7月11日は何に陽(ひ)が当たったか?
1941年7月11日は、イギリスの考古学者、アーサー・エヴァンズ(Sir Arthur John Evans。1851-1941)の没した日です。
エヴァンズの考古学としての目覚めは、ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマン(1822-90)の存在でした。アナトリア(小アジア)で発掘調査を行っていたシュリーマンは、トロヤ文明(繁栄期B.C.2000頃-B.C.1200頃)の発見と確証で、トロヤ戦争の実在が証明された後、ギリシアにおいても1876年にミケーネ(ミュケナイ。現在のペロポネソス半島東部、アルゴス平野北部)、1880年にオルコメノス、1884~5年にティリンス(ミケーネの南)の遺跡を発見して、ギリシア本土に文明(ミケーネ文明。繁栄期B.C.1600頃-B.C.1100頃)が栄えたことを明らかにし、古代ギリシア考古学史に偉大なる功績を残したのです。
このシュリーマンの功績に刺激を受けたエヴァンズは、父も考古学者であったことから、オックスフォード大学やゲッティンゲン大学に学びました。新聞社の通信員としてバルカン半島へ出向いたエヴァンズはシュリーマンと出会い、その指導を受けました。
その後考古学の教員を務める傍ら、考古学研究に奔走しました。そんな中、エヴァンズはギリシアへ旅行中に出土品を発見したことがきっかけとなり、エーゲ海南方に浮かぶクレタ島に栄えた文明についてその実在を調査することを決めました。熱心な発掘調査の結果、エヴァンズはクレタ島において青銅器文明が栄えたことを突きとめました(1900年)。それは紀元前3000年頃にクレタ島に移住してきた、青銅器文化の知識を持つ小アジア人(民族系統不明)が担い手となって建設されたクレタ文明(クレタ王国。繁栄期B.C.2000頃-B.C.1400頃)であるとわかりました。
クレタ島で発掘された王都クノッソスの王宮遺跡では、のちにエヴァンズによって復元されました。クノッソス宮殿は別名”ラビュリントス(迷宮)”と呼ばれ、その構造は立地している地形に影響してか、広壮複雑で”迷路(labyrinth)”の語源にもなりました。この宮殿を建てたとされているクレタの伝説上の王がミノスで、オリンポス12神を統治するゼウス神(ジュピター)とエウロペ(白牛と化したゼウスにさらわれて、クレタに渡って3子を出産)との間にできた子といわれます。
またアテネに毎年、人身御供をラビュリントスに住むミノタウロス(画像はこちら。wikipediaより。ミノス王妃と牝牛との間にできた、半人半牛の怪物)に捧げるよう命じたという伝説があります。エヴァンズは、クレタ文明をミノス王に因んでミノア文明とも名付けました。
さらにエヴァンズは、クレタ島から文字を発見し、これをミノア文字と名付けました。ミノア文字は、クレタ文明の後期、クレタ絵文字(B.C.2000-B.C.1660頃)から線文字A類(B.C.1660-B.C.1450頃)に発展し、アカイア人(クレタ文明を破壊した民族。ミケーネ文明の構築にも関わったとされるギリシア系民族)がクレタ侵入時、ギリシア本土に渡って線文字B類(B.C.1450-B.C.1200頃)になったとされ、線文字B類は特にミケーネ文明で見られるようになります。クレタ絵文字と線文字A類はまだ未解読ですが、線文字B類は1953年、エヴァンスに会見したイギリスのマイケル・ヴェントリス(Michael George Francis Ventris。1922-56)がピュロスの線文字B類文書の解読に尽力し、ギリシア語が古い形で表記されていることをつきとめ、解読に成功しました。
1911年にエヴァンズはこれまでの考古学史のいける偉大な功績を認められて、ナイトの勲位を授かりました。1941年、エヴァンズはイングランドのユールバリーで、90歳でその生涯を閉じました。
参考:「世界史の目 第65話より」
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