.180?-B.C.68?)やカーンヴァ朝(B.C.68?-B.C.23?)とも戦っているため、B.C.3C頃ではなくB.C.1C頃の人物ともされ、サータヴァーハナ朝の成立年も同様にB.C.1Cとされる場合もある。いずれにしてもB.C.1世紀半ばにはサータヴァーハナ朝の存在がはっきりと記録に残され、その勢力は強大なものであった。

 サータヴァーハナ朝の活躍が目立つのは紀元後1世紀である。この時代のサータヴァーハナ朝はイラン系サカ族の国家クシャトラパ(A.D.35-405)にデカン北西部を奪われ、国力も衰退、弱体化がすすんだ。しかし78(106?)年に22代目(23代目?)の王として即位したガウタミープトラ=シャータカルニ(A.D.78?-102?/A.D.106?-130?)の登場により、国家情勢に好転をもたらすことになる。
 ガウタミープトラ王はその名からガウタマ=シッダールタ(B.C.463?-B.C.383?/B.C.563?-B.C.483?)を崇拝する仏教徒の出であったが、混乱を避けるため、即位後も国教であるバラモン教を中心とした行政で、王朝安定に努めた。また宿敵サカ族のみならず、西方からの侵食の激しいギリシア人一派、パルティア人一派すべてを撃退に向けて、兵力を整えた。サカ族の国クシャトラパは当時ナハパーナ王(位119?-124?)という王であったが、これまでクシャトラパ国は西北インドの大国クシャーナ朝A.D.1-3C)の配下にあり、ナハパーナ王によって自立を果たしたとされ、勇敢で優れた戦闘力を身につけた王であった。しかしサータヴァーハナ王ガウタミープトラはこれを倒してサカ族を撃退するどころか、西方からのギリシア人一派、パルティア人一派をすべて撃退し、デカン北西部はサータヴァーハナ朝の領土と化した。
 これによりガウタミープトラはラージャラージャ("ラージャ"は"王"の意。"諸王の王"を表す)、またはマハーラージャ(マハラジャ。"大王")を自称し、文字通りのサータヴァーハナ朝の代表的名君となった。彼の登場で衰退しかけていた王朝は息を吹き返し、同王朝の最初の盛時が訪れた。デカン高原における最初の文明開化である。

 サータヴァーハナ朝はバラモン教国家にふさわしい絶対的な王権でもって王政が行われた。それだけに歴代の王によって華やかなバラモン文化が導入され、大祭礼や儀式などがひんぱんに催されたという。特にガウタミープトラ王は4つのヴァルナ(四種姓。司祭階級バラモン・武士貴族階級クシャトリヤ・庶民階級ヴァイシャ・隷属民階級シュードラの4つ)の安定に努め、バラモン崇拝を君主崇拝に結びつけていった。またガウタミープトラ王が仏門出自であるため、仏教も厚く保護されたことで、その後のサータヴァーハナ朝は仏教も盛んに取り込まれ(主に2世紀。特に大乗仏教の教義を確立した仏教家ナーガール=ジュナ(龍樹。りゅうじゅ。150?-250?)も同王朝で活躍した時期がある)、多くの窟院も建設されたが、宗教的混乱はなく、安定していた。

 2世紀、サータヴァーハナ朝はデカン東部・東南部にまで版図を拡げ、中央インドにおける大国へと変貌した。またインド産香辛料や綿織物が海の道(マリン=ルート。地中海・紅海・ペルシア湾・アラビア海を海上ルートとする)や季節風貿易(季節風の風向きを利用して行われる貿易。"ヒッパルコスの風")などを通じて西方へ伝わり、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)に知られるようになる。この史料はエジプトのギリシア系商人によって著された航海商業案内書『エリュトゥラー海案内記(A.D.1C成立)』に詳細がある("エリュトゥラー"とはギリシア語で"赤"、つまり「紅海」を表す)。ローマ帝国との交易によって、サータヴァーハナ朝には西海岸を中心に多くの港市が建設・繁栄することとなり、ヨーロッパにも広く知られるようになり、ローマ帝国の博物学者、ガイウス=プリニウス=セクンドゥス大プリニウス。22/23/24?-79)が著した『博物誌(77年。全37巻)』において、「マガダ国につぐ強国」と記されるほどであった。紛れもなく、サータヴァーハナ朝の全盛期がこの時代であり、デカンは西方でも有名になっていった。

 デカンを支配し全盛期を展開したサータヴァーハナ朝であったが、その盛時にも翳りが出始める。2世紀末、全盛期を現出した26代目(27代目?)の王ヤジャニヤ=シュリー=シャータルカニ(位167-196)が没し、3世紀に進むと王朝はいっきに衰退をたどり、3世紀半ばには諸侯の離反・分立により王朝は消滅、デカン一帯に強い支配力でもって興隆を極めたサータヴァーハナ朝は滅亡した(3C。サータヴァーハナ朝滅亡)。その後はパッラヴァ朝(3C後半/325?-893?/897?。半島南東岸。現コロマンデル海岸一帯)、前チャールキア朝(543?-755。西部デカン地方)、ラーシュトラクータ朝(754-973。デカン地方)、後チャールキア朝(973-1190。西部デカン地方)、チョーラ朝(845?-1279?。南インドのカーヴェリー川下流域)、パーンディア朝(紀元前後-3C頃,590-1309,1216-1327。半島南端)といった諸王朝が、デカンから南方に向けて次から次へと入れ替わっていった。パッラヴァ朝はグプタ朝(320-550?)と、前チャールキア朝はヴァルダナ朝(7C)と、そしてチョーラ朝はスマトラのシュリーヴィジャヤ王国(7-14C?/15C?)と一戦を交えている。

 ドラヴィダ語族が主体となって形成された、デカン、さらに南インドでは、その後も幾多の諸王国によって色合いを変え、独自の宗教・文化・社会を浸透させていった。 


 1ヶ月ぶりの更新です。遅くなりまして失礼しました。

 さてさて今回はこれまでのインダスやガンジス流域における北インド史とはうって変わって、デカン高原中心の中央インド・南インドの黎明時代が中心となりました。インドの南北は、ヴィンディヤという山脈で分け、その真南にあるのがでかいデカン高原です。デカン高原の"デカン"はサンスクリット語で"南(daksina)"を意味します。アーリア人が形成した北インドに対抗する意味でつけられたのでしょうか?

 今回の主役はインド史においても一際異彩を放つ、サータヴァーハナ朝です。自分が高校生として学習していた頃は、この名ではほとんど呼ばれず、"アーンドラ朝"として知りましたが、今はほとんどの用語集では"サータヴァーハナ朝"として記されています。王族だったサータヴァーハナ家がアーンドラ族ではなく、本編にあったようにアーリア系のマハーラーシュトリー族の説もあるため、純粋にアーンドラ朝とは呼べなくなったというのが歴史的見方であるようです。また、こうしたことからもおわかりいただけるように、サータヴァーハナ朝は文献史料が乏しく、王朝創設期も紀元前3世紀説と紀元前1世紀説があるので、まだまだ未解明な点も多いです。

 しかし入試ではピンポイントで出題されるケースもあり、また本編終末部分に登場した数々の王朝も難関私大などでチョコチョコ出されたりしますので、注意が必要ですね。

 では、今回の学習ポイントです。北インドはアーリア人ですが、デカン以南はドラヴィダ語族(タミル語族)がメインです。俗に言うドラヴィダ人は、ドラヴィダ系語族に属して、タミル語やカンナダ語などを話す民族ですが(特にタミル語を話す人々はタミル人と呼ばれます)、このドラヴィダ人はインダス文明をおこした民族であるとも言われていて、その後南下して南インドに定住したという説もあります。北はアーリア、南はドラヴィダで覚えておきましょう。

 さて、王朝ですが、サータヴァーハナ(ーンドラ)朝、パッラヴァ朝、チャールキア朝、チョーラ朝の4王朝は、予備校時代に"アパッチャチョーラ"なんていう覚え方を教わりましたが、余裕がなければサータヴァーハナ朝だけを覚えておけばいいでしょう。サータヴァーハナ朝で覚える内容は、1~2世紀中心であること、ナーガールジュナが活躍したこと、ローマと海上貿易を行ったことの3点です。また貿易関連では、「エリュトゥラー海案内記」も覚えておくと完璧です。