6月29日は何に陽(ひ)が当たったか?
1849年6月29日は、イタリア統一(リソルジメント)を掲げるジュゼッペ・マッツィーニ(1805-72)が建国した、ローマ共和国(1849.2.9-1849.6.29)の最後を迎えた日です。
ウィーン反動体制は、1848年のヨーロッパ諸国で発生した革命で瓦解しました。代表的なのはフランスの二月革命、ドイツの三月革命などがありますが、イタリアにおいてもリソルジメントが活発化し、中でもマッツィーニはウィーン体制に抗っていた秘密結社カルボナリ党の党員となってその活動を広げていましたが、カルボナリ党員だけでは活動に制限があるとして、1831年にマルセイユで”青年イタリア“を結成して、リソルジメント達成とイタリア半島に共和国樹立を目標に掲げ、活動の幅を広げていきました。しかしこの”青年イタリア”も蜂起に失敗し、マッツィーニは一時国外で出て行きました。
1848年の革命では、これまで自由主義としてイタリアのリソルジメントで大いに支持されたローマ教皇ピウス9世(在位1846-78)が、次第に暴徒と化す市民の統一運動に不安をおぼえます。この不安とは、ヨーロッパで繰り広げられている革命が、たとえばフランス二月革命のように王政から共和政に替わるほどの大きな自由主義革命であったため、全く統一感のない当時のイタリア半島においては、自由主義運動が過去に守られたすべてのものを倒し尽くす勢いがあり、過去に守られたローマ・カトリック教会体制も危機的状況に陥るのではという不安でした。その不安は的中し、ローマ・カトリック教会にも改善と刷新を求める運動が起こり始め、ピウス9世は徐々に保身に走っていきました。また同じくリソルジメントを達成しようとしていたサルディーニャ王国がオーストリアに宣戦すると、ピウス9世は戦争不介入を表明したため、”ローマ教皇の反動化”としてイタリアの人望を失っていきました。やがて暴徒は激しくなり、1848年11月にはローマ教皇領の宰相が暴徒に暗殺される事態にまで発展、ついにピウス9世は教皇庁を脱出、ローマを離れてしまいました。
ローマ教皇や宰相のいないローマは無政府状態に陥りました。ローマを占領するためイタリアに戻ってきたマッツィーニは、同志らとローマで蜂起、1849年2月9日、教皇領にて”ローマ共和国“の樹立を宣言しました。
かつて古代ローマ共和政時代の三頭政治を見立てたマッツィーニは、他二人の同志とトリアンヴィーロと呼ばれる三頭行政官に就任し、死刑の廃止など当時として斬新な憲法発布を謳うなど、諸改革に努めました。しかしピウス9世はカトリック国フランスに援助を要請したことで、ルイ・ナポレオン大統領(在任1848.12-52.12。のちのナポレオン3世。帝位1852-70)はローマに軍を派遣し、ローマ共和国を倒しにかかります。マッツィーニに共鳴してローマ共和国の軍を率い、のちのリソルジメントに大きな援軍となるジュゼッペ・ガリバルディ(1807-82)も必死に抵抗したものの、フランス軍には歯が立たず、1849年6月29日にローマ共和国は陥落しました。その後7月1日にマッツィーニは行政官を退任、ガリバルディも3日にフランス軍に屈服、ピウス9世もローマへ戻ることになりました。
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