6月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
1789年6月17日は、フランスに新しい革命議会、国民議会が誕生した日です。
当時のフランス(ブルボン朝)は深刻な財政難でした。にもかかわらず当時植民地争奪で対立するイギリス対策の一環としてアメリカ独立戦争に参戦します(1778.2)。この結果フランス財政が危機状態にまでおちいり、国王ルイ16世(在位1774-92)は財政の建て直しとして、重農主義経済学者のテュルゴー(1727-81)や銀行家ネッケル(1732~1804)らを財務総監に任命して財政改革を試みました。改革案として出たのは、特権身分(免税特権を認められた2つの身分。聖職者の第一身分、貴族の第二身分から形成)のへの課税でした。特権身分はフランス全人口(2500万)の3%足らずでしたが、過半の領土・領民を支配し、農民に対して生産物地代・労働地代(賦役)などの封建的貢租(いわゆる年貢)を徴収する特権も持ち、まさに封建的特権でしたが、今回の特権身分への課税案は当然のことながら拒否しました。
一方、人口の大半を占める第三身分は市民階層と農民階層で構成され、課税の義務を負わされました。第三身分の中にはブルジョワジーと呼ばれる富裕市民もいましたが、ブルジョワジー以外の多くは重税・重労働の毎日であり、しかも参政権を持たない下層市民で、彼らはサンキュロット(貴族・ブルジョワがはく半ズボンを穿かない者の意)とも呼ばれました。第三身分の中でも大部分を占める農民は、領主支配下の隷属した貧農ばかりでした。
特権身分達は、国王の出した課税案を抑えるため、1614年以来開かれていなかった身分制議会(三部会)の召集を要求して、これに第三身分も賛同しました。国王は絶対王政を守るために三部会の要求を認めて、ヴェルサイユで開催されました。第一身分300名、第二身分300名、第三身分約600名の計1200名が三部会に選ばれました。第三身分には、聖職者出身でありながら第一身分を離脱して選出されたアベ=シェイエス神父(1748-1836)や、伯爵出身でありながら第二身分を離脱して選出されたミラボー(1749-91)なども含まれておりました。
1789年5月5日に三部会は開催されましたが、身分別議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立しました。それは、身分別で議決の場合、特権身分(第一、第二):第三身分=2:1で確実に特権身分有利でしたが、第三身分は個人票決(特権身分:第三身分=600:600)を主張しました。特権身分のなかでは第三身分に同調する人もおり、圧倒的に第三身分が有利だったのです。議会は約40日間も妥協策を詮索するもいっこうに解決の糸口が見えなかったため、第三身分は遂に思い切った行動に出たのです。これが、陽の当たった6月17日です。
6月17日、第三身分議員は三部会より分離を表明し、新議会の結成を宣言、国民を代表する議会を設立しました。これが国民議会です。この議会では、第三身分に続いて多くの第一身分議員と、一部の第二身分議員が合流を決め、20日、”憲法が制定されるまでは解散しない(のちの1791年憲法の制定まで)”ことを誓いました。議会場は国王に認められず、宮殿のテニスコートで誓ったため、この宣言は「球戯場(テニスコート)の誓い」と呼ばれます。王は屈して国民議会を認め、全国から賛同と支援が得られました。7月9日には国民議会を憲法制定国民議会(憲法制定議会)と改称して憲法の制定に着手しました。
国王ルイ16世は、国民議会に賛同しなかった保守派の貴族達ににらまれてしまいました。このため、信頼回復を図ろうとしたルイ16世は、国民議会を弾圧することを決意し、第三身分に支持されていました、特権身分課税案の発案者であるネッケルを罷免し、ヴェルサイユに軍隊を召集しました。これにより王室と市民の間に緊張が走り、7月14日、バスティーユ牢獄襲撃に始まる、フランス革命の火蓋が切って落とされたのでした。
参考文献:「世界史の目 第14話 フランス革命」
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