6月15日は何に陽(ひ)が当たったか?
1381年6月15日は、イギリスにおける農民一揆の指導者、ワット・タイラーが斬殺された日です。
英仏百年戦争(1339-1453)やペストの流行(1346-50)、貨幣経済の普及などによって農業人口が激減し、封建領主によるな荘園経営は困難を極めました。荘園の領主(地主)は従属する農民(農奴)に対して、地代を下げて、保有地の売買や貸借を許すなどの身分的束縛を緩めました。農民は領主の束縛から解かれて、小土地保有者として独立した農民となります。これをヨーマン(独立自営農民)といいます。
ヨーマンが台頭する中で、地代収入が減り窮乏と化した領主は、農奴制を再び強化する方向にでます。地代を引き上げ、農民の自由を奪おうとしました(封建反動)。このため、農民は怒り、大規模な一揆が起こりました。フランスでは1358年指導者ギヨーム=カルルが農民軍を率いて反乱が発生しました(“ジャックリーの反乱“といいます)。
そしてイギリスでも大規模な一揆がありました。百年戦争の戦費調達により、重税を国民に負担させることになり、ひとりの煉瓦工が激怒しました。その人物がワット・タイラーで、投獄されていた説教僧ジョン・ボール神父を解放、彼も”アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が貴族であったか”と高唱し、タイラーに協力してロンドンを占領する事態までおこりました。政府高官が殺害されるまで発展したため、イングランド、プランタジネット朝の国王リチャード2世(在位1377-99)はワット・タイラーら反乱軍と会見し、反乱軍の要求する農奴制の廃止や地代軽減を認めました。そして、陽の当たった1381年6月15日2回目の会見が行われていた際、ロンドン市長の謀略によってワット・タイラーは国王の面前で斬殺されてしまいました。
国王リチャード2世はその後、反乱軍の要求を撤回、反撃に転じて7月にジョン・ボール神父を処刑しました。この結果、事態は収束に向かい、11月には一揆は鎮まりました。
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