7月26日は何に陽(ひ)が当たったか?

1952年7月26日は、エジプト王、ファールーク1世(在位1936-52)が退位した日です。
1881年、エジプト愛国者のウラービー(1841-1911)のクーデタを契機にスエズ地帯を軍事占領したイギリスは、1914年にエジプト王国をオスマン帝国領から切り離して、エジプトをイギリスの完全保護国としておりました。第一次世界大戦後、独立を求めるエジプトの民族主義政党・ワフド党が結成され、その積極的な活動は1919年の独立革命へと発展しました。イギリスは支配続行をあきらめ、1922年エジプト王国の独立が達成されました。先代の王であり、ファールーク1世の父であるフアード1世(在位1917-36)の時のことです。彼は、近代エジプト王国の基礎を築いたムハンマド・アリー(エジプト太守任期1805-49)の曾孫にあたります。近代エジプト王国はムハンマド・アリー王朝とも呼ばれます。
独立達成後のフアード1世はこれまでのイスラムのスルタン(1914年のイギリス完全保護国から。それまでのオスマン帝国領の時代は”副王”を意味する”Khedive’ヒディヴ'”と呼ばれました)の立場から、エジプトを治める君主(マリク)となり、1923年に決めた憲法による立憲君主政をしいていましたが、1930年に突如新しい憲法を公布して専制政治をしくようになりました。このため、議会や世論との対立が激しくなり、新憲法は停止されて1923年憲法に戻されました。
フアード1世が没すると、軍隊教育のためイギリスへ留学していたファールーク1世がエジプトに戻り、国王となりました。しかしまもなく第二次世界大戦(1939-45)が勃発し、イギリスはファールーク1世のエジプトに対し、戦う相手のドイツ・イタリアとの断交をせまりました。当然のことながら愛国政党であるワフド党は反英精神が強く、イギリスの要求に対して受け入れ体制だったファールーク1世を快く思いませんでした。実はファールーク1世も駐英大使と折り合いが悪く、独立達成後もイギリスの軍隊が駐留する状態に不快感があったのは事実でしたが、国王はあまり行動的では無かったため、エジプト政府の組閣に対してもイギリスが介入するなど、ファールーク1世は為す術無くイギリスの要求を思い通りに受け入れる結果となりました。国民は、行動に移さずただただじっとしている国王を”腐ったメロン”と侮るようになりました。またもともと反英精神の多い軍部においても、武官の国王への非難が叫ばれるようになりました。
1945年、ファールーク1世は、こうした世論や軍部の感情を落ち着かせるため、アラブ人の代表国として、首都カイロにてアラブ連盟を設立し、パレスチナにいるアラブ人の権利をうったえました。当時の連盟参加国はエジプト、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、サウジアラビア、イエメンの7ヶ国で、1948年5月パレスチナにイスラエルを建国したユダヤ人に対し、第一次中東戦争をおこしました。しかし連盟間の連携が悪く、エジプト内でも君主と軍部の対立感が顕在化していたため、連盟はイスラエルに惨敗しました。これにより、国王に対する反感はピークに達しました。
1952年、エジプト軍部の青年将校らが結成した自由将校団の活動が活発になっていきました。将校団はナギブ(1901-84)をリーダーに、ナセル(1918-70)、サダト(1918-81)、アメル(1919-67)ら有能なメンバーで構成されました。同年7月23日、自由将校団はクーデタを決行しました(1952年エジプト革命勃発)。
ファールーク1世は、王太子で産まれてまだ6ヶ月の息子、フアード2世(在位1952-53)に譲位させて革命派をなだめようとし、ファールーク1世は7月26日、退位を発表しました。ファールーク1世はイタリアに亡命し、1965年、首都ローマで没しました。
その後のエジプト王国では、フアード2世は当時は親政できる年齢で無かったため、摂政を立てて王政を続けようとしましたが、ムハンマド・アリー王家の完全撤退を要求していた自由将校団に認められず、翌1953年にフアード2世は廃位され、エジプト王国の王政廃止および共和政への移行が行われ、ナギブエジプト共和国の初代大統領となりました。これにより革命は終結し、近代エジプト王国は終焉を迎えたのです。

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